勝ったのに、返すの?
白旗が上がった。
だから今度こそ終わったと思った。
「三娘、それ何回目だい?」
「数えないで!」
孫二娘が笑う横で、顧大嫂が燕京を指した。
「白旗なんだから、もう終わりだろ?」
「そうよね!?」
「いやァ、白旗は意思表示であって、その後に条件交渉が――」
「二娘までやめて!」
顧大嫂が眉を寄せる。
「勝ったのに、まだ話し合うのかい?」
「しかも東京に聞くんだって」
「遠いねぇ」
「そこ!?」
孫二娘が肩へ腕を回してくる。
「三娘、組織ってのは上に行くほど意思決定が遅くなることもあるんだよォ」
「急に会社みたいなこと言わないで!」
二十万の陣は破った。
兀顔統軍も倒れた。
燕京には白旗まで上がった。
なのに――
まだ、勝ったことにならないらしい。
白い旗が上がっていた。
燕京の城壁の上で、朝の風に揺れている。
昨日まであれだけ矢を飛ばし、二十万の兵を動かしていた相手が、自分から戦うのをやめると言っている。
そう考えると、ようやく肩の力が抜けた。
「……勝った?」
思わず口にすると、隣の孫二娘がこちらを見た。
「たぶんねェ」
「たぶんって何よ!」
「白旗を見た人間は、そこで物語を終わったことにしたくなるからさ。認知的には――」
「今だけは終わったことにさせて!」
顧大嫂が城壁を見上げたまま笑った。
「少なくとも、今すぐ矢が飛んでくる感じじゃないね」
「それで十分!」
腹はまだ重いし、腰もだるい。
兀顔統軍が倒れたからって、こっちの月のものまで一緒に降伏してくれるわけじゃなかった。
玉楼が水筒を差し出してくる。
「三娘様、お飲みくださいませ」
「飲む。今日は素直に飲む」
「まあ」
「何、その驚き方!」
「昨日よりさらに成長なさいました」
「水飲んだだけで成長判定しないで!」
孫二娘がするりと肩へ腕を回してきた。
「いいじゃないか。褒められる時に褒められときなよォ」
「近い! あと朝から抱きつかない!」
「戦が終わりそうなんだから、少しくらいいいだろ?」
「その理屈、どこから出てきたのよ!」
そんなことを言っているうちに、燕京の城門が開いた。
一斉に兵が身構えたけれど、出て来たのは武装した騎兵ではなく、使者だった。
白旗を掲げた一行がこちらへ進み、やがて宋江たちの前で馬を降りる。
降伏の申し入れ。
その言葉が伝わった瞬間、周りの空気が少しだけ緩んだ。
アタシも息を吐いた。
やっと終わる。
……と思ったのに。
「朝廷へ伺いを立てる?」
聞き返した声が、自分でも情けないくらい裏返った。
「左様でございます」
朱武が答える。
「遼より降伏の申し入れはございましたが、国家間の和議となれば、こちらだけで決めることはできませぬ。東京へ使者を送り、朝廷のご裁可を仰ぐことになります」
「じゃあ、あの白旗は?」
「降伏の意思を示したものかと」
「降伏したのよね?」
「まだ条件は定まっておりませぬ」
「白旗なのに!?」
孫二娘が横から笑う。
「三娘、世の中にはねェ、合意形成ってものがあるんだよォ」
「戦場で二十万出してた時より急に社会人みたいな話になった!」
顧大嫂が腕を組む。
「じゃあ、また戦うかもしれないってことか?」
「朝廷が和議を認めなければ、その可能性もございます」
朱武の答えに、今度は誰も笑わなかった。
兵もいれば、兵糧にも余裕がある。
梁山泊では閻婆惜と李瑞蘭が本拠を回し、李家荘は白秀英、曾頭市は潘巧雲が預かっているから、遠征が長引いたところで明日から飯がなくなるわけではない。
後ろが回っているから、こちらは戦場だけを見ていられる。
実際、補給の荷は予定通り届き、馬の飼葉まで不足していない。
戦が長引けば面倒ではあっても、食べる物が尽きるから退く、という状況ではなかった。
だから余計に分からない。
戦えるのに今は戦わず、勝ったはずなのに、決着したとも言えない。
「……面倒くさい」
ぽろっと出た。
玉楼が静かに頷く。
「戦より難しいこともございます」
「玉楼までそんなこと言う?」
「わたくしは戦う方が分かりやすうございますので」
「そこは同意する!」
使者が東京へ向かってから、数日が過ぎた。
燕京の前には妙な静けさが続いた。
こちらは包囲を解かず、向こうも攻めてこない。
互いに武器を持ったまま、遠く離れた都から答えが来るのを待っている。
その間に腹の痛みは少しずつ引き、馬を降りるたび腰を押さえることもなくなった。
代わりに、戦が止まった途端、眠気がまとめて押し寄せてきた。
「緊張が解けた後に疲労を自覚するのは珍しくないよォ」
孫二娘が、また勝手に肩へ顎を載せてくる。
「説明する前に離れて」
「嫌だねェ」
「即答!?」
「三娘、最近あんまり逃げなくなったし」
「アンタが遠慮しなくなっただけでしょ!」
向こうで顧大嫂が腹を抱えて笑っている。
玉楼は助けてくれると思ったのに、なぜか真顔でこちらを見ていた。
「玉楼?」
「孫二娘様の接触が以前より増えております」
「分析しなくていいから助けて!」
「承知いたしました」
玉楼が孫二娘の襟をつかんだ。
「ちょ、玉楼、扱いが雑じゃないかい!?」
「三娘様より離れてくださいませ」
「アタイも女なんだからもう少し優しく!」
「では優しく離れてくださいませ」
「言ってることが怖いよォ!」
ようやく解放されて息をついたところで、少し離れた場所に李俊がいるのが見えた。
目が合う。
この前なら、それだけでどっちからともなく目を逸らしていた。
今日は――先に逸らすのがなんとなく悔しくて、そのまま見ていた。
向こうも逸らさない。
「……何よ?」
結局、アタシの方から声を掛けた。
李俊が近づいてくる。
「別に」
「別にって顔じゃなかったでしょ?」
「元気そうだと思っただけだ」
「前よりはね」
それだけ答えたつもりなのに、李俊の目が少しだけ柔らかくなった。
また胸のあたりが変になる。
腹の痛みが引いたと思ったら、今度はこっちなの?
「和議、どうなると思う?」
誤魔化すように聞くと、李俊は燕京を見た。
「朝廷次第だ」
「またそれ?」
「俺たちが決めることじゃねえ」
「勝ったのはアタシ達なのに?」
「ああ」
「変なの」
「そうだな」
否定しないし、慰めもしない。
でも、そういう答え方をする李俊だから、なぜかアタシもそれ以上怒れなかった。
「帰ったらどうするの?」
「舟を見る」
「そこはいつも通りなのね」
「お前は?」
「まず寝る」
「それがいい」
少し笑われた。
「何よ?」
「素直になったな」
「玉楼と同じこと言わないで!」
後ろから孫二娘の声が飛んでくる。
「似た者同士が増えてくねェ!」
「二娘は黙ってて!」
数日後、東京から使者が戻った。
今度こそ帰れると思って集まった兵たちの顔には、期待よりも疲れの方が濃かった。
それでも、これで梁山泊へ帰れると思えば、空気は悪くない。
宿太尉が詔を開き、朝廷の決定を読み上げていく。
遼との和議を認め、遼は宋に臣礼を取り、毎年歳幣を納めるという。
そこまでは分かったし、戦が終わるなら、それでいい。
次に、捕らえた遼の将兵を返すよう命じられた。
「……答里孛も?」
思わず玉楼へ顔を向けた。
「そのようでございます」
少しだけ惜しい気もした。
あれだけ腹が痛い中で捕まえた相手だ。
でも、答里孛本人からすれば、故郷へ帰れるということでもある。
「まあ……それは、いいか」
孫二娘が横目で見る。
「意外とあっさりだねェ」
「捕虜をずっと置いといても仕方ないでしょ。それに帰れるなら、その方がいいじゃない」
「三娘らしいねェ」
「何よ、その顔?」
「別にィ」
その言い方、李俊の真似?
文句を言おうとしたところで、宿太尉の声が続いた。
聞き覚えのある地名が出るたび、周りの空気が変わっていく。
檀州、薊州、霸州、そして幽州。
最初は意味が分からなかった。
返還――
その言葉だけが、妙にはっきり耳へ残った。
「……待って」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
玉楼がこちらを見る。
孫二娘も笑わなくなった。
兵糧は尽きておらず、兵も残っていて、戦おうと思えばまだ戦える。
それでも朝廷が決めたなら、ここで終わりなのだ。
しかも、終わるだけじゃない。
アタシ達が戦って取った城を、遼へ戻す。
宿太尉は詔を読み続けている。
けれど、もう後の言葉が頭に入ってこなかった。
兀顔統軍を倒して二十万の陣を破り、幽州まで進んだ末に、燕京には白旗まで上がった。
それでも最後に決めるのは、ここにいない人たちだった。
隣に李俊が来た気配がした。
「兵も飯も足りてるのに」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
「ああ」
「まだ戦えるのに」
「ああ」
「じゃあ、何で?」
李俊は少し黙った。
「勝った後を決めるのが、俺たちじゃねえからだ」
分かりたくなかった。
でも、その言葉だけは嫌なくらい分かった。
宿太尉の声が、最後の命令を読み上げる。
占領した城は、すべて遼へ返還する。
アタシはしばらく意味を飲み込めず、ただ燕京の城壁を見た。
あそこに上がった白旗を、あんなに嬉しいと思ったのに……
「……返すの?」
玉楼でございます。
せっかく攻め取った城を、すべて遼へお返しするそうでございます。
「玉楼、腹立たないのかい?」
顧大嫂様に聞かれました。
「命であれば従います」
「それ、納得してる奴の答えじゃないねぇ」
孫二娘様が笑います。
「苦労して手に入れたものほど手放しにくい。保有効果ってのもあるけどねェ」
「では、三娘様がお怒りなのも?」
「いやァ、今回は普通に腹立つだろ」
「心理学、役に立ってないじゃないか」
なるほど。
その時、三娘様がこちらへ駆けてこられました。
「玉楼! 城を返したら、今度こそ梁山泊に帰れるのよね!?」
「……」
孫二娘様と顧大嫂様が、同時にわたくしを見ました。
なぜ、わたくしに聞くのでございましょう?




