王慶討伐戦終結
王慶討伐戦が、終わった。
……終わった、はずだった。
いや、戦そのものは終わった。
王慶は捕まった。
南豊府も落ちた。
寇烕も倒れた。
段三娘も倒れた。
王慶軍は崩れた。
だから、終わった。
終わったんだけど――
「三娘、顔が終わってないねェ」
孫二娘が横で笑っていた。
「何よ、顔が終わってないって」
「戦は終わったのに、アンタだけまだ戦場にいる顔だよォ」
「……そんな顔してる?」
紅玉が、少し困った顔で頷いた。
「はい。少し……」
「紅玉まで」
顧大嫂が腕を組んだまま、ため息をつく。
「無理もないけどね。あれだけ続けば、すぐに切り替えろって方が無茶だよ」
あれだけ。
本当に、あれだけだった。
紀山で袁朗を討った。
李懐が討たれて、砦が崩れた。
南豊府へ迫ったら、寇烕の毒煙と炎が来た。
喬道清が煙を裂き、瓊英の石礫が飛び、ようやく前が見えたと思ったら、段三娘が来た。
兄の仇――
そう叫んで、真っ直ぐアタシだけを見てきた。
最後まで、目を閉じなかった。
あの目が、まだ少し残っている。
「兄を返せ、か」
顧大嫂が静かに言った。
アタシは黙った。
孫二娘も、そこは笑わなかった。
紅玉が、少しだけ俯く。
「……返せないですものね」
「そう」
アタシは息を吐いた。
「返せない。段五は敵だった。討たなきゃ、こっちが討たれてた。そこは分かってる」
「でも、軽くはならない」
顧大嫂が言う。
「そういうもんだよ。戦場じゃ、正しいことをしたって、軽くならない時がある」
嫌な言い方だった。
でも、正しい。
段三娘は敵だった。
本気でアタシを殺しに来た。
アタシも、本気で斬った。
それだけの話だ。
それだけの話なのに、終わった後で、妙に残る。
孫二娘が酒瓶を揺らした。
「まあ、三娘が何も感じなくなったら、それはそれで怖いけどねェ」
「どういう意味よ」
「そのままだよォ。斬った相手の顔が残るくらいで、ちょうどいいんじゃないかい」
「ちょうどいいって言い方」
「じゃあ、まだ人間」
「もっと嫌な言い方になったわよ」
孫二娘がけらけら笑う。
紅玉も少しだけ笑った。
でも、その笑いはすぐに消える。
「私は……段三娘様の気持ちも、少し分かる気がしました」
「紅玉?」
紅玉は、ゆっくり顔を上げた。
「大切な人を討たれたら、きっと、何も見えなくなると思います。でも、段三娘様は、何も見えていなかった訳ではありませんでした。強かったです。怖かったです」
その声は、震えていない。
でも、重かった。
孫二娘が目を細める。
「紅玉も、戦場を見る目が変わってきたねェ」
「そうでしょうか」
「そうだよォ。前なら、怖いです、で終わってた。今は、怖い相手が何で怖いのかまで見てる」
紅玉は少しだけ黙った。
それから、小さく頷いた。
顧大嫂が続ける。
「敵にも事情がある。だからって手を緩めたら、こっちが死ぬ。そこを見ないと、戦場じゃ潰れるよ」
「嫌な話ね」
アタシが言うと、顧大嫂は鼻を鳴らした。
「戦はだいたい嫌な話だよ」
反論出来なかった。
王慶が捕まった時、周りから大きく息が漏れた。
終わった。
本当に終わった。
そう思った。
でも、胸の奥に残ったものまで消えた訳じゃない。
袁朗の重さ。
李懐が討たれた声。
寇烕の煙。
段三娘の目。
王慶捕縛の報。
全部が混ざっている。
「でも、終わったんだよねェ」
孫二娘が言った。
「王慶は捕まった。南豊府も落ちた。これで、この戦は終わりだよォ」
「終わった……のよね」
アタシは空を見る。
まだ煙が残っているような気がした。
赤黒い煙じゃない。
でも、戦の匂いはすぐには消えない。
顧大嫂が、少し強めの声で言った。
「終わったよ。だから、終わった後のことをしないといけない」
「後のこと?」
「捕虜、負傷兵、火の始末、報告、移動、休ませる兵。勝った後にやることは山ほどある」
孫二娘が笑う。
「顧大嫂の得意分野だねェ」
「誰かがやらなきゃ、勝った後にまた人が死ぬんだよ」
その言葉に、紅玉が真面目に頷いた。
「私も、負傷兵を見ます」
「頼むよ」
顧大嫂が言う。
「アンタはそういう所、よく見てる」
紅玉は少し驚いた顔をした。
「私が、ですか?」
「そうだよ。三娘が前ばっかり見てる分、アンタは後ろと足元を見てる」
「またアタシが刺された気がするんだけど」
孫二娘が嬉しそうに肩を揺らす。
「気のせいじゃないねェ」
「笑うな」
でも、悪い気はしなかった。
前を見る者がいる。
後ろを見る者がいる。
場を締める者がいる。
茶化して、空気を逃がす者がいる。
そうやって、どうにかここまで来た。
アタシ一人で勝った訳じゃない。
アタシ一人で生き残った訳でもない。
「で、三娘」
孫二娘がにやりと笑う。
「今回、一番格好良かったのは誰だい?」
「急に何よ」
「決まってるだろォ。王慶を最後に捕まえた人だよォ」
アタシは少しだけ黙った。
顧大嫂が笑う。
「ああ、李俊か」
「水夫に化けて待ってたってのが、また憎いねェ」
孫二娘が楽しそうに言う。
「逃げるなら水路。水路なら李俊。分かりやすいねェ」
「……まあ、そこは安心してたわよ」
「おや?」
孫二娘の目が光る。
「三娘、今の言い方、ちょっと信用が深くないかい?」
「別に普通でしょ」
「普通ねェ」
「普通よ」
顧大嫂が腕を組んで頷いた。
「まあ、水が絡む李俊は信用していいだろ」
「ほら」
アタシが言うと、孫二娘が笑った。
「顧大嫂、そこはもう少し茶化すところだよォ」
「茶化す前に事実だよ」
紅玉が、少しだけ楽しそうにこちらを見ていた。
「扈三娘様、少し安心した顔をされていました」
「紅玉」
「すみません。でも、出ていました」
また真っ直ぐ刺された。
最近、本当に紅玉は強くなったと思う。
孫二娘が大笑いしている。
「いいねェ。王慶は捕まるし、三娘は刺されるし、今日は収まりがいいよォ」
「全然よくない」
でも、少しだけ息が抜けた。
王慶討伐戦は終わった。
勝った……
生き残った……
それでも、全部が綺麗に片付いた訳じゃない。
倒した者の目は残る。
聞いた声も残る。
血の匂いも、煙の色も、すぐには消えない。
でも、アタシはまだここにいる。
玉楼もいる。
紅玉もいる。
孫二娘も、顧大嫂もいる。
生き残った者は、次のことをしなければいけない。
「終わったなら、休めるかしら」
アタシが言うと、顧大嫂が即答した。
「無理だね」
「早い」
孫二娘が笑う。
「三娘、期待するだけ無駄だよォ。梁山泊だよ? どうせ次の命令が来るさ」
「嫌なこと言わないでよ」
「嫌なことほど当たるんだよねェ」
紅玉が少し困った顔をする。
「少しは休みたいです……」
「そうね」
アタシは頷いた。
「少しくらいは、休みたいわね」
でも、多分。
本当に少しだけだ。
戦は一つ終わった。
けれど、アタシ達の道が終わった訳じゃない。
それでも今は、少しだけ息を吐いていいと思った。
王慶討伐戦は、終わった。
アタシ達は、生き残った。
それだけは、確かだった。
刃が走った。
段三娘の身体が、大きく揺れる。
馬が悲鳴みたいに嘶いた。
赤い軍装が裂け、血が飛ぶ。
それでも、段三娘は馬から落ちなかった。
「ぁ……ッ!」
槍を離さない。
崩れながらも、まだアタシを睨んでいる。
その目の炎だけは、最後まで消えなかった。
でも、身体はもう止まっていた。
馬上で大きく傾き、槍が手から滑る。
重い音がした。
段三娘の身体が、地面へ落ちる。
周囲の空気が、一瞬だけ止まった。
王慶軍の兵が、目を見開いている。
「段三娘様が……!」
誰かが叫んだ。
その瞬間、王慶軍の隊列が崩れた。
後ろへ下がる者。
武器を捨てる者。
城門へ逃げ戻る者。
南豊府前の流れが、一気に壊れていく。
梁山泊軍が畳み掛ける。
盾が前へ出る。
槍が割り込み、騎兵が崩れた隊列へ突っ込んだ。
林冲の蛇矛が上がる。
「押せ!」
怒号が返る。
王慶軍は、もう止まれなかった。
アタシは、地面へ落ちた段三娘を見ていた。
目を閉じていない。
最後まで、睨んだままだった。
兄の仇――
その言葉が、まだ耳に残っている。
返せない。
段五は戻らない。
アタシが討った。
敵だった。
討たなければ、こちらが討たれていた。
そう、分かっている。
分かっているのに、胸の奥に少し重いものが残った。
「扈三娘様」
玉楼が馬を寄せてくる。
槍を構えたまま、周囲を見ていた。
「お怪我は?」
「……大丈夫」
すぐに答えたつもりだった。
でも、声は少し遅れた。
玉楼は何も言わない。
ただ、アタシの顔を少しだけ見て、それから段三娘の方へ視線を落とした。
紅玉も、少し離れた場所で息を呑んでいる。
孫二娘は笑っていなかった。
ただ、南豊府の方を見ていた。
「三娘、止まってる暇はないよ」
「分かってる」
南豊府前では、まだ戦が続いている。
段三娘が倒れても、寇烕がいる。
毒煙は薄れてきた。
けど、完全には消えていない。
赤黒い煙が、戦場の低い場所を這うように残っている。
炎もまだ地面を舐めていた。
でも、もう最初の勢いは無かった。
喬道清が風を動かしている。
煙が裂ける。
炎が横へ流される。
王慶軍の兵達は、煙と炎で梁山泊軍を止めるつもりだったのだろう。
でも、一度裂けた流れは戻らない。
瓊英の石礫が、また飛んだ。
今度は、寇烕の手元へ。
乾いた音がして、剣が跳ねる。
「ぐっ……!」
寇烕がよろめき、赤黒い煙が、さらに裂ける。
喬道清が前へ出る。
道士姿のまま、煙の中を歩いていた。
寇烕が歯を剥く。
「黙れ……!」
剣を拾い直そうとする。
もう一度、煙を呼ぼうとしている。
でも、遅い。
喬道清の剣が抜かれた。
風が走る。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
寇烕の身体が止まる。
次の瞬間、黒衣が裂けた。
血が煙に混ざる。
寇烕が膝から崩れ落ちる。
赤黒い煙が、足元からほどけるように消えていった。
喬道清は、倒れた寇烕を見下ろしたまま動かない。
「妖術に頼りすぎたな」
その声は、戦場の音に飲まれた。
でも、アタシには聞こえた。
寇烕が倒れた。
段三娘も倒れた。
南豊府前の王慶軍は、もう支えを失っていた。
アタシは息を吐く。
血の匂いと、炎の熱。
崩れていく王慶軍。
地面に倒れた段三娘。
そして、薄れていく毒煙。
全部が一つの場所に混ざっている。
王慶軍の隊列は、もう形を保てなかった。
城門へ戻ろうとする兵が、後ろの味方とぶつかる。
前に出ようとする者もいる。
でも、声が揃わない。
命令が届かない。
盾が割れ、槍が落ち、馬が暴れる。
林冲の号令が飛んだ。
「前へ出ろ! 逃がすな!」
梁山泊兵が一斉に押し出す。
盾が前へ出る。
槍が隙間を刺す。
騎兵が崩れた場所へ入る。
朱武の伝令が左右へ走った。
森側からも、別働隊の声が近付いてくる。
王慶軍は、前も横も押されていた。
もう南豊府の城門しか残っていない。
でも、その城門へ逃げ込もうとした兵達が、今度は互いに押し合って詰まっている。
「開けろ!」
「入れろ!」
「下がれ!」
叫び声が重なる。
でも、誰も従わない。
従えるだけの流れが、もう残っていなかった。
アタシは日月双刀を握り直す。
腕が重い。
段三娘の槍を受けた痺れが、まだ残っている。
でも、止まれない。
玉楼が横に並ぶ。
「進まれますか」
「行くわ」
紅玉が後ろから頷いた。
孫二娘が鼻を鳴らす。
「終わりが見えた時ほど、足元に気をつけな。逃げる奴は何するか分からないよ」
「分かってる」
今度は、ちゃんと前だけじゃなく横も見た。
玉楼の位置。
紅玉の位置。
後ろから押してくる味方の流れ。
戻る場所。
それを見てから、アタシは馬を進めた。
南豊府の城門では、もう兵達が雪崩れ込んでいる。
梁山泊軍の勢いは止まらない。
城壁の上で、王慶軍の旗が揺れていた。
その旗へ、矢が飛ぶ。
誰かが登る。
怒号が上がる。
旗が一つ、倒れた。
また一つ、倒れる。
王慶軍の兵が、次々に武器を捨て始めた。
南豊府そのものが、崩れ始めていた。
その時、後方から別の伝令が駆け込んでくる。
「報告!」
声が、戦場の音を割った。
「王慶、城外へ逃走した模様です!」
空気が変わる。
林冲が振り向いた。
「どこへ向かった!」
伝令は息を切らしながら叫ぶ。
「水路です!」
水路――
その言葉を聞いた瞬間、林冲の目が細くなる。
「……李俊か」
アタシも、清江の方角を見る。
逃げるなら水路。
そして、水路には李俊がいる。
南豊府前では、まだ怒号が続いている。
でも、流れはもう決まっていた。
王慶軍は崩れている。
城門へ殺到する兵。
武器を捨てて逃げる者。
味方同士で押し合い、倒れる者。
南豊府そのものが、もう王慶を守れていない。
玉楼が静かに言った。
「李俊殿なら、安心ですね」
アタシは小さく頷く。
李俊は、水が絡むと強い。
それには絶対の信頼がある。
王慶が船で逃げるなら、あの人が見逃すはずがない。
林冲が短く命じる。
「南豊府を押さえろ。城内の残兵を制圧する」
伝令が走り、頭領達が動く。
兵達が城内へ雪崩れ込む。
アタシ達も、その流れに続いた。
城門を潜ると、そこは散々たる有様だった。
逃げる兵に、降伏する兵。
戸口を閉ざす民に、燃え残った荷車。
倒れた旗。
怒鳴り声と泣き声が混ざる。
剣を捨てて膝をつく者もいれば、最後まで抵抗しようとして斬られる者もいた。
戦は終わりかけている。
でも、終わりかけた戦場は、一番乱れる。
顧大嫂が兵を叱り飛ばしている。
「勝手なことするんじゃないよ! 捕虜をまとめな! 火を広げるな!」
その声で、近くの兵達が動きを戻す。
孫二娘も、笑いながら倒れた兵を退かしていた。
「ほら、道を空けなァ。踏まれたら余計に痛いよォ」
紅玉は負傷兵を見つけて、すぐに手を貸している。
玉楼は、アタシの横から離れない。
南豊府の城壁の上で、梁山泊の旗が上がった。
その瞬間、城内の王慶軍の声が、また一つ弱くなった。
終わる――
本当に、終わる。
そう思った。
でも、まだ王慶の知らせは来ていない。
王慶が逃げ切れば、戦は続く。
どこかでまた兵を集めるかもしれない。
また火が上がるかもしれない。
だから、誰もまだ勝ったとは言わなかった。
その日の夕刻。
水路側から、新しい伝令が駆け込んできた。
馬が止まり切る前に、声が飛ぶ。
「報告!」
周囲の空気が止まった。
「王慶、捕縛されました!」
一瞬、誰も動かなかった。
伝令は、息を切らしたまま続ける。
「逃走用の船へ乗り込もうとした所を、水夫に化けていた李俊殿が捕縛!」
その瞬間、周囲から大きく息が漏れた。
誰かが膝をつき、誰かが空を仰ぐ。
誰かが、ようやく笑った。
紅玉が、呆然と呟く。
「終わった……」
孫二娘が鼻で笑う。
「最後まで、アイツらしいねぇ」
玉楼は静かに目を閉じた。
アタシは、空を見る。
煙が、まだ残っている。
赤黒い煙ではない。
燃え残った木と、戦場の土から上がる煙。
でも、戦の音は少しずつ遠くなっていた。
段三娘の目が、頭から離れない。
寇烕の煙も。
袁朗の重さも。
李懐が討たれた声も。
全部が、この戦の中にあった。
誰かが倒れた。
誰かが捕まった。
誰かが生き残った。
そして、アタシも、まだここにいる。
アタシは、双刀を鞘へ戻した。
金属音が、小さく鳴る。
それでようやく、身体の奥に溜まっていた息が抜けた。
王慶討伐戦が、終わった。
王慶討伐戦は、終わりました。
南豊府は落ち、王慶殿は捕らえられ、王慶軍は崩れました。
ですが、戦が終わったからといって、残るものまで消える訳ではございません。
煙と血の匂い。
倒れた者の顔。
最後に聞いた声。
そういうものは、戦場が静かになった後も、人の中に残ります。
扈三娘様も、そうであったのだと思います。
「出たねェ」
孫二娘殿が、横で小さく笑われました。
「玉楼の、静かに三娘を刺すやつだよォ」
「刺しているつもりはございません」
「それが一番刺さるって、何度言えば分かるんだい」
顧大嫂殿が腕を組んで、呆れたように笑われます。
「まあ、今回は刺しても仕方ないだろうねぇ。三娘の顔、まだ戦場に残ってるみたいだったからね」
紅玉も、少しだけ俯きました。
「段三娘様のことを、気にされていました」
はい――
私にも、そう見えました。
段三娘殿は、扈三娘様を仇と呼ばれました。
兄の仇――
そう叫び、最後まで扈三娘様を見ておられました。
あの目を、扈三娘様が忘れられないのも無理はございません。
段五殿は敵でした。
戦場で向かい合い、討たねばこちらが討たれていたでしょう。
扈三娘様が間違っていたとは思いません。
ですが――
段三娘殿にとって、段五殿は兄でございました。
そのことまで、消える訳ではございません。
「敵にも身内はいるからねぇ」
顧大嫂殿が、低く言われました。
「分かってても、戦場じゃ斬るしかない。だから厄介なんだよ」
孫二娘殿は、珍しくすぐには茶化されませんでした。
少しだけ酒瓶を揺らし、遠くを見るような顔をされます。
「仇って言葉は、軽くないからねェ」
その通りでございます。
そして私は、段三娘殿の怒りを、ただ敵のものとして聞くことが出来ませんでした。
私にも、許せない相手がおります。
扈家荘が落ちる瞬間を、私は見ていた訳ではございません。
残された屋敷を、この目で見た訳でもございません。
燃える門も、崩れた壁も、逃げ惑う人々も、私は見ておりません。
けれど、見ていないからといって、何も残らない訳ではございません。
戻らなかった者の名。
途切れた家の声。
後から聞かされた話。
そして、李逵殿の名。
それだけで、十分に残ります。
梁山泊の中にいる今でも、私はあの方を許してはおりません。
許す必要があるとも、思っておりません。
ただ、梁山泊の中にいる。
同じ戦場へ出ることがある。
同じ旗の下で、敵へ向かうことがある。
それだけでございます。
「玉楼……」
紅玉が、小さく私を見ました。
私は少しだけ首を振ります。
「大丈夫です。今さら、どうこうする話ではございません」
孫二娘殿が、静かに息を吐かれました。
「でも、消えないんだろォ」
「はい」
私は、隠しませんでした。
「消えません」
顧大嫂殿も、何も言われませんでした。
ただ、少しだけ目を伏せておられました。
きっと、顧大嫂殿にも分かるのだと思います。
一度壊されたものは、元通りにはなりません。
人も、家も、村も、心も。
たとえ、その場を見ていなくても。
たとえ、残骸をこの目で見ていなくても。
失われたという事実は、消えません。
だからこそ、段三娘殿が扈三娘様を仇と呼ばれた時、私は思いました。
あの怒りは、間違っていないのだと。
扈三娘様が間違っていた、という意味ではございません。
段三娘殿の怒りにも、理由があったという意味です。
同じなのです。
私が李逵殿を許せないことと。
段三娘殿が扈三娘様を仇と呼んだことは。
どちらも、戦で奪われた側の声でございます。
「でもさァ」
孫二娘殿が、少しだけ声を軽くされました。
「そこで全部許せとか、全部水に流せとか言われたら、余計に腹立つよねェ」
「その通りでございます」
「即答だよォ」
孫二娘殿が笑われました。
顧大嫂殿も、鼻を鳴らされます。
「許す許さないは、人に命令されるもんじゃないからねぇ」
「はい」
私は頷きました。
許せないまま、共にいることもございます。
嫌いなまま、同じ場に立つこともございます。
憎しみが消えないまま、それでも今やるべきことをすることもございます。
それは、綺麗な話ではございません。
ですが、戦場とは、そういうものでもあります。
紅玉は、黙って聞いておりました。
その顔には、少しだけ怖れがございました。
ですが、以前のように、ただ怯えているだけではありません。
何かを見ようとしている顔でした。
「紅玉」
私が呼ぶと、紅玉は顔を上げました。
「はい」
「段三娘殿の怒りを、怖いと思われましたか」
紅玉は、少しだけ考えました。
それから、静かに頷きます。
「怖かったです」
そして、続けました。
「でも……分からないとは、思いませんでした」
その答えに、私は少しだけ安心いたしました。
紅玉は、確かに変わっております。
敵を、ただ敵として見るだけではなくなっている。
怖いものを、怖いだけで終わらせず、何故怖いのかを見ようとしている。
それは、とても難しいことです。
「紅玉も、だいぶ重いことを言うようになったねェ」
孫二娘殿が笑われました。
紅玉は慌てて首を振ります。
「重くしたつもりは……」
「そういうところが玉楼に似てきたんだよォ」
「似ていますか?」
顧大嫂殿が笑いました。
「真面目に刺すところは似てるねぇ」
紅玉は困った顔をしました。
「刺しているつもりはありません」
孫二娘殿が楽しそうに肩を揺らされます。
「ほら、そこも似てるよォ」
私としては、少々複雑でございます。
ですが、紅玉が見ようとしているのなら、それは良いことです。
王慶討伐戦は終わりました。
けれど、終わった戦の中にあったものは、これからも私達の中に残ります。
袁朗殿の重さ。
寇烕殿の煙。
李懐殿が討たれた報。
段三娘殿の目。
王慶殿が捕らえられた知らせ。
そして、扈三娘様が生き残られたこと。
それらは、勝利という一言だけでは片付きません。
「でも、生き残ったんだろ」
顧大嫂殿が言われました。
「はい」
「なら、次を見なきゃいけない」
「そうですね」
生き残った者には、次がございます。
倒れた者には、もう次はございません。
だからこそ、生き残った者は、軽々しく忘れてはいけないのだと思います。
けれど、背負いすぎてもいけません。
扈三娘様は、前へ進む方です。
ですが、今回の戦で、あの方はまた一つ知ってしまわれました。
自分が誰かを救うために振るった刃が、別の誰かにとっては仇になることを。
それは、重いことです。
ですが、その重さを知ってなお前へ進めるなら。
きっと、それもまた、あの方の強さになるのでしょう。
「で、三娘は次も突っ込むのかねェ」
孫二娘殿が、急にいつもの調子へ戻りました。
顧大嫂殿が即答されます。
「突っ込むだろうね」
紅玉も、少し困った顔で頷きました。
「……多分」
「皆様、そこはもう少し信じて差し上げてもよろしいのでは」
私がそう言うと、孫二娘殿がこちらを見ました。
「玉楼は?」
私は少しだけ黙りました。
そして、答えました。
「……見張ります」
孫二娘殿が、腹を抱えて笑われました。
「一番信じてないの、玉楼じゃないかい?」
「信じております」
「信じて見張るんだねェ」
「はい」
顧大嫂殿が笑われます。
「それでいいんだよ。信じるのと、放っておくのは違うからね」
その通りでございます。
扈三娘様を信じております。
ですが、見失ってよい訳ではございません。
あの方が前へ出るなら、私は隣で見ます。
紅玉は後ろを見てくれるでしょう。
顧大嫂殿は場を締めてくださるでしょう。
孫二娘殿は、茶化しながら、重くなりすぎた空気を逃がしてくださるでしょう。
戦は一つ終わりました。
王慶討伐戦は、確かに終わりました。
ですが、私達の道が終わった訳ではございません。
許せないものを抱えたまま。
忘れられない目を抱えたまま。
それでも、生き残った者は次へ進みます。
扈三娘様が、その重さに呑まれぬように。
けれど、その重さを忘れてしまわれぬように。
私は、これからも隣で見続けます。




