冷たい安堵
アタシは、包囲されていた。
敵じゃない……
味方に――
玉楼は静かにこちらを見ている。
怒っている、というより。
まだ納得していない顔だ。
紅玉は、何か言いたそうに唇を結んでいる。
顧大嫂は腕を組んでいる。
孫二娘だけが、楽しそうに笑っていた。
「三娘、今日は敵より味方の方が逃げ道を塞いでるねェ」
「何よ、その言い方」
「だってそうだろォ。玉楼はまだ許してない顔だし、紅玉は言いたいことを飲み込んでるし、顧大嫂はもう逃がす気がない顔してるしねェ」
玉楼が静かに口を開いた。
「許す、許さないの話ではございません」
「じゃあ、何よ」
「次も同じことをなされると困る、という話でございます」
言い方は丁寧だった。
でも、全然優しくない。
孫二娘が肩を揺らして笑う。
「ほらねェ。逃げ道、塞がれたよォ」
「笑わないでよ」
「笑わなきゃやってられないねェ。敵陣の奥まで突っ込んで、戻って来て、それで本人が『見えたから』って顔をしてるんだからねェ」
「顔に出てる?」
「出てるねェ」
顧大嫂が深く頷いた。
「出てるよ。『でも崩れたじゃない』って顔だ」
「……」
言い返せなかった。
実際、少し思っていた。
あの時、敵の流れは見えた。
王慶軍の奥で、動かない場所があった。
そこを斬れば崩れる。
そう思った。
そして、実際に崩れた。
奚勝を討ったことで、王慶軍の流れは切れた。
それは間違っていない。
たぶん。
玉楼が、静かに続ける。
「あの一手が必要であったことは、分かっております」
意外だった。
アタシは思わず玉楼を見る。
「……分かってるの?」
「はい」
玉楼は頷いた。
「ですが、必要であったことと、安全であったことは違います」
そこを言われると、弱い。
必要だった。
でも、安全ではなかった。
正しかったかもしれない。
でも、戻れなかったら終わりだった。
玉楼が左を塞いでくれた。
紅玉が後ろを見てくれていた。
林冲隊が動いていた。
歩兵も押し込んでいた。
だから、戻れた。
アタシ一人でどうにかした訳じゃない。
それくらいは、分かっている。
分かっているけど、見えた瞬間、身体はもう前へ出ていた。
「そこだと思ったのよ」
アタシが言うと、孫二娘が口元を押さえた。
笑う気だ。
絶対に笑う気だ。
「何よ」
「いやァ、便利な言葉だねェ。そこだと思った。見えた。身体が動いた。言い訳の三段重ねだよォ」
「言い訳じゃない」
「じゃあ何だい」
「……説明?」
「説明になってないねェ」
玉楼が静かに頷いた。
「説明にはなっておりません」
「玉楼まで」
「事実でございます」
声は穏やかだった。
でも、その分だけ逃げ場がない。
紅玉が、小さく手を上げた。
「あの……」
全員の目が紅玉へ向く。
紅玉は少しだけ迷った顔をした。
けれど、すぐに真面目な顔になる。
「次は……せめて、目で合図してください」
「目で?」
「はい。言葉でなくてもいいです。せめて、今から行く、というのが分かるように」
「いや、でも、戦場でそんな余裕があるかどうか」
「それが無いなら、行かないでください」
真っ直ぐ刺された。
孫二娘が楽しそうに肩を揺らす。
「紅玉、今日もいいところに刺すねェ」
紅玉は慌てて首を振った。
「刺しているつもりはありません」
「刺してるよォ。三娘よりよほど真っ直ぐだねェ」
「アタシを何だと思ってるのよ」
「曲がりながら突っ込む人」
「ひどい」
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「ひどくないよ。真っ直ぐ突っ込むより厄介だ。読めないからね」
「顧大嫂まで」
「こっちは兵を見てるんだよ。あんたが前へ出ると、周りも動く。あんた一人の無茶で済まないんだ」
その言葉で、少し黙った。
アタシが前へ出る。
玉楼が動く。
紅玉が見る。
林冲隊が押す。
兵達が続く。
一つ間違えれば、全員が崩れる。
見えているのは、敵の流れだけじゃない。
味方も、アタシの動きに引っ張られる。
それを忘れたら、多分、本当に危ない。
「……分かってる」
今度は、ちゃんと言った。
ふてくされた声には、しなかったつもり。
顧大嫂は、少しだけ目を細めた。
「ならいい。勝ったからいい、じゃない。戻って来たからいい、でもない。次も同じことをして、同じように戻れるとは限らないんだからね」
「うん」
玉楼が、静かに口を開いた。
「三娘様が前を見るなら、後ろを見る者が必要です」
紅玉が頷いた。
「私も、見ます」
その声は、前より少しだけ強かった。
「扈三娘様が、戻れるかどうかを」
アタシは何も言えなくなった。
孫二娘が、にやりと笑う。
「どうするんだい、三娘。紅玉にまで見張られるよォ」
「見張るって言わないでよ」
「じゃあ、帰り道係かねェ」
「それも変でしょ」
玉楼が静かに言った。
「必要な役目です」
笑っていた孫二娘も、そこで少しだけ目を細めた。
顧大嫂も、何も言わなかった。
必要な役目。
その言葉が、妙に胸に残った。
見えるものが増えた。
敵の刃だけじゃない。
伏せている兵。
逃げ道。
隊列の継ぎ目。
崩れる場所。
前よりも、少しだけ見えるようになってきた。
それは、きっと悪いことじゃない。
見えなければ、助けられないこともある。
見えなければ、崩せない場所もある。
でも、見えるから行けばいい訳じゃない。
行ける場所と、戻れる場所は違う。
そこを間違えたら、アタシは多分、いつか帰れなくなる。
孫二娘が酒瓶を揺らしながら言った。
「ま、次にまた見えたって飛び込んだら、今度は顧大嫂が縛るだろうねェ」
顧大嫂が即答する。
「縛るよ」
「早いわね」
「必要ならね」
紅玉が真面目な顔で頷いた。
「縄を用意します」
「紅玉まで!」
孫二娘が腹を抱えて笑った。
「やっぱり三娘は、逃げ場がないねェ」
逃げ場がない。
でも、戻る場所はある。
そう思うと、少しだけ息が楽になった。
アタシは水袋を握り直して、前を見る。
煙はまだ上がっている。
血の匂いも、燃える木の匂いも残っている。
勝った匂いの中に、次の戦の匂いが混ざっている。
アタシ達は、まだ進む。
見えるものが増えたからこそ、戻る場所を見失ってはいけない。
それだけは、忘れないようにしようと思った。
戦は止まらない
西京陥落後の整理が始まっていた。
梁山泊軍の兵達が、城内を慌ただしく動き回っている。
負傷兵を運ぶ者。
火を抑える者。
武器を集める者。
敗残兵をまとめる者。
城は落ちた。
王慶軍の六花の陣も破れた。
奚勝も討った。
城門も破った。
でも、終わった感じはしなかった。
城内には、まだ熱が残っている。
焼けた木の匂い。
血の匂い。
汗と土と煙の匂い。
勝った軍の声と、負けた兵の呻き声が、同じ場所に混ざっていた。
アタシは、壊れた城門の近くに腰を下ろしていた。
さっきまで、あの門へ向かって兵達が雪崩れ込んでいた。
丸太が叩きつけられ、門が軋み、割れ、開いた。
その瞬間、全部が前へ流れた。
今は、その流れが嘘みたいに、門の残骸だけが転がっている。
身体が重い。
さっきまでは、あんなに軽かった。 馬の腹を蹴って、敵陣の奥へ入って、目の前の流れだけを見ていた。 刃を受けるより先に、身体が動いた。
考えるより先に、そこだと思った。
でも今は、腕も足も鉛みたいだった。
玉楼が、水袋を持って近付いてくる。
顔は静かだ。
でも、まだ怒っている。
アタシは大人しく手を伸ばした。
「……ありがとう」
玉楼は水袋を渡しながら、小さく息を吐いた。
「本当に、無茶をなさらないでください」
怒鳴られた訳じゃない。
むしろ、声は低くて静かだった。
だから余計に刺さる。
紅玉も、玉楼の後ろで何度も頷いていた。
「見てる方が怖いんですよ……」
アタシは苦笑する。
「そんなつもり無かったんだけど」
後ろで孫二娘が吹き出した。
「無茶する奴は、だいたい皆そう言うんだよォ」
正論だった。
顧大嫂が、少し離れた場所で兵に指示を飛ばしながら、こちらを見た。
「勝ったからいい、じゃないよ。戻って来たからいい、でもない。次も同じことをして戻れるとは限らないんだからね」
「分かってるわよ」
「本当に分かってる顔じゃないねぇ」
「分かってるってば」
孫二娘が瓦礫に腰を下ろして、にやにや笑う。
「ほらねェ。反省してる奴の顔じゃないよォ」
「してるわよ」
「じゃあ、何で少しふてくされてるんだい」
「ふてくされてない」
「ふてくされてるねェ」
玉楼が静かに頷いた。
「少し」
「玉楼まで」
紅玉が小さく手を上げた。
「あの……少しだけ、そう見えます」
「紅玉まで!」
孫二娘が腹を抱えて笑った。
「今日の三娘、逃げ場がないねェ」
逃げ場がない。
その言い方が妙に引っかかった。
アタシは水を飲みながら、壊れた城門の向こうを見る。
あの時、アタシには敵の流れが見えた。
王慶軍の陣の奥で、動かない場所があった。
そこを斬れば崩れる。
そう思った。
だから入った。
でも――
今思い返すと、少しおかしい。
あんな敵陣の奥まで、迷わず突っ込める方が変だ。
戻れなかったら終わりだった。
玉楼が左を塞ぎ、紅玉が後ろを見てくれていた。
林冲隊も押し込んでいた。
歩兵も続いた。
だから戻れた。
アタシ一人で勝った訳じゃない。
それくらいは、分かっている。
分かっているのに、身体は先に動いた。
見えた瞬間、もう前へ出ていた。
西京の空には、まだ煙が流れている。
薄くなった煙が、風に押されて城壁の向こうへ流れていく。
その時だった。
また、身体が先に反応しかけた。
城門の外から、馬の音が近付いてくる。
速い――
一騎じゃない。
けれど、多くもない。
伝令だ。
城内の兵達が顔を上げる。
朱武が、近くの兵を止める。
盧俊義も、少し離れた場所で振り向いた。
すぐに一騎が、城門の残骸を飛び越えるように、駆け込んでくる。
「報告!」
声が、まだ熱の残る城内へ響いた。
「一路軍より急使!」
馬上の兵は、息を切らしたまま叫んだ。
「宋江様、病に倒れられました!」
場の空気が変わった。
本当に、音が一つ減ったみたいだった。
兵達の足が止まる。
武器を運んでいた者が、思わずこちらを見る。
負傷兵を抱えていた者まで、一瞬だけ顔を上げた。
孫二娘が苦笑する。
「倒れる時ゃ、倒れるんだろうけどねェ」
軽い口調だった。
でも、笑ってはいない。
玉楼は目を細めた。
紅玉は息を呑んでいる。
盧俊義が伝令へ歩み寄った。
朱武も、すぐにその横へつく。
「容体は?」
朱武が静かに聞く。
伝令は馬から降り、膝をつくように頭を下げた。
「詳しいことは、まだ……ただ、高熱とのことです」
「いつからだ」
「数日前から、と」
盧俊義が腕を組んだ。
周囲は静かだった。
ついさっきまで、西京陥落の空気だった。
勝ったのだと、誰もが思い始めていた。
それなのに、もう別の流れが城内へ入り込んでいる。
戦は、人の都合を待たない。
アタシは、水袋を握り直した。
宋江が倒れた。
そう聞いて、最初に浮かんだのは心配じゃなかった。
――いっそ、このまま寝込んでいてくれればいいのに。
そう思った。
一瞬だけだった。
でも、確かに思った。
自分でも、少し嫌になる。
けれど、消せない。
王英のこと。
梁山泊のこと。
忠義だの仁義だの、綺麗な言葉で押し流されてきたもの。
宋江の顔を見るたび、アタシの中にはどうしても冷たいものが残る。
死ねばいい、とまでは思わない。
たぶん……
たぶん、そこまでは……
でも、動けないなら、そのまま動かないでいてくれた方がいい。
そう思ってしまうくらいには、アタシはあの男を信用していない。
玉楼が、こちらを見た。
「三娘様」
「……何でもない」
「何でもないお顔ではございません」
「顔に出てた?」
「はい」
紅玉も、遠慮がちに頷いた。
「少し……」
孫二娘が鼻を鳴らす。
「まあ、三娘の顔に出るものなんて、大体ろくでもないことだねェ」
「ひどくない?」
「当たってるだろ」
反論出来ない。
顧大嫂が、こちらへ戻ってきた。
「宋江が倒れたとなると、動きが変わるね」
朱武も同じ判断だったのだろう。
伝令の報告を聞き終えると、すぐに盧俊義へ向き直った。
「盧俊義殿。私も同行いたします」
盧俊義は短く頷く。
「一路軍へ向かう」
周囲の頭領達が一斉に動き始めた。
城内の整理。
残存兵の処理。
補給の確認。
守備の割り振り。
負傷者の移送。
伝令の再編。
西京を落としたばかりなのに、誰も本当には休めない。
勝った後だからこそ、やることが増える。
倒した敵より、残った場所の方が重い。
林冲が城門近くで、盧俊義達の動きを見ていた。
蛇矛は持っていない。
それでも、気を抜いているようには見えなかった。
玉楼が、城下を見下ろす。
「……落ち着きませんね」
アタシは苦笑する。
「戦って、そんなもんでしょ」
紅玉が小さく首を振った。
「昨日まで、死ぬほど戦ってたのに……もう次なんですね」
誰も否定しなかった。
それで終わりじゃない。
王慶軍はまだ残っている。
一路軍も動いている。
宋江が倒れたなら、梁山泊軍全体の流れも変わる。
風が吹き、城壁の旗が揺れた。
旗の揺れを見ると、また戦場の中にいるような気がした。
敵の動きじゃない。
でも、流れは確かに変わっている。
アタシは、西京の外を見続けた。
盧俊義と朱武は、その日のうちに一路軍へ向かった。
護衛の兵を連れ、伝令を走らせ、必要な指示だけを残して城を発つ。
その背中を見送りながら、アタシ達は城壁近くの石段へ腰を下ろしていた。
玉楼は隣。
紅玉は少し離れた場所に座っている。
孫二娘だけが、妙に気楽そうに酒瓶を揺らしていた。
「西京落としても、この空気かい」
アタシは、また苦笑する。
「戦って、そんなもんでしょ」
「二回目だねェ、それ」
「便利なのよ」
「便利な言葉を使い始めたら、だいたい考えるのをやめてる時だよォ」
「うるさいわね」
孫二娘は酒を飲み、城内を眺めた。
「でも、アタイは嫌いじゃないけどねぇ」
紅玉が少し驚いた顔をする。
「え?」
「こういう、勝った後の空気さ」
孫二娘は、軽い調子のまま続けた。
「生き残ったって顔してる奴もいりゃ、まだ殺し足りない顔してる奴もいる。泣きそうな奴も、笑ってる奴も、何も考えないように働いてる奴もいる。こういう時の顔は、嘘が少ない」
相変わらず良く喋る。
でも、目は笑っていなかった。
玉楼が静かに聞く。
「……慣れているのですね」
孫二娘は肩をすくめた。
「長いからねぇ」
少しだけ、間が空いた。
それから、孫二娘はアタシを見た。
「ま、アンタは少し突っ込み過ぎだけどねェ」
紅玉が勢いよく頷く。
「本当にそうです!」
玉楼も黙って頷いた。
顧大嫂まで、遠くから声を飛ばしてきた。
「反省しときな!」
囲まれた。
アタシは視線を逸らす。
孫二娘が吹き出した。
「ははッ!反省してない顔だねェ」
「してるわよ」
「口だけなら何とでも言えるよォ」
反論しようとして、やめた。
口では絶対に勝てない。
だから、黙って西京の空を見た。
煙は、だいぶ薄くなっていた。
それでも匂いは残っている。
勝った匂い。
血の匂い。
燃える木の匂い。
そして、まだ終わらない戦の匂い。
西京へ入ってから、数日が過ぎた。
壊れた城門も、少しずつ形を戻し始めている。
城内を走り回っていた兵の数も減った。
負傷兵の呻き声も、最初の夜ほど多くない。
火の跡も片付けられ、武器もまとめられ、敗残兵も分けられた。
ようやく西京そのものが落ち着き始めていた。
でも――
梁山泊軍は止まらなかった。
朝から城内が慌ただしい。
馬が集められる。
兵糧が運ばれる。
槍が並べられる。
伝令が城内を走る。
林冲隊の兵達も、黙々と装備を整えていた。
アタシは幕舎の外で、それを眺めていた。
玉楼が後ろへ来る。
「荊南州方面への合流が決まりました」
アタシは振り返った。
「一路軍と?」
「はい。宋江様の容体も、落ち着いたそうです」
残念だと思ってしまった。
今度は、隠しようもなく……
でも、口には出さなかった。
玉楼は何も言わない。
ただ、少しだけ目を伏せた。
きっと、分かっている。
紅玉も後ろから顔を出す。
「じゃあ、また移動ですね……」
孫二娘が鼻を鳴らした。
「休ませる気が無いねぇ」
顧大嫂が荷を確認しながら言う。
「休むなら、歩きながら休みな。止まったら置いていかれるよ」
「それ、休みって言うの?」
「言わないね」
孫二娘が笑った。
でも、誰も本気では笑わなかった。
林冲が、隊列の前で兵達を見ている。
声を荒げることはない。
けれど、兵達は自然と動いていく。 馬を引き、武器を確認し、荷を整え、隊列へ入る。
西京を落としても、結局また前へ進む。
アタシは城外を見た。
道が、遠く荊南州方面へ続いている。
戦の流れは、まだ終わっていなかった。
西京を発った梁山泊軍は、再び南へ動き始めた。
城門を抜ける頃には、もう西京の空気は背中へ遠ざかっていた。
兵の列が続く。
馬の蹄、車輪の軋み、兵糧を運ぶ荷車、槍の穂先。
長い隊列が、土煙を引きながら荊南州方面へ伸びていく。
アタシは馬上で前を見ていた。
西京を落としたばかりなのに、兵達の顔はもう次へ向いている。
疲れていない訳じゃない。
太刀傷が無い訳でもない。
でも、立ち止まる顔ではなかった。
玉楼が周囲を見ながら口を開く。
「思ったより、士気は落ちていませんね」
アタシは苦笑する。
「止まる暇が無いからじゃない?」
紅玉が後ろで頷いた。
「考える前に次が来る感じです……」
孫二娘が笑う。
「戦なんてそんなもんさ。考えすぎると足が止まる。足が止まると、死ぬ」
軽く言う。
でも、軽い話じゃない。
風が吹き、草が揺れる。
西京から離れるほど、周囲の景色はまた荒れていく。
途中の村には、人影が少ない。
焼け跡が残る場所もある。
畑は踏まれ、柵は倒れ、家の戸は外れていた。
王慶軍に襲われたのか。
梁山泊軍に襲われたのか。
その前から荒れていたのか。
もう分からない。
アタシは視線を逸らした。
考えても仕方ない。
そう思う自分が、少し嫌だった。
それでも、梁山泊軍の列は止まらない。
荊南州への道が、前へ長く続いていた。
数日後――
二路軍は、荊南州の近くまで進んでいた。
周囲の空気も、また変わり始めている。
行軍中にすれ違う斥候の数が増え、伝令も慌ただしく動いていた。
一路軍との距離が近付いている。
それだけで分かる。
林冲隊の空気も硬い。
兵達は口数を減らし、馬の様子や武器を何度も確認している。
戦うためではなく、合流するための行軍だ。
それでも、戦場へ近付く時と同じ匂いがした。
アタシは馬を進めながら、前を見る。
遠くに、うっすら旗が見え始めていた。
玉楼が目を細める。
「……あれですね」
紅玉が少し身を乗り出した。
「一路軍ですか?」
林冲が短く答える。
「恐らくな」
隊列が速度を落とす。
周囲の兵も、前を見始めた。
戦場じゃない。
まだ刃は交わっていない。
敵の喊声も聞こえない。
それなのに、胸の奥が少し重くなる。
孫二娘が小さく鼻を鳴らした。
「病人見舞いにしちゃ、物騒だねぇ」
誰も笑わなかった。
アタシは前を見る。
荊南州方面の空は曇っている。
宋江は倒れた。
梁山泊軍は合流へ向かう。
戦は止まらない。
そして、流れはまた変わろうとしていた。
落ちた城の中に残っていたものは、勝利だけではございませんでした。
煙。
血の匂い。
焼けた木の匂い。
運ばれていく負傷兵。
敗れた者の息。
次の命令を待つ兵達の目。
戦が終わった後の城は、静かになる訳ではございません。
むしろ、そこから別の忙しさが始まります。
火を消す者。
負傷者を運ぶ者。
武器を集める者。
敗残兵をまとめる者。
伝令を走らせる者。
勝った後だからこそ、やるべきことは増えます。
そして、その忙しさの中で、また別の知らせが届きました。
宋江殿が、病に倒れられたという知らせでございます。
「倒れる時ゃ、倒れるんだろうけどねェ」
孫二娘殿が、軽く言われました。
ですが、声ほど顔は笑っておられませんでした。
顧大嫂殿も腕を組み、城内を走る兵達を見ておられました。
「これでまた、軍の動きが変わるねぇ」
紅玉は、少し不安そうな顔をしておりました。
「宋江様は、大丈夫なのでしょうか」
その問いに、すぐ答えた者はおりません。
私も、答えることは出来ませんでした。
ただ、その時。
私は、扈三娘様のお顔を見ておりました。
宋江殿が倒れられたと聞いた時、扈三娘様は、すぐには心配されませんでした。
もちろん、声に出された訳ではございません。
表情も、ほんの一瞬でございました。
ですが、私は見ておりました。
水袋を握る手。
わずかに止まった呼吸。
そして、目の奥に浮かんだ、冷たいもの。
あれは、安堵に近かったのかもしれません。
いえ、喜びではございません。
扈三娘様は、人の病を笑う方ではございません。
倒れた者を、ただ面白がる方でもございません。
けれど、宋江殿が動けないと聞いて、心のどこかで、少しだけ息をつかれた。
私は、そう感じました。
「顔に出てたねェ」
孫二娘殿が、私の横で小さく笑われました。
「三娘は、ああいう時に分かりやすいんだよォ」
紅玉が、真面目な顔で頷きます。
「出ていました」
「紅玉、そこはもう少し包んで言ってやるところだよォ」
「ですが、出ていました」
顧大嫂殿が鼻を鳴らしました。
「出てたねぇ」
「ほらねェ。全員一致だよォ」
私は小さく息を吐きました。
否定は出来ませんでした。
ですが、私は、そのことを責める気にはなれなかったのです。
扈三娘様にとって、宋江殿は、ただの首領ではございません。
梁山泊の理屈。
忠義という言葉。
仁義という形。
そして、王英との縁談を当然のように押し付けようとした空気。
それらは、扈三娘様の中に、まだ冷たく残っております。
いくら戦を共にしても。
いくら梁山泊の一員として動いても。
消えないものは、消えません。
扈三娘様は、王英を拒まれました。
その拒絶から、あの方の運命は変わり続けております。
ですが、変わったからといって、最初から何も無かったことにはならないのです。
「まあ、心配しろって言う方が無理だろうねェ」
孫二娘殿が言いました。
「アタイだって、嫌な相手が寝込んだって聞いたら、まず心配より先に別のこと考えるよォ」
紅玉が少し困った顔をします。
「別のこと、ですか」
「このまま大人しくしててくれないかねェ、とか」
「それは……」
紅玉は言いかけて、口を閉じました。
顧大嫂殿が、静かに言われます。
「綺麗な心だけで戦場に立てる奴はいないよ」
その言葉は、重く響きました。
けれど、突き放すような響きではございませんでした。
「誰だって、嫌なものは嫌だ。恨みも残る。疑いも残る。それを無かったことにして笑う方が、よほど危ない」
私は頷きました。
その通りでございます。
扈三娘様の中に浮かんだ冷たさは、醜さだけではございません。
あれは、あの方が自分を守るために残したものでもあります。
押し流されないためのもの。
また誰かの言葉で、自分の道を決められないようにするためのもの。
宋江殿を信じ切らないという冷たさは、扈三娘様にとって、ある種の鎧でもあるのでしょう。
ですが――
鎧は、身を守ります。
同時に、重くもなります。
冷たさは、人を守ります。
同時に、人を孤立させもします。
そこが、難しいところでございます。
「また静かに刺したねェ」
孫二娘殿が笑われました。
私は首を振ります。
「刺しているつもりはございません」
「それだよォ。それが一番刺さるんだよォ」
紅玉が、少し考えるように俯きました。
「扈三娘様は……宋江様のことを、嫌っておられるのでしょうか」
その問いに、私はすぐ答えませんでした。
嫌っている。
その一言で片付けてしまうには、少し違う気がしたのです。
「信じておられないのだと思います」
私は、そう答えました。
紅玉が顔を上げます。
「信じていない……」
「はい」
宋江殿の言葉は、いつも整っております。
忠義。
仁義。
赦し。
大義。
多くの者は、その言葉に救われるのかもしれません。
ですが、扈三娘様にとって、それは時に、自分の気持ちを押し流す水でもございました。
だから、あの方は警戒しておられる。
宋江殿その人だけではなく。
宋江殿の言葉によって動く、梁山泊の大きな流れを。
「大きな流れ、ねぇ」
顧大嫂殿が、城の外を見ながら呟かれました。
「それに巻かれると、女一人の声なんざ、すぐ消えるからね」
孫二娘殿も、珍しく茶化しませんでした。
「三娘は、そこで踏ん張ったんだよォ。だから今も、引っかかってる」
紅玉は、黙って聞いておりました。
その顔には、少しだけ怖れがありました。
けれど、以前のように、ただ怖がっているだけではございません。
何を見なければならないのか。
誰の顔を見なければならないのか。
それを考えている顔でした。
私は、それを見て、少しだけ安心いたしました。
紅玉は、確かに変わっております。
ただ守られるだけの子ではなくなりつつあります。
扈三娘様の背中を見る。
その危うさを見る。
その強さだけではなく、胸の奥に残る冷たさまで、見ようとしている。
それは、簡単なことではございません。
「紅玉も忙しくなるねェ」
孫二娘殿が言われました。
紅玉は真面目に頷きます。
「はい。見失わないようにします」
「おや、真面目に返されたよォ」
顧大嫂殿が笑われました。
「いいじゃないか。三娘が前へ行くなら、後ろで見てる奴が要る。顔に出たものを見逃さない奴もね」
「三娘、ますます逃げ場が無いねェ」
「逃げ場ではございません」
私が言うと、孫二娘殿は楽しそうに笑いました。
「玉楼まで真面目に返してきたよォ」
ですが、これは大事なことです。
扈三娘様に必要なのは、逃げ場ではございません。
戻る場所です。
逃げるためではなく。
前へ進んだ後、帰って来るための場所。
怒りを抱えても。
冷たさを抱えても。
信じ切れないものを抱えても。
それでも戻って来られる場所。
宋江殿が倒れ、一路軍との合流が決まりました。
流れはまた変わります。
荊南州方面へ向かえば、また新しい戦が始まるでしょう。
王慶軍はまだ残っております。
梁山泊軍も、止まることは出来ません。
一つ終われば、すぐ次が来ます。
「本当に、休ませる気がないねぇ」
顧大嫂殿が呟かれました。
孫二娘殿は酒瓶を傾けます。
「戦なんてそんなもんさ。止まったら置いてかれる。考えすぎたら足が止まる。足が止まったら、死ぬ」
軽い口調でした。
けれど、軽い言葉ではございませんでした。
紅玉も、黙って聞いておりました。
その顔には、怖れもありました。
ですが、逃げる顔ではございません。
次に何を見るべきかを、考えている顔でした。
扈三娘様が見えるものは、きっとこれからも増えていきます。
敵の刃。
兵の流れ。
隊列の継ぎ目。
崩れる場所。
そして、戦そのものの流れ。
それらが見えることは、あの方の強さです。
けれど、見えるものが増えた時こそ、見失ってはならないものも増えます。
戻る場所。
隣にいる者。
後ろで見ている者。
共に動く兵達の足。
そして、胸の奥に残った冷たさに、呑まれないこと。
戦は止まりません。
宋江殿が倒れても。
城を落とした後でも。
扈三娘様の中に、まだ消えない冷たさが残っていても。
それでも、次の流れは来ます。
ですから私は、隣で見ます。
紅玉は、後ろを見てくれるでしょう。
顧大嫂殿は、場を締めてくださるでしょう。
孫二娘殿は、茶化しながら空気を壊れないようにしてくださるでしょう。
扈三娘様が前へ進むなら。
私達は、あの方が戻れる場所を残します。
戦は止まりません。
だからこそ、戻る場所を見失ってはいけないのです。




