戻る道は、見失わない
昨日、答里孛を捕まえた。
だから今日は、少しくらい楽になると思っていた。
「三娘、それ何ていう心理だと思う?」
「知らない」
孫二娘がにやりと笑う。
「希望的観測」
「朝から人の希望を分析しないで!」
顧大嫂が向こうから口を挟んだ。
「で、今日は何するんだ?」
「二十万の陣の中に入るんだって」
「へえー、死にに行くのかい?」
「言い方!」
孫二娘がアタシの肩へ腕を回してくる。
「しかも三娘、まだ腹痛いんだろォ?」
「それは今言わなくていい!」
「体調不良で二十万の敵陣へ突入。心理学以前の問題だねェ」
「誰か予定変更を提案して!」
顧大嫂が笑った。
「無理だな。もう馬が並んでるよ」
……本当に行くの?
昨日より嫌なんだけど……
「陣の中だ」
盧俊義が指した先を見て、アタシはしばらく何も言えなかった。
昨日、丘の向こうに広がっていた二十万の兵。
それだけでも十分におかしいのに、今日はその中へ入るという。
「昨日、朱武が中まで分からないって言ってなかった!?」
軍議の空気が、一瞬だけ止まった。
朱武が申し訳なさそうに咳払いする。
「申し上げました」
「じゃあ何で入るのよ!」
「外から見ていても、変化の仕組みまでは掴めません。ならば内部へ入り、実際の動きを確かめる必要がございます」
「その確認方法、命がけすぎない?」
呉用が扇を閉じた。
「だからこそ、深追いは禁物です。陣の形を探り、危険と判断すればすぐ退く。それを徹底します」
昨日までのアタシなら、その説明を聞いても「入れば何とかなる」と思ったかもしれない。
でも今は違う。
答里孛一人なら、癖を見て、次を読んで、刀を届かせることができた。
二十万は見切れない。
そもそも、人間一人と二十万を同じ方法で何とかしようとする方がおかしい。
……昨日のアタシ、よく答里孛と戦ったわね。
そう思った瞬間、下腹がきゅっと痛んだ。
「痛……」
「ほらァ」
すぐ隣から声が飛んできた。
振り向くと、孫二娘が完全に「言わんこっちゃない」という顔でアタシを見ている。
「今日はどうだい?」
「まだ痛い」
「昨日始まったばかりだろォ。勝ったら月のものまで撤退してくれると思った?」
「敵将みたいに言わないで!」
「心理学なら認知の切り替えで多少は楽になることもあるけどねェ。出血そのものは気合じゃ止まらないよ」
「分かってるわよ!」
孫二娘は笑いながら、さらに顔を寄せてきた。
近い。
この人、最近本当に距離が近い。
「顔色は昨日よりましだねェ。でも、だるさは?」
「ある」
「腰」
「重い」
「腹」
「痛いって言ったでしょ!」
「はいはい。じゃあ無茶は禁止」
「昨日も同じこと言われた!」
「昨日、答里孛と一騎打ちした女に反論されても説得力ないねェ」
言い返せなかった。
その横で玉楼が、何事もなかったように替えの布と下衣を包みに収めている。
「本日も、こちらはわたくしがお持ちいたします」
「ありがと」
「ただし、昨日より動けるからと申して、昨日以上に動かれませんよう」
「玉楼まで!」
「昨日、答里孛様と一騎打ちをなさいましたので」
「何で二人ともそこだけ息ぴったりなのよ!」
孫二娘が肩を揺らして笑う。
「アタイ達、三娘を止める時だけ相性いいみたいだねェ」
「そこだけ!?」
出陣の支度を終えて外へ出ると、李俊がいた。
別の隊へ向かう途中だったらしく、こちらを見るなり足を止める。
「顔色は?」
「二娘と玉楼にも聞かれた」
「じゃあ俺は聞かねえ」
そう言って、そのまま行くのかと思った。
ところが李俊はアタシの前で少しだけ間を置いた。
「戻ってこい」
胸の奥が、変な鳴り方をした。
たったそれだけなのに……
昨日までなら「無事か?」だった。
今日も同じことを言われると思っていたから、余計に困る。
「……それだけ?」
「それで十分だろ」
平然と言うな……
こっちは何でこんなに意識してるのよ。
「アンタもね」
李俊は一度だけ頷いた。
「戻る」
その返事が妙に嬉しくて、アタシは慌てて馬へ跨がった。
腹に響いた。
「っ……!」
孫二娘が後ろから笑う。
「恋愛感情で痛覚が消えるほど都合よく出来てないよォ」
「聞こえてるからね!?」
「聞こえるように言ったんだよォ?」
この妖艶なお姐さん、絶対に面白がってる。
太乙混天象陣へ入ったのは、それから間もなくだった。
外から見た時は、巨大ではあっても一応、正面も左右も分かっていた。
だから最初のうちは、アタシもそこまで怖くなかった。
旗が見え、騎兵と歩兵がそれぞれ動き、遠くには土煙も上がっている。
敵なのだから、それ自体は何もおかしくない。
問題は、その動き方だった。
「右が開いた!」
前方の敵兵が左右へ割れた。
昨日までなら、たぶん行った。
開いた場所へ突っ込み、その奥を見ようとした。
玉楼の声が飛ぶ。
「三娘様、行ってはなりません!」
「分かってる! 昨日までのアタシなら行ってたけど!」
馬を抑える。
すると、開いていた場所へ後方から別の部隊が滑り込み、一瞬で壁が出来た。
紅玉が息を呑んだ。
「閉じました……」
「うん、やっぱり誘ってた」
怖い。
でも、それ以上に腹が立つ。
まるで陣全体が、こっちの考えを先に読んでいるみたいだった。
「三娘様」
「前はアタシが見る!」
玉楼を見る。
「玉楼は戻る道をお願い!」
一瞬だけ、玉楼の目が細くなった。
「承知いたしました。では、戻る道はわたくしが!」
それからは、アタシが前、玉楼が後ろを見た。
単純に背中合わせになるわけじゃない。
アタシが前方の旗と馬の向きを追い、玉楼は隊の間隔と退路を確かめる。
紅玉には左右を見てもらい、孫二娘は負傷した兵が出ればすぐ後ろへ回した。
「三娘、右の兵、こっちを見てないよォ!」
言われて見る。
確かに敵兵の顔はこちらを向いていない。
なのに槍だけが、こっちへ揃っている。
「来る!」
声を上げた直後、横から騎兵が突っ込んできた。
アタシ達が受け止めるより早く、玉楼が馬を返す。
槍が大きく弧を描き、先頭の槍をまとめて逸らした。
「紅玉様、下がってくださいませ!」
「はい!」
玉楼が前へ出た。
いや、今までアタシが前だと思っていた場所へ、玉楼が出た。
その瞬間、役割が入れ替わる。
「玉楼、左!」
「承知!」
アタシが見つけた隙へ玉楼が入る。
敵騎兵の勢いが止まり、そこへこちらの兵が抜ける。
強い。
分かってたけど、改めて見ると本当に強い。
しかも、アタシの指示を待っているわけじゃない。
アタシが見落とした後ろまで自分で拾っている。
……何よ。
それなら最初から、もっと任せればよかった。
けれど、敵はそんな感傷を待ってくれなかった。
前方で朱武の声が響く。
「その門を抜けます! 外へ出られるはずです!」
兵が動く。
アタシも馬を向けかけた。
その時だった。
何かがおかしい。
門の向こうに見える旗が、さっきより近い。
外へ向かっているなら、敵の旗が近づくはずがない。
「待って!」
誰かがこちらを見る。
「止まって!」
朱武も振り返った。
アタシは門の向こうを指す。
「それ、外じゃない!」
次の瞬間、朱武の顔色が変わった。
「違う! これは門ではない!」
左右の旗が一斉に伏せられた。
奥から、新しい兵が現れる。
背後でも喊声が上がった。
「待って! さっきまでこっちが外だったでしょ!?」
答えてくれる人はいなかった。
いや、誰にも答えられない。
開いていた場所が閉じたかと思えば別の場所が開き、旗が動くたびに部隊まで入れ替わる。
さっきまで背後だった方向から、今度は別の兵が押し寄せてきた。
本当に、陣そのものが動いている。
梁山泊の隊列が崩れ始めた。
「追撃を受けています!」
「前が詰まった!」
「左からも来るぞ!」
腹がまた痛んだ。
馬の揺れが腰へ響く。
こんな時に……
でも、昨日と同じことをする必要はない。
痛いなら、痛いまま考える。
全部倒す必要もない。
帰ればいい。
「追わない!」
近くの兵が振り向く。
アタシはもう一度叫んだ。
「追わない! 戻る!」
敵がわざと退く。
今度は分かる。
あれは餌だ。
「紅玉、前だけ見ないで! 味方の旗を探して!」
「はい!」
「二娘、負傷兵は!?」
「三人! まだ馬には乗れるよォ!」
「玉楼!」
返事がない。
振り返ると、後方で玉楼が一人、敵兵を食い止めていた。
「玉楼!?」
敵の槍を払い、馬ごと押し返す。
「先にお戻りくださいませ!」
「何言ってんの!」
「戻る道は、わたくしが任されました!」
真面目な顔で言うな。
そういうところよ。
「だったらアンタも戻るの!」
「ですが――」
「戻る道を守る奴が戻らなくてどうするのよ!」
一瞬、玉楼が黙った。
その隙に、敵の槍が伸びる。
アタシが右の刀で弾いた。
腹に響く。
痛い。
でも、届いた。
「三娘様!」
「説教は帰ってから!」
左の刀を振る。
玉楼の槍が、そのすぐ横を抜けた。
二人で敵を押し返す。
アタシが空いたところを見る。
玉楼がそこを広げる。
玉楼が敵を止める。
アタシが味方を通す。
どっちが前で、どっちが後ろかなんて、途中からどうでもよくなった。
必要な方が前へ出ればいい。
「今!」
「はい!」
紅玉達が抜ける。
孫二娘も負傷兵を連れて続いた。
「三娘、玉楼! 置いてくよォ!」
「待ちなさいよ!」
「置いていかれたくなけりゃ走りなァ!」
「アタシ今日体調悪いんだけど!?」
「だから無茶するなって朝から言ってるだろォ!」
「今それ言う!?」
玉楼が珍しく笑った。
「三娘様、参りましょう!」
「アンタまで楽しそうにしないで!」
最後に二人で馬を返す。
背後から矢が飛んできたが、もう追わなかった。
追えば、また飲み込まれる。
だから帰った。
梁山泊の陣へ戻った時には、腕も脚も重かった。
負傷者も出た。
別の隊では、もっと大きく崩されたところもある。
昨日、答里孛を捕らえ、太陰の一角を崩しても、太乙混天象陣は何も変わっていなかった。
むしろ今日、初めて分かった。
あれは敵将一人を倒してどうにかなるものじゃない。
夜の軍議で、朱武は地面に描いた陣形を何度も消していた。
呉用も扇を開いたまま、ほとんど動かない。
アタシは座ったまま腰をさすった。
「つまり、明日どうするの?」
朱武が顔を上げる。
「今夜、考えます」
「今日それで負けたんだけど!?」
誰も笑わなかった。
そこは笑ってよ……
その夜は、早めに休むことになった。
玉楼に替えを手伝ってもらい、孫二娘には水を飲めと念を押され、横になった瞬間に意識が落ちた。
翌朝――
まだ身体は重い。
それなのに朝から軍議へ呼び出された時点で、ろくな話ではない気がした。
軍議の場へ行くと、宋江がすでに座っていた。
呉用も朱武もいる。
なぜかアタシまで呼ばれている。
「何か分かったの?」
宋江がこちらを見た。
「夢を見た」
「……夢?」
宋江が混天象陣の中心を指した。
「破り方が分かった」
玉楼でございます。
本日は、三娘様より「戻る道をお願い」と仰せつかりました。
ですので、最後までお守りするつもりだったのですが――
「玉楼、それ自分だけ残る意味じゃないからねェ」
孫二娘様が笑います。
「任された以上、最後まで務めるのが当然でございます」
顧大嫂様が肩をすくめました。
「それで三娘に迎えに来られてりゃ世話ないね」
「……その点につきましては、反省しております」
すると孫二娘様が、いかにも楽しそうに顔を寄せてきます。
「でも良かったじゃないか。三娘、ちゃんと玉楼を置いてかなかったよォ」
「当然でございます」
「嬉しいくせに」
「当然でございます」
顧大嫂様が吹き出しました。
……何がおかしいのでしょう。
それより問題は、明日でございます。
宋江様が夢をご覧になり――
どうやら、陣の破り方が分かったそうでございます。
夢で……




