紀山の虎威将
アタシは、紀山の山道を少し甘く見ていたのかもしれない。
西京みたいに、正面から大軍がぶつかる場所じゃない。
広い平地でもない。
見える敵だけを斬ればいい場所でもない。
森があり、山があり、細い道がある。
見えない所で味方が動いて、見えない所で敵も動く。
正直、苦手だ。
「三娘、顔に出てるねェ」
孫二娘が横で笑っていた。
「何がよ」
「山、嫌いって顔だよォ」
「嫌いじゃないわよ」
「好きでもないだろ」
顧大嫂が即座に言う。
「……まあ、好きではないけど」
「ほらねェ」
孫二娘が楽しそうに笑った。
「三娘は分かりやすいねェ。広い場所なら気持ち良く飛び出すけど、山道だとちょっと顔が渋いよォ」
「飛び出す前提で話さないでよ」
紅玉が、小さく手を上げた。
「あの……飛び出されました」
「紅玉!」
真っ直ぐ刺された。
本当に最近、紅玉は容赦がない。
孫二娘が腹を抱えて笑っている。
「いいねェ、紅玉。今日も真っ直ぐだよォ」
紅玉は慌てて首を振った。
「刺しているつもりはありません。ただ、事実として……」
「それが一番刺さるんだよォ」
顧大嫂も腕を組んで頷いた。
「まあ、今回は前よりはマシだったけどね」
「マシ?」
アタシは思わず聞き返した。
褒められたのか、けなされたのか、分からない。
顧大嫂は、平然と言った。
「前は見えたから突っ込んだ。今回は、見えて、周りを見てから突っ込んだ」
「……ちゃんと見たわよ」
「だからマシだって言ってるんだ」
「マシって言い方があるでしょ」
孫二娘が酒瓶を揺らした。
「三娘にしては大進歩だねェ」
「その言い方も嫌」
「じゃあ、半歩前進」
「少ない」
「一歩だと褒めすぎだよォ」
言い返そうとして、やめた。
口では勝てない。
それに、実際その通りだった。
袁朗が出て来た時、アタシの身体は動きかけた。
あれを放っておけば、こっちの流れが止まる。
砦側の兵が、また立ち直る。
そう見えた。
だから、行こうとした。
でも、その瞬間に、紅玉の声が頭をよぎった。
次は、せめて目で合図してください。
あの言葉が、妙に残っていた。
だから見た。
玉楼が左にいること。
紅玉が後ろを見ていること。
林冲隊が押し出せる場所にいること。
戻る場所があること。
それを見てから、アタシは前へ出た。
「本当は、もっと早くそうしてほしかったんですけど……」
紅玉が小さく呟いた。
「聞こえてるわよ」
「聞こえるように言いました」
「紅玉、強くなったねェ」
孫二娘が感心したように言う。
紅玉は少し赤くなった。
「強くなった訳では……」
「いや、強くなってるよ」
顧大嫂が言った。
「前なら、三娘が前へ出たら黙って追うだけだった。今は、戻れるかどうかを見てる」
紅玉は、少しだけ黙った。
それから、小さく頷く。
「……見失いたくないんです」
その声は、静かだった。
でも、弱くはなかった。
アタシは何も言えなくなった。
袁朗は重かった。
速いとか、鋭いとか、そういう相手じゃない。
真正面から押してくる。
山道ごと、こっちを潰してくるみたいな圧だった。
アタシ一人では止めきれなかった。
玉楼が左から受けてくれた。
紅玉が横を削ってくれた。
それで初めて、袁朗の圧が割れた。
あの一瞬がなければ、アタシは入れなかった。
「袁朗ってのは、厄介だったねぇ」
顧大嫂が言う。
「強いだけじゃない。出て来ただけで、砦の兵が立ち直った」
「そうなのよ」
アタシは頷いた。
「あれを放っておいたら、砦側の流れが戻ってた」
孫二娘が目を細める。
「三娘は、そういうのを見つけると我慢できないんだよねェ」
「我慢できないって言い方」
「違うのかい?」
「……違わないかもしれないけど」
「ほらねェ」
また笑われた。
でも、今度は少しだけ違う。
我慢できなかったから飛び込んだ。
それだけじゃない。
戻る場所を見た。
玉楼がいた。
紅玉がいた。
林冲隊が動ける場所にいた。
だから行った。
それでも危なかった。
だから、きっと次も考えなきゃいけない。
見えたから行く。
それだけじゃ足りない。
見えたなら、どこから戻るのかも見なきゃいけない。
「まあ、今回は戻って来たからいい」
顧大嫂が言った。
「ただし、次も同じとは限らない」
「分かってるわよ」
「本当に?」
紅玉が真面目な顔で聞いてきた。
「紅玉まで疑うの?」
「疑っているのではありません。確認です」
孫二娘が吹き出した。
「言い方が玉楼に似てきたねェ」
「えっ」
紅玉が慌てる。
顧大嫂が笑った。
「いいんじゃないかい。三娘を止めるには、真面目な奴が増えた方がいい」
「アタシ、そんなに止められる前提なの?」
三人が黙った。
玉楼はいないのに、玉楼まで頷いている気がした。
「今の沈黙、何よ」
孫二娘がにやりと笑う。
「答えだねェ」
「嫌な答えね」
「でも、三娘。止める奴がいるってのは、悪いことじゃないよォ」
孫二娘の声が、少しだけ軽さを失った。
「戻る場所があるってことだからねェ」
顧大嫂も頷く。
「前へ行く奴には、戻す奴が要る。特にあんたみたいなのにはね」
「最後の一言、余計じゃない?」
「余計じゃないよ」
紅玉が小さく笑った。
「私も、見ます」
その顔は、前より少しだけ頼もしかった。
「扈三娘様が、戻れるように」
アタシは息を吐いた。
山道の空気は重い。
森の奥では、まだ戦の匂いがする。
袁朗を倒しても、砦はまだそこにある。
戦は、まだ終わっていない。
でも。
アタシは、もう一度前を見る。
見えるものが増えた。
敵の流れも。
味方の動きも。
戻る場所も。
だからこそ、見失っちゃいけない。
前へ出るなら、戻る場所を見てから行く。
それだけは、少しだけ覚えた気がした。
荊南州近くの平地には、既に一路軍の幕舎が並んでいた。
遠目でも分かるくらい、数が多い。
でも、空気は重い。
二路軍が近付くにつれ、向こう側の兵達もこちらを見始める。
旗が揺れ、伝令が走る。
周囲のざわめきが、少しずつ広がっていく。
アタシは馬上で前を見た。
西京を落とした後なのに、一路軍側には勝ち戦の空気が薄かった。
兵の顔が暗い。
負傷兵の数も多い。
幕舎の周囲には、薬を煎じる匂いまで漂っている。
玉楼が小さく呟いた。
「……疲れておりますね」
確かにそうだった。
紅玉が不安そうに周囲を見る。
「宋江様の病、やっぱり酷かったのでしょうか……」
孫二娘が鼻を鳴らす。
「大将が倒れりゃ、軍全体の活気が落ちるからねぇ」
林冲は黙ったままだった。
ただ、一路軍の陣をじっと見ている。
やがて、二路軍の速度が落ちた。
長い行軍列が、ゆっくり一路軍へ近付いていく。
戦は続いている。
でも、雰囲気は西京の時とは違っていた。
合流後の梁山泊軍は、再び南へ動き始めた。
一路軍と二路軍が重なり、平地を埋める兵の数が増えていく。
けれど、空気は軽くならない。
――宋江の病は、どうやら落ち着いたらしい。
それでも、一路軍側の士気の低下は目に見えて分かった。
兵の顔は暗く、傷病兵も多い。
隊列全体に、張り詰めた静けさが続いている。
伝令が走り、旗がたなびく。
長く伸びた隊列が、少しずつ紀山方面へ向きを変え始めた。
玉楼が前を見る。
「山岳地帯へ入りますね」
紅玉が小さく息を吐いた。
「……平地より嫌な感じがします」
孫二娘が笑う。
「山は隠れる場所が多いからねぇ」
アタシは前を見る。
遠くに見える紀山は、薄く霞んでいた。
西京みたいな大軍同士のぶつかり合いとは違う。
周りは森林に囲まれ、見えにくい。
どこに敵がいて、どこで味方が動いているのか。
それが、平地よりずっと分かりにくい。
林冲も前を見たまま動かない。
周囲の兵達も、口数が減っていく。
馬の蹄、荷車の軋み、擦れる鎧。
行軍の音だけが、長く続いていった。
梁山泊軍は、紀山の山道へ入った。
左右を木々が埋め、遠くまで見通せない。
長く続いていた隊列も、山道へ入ってからは細く伸びている。
馬の蹄が土を踏み、荷車の車輪が石を軋ませた。
風が吹くたび、枝葉が揺れる。
玉楼が周囲を見る。
「斥候の出番が増えますね」
確かにそうだった。
前だけじゃない。
左右の森へも、何度も兵が消えていく。
でも、ただの斥候ではなかった。
歩兵隊まで、少しずつ森へ入っていた。
林冲本隊は山道を進み続ける。
その横で、伝令が何度も左右へ走っていく。
紅玉が不安そうに森を見る。
「……やっぱり嫌です。見えない所が多すぎます」
孫二娘が肩を揺らした。
「山じゃ、見えてる所だけで戦う方が危ないのさ」
相変わらずの軽口だった。
でも、誰も笑わない。
アタシは馬を進めながら、前を見る。
森の中にも、山の裏側にも、見えないまま梁山泊軍の流れが伸びている。
朱武が何を考えているのか、正直よく分からない。
でも、軍全体が少しずつ紀山を包み始めている気がした。
西京とは違う。
真正面からぶつかる戦じゃない。
見える所と、見えない所。
その両方で、戦が始まろうとしていた。
山道を進み続けた先で、梁山泊軍の列が止まり始めた。
前方から、ざわめきが伝わってくる。
林冲が視線を上げる。
アタシも前を見た。
木々の隙間。
その奥に、砦が見えていた。
山肌へ張り付くみたいに築かれた、小さな砦。
でも、道を完全に塞いでいる。
木柵、見張り台、積まれた石。
高い場所には、弓兵の姿まで見えた。
紅玉が息を呑む。
「……嫌な場所ですね」
孫二娘が鼻を鳴らす。
「真正面から行く場所じゃないねぇ」
確かにそうだった。
山道が狭い。
隊列を広げられない。
無理に押し込めば、上から射られる。
林冲も黙ったまま砦を見ていた。
その時だった。
森の奥から、突然怒号が響いた。
続けて、銅鑼の音が響く。
砦の上が一気に騒がしくなる。
弓兵達が横を向いた。
誰かが叫んでいる。
「横だ!」
「森側だ!」
紅玉が目を見開いた。
「もう始まってる……!?」
歩兵軍の別働隊だった。
森へ入っていた梁山泊軍が、砦の横腹へ奇襲を掛けている。
木々の奥で悲鳴が混ざった。
砦側の流れが乱れていく。
アタシは砦を見る。
正面はまだ動いていない。
でも、見えない森の中で、もう戦は始まっていた。
森の奥で、さらに怒号が重なる。
砦の上の弓兵が揺れている。
横を向く者。
正面へ戻ろうとする者。
命令を待っている者。
流れが乱れている。
そう思った瞬間、砦の門が開いた。
重い音が、山道へ響く。
中から、一騎が出てきた。
大きい。
馬も、人も、鎧も。
手にした得物が、鈍く光る。
敵兵の声が上がった。
「袁朗様が出られたぞ!」
その名が響いた瞬間、砦側の兵のざわめきが変わった。
乱れかけていた空気が、強引に押さえ込まれていく。
袁朗は、正面へ出た。
逃げるためでも、守るためでもない。
こちらを食い破るために出てきた。
林冲が目を細める。
玉楼が槍を握り直した。
紅玉が小さく息を呑む。
孫二娘の笑みも、少し消えた。
袁朗が馬を進める。
狭い山道いっぱいに、圧が来る。
木々の奥では、まだ歩兵軍の奇襲が続いている。
でも、正面の空気は一気に変わった。
アタシは手綱を握る。
見える。
あれを放っておけば、こっちの流れが止まる。
砦側の兵が、袁朗の後ろへ戻り始めている。
崩れかけた流れが、また前へ出てくる。
袁朗が得物を構えた。
山道の奥で、虎が前へ出た。
袁朗が、真っ直ぐ山道を下ってくる。
馬が石を砕き、鐙が鳴る。
こちらが優勢なはずなのに、押される感覚があった。
林冲が蛇矛を構える。
その前に、アタシの身体が動きかけた。
行く――
そう思った瞬間、紅玉の声が頭をよぎった。
「次は、せめて目で合図してください」
アタシは、ほんの一瞬だけ横を見る。
玉楼は左にいる。
紅玉は後ろを見ている。
林冲隊は押し出せる位置にある。
戻る場所は、ある。
それを確かめてから、アタシは馬腹を蹴った。
「扈三娘様!」
玉楼の声が飛ぶ。
でも、今度は聞こえていた。
聞こえた上で、前へ出た。
袁朗の圧が、真正面から来る。
逃げ場は無い。
山道そのものが、一騎討ちの場になっていた。
袁朗が得物を振り上げる。
振り下ろされる前から、重い一撃だと分かる。
でも、遅い。
踏み込み、日月双刀で受ける。
次の瞬間、凄まじい衝撃が腕を貫いた。
「っ――!」
馬が横へ滑る。
今まで受けた連中とは違う。
袁朗の得物が、真正面から叩き込まれ、受けるだけで腕が痺れる。
孫二娘が後ろで舌打ちした。
「重いねぇ……!」
袁朗が止まらない。
さらに前へ出る。
狭い山道を、そのまま押し潰すみたいに進んでくる。
アタシは手綱を引き戻した。
速さじゃない。
流れでもない。
真正面から、力で砕いてくる。
袁朗が、さらに押し込む。
一撃ごとに腕が痺れる。
馬が下がる。
山道の石が、蹄の下で砕ける。
受けるだけで精一杯だった。
「扈三娘様!」
玉楼が横へ入る。
槍が袁朗の得物を受けた。
金属音が山道へ跳ねる。
それでも、止まらない。
袁朗は玉楼ごと押し潰すように、さらに踏み込んでくる。
玉楼の馬が半歩下がった。
「この……!」
アタシは双刀を重ねる。
でも、袁朗は三人分の道を一人で塞いでいるみたいだった。
砦そのものが前へ出て来たような圧。
「行きます!」
紅玉の声が聞こえた。
後ろから斬り込む。
袁朗の馬の横腹へ向けて、刃が走る。
袁朗がわずかに身体をずらす。
その瞬間、初めて圧が揺らいだ。
消えた訳じゃない。
割れた。
玉楼が受け、紅玉が横を削り、袁朗の正面がわずかに開く。
そこ。
今度は、身体だけじゃない。
玉楼の槍。
紅玉の位置。
林冲隊の押し出す気配。
全部を見た。
戻る場所は、まだある。
アタシは馬腹を蹴る。
袁朗がこちらを見る。
得物を戻そうとする。
でも、もう遅い。
懐へ入る。
日月双刀を振る。
一刀目が鎧を裂いた。
二刀目が、その奥へ入る。
袁朗の目が見開かれる。
それでも倒れない。
「まだ……!」
玉楼が槍を押し込む。
紅玉も、もう一度踏み込む。
袁朗は、それでも退かなかった。
血を流しながら、なお得物を振ろうとした。
その瞬間、アタシは初めて、この男が砦の要なのだと分かった。
強いから前へ出たんじゃない。
前へ出ることで、後ろの兵を立たせていた。
だから、倒さなきゃいけない。
三つの刃が、同じ瞬間に袁朗へ届いた。
袁朗の巨体が、馬上で揺れる。
狭い山道に、重い音が落ちた。
虎威将・袁朗が、崩れ落ちる。
その瞬間、砦側の兵の声が消えた。
森の奥の怒号だけが、まだ続いている。
アタシは息を吐く。
腕が痺れている。
手綱を握る指が、まだ震えていた。
玉楼がすぐ横にいる。
紅玉も、後ろにいる。
振り返ると、二人とも息を切らしていた。
でも、いた。
戻る場所は、消えていなかった。
アタシはもう一度、砦を見る。
袁朗を倒したことで、砦側の流れは完全に切れていた。
今なら、押せる。
林冲の声が飛ぶ。
「進め!」
その声に、止まっていた梁山泊兵が一斉に動き出した。
山道の流れが、再び前へ走り始める。
アタシは双刀を握り直した。
戦は、まだ終わっていない。
紀山の山道は、西京とはまるで違う戦場でございました。
広い平地で軍と軍がぶつかる訳ではございません。
城門へ向けて、ただ押し込めばよい訳でもございません。
木々が視界を遮り、山道は狭く、どこに敵が潜んでいるのか分からない。
味方の動きでさえ、森へ入ってしまえば見えなくなります。
そういう場所で、扈三娘様は少しだけ苦手そうなお顔をされておりました。
「出たねェ」
孫二娘殿が、横で楽しそうに笑われました。
「玉楼の、三娘観察日記だよォ」
「観察日記ではございません」
「でも、見てたんだろォ?」
「見ておりました」
「ほらねェ」
顧大嫂殿が腕を組んで頷かれます。
「まあ、見ておいて正解だよ。山道で三娘が何を見て、どこへ飛ぶかなんて、見張ってないと分からないからね」
「飛ぶ前提なのですね」
私がそう言うと、顧大嫂殿は即答されました。
「飛ぶだろ」
孫二娘殿も頷かれます。
「飛ぶねェ」
紅玉も、少し困った顔で頷きました。
「……飛ばれました」
扈三娘様がこの場におられたなら、きっと不満そうに眉を寄せておられたでしょう。
ですが、今回に限って言えば、少しだけ違っておりました。
袁朗が砦から出てきた時、確かに扈三娘様の身体は動きかけました。
あれを放っておけば、砦側の流れが戻る。
こちらの押し込みが止まる。
おそらく、扈三娘様にはそう見えていたのでしょう。
ですが――
あの方は、すぐには飛び込みませんでした。
ほんの一瞬でした。
本当に、わずかな間でございました。
けれど、私は見ておりました。
扈三娘様は、横を見られました。
私の位置を。
紅玉の位置を。
林冲隊の動きを。
そして、ご自身が戻れる場所を。
「おや、褒めてるねェ」
孫二娘殿が目を細められました。
「珍しいねェ。玉楼が三娘を素直に褒めてるよォ」
「珍しくはございません」
「珍しいだろ」
顧大嫂殿が笑われました。
「いつも褒める前に刺してるからねぇ」
「刺しているつもりはございません」
「それだよォ」
孫二娘殿が肩を揺らします。
「玉楼のそれが一番刺さるんだよォ」
紅玉が、小さく口を開きました。
「でも……私も、分かりました」
私達は紅玉を見ました。
紅玉は少しだけ緊張した顔をしておりましたが、言葉を続けました。
「扈三娘様は、前より見てくださいました。こちらを。後ろを。戻る場所を」
その声は控えめでした。
ですが、弱くはございませんでした。
「だから、私も見なければいけないと思いました。扈三娘様がどこへ行かれるのかだけではなく、どこへ戻れるのかを」
孫二娘殿が、にやりと笑われました。
「紅玉、すっかり帰り道係だねェ」
紅玉は慌てて首を振りました。
「係ではありません」
「じゃあ何だい?」
「ええと……」
紅玉は少し考えました。
「見失わない役、です」
顧大嫂殿が、満足そうに頷かれました。
「いいじゃないか。それで十分だよ」
はい。
私も、そう思います。
前へ出る者を止めることだけが、支えることではございません。
前へ出た者が戻って来られるように、道を見失わないこと。
それもまた、必要な役目でございます。
今回、扈三娘様は袁朗へ向かわれました。
止めるべきだったのか。
行かせるべきだったのか。
それを一言で決めることは出来ません。
袁朗は、ただ強いだけの武将ではございませんでした。
砦の兵達が乱れかけた時、あの者が前へ出ただけで、空気が変わりました。
声が戻り、兵が立ち直り、崩れかけた流れが再び前へ出てくる。
あれを放置すれば、こちらの奇襲は鈍ったでしょう。
林冲隊の押し出しも、止められたかもしれません。
扈三娘様は、それを見た。
だから、前へ出られた。
「まあ、そこは三娘の勘が当たったんだろうねェ」
孫二娘殿が言われました。
「ただし、勘が当たったから安全って訳じゃない」
顧大嫂殿が続けます。
「袁朗は重かった。真正面から潰しに来る相手だった。三娘一人じゃ、止めきれなかっただろうね」
その通りでございます。
袁朗の一撃は、速さで斬るものではございませんでした。
技で流すだけでも足りません。
真正面から、山道ごと押し潰すような力でございました。
扈三娘様も受け止めきれてはおりませんでした。
私が左から受け、紅玉が横を削り、その一瞬でようやく袁朗の圧が割れた。
そのわずかな隙へ、扈三娘様が入られたのです。
「三人がかりだねェ」
孫二娘殿が言いました。
「三娘一人の手柄じゃないってことだよォ」
「それは、扈三娘様も分かっておられると思います」
私が答えると、孫二娘殿は少し笑いました。
「分かってる顔はしてたかい?」
「しておられました」
紅玉が、すぐに言いました。
「少しだけ」
孫二娘殿が吹き出されます。
「少しだけかい」
紅玉は真面目な顔で頷きます。
「はい。でも、前よりは」
顧大嫂殿が笑われました。
「前よりは、ってのが三娘らしいねぇ」
私も、少し笑ってしまいました。
扈三娘様は、急に別人になられた訳ではございません。
前へ出る方です。
見えたものへ反応される方です。
危うい場所でも、必要だと思えば入ってしまわれる方です。
それは変わっておりません。
ですが、今回、あの方は一瞬だけ戻る場所を見られました。
それは小さな変化です。
けれど、戦場では、その一瞬が命を分けることもございます。
「半歩前進ってところかねェ」
孫二娘殿が言われました。
顧大嫂殿が鼻を鳴らします。
「一歩って言うには、まだ怖いね」
紅玉が少し困った顔をしました。
「でも、半歩でも進んでおられるなら……」
「紅玉は優しいねェ」
「いえ……」
紅玉は首を振りました。
「優しいのではなく、信じたいのだと思います。扈三娘様は、戻って来られる方だと」
その言葉に、私達は少し黙りました。
信じたい。
その言葉は、とても紅玉らしいものでした。
けれど、ただの願いではございません。
紅玉は、見ようとしております。
信じるために。
ただ祈るのではなく、見失わないために。
それは、紅玉自身の成長でもあるのでしょう。
「紅玉も、だんだん玉楼に似てきたねェ」
孫二娘殿が言いました。
紅玉は驚いた顔をします。
「似ていますか?」
顧大嫂殿が笑いました。
「真面目に刺すところは似てるね」
「刺しているつもりは……」
紅玉はそこで言葉を止めました。
孫二娘殿が楽しそうに笑います。
「ほら、そこも似てるよォ」
私としては、少々複雑でございます。
ですが、紅玉が強くなっているのなら、それは良いことです。
紀山の戦は、まだ終わっておりません。
袁朗を倒したことで、砦側の流れは切れました。
林冲殿の号令で、梁山泊兵も前へ出ました。
ですが、砦はまだそこにございます。
森の奥でも戦は続いております。
見えている戦と、見えていない戦。
その両方が、紀山では動いております。
扈三娘様が見えるものも、また増えております。
敵の流れ。
味方の動き。
戻る場所。
そして、見えない場所で動く戦の気配。
それは、あの方にとって必要な力です。
けれど、見えるものが増えるほど、迷うものも増える。
前へ出る機会も増える。
危うさも増える。
だからこそ、隣にいる者が必要です。
後ろを見る者が必要です。
場を締める者が必要です。
重くなりすぎた空気を、笑いで逃がす者も必要です。
「それ、アタイのことかい?」
孫二娘殿が笑われました。
「はい」
「素直に言われると、やりにくいねェ」
顧大嫂殿が呆れたように笑います。
「アンタはいつも通りでいいんだよ。茶化して、刺して、重くなりすぎた空気を逃がしてりゃいい」
「顧大嫂、それ褒めてるのかい?」
「褒めてるよ」
「雑だねェ」
そのやり取りを聞きながら、紅玉も少し笑っておりました。
それで良いのだと思います。
戦はまだ続きます。
山道は狭く、森は深く、次に何が出て来るかは分かりません。
扈三娘様は、きっとまた前を見るでしょう。
その時、前だけではなく、戻る場所も見てくださるように。
私達もまた、あの方を見失わぬように。
紀山の戦は、まだ終わっていないのです。




