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今度は、本人が来た

昨日、二十万の陣をどうにか破った。

だから今日は、少しくらい静かになると思っていた。

「三娘、それ前にも聞いたねェ」

「言わないで!」

孫二娘が笑う横で、顧大嫂が朴刀を肩へ担ぐ。

「で、今度は何が来るんだい?」

「兀顔統軍」

「陣か?」

「本人」

顧大嫂が黙った。

孫二娘まで一度だけ瞬きをする。

「……三娘、強敵を倒した直後にもっと強い本人が出てくるの、ゲームなら終盤の構成だよォ」

「アタシもそう思った!」

顧大嫂が首を傾げた。

「でも本人なら、殴れば終わるんじゃないか?」

「二十万動かしてた人をそういう扱いしないで!」

しかもアタシ、まだ腹が痛い。

昨日は陣形。

今日は本人。

……明日は何が来るのよ。

兀顔統軍が、こちらへ動いた。

黄旗の下から一騎だけが抜け、崩れかけた陣の間を真っ直ぐこちらへ向かって来る。

さっきまで二十万の兵を動かしていた男が、自分で前へ出て来るなんて思わなかった。

「来る!」

日月双刀を構えた途端、腹の奥がきゅっと痛んだ。

思わず息を詰めると、横から玉楼の視線が飛んでくる。

「行かないわよ! 分かってるから!」

「まだ何も申し上げておりません」

「顔が言ってた!」

後ろで孫二娘が笑った。

「三娘、今日は表情認知まで敏感だねェ」

「今それ分析する!?」

兀顔統軍は止まらない。

方天画戟を構えたまま、左右の兵が乱れても一度も馬首をぶらさず迫って来る。

だったら受けるしかないと思った瞬間、横から別の馬が割り込み、火の光を弾いた青龍偃月刀が兀顔統軍の方天画戟を受け止めた。

「そこまでだ!」

関勝だった。

二つの得物がぶつかるたびに、重い音が夜気を震わせる。

兀顔統軍が押せば関勝が受け、関勝が斬り返せば方天画戟が受け止める。

陣の形はもう崩れ始めているのに、この二人の周囲だけ別の戦場みたいに動きが止まらない。

アタシは構えたまま取り残され、思わず口を滑らせた。

「……アタシじゃないの?」

「残念そうだねェ」

「残念じゃない!」

「体調悪い女が二十万の陣を破った直後に、総大将まで欲しがるのは欲張りだよォ」

「欲しがってない!」

顧大嫂が朴刀を振るい、寄って来た遼兵を押し返しながら笑った。

「じゃあ、こっちはこっちで働きな。まだ敵は山ほどいるよ」

その通りだった。

兀顔統軍が関勝と打ち合い始めても、周囲の遼兵まで消えるわけじゃない。

崩れた太陰陣から逃げる兵もいれば、逆に兀顔統軍を守ろうと中央へ寄る兵もいる。

「玉楼、右!」

「はい!」

前から来た槍を二本まとめて外へ流すと、玉楼がその脇を抜け、寄って来た騎兵の進路を槍で押し返す。

今度は玉楼が空けた場所へアタシが入り、後ろの味方を通した。

昨日までは、前を見るのはアタシ、戻る道を見るのは玉楼と決めていた。

今は違う。

玉楼が前へ出ればアタシが横を見るし、アタシが敵を受ければ玉楼が後ろを拾う。

どちらか一人が決めた形へ、もう一人が無理に合わせているわけじゃない。

必要な方が、その時だけ前へ出ればいい。

「三娘様、左から来ます!」

紅玉の声に振り向くと、散ったはずの遼兵が旗の下へ集まり直そうとしていた。

「見えてる! 紅玉はそのまま数えて!」

「はい! 十……十二、まだ増えます!」

「二娘!」

「聞こえてるよォ。負傷兵は後ろへ回す!」

孫二娘は紅玉の声とこちらの動きを拾いながら、後方で崩れかけた列を繋いでいく。

前へ出ないから弱いわけじゃない。

むしろ、アタシと玉楼が前だけを見ていられるのは、こういう人が後ろにいるからだ。

……本人に言うと絶対調子に乗るから言わないけど。

その間にも関勝と兀顔統軍の打ち合う音は続き、方天画戟が振られるたびに関勝の馬まで押し返されていた。

「お父さんも普通に強いじゃない!」

「息子より格上なんだろォ?」

「家族で強さまで上げないでよ!」

その時、弦の鳴る音がした。

一本の矢が闇を裂いて兀顔統軍の胸へ飛び、確かに当たったはずなのに護心鏡に弾かれる。

「花栄!?」

遠くでは、もう次の矢を番えていた。

兀顔統軍が一瞬だけそちらへ顔を向けた隙に関勝の青龍偃月刀が迫り、方天画戟が辛うじて受け止める。

「ちょっと待って。関勝一人じゃ大変そうだからって、花栄まで入るの?」

「二十万の陣を組んだ相手だよォ。接待する必要があるんだろ?」

「接待って言い方!」

二本目の矢は兀顔統軍の冠を射抜き、飾りを夜の中へ弾き飛ばした。

それでも倒れず、怒声を上げて関勝へ踏み込んだところへ、今度は火の光を小さなものが横切った。

石だ。

「張清まで!?」

飛石が頭へ当たり、さすがの兀顔統軍も馬上で大きく揺れた。

「三人がかり!?」

「だから接待だと言ったろォ!」

「いや、分かってるけど!」

一対一で正々堂々とか、今はそんな場合じゃない。

昨日は、あの男一人のために二十万の兵が動いていたのだ。

ここで仕留められるなら、花栄の矢でも張清の石でも、関勝の刀でも使えばいい。

……分かってはいる。

でも三方向から一斉に来ると、ちょっとだけ兀顔統軍が気の毒に見える。

体勢を戻そうとした時には、もう関勝が間合いへ入っていた。

青龍偃月刀が走り、方天画戟が上がるより早く兀顔統軍の体が傾く。

そのまま、鞍から落ちた。

周囲の遼兵が止まったのは、ほんの一瞬だった。

次の瞬間には命令を出していた旗が倒れ、戻る場所を失った兵が左右へ散り始める。

さっきまで兀顔統軍を守ろうとしていた一隊まで馬首を返し、混天象陣の残りが一気に形を失った。

「追いますか?」

紅玉が聞いた。

昔のアタシなら、もう走っていたかもしれない。

でも今日は、逃げる兵より先に自分達の列を見た。

負傷兵もいれば、馬を乱されて隊列へ戻りきれていない者もいる。

陣を破った勢いだけで追えば、また別の罠へ飛び込むかもしれない。

「深追いしない。崩れた相手より、こっちを整える!」

「はい!」

玉楼がこちらを見て、ほんの少しだけ口元を緩める。

「何?」

「いいえ、何もございません」

「絶対何か思ったでしょ?」

「三娘様がお決めになったことに従っているだけでございます」

「その顔で言わないで!」

腹がまた重くなったが、もう無視して前へ行こうとは思わなかった。

馬を少し緩め、水を一口飲むと、孫二娘がすぐに気付く。

「珍しく自分から休んだねェ」

「アタシだって学習するわよ!」

「昨日までの実績がねェ」

「うるさい!」

顧大嫂が笑いながら、逃げる遼兵の向こうへ目をやった。

「でも、これで終わりかい?」

「まさか」

兀顔統軍は倒れ、混天象陣も崩れたけれど、遼そのものが消えたわけじゃない。

案の定、遠くで別の旗が動き、遼主のいる中軍が退き始めていた。

「逃げるねェ」

孫二娘の声から笑いが消えた。

同時に宋江の本陣から追撃の合図が上がり、関勝の隊を先頭に林冲、呼延灼らが続いていく。

今度は罠を疑う必要がないほど遼軍全体が崩れているが、それでもアタシ達は隊列を整えてから追った。

「三娘様、体調は?」

「良くはない。でも走れる」

「では、走れる分だけにいたしましょう」

「分かってる」

素直に答えたら、玉楼が少しだけ驚いた顔をした。

「何よ?」

「三娘様がおとなしく聞き入れられましたので」

「アタシを何だと思ってるの!?」

後ろから孫二娘の声が飛んでくる。

「突撃する患者」

「患者じゃない!」

「体調不良者ならいいかい?」

「それも嫌!」

追撃は夜のうちまで続いた。

遼主は残った兵をまとめながら燕京へ退き、こちらも離されないよう進んだものの、追いすぎれば隊列が伸びるため、途中からは呉用の指示で速度を抑える。

戦に勝った直後ほど、雑に動けばひっくり返される。

それは、もう嫌というほど分かっていた。

夜明け前、ようやく燕京の城壁が見えた。

暗い空の下で巨大な影になった城を見上げ、アタシは思わず眉を寄せる。

「今度は、あれ?」

「三娘、まず寝た方がいいんじゃないかい?」

「言われなくても眠いわよ」

「腹は?」

「まだ痛い」

「じゃあ余計に寝な」

玉楼まで頷いた。

「わたくしも賛成でございます」

「二対一にしないで!」

「紅玉様も加えれば三対一でございます」

「増やさなくていい!」

紅玉が困ったように笑った。

結局、燕京を囲む配置が決まるまで、アタシ達は少し下がって休むことになった。

馬を降りた瞬間に脚から力が抜けそうになると、玉楼がすぐ腕を取る。

「大丈夫」

「存じております」

それでも離さない。

孫二娘まで反対側から顔を覗き込んできた。

「三娘、今日くらい素直に頼ったらどうだい?」

「アンタまで腕を取らなくていい!」

「玉楼だけならいいんだ?」

「そういう意味じゃない!」

二人に挟まれたまま休む場所へ向かっていると、前から李俊が来た。

軍議で二人揃って顔を赤くしたことまで思い出しそうになって、今度はアタシの方が先に気まずくなる。

ところが李俊は、そんなことを気にしている様子もなく口を開いた。

「無事か?」

やっぱり最初にそれなのね。

でも今日は、少しだけ嬉しかった。

「……無事」

「そうか」

李俊が息を吐く。

その顔を見た瞬間、こっちまで安心した。

「アンタも?」

「無事だ」

「ならいい」

言ってから気付いた。

これ、完全に李俊の言い方じゃない?

横で孫二娘が吹き出した。

「似てきたねェ」

「似てない!」

「言い方まで同じだったよォ」

「偶然!」

「じゃあ顔が嬉しそうなのも偶然かい?」

「二娘!」

李俊まで笑うな!

顧大嫂が少し離れたところからこちらを見て、呆れたように首を振っている。

……何よ。

無事だったんだから、いいでしょ。

それからしばらくして、城壁の向こうが騒がしくなった。

攻めて来る気配ではなく、矢も飛んでこない。

ただ、兵達が次々に顔を上げて何かを見始めたので、アタシもつられて燕京の城壁を見る。

夜が明けた。

燕京の城壁を見上げたアタシは、目を細めた。

昨日まで、あれだけの兵を並べていた城の上に――

白い旗が上がっていた。

玉楼でございます。

本日、三娘様は深追いをなさいませんでした。

「成長したねェ」

孫二娘様が嬉しそうに笑います。

顧大嫂様も頷きました。

「その代わり、李俊の口癖が移ってたけどな」

「……『ならいい』でございますか?」

「そうそう。言葉が似てくるのは、心理的距離が近い相手には――」

「孫二娘様」

「何だい?」

「三娘様には申し上げない方がよろしいかと」

「何で?」

「しばらく否定なさると思いますので……」

顧大嫂様が吹き出しました。

今、燕京には白旗が上がっております。

戦は終わるのでしょう。

……終われば、でございますが――

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