毒焔と仇討ち
「始まったねェ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら笑う。
「今度は“毒煙・火事・妖術・仇討ち”の全部盛りだったんだって?」
顧大嫂が酒を煽った。
「前菜も無く本番だねぇ」
「本当にそうだったのよ!!」
即座に声が飛ぶ。
孫二娘が吹き出した。
「出たよォ!!」
「今回は暑いとか狭いとか言ってる暇も無かった!!」
「だって煙なのよ!!」
また外から返って来る。
「黒いのが来るの!!」
「咳出るの!!」
「しかも燃えてるの!!」
顧大嫂が肩を揺らした。
「うわ、“吸うと危険、近付くと危険”だ」
「嫌だねぇ」
小さな笑いが広がる。
鍋の煮える音だけが、静かに続いていた。
アタシは思わず額を押さえる。
「全部、寇烕よ」
「妖術使うのよ」
「煙撒くのよ」
「火まで付けるのよ」
孫二娘が頷く。
「そりゃ面倒だねェ」
「真面目に戦えって話だ」
「本当よ」
思わず身を乗り出す。
「前見えないし!」
「馬暴れるし!」
「兵は咳き込むし!」
「まともに戦わせる気が無いの!!」
顧大嫂が酒を飲みながら笑った。
「相手も必死だったんだろうさ」
「最後の砦なんだからねぇ」
鍋の湯気が揺れる。
湿った風が、静かに吹き抜けた。
その時――
孫二娘が、わざとらしく首を傾げる。
「で?」
嫌な予感がした。
「何よ」
「瓊英は?」
少しだけ黙る。
顧大嫂が笑いを堪えていた。
「……投げたわね」
「ほらァ!!」
孫二娘が腹を抱える。
「また始まった!!」
「石礫万能説!!」
「煙の向こうでも当てる!!」
「人間なのかい!?」
「アタシに聞かないでよ!!」
思わず声が大きくなる。
「煙切れた瞬間よ!?」
「一瞬しか見えてないのよ!?」
「なのに肩へ当てるのよ!?」
顧大嫂が吹き出した。
「怖いねぇ」
「敵なら泣くねぇ」
笑い声が広がる。
でも――
少しして、その笑いも静かになった。
アタシは火を見る。
黒い煙、裂けた風、燃える平野。
そして――
赤い軍装。
「……段三娘も居たのよ」
小さく呟く。
孫二娘も黙る。
顧大嫂も酒を置いた。
段五の妹、仇討ち、後が無い軍、後が無い将。
全部を抱えたまま、
真っ直ぐアタシへ向かって来た。
「強かったわ」
アタシは、小さく息を吐く。
「怒ってたけど」
「戦う時は冷静だった」
顧大嫂が頷く。
「そういう相手が一番厄介さ」
「ええ」
孫二娘も珍しく笑わない。
仇を討つ為だけに立つ者は、
理屈では止まらない。
退く理由も無い。
だからこそ、
最後まで前へ来る。
夜は、何も答えない。
ただ静かなまま――
裂けた毒煙と、
兄の名を叫びながら槍を振るった段三娘だけを――
湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。
砦側の兵の声が、消えた。
ほんの一瞬。
山道から音が抜ける。
袁朗の巨体が崩れ落ちた場所を、敵達が見ている。
誰も動かない。
木柵の上の弓兵も。
山道へ出かけていた兵も。
森側へ向きかけていた兵も。
全部が止まっていた。
彼が、砦を支えていたのだと分かった。
袁朗が前へ出たから、敵兵は立ち直った。
袁朗が山道を塞いだから、乱れかけた流れが戻った。
その袁朗が、今は地面に落ちている。
だから、敵兵達は動けなかった。
その沈黙を裂くように、森の奥から叫び声が上がった。
「李懐様、討たれた!」
敵兵の声だった。
続けて、怒号と悲鳴が上がる。
逃げる足音が騒々しい。
砦の奥が一気に乱れる。
紅玉が息を呑んだ。
「総大将まで……」
孫二娘が小さく笑う。
「そりゃ、もう保たないねぇ」
玉楼は槍を構えたまま、砦を見ていた。
「正面と奥、両方が折れましたね」
アタシも砦を見る。
袁朗が倒れた。
李懐も討たれた。
正面と奥。
両方の支えが、同時に折れた。
敵兵達が、恐怖に呑まれていく。
逃げる者。
武器を捨てる者。
木柵の内側へ戻ろうとして、味方とぶつかる者。
誰かが怒鳴っている。
でも、その声も、もう兵を動かせていない。
紀山の砦は、一気に崩れようとしていた。
林冲の声が飛ぶ。
「進め!」
その号令で、止まっていた梁山泊兵が動き出す。
盾が前へ出る。
槍が並ぶ。
山道へ押し込む兵達の足音が、一斉に響く。
森の奥からも、味方の声が上がった。
砦は、もう耐えられなかった。
紀山を越えた後も、小競り合いは何度も続いた。
街道を塞ぐ敵兵。
森へ潜む伏兵。
小砦へ籠もる守備兵。
でも、どれも小規模だった。
袁朗と李懐を失ったせいか、それとも最初から南豊府へ兵を残していたのか。
王慶軍の抵抗は、少しずつ細くなっていた。
梁山泊軍は止まらなかった。
山道を抜け、荒れた街道を進み、南へ向かう。
紅玉が、馬を並べながら呟いた。
「……前より、抵抗が小さいですね」
孫二娘が鼻を鳴らす。
「そりゃそうさ。もう後が無いからねぇ」
玉楼は前を見たまま言った。
「本拠地に温存しているのでしょう」
確かにそうだった。
最初の頃みたいな余裕が、もう王慶軍には無い。
散らばって戦うより、最後の場所へ集める。
そういう動きに見える。
多分、次で終わり。
誰も口には出さない。
でも、兵達の顔に、それが出ていた。
やっと終わる――
やっと、王慶軍の本拠へ届く。
そんな空気が、隊列の中へ少しずつ混ざっていく。
その流れのまま、梁山泊軍は南豊府へ迫っていった。
遠くに城壁が見え始める。
王慶軍の旗。
城外へ広がる陣。
最後の防衛線だった。
隊列全体の空気が変わる。
林冲が前を見る。
その横を、伝令が駆け抜けた。
「王慶軍、南豊府前方に布陣!」
「寇烕隊も確認!」
その言葉の直後だった。
南豊府側の陣から、赤黒い煙が立ち上った。
最初は、火かと思った。
違う。
煙は空へ上がらない。
地面を這うように、梁山泊軍へ広がってくる。
前列の馬が暴れた。
兵が咳き込む。
「毒煙だ!」
誰かが叫ぶ。
続けて、炎が走った。
地面そのものが燃えたみたいに、火が広がっていく。
紅玉が息を呑む。
「っ……!」
孫二娘が舌打ちした。
「最後に厄介なのが来たねぇ」
王慶軍の陣の奥で、笑い声が響く。
煙の向こうに、黒衣の男が立っていた。
赤い飾り。
煙の中で揺れる剣。
伝令の声が、まだ耳に残っている。
毒焔鬼王・寇烕。
赤黒い煙が、さらに広がっていく。
地面を這い、兵の足へ絡みつく。
咳き込む声が、前列で一気に増えた。
馬が暴れ、隊列が乱れる。
火まで混ざっているせいで、前が見えない。
梁山泊軍の流れが、止まりかける。
寇烕が剣を掲げた。
「焼け焦げろ! 梁山泊!」
笑い声が、煙の奥で響いた。
その瞬間、林冲の横から馬が前へ出る。
喬道清だった。
道士姿のまま、静かに前へ出る。
でも、目だけが鋭い。
玉楼が小さく息を吐く。
「喬道清殿……」
喬道清は答えない。
そのまま前へ出ると、印を結んだ。
最初は小さい風が起きた。
でも、次の瞬間、煙の流れが揺れた。
地面を這っていた赤黒い煙が、横へ流されていく。
兵達が顔を上げる。
寇烕の笑い声が止まった。
「貴様……!」
喬道清が声を張る。
「妖術で惑わすか」
さらに印を切った。
「ならば、こちらも術でお返し致そう」
風が強くなる。
煙が裂けた。
南豊府の城壁。
王慶軍の旗。
そして、寇烕の姿が見える。
「今です!」
張清の声が飛んだ。
その声より早く、石礫が走る。
乾いた音。
寇烕の手が跳ねた。
剣が揺れる。
「ぐっ……!」
瓊英だった。
煙の切れ間。
ほんの一瞬だけ見えた場所へ、石礫を通している。
二撃目。
今度は肩。
寇烕の身体が揺れた。
紅玉が目を見開く。
「見えてる……!」
アタシも息を止める。
速い。
でも、それだけじゃない。
煙が裂ける瞬間を待って、石礫で撃ち抜いている。
寇烕が怒号を上げた。
「殺せ!」
王慶軍が前へ出る。
でも、止まりかけていた梁山泊軍も、もう崩れない。
煙は裂けた。
火も押し流されている。
兵達の目に、また前が戻った。
林冲が蛇矛を上げる。
「前へ!」
号令が戦場をこだました。
盾が上がる。
槍が並ぶ。
騎兵が前へ出る。
梁山泊軍が、再び南豊府へ押し込み始める。
毒煙が裂けたことで、止まりかけていた戦場が一気に動き出した。
その乱れの中で、ひとつだけ違う動きがあった。
真っ直ぐ、アタシだけへ向かってくる流れ。
王慶軍の中から、一騎が飛び出してくる。
赤い軍装の女。
馬上で槍を構え、真っ直ぐこちらを見ている。
その目が、アタシを捉えた。
敵兵の声が上がる。
「段三娘様だ!」
「兄君の仇を討たれるぞ!」
その言葉で、分かった。
段五の妹。
アタシが山南州で討った男の、身内だ。
赤い軍装の女は、真っ直ぐアタシだけを見ていた。
段三娘が叫ぶ。
「扈三娘!」
怒声が平地へ響く。
「兄の仇――ここで討つ!」
段三娘が、真っ直ぐこちらへ突っ込んでくる。
馬が土を蹴り上げ、赤い軍装が煙の中で揺れた。
槍の穂先が、最初からアタシだけを狙っている。
周囲の戦場が遠くなる。
玉楼が、わずかに馬を寄せた。
「扈三娘様」
止めようとしている訳じゃない。
でも、警戒している。
アタシは玉楼に笑顔で返す。
「大丈夫」
段三娘は止まらない。
「兄貴を討ちやがって……!」
「貴様だけは、生かして帰さないよ!」
怒声が飛ぶ。
怒りで前が見えていない訳じゃない。
槍筋は鋭く、呼吸も乱れていない。
本気だ。
逃げ場の無い戦場で、全部をぶつけに来ている。
アタシは日月双刀を構え直した。
金属音が、手の中で重なる。
「……来なさい」
そして、声を張る。
「アタシが一丈青・扈三娘よ!」
その瞬間、段三娘が槍を突き出した。
速い。
真正面を狙ってくる。
でも、迷いが無い分、読みやすい。
アタシは馬を半歩ずらし、左の刀で穂先を流すと、火花が散った。
すれ違いざまに、右の刀を返す。
段三娘が身体を沈めて避けた。
そのまま馬を返す。
速い。
振り返った時には、もう次の突きが来ていた。
「っ――!」
重い。
腕が痺れる。
女同士とか、そんな話じゃない。
敵だろうと、戦場で生き残ってきた武将の槍だ。
段三娘が叫ぶ。
「貴様だけは!」
槍が荒れる。
怒りのまま振っているように見える。
でも、崩れていない。
一撃ごとに重い。
アタシは受け流しながら、間合いを見る。
周囲では、まだ梁山泊軍と王慶軍がぶつかっている。
怒号、炎、毒煙。
その中で、段三娘だけがアタシを見ている。
段五の仇――
それだけで立っている。
段三娘が、さらに踏み込んだ。
槍が唸る。
アタシは身体を沈め、穂先を外す。
そのまま懐へ入る。
段三娘の目が見開かれる。
でも、止まらない。
槍を捨てるみたいに押し込み、無理矢理、間合いを潰してきた。
「まだ……!」
息がぶつかる距離。
日月双刀と槍が絡む。
馬同士が激しくぶつかった。
衝撃で、身体が揺れる。
段三娘が距離を潰したまま、槍の柄で押し倒してくる。
「っ――!」
日月双刀で受ける。
重い。
押される。
段三娘の顔が近い。
目が、怖い。
「返せ……!」
槍がさらに押し込まれる。
「兄を返せ!」
怒声が耳を打つ。
返せない。
そんなことは、分かっている。
段五は敵だった。
討たなければ、こちらが討たれていた。
それでも――
その声は、刃より少し重かった。
その瞬間、ほんの少しだけ、段三娘の力が乱れた。
アタシは左の刀で槍を外へ流す。
段三娘の身体が、わずかに開くのが見えた。
踏み込み、右の刀を振る。
段三娘が、無理矢理身体を捻った。
刃が鎧を捕らえ、裂き、血飛沫が飛ぶ。
「まだぁッ!」
段三娘が叫び、馬ごとぶつかってくる。
槍が横薙ぎに走ってくる。
アタシは上体を沈めると、穂先が髪を掠めた。
まだ槍の動きは、速くて重い。
でも、段三娘の動きは少しずつ荒くなっていた。
怒りだけじゃない。
焦っている。
王慶軍に後が無いのを、分かっている。
周囲では、梁山泊軍がさらに前へ出ていた。
盾が押し込まれ、槍が割り込む。
王慶軍の隊列が、少しずつ崩れていく。
でも、段三娘は後ろを見ない。
ただ、アタシだけを見ている。
「死ねぇぇぇッ!」
真正面から槍が唸り、重い一撃が来る。
アタシは交差させた双刀で受け止めると、金属音が弾けた。
身体が沈み、腕が痺れる。
段三娘の槍が、一瞬だけ止まったように見えた。
その瞬間、身体が先に動く。
アタシは馬腹を蹴り、懐へ入る。
段三娘の目が見開かれる。
――アタシは、そのまま右の刀を振り抜いた。
夜は、相変わらず静かでした。
銅鑼もありません。
馬の嘶きも、怒号もありません。
あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿は、今日も鍋を囲んでおられました。
毒煙が出ても鍋。
妖術が飛んでも鍋。
仇討ちが始まっても鍋。
もしかすると、このお二人は世界が滅んでも鍋を囲んでいるのかもしれません。
――閑話休題
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「今度は“煙だらけで前が見えないのに戦ってた回”だったんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽りました。
「しかも最後は仇討ちまで始まったらしいねぇ」
幕舎の外から、すぐ声が飛びます。
「始めたんじゃないわよ!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「出たよォ!!」
「向こうから来たんだろォ!?」
「そうよ!!」
また外から返って来ます。
「いきなり名指しよ!?」
「兄の仇よ!?」
「逃げ場無いのよ!!」
顧大嫂殿が肩を揺らしました。
「うわ、面倒だねぇ」
「説明しても聞いてくれない奴だ」
小さな笑いが広がります。
鍋の煮える音だけが、静かに続いていました。
私は、その湯気を見ながら小さく目を伏せます。
確かに、段三娘は厄介でした。
怒っていました。
ですが――
冷静でもありました。
私は静かに口を開きます。
「……感情だけで戦っている相手ではありませんでした」
孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めました。
「強かったのかい?」
私は頷きます。
「はい」
「槍筋は乱れておりませんでした」
「間合いも見ていました」
「焦りはありましたが、技は崩れていません」
湿った風が、静かに吹き抜けます。
「だからこそ」
「危険だったのでしょう」
顧大嫂殿も、小さく頷きました。
「怒ってる相手ほど怖い時があるからねぇ」
「はい」
私は静かに答えます。
その時――
孫二娘殿が、急にニヤつきました。
「で?」
嫌な予感がします。
「何でしょう」
「玉楼は、また横で見てたんだろォ?」
外が、一瞬だけ静かになります。
それから――
「……見ておりました」
ぼそっと返事が返りました。
孫二娘殿が腹を抱えて笑います。
「出た!!」
「観察癖!!」
「絶対また分析してた!!」
また外から声が飛びました。
「この人ね!!」
「段三娘見ながら“呼吸は乱れていません”とか言うのよ!!」
「怖いのよ!!」
顧大嫂殿が酒を吹きかけます。
「うわ、“戦場実況する侍女”だ!!」
「敵も味方も分析対象じゃないか!!」
笑い声が広がりました。
ですが――
その笑いも、少しずつ静かになっていきます。
鍋の湯気が、夜へ溶けました。
私は、小さく息を吐きます。
「……ですが」
「今回、一番印象に残ったのは」
「喬道清殿だったのでしょう」
孫二娘殿も、顧大嫂殿も何も言いません。
私は静かに続けます。
「毒煙が広がりました」
「火も上がりました」
「隊列も乱れかけました」
少し間を置きます。
「ですが」
「喬道清殿が風を変えた」
「煙を裂いた」
「それだけで、戦場の流れが戻ったのです」
湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。
外から、小さく声が返って来ます。
「……あれは助かったわね」
私は頷きました。
「はい」
「もし、あのままでしたら」
「もっと被害は増えていたでしょう」
鍋の音だけが、小さく続きます。
孫二娘殿が、小さく笑いました。
「つまり?」
顧大嫂殿も肩を揺らします。
「今回は脳筋じゃ解決しなかったって事さ」
「誰が脳筋よ!!」
即座に外から返って来ました。
笑い声が広がります。
私は、その声を聞きながら静かに目を伏せました。
南豊府の戦は、まだ終わっていません。
寇烕も居ます。
段三娘も居ます。
王慶軍も、まだ残っています。
ですが――
梁山泊軍も止まってはいません。
風は変わりました。
流れも戻りました。
だからこそ、
次の一歩が始まるのでしょう。
夜は、何も答えません。
ただ静かなまま、少しずつ――
裂けた毒煙と、
その向こうで再び動き始めた梁山泊軍だけを、
湿った風の中へ、静かに残している様でした。




