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見えるもの、見失うもの

西京は落ちた。

落ちたけど、アタシの立場はあまり良くない。

何故かって?

玉楼に怒られたからよ。

「敵陣の奥へ、いきなり入られましたからね」

玉楼が静かに言う。

静かだけど、怖い。

本当に怖い。

「見えたのよ」

「見えたから行かれたのですね」

「……はい」

即答したら、玉楼が額を押さえた。

孫二娘が横で笑っている。

「三娘、今のは言い逃れ出来ないねェ」

「笑わないでよ」

「いやァ、無理だねェ。見えたから行った、って猫が魚を見つけた時みたいな理屈だよォ」

「誰が猫よ」

「飛びつく方の猫だねェ」

顧大嫂が腕を組んで、深く頷いた。

「猫だから繋げられないんだけどねぇ」

「やめて、猫に例えるの」

「必要なら縛るよ」

「やめなさいってば」

紅玉が、少し困った顔でこちらを見ていた。

「扈三娘様」

「何?」

「次は……せめて、目で合図してください」

「戦場で?」

「はい」

「無茶言うわね」

「扈三娘様ほどではありません」

孫二娘が吹き出した。

「紅玉、今日も真っ直ぐ刺すねェ」

「刺していません」

「刺してないつもりで刺すから痛いんだよォ」

紅玉は慌てて俯いた。

でも、今のはちょっと痛かった。

いや、かなり痛かった。

アタシだって、分かっている。

奚勝を討ったのは、たぶん間違いじゃない。

あそこで入らなければ、流れは切れなかった。

西京も、あんなに早く落ちなかったかもしれない。

でも、戻れなかったら終わりだった。

一歩ずれていたら……

一呼吸遅れていたら……

玉楼と紅玉が追いつけなかったら。

たぶん、アタシは敵陣の中で潰されていた。

「だから言ってるんだよ」

顧大嫂が低く言う。

「勝ったからいい、じゃない。戻って来たからいい、でもない。次も同じことをして戻れるとは限らないんだ」

「……分かってるわよ」

「本当に?」

「本当」

「本当に本当かい?」

孫二娘まで聞いてくる。

「しつこいわね」

「三娘は勢いで返事する時があるからねェ」

「ないわよ」

「あるねぇ」

「あります……」

紅玉まで小さく言った。

「紅玉まで」

「す、すみません。でも、あります」

また刺された。

玉楼が静かに口を開く。

「扈三娘様は、入る場所を見るのはお上手です」

「褒めてる?」

「はい」

「じゃあ、その顔やめて」

「ですが、戻る場所を見るのは、まだ危うございます」

「……結局怒ってるじゃない」

「怒っております」

はっきり言われた。

孫二娘が酒瓶を揺らして笑う。

「良かったねェ、三娘。怒ってくれる人がいて」

「良くないわよ」

「良いことだよォ。誰も怒らなくなったら、それこそ終わりだねェ」

それは、少しだけ重かった。

誰も止めない。

誰も怒らない。

誰も心配しない。

そうなったら、たぶん本当に危ない。

アタシは、見えた場所へそのまま行ってしまう。

戻る場所も見ずに……

紅玉が、真面目な顔で言った。

「私も、見ます」

「何を?」

「扈三娘様が、戻れるかどうかを」

少しだけ、言葉が止まった。

「……そう」

「はい」

「じゃあ、頼むわ」

紅玉の顔が、少し明るくなった。

「はい」

顧大嫂が頷く。

「それでいい。前を見る奴がいるなら、後ろを見る奴も要る」

孫二娘も笑う。

「横で茶化す奴も要るねェ」

「それは要るの?」

「要るよォ。空気が詰まると、人は余計に無茶をするからねェ」

そう言われると、少しだけ納得してしまう。

確かに西京は落ちた。

でも、戦はまだ終わっていない。

王慶はまだ生きている。

この先も、何が来るか分からない。

見えるものは増えた。

入れる場所も増えた。

でも、だからこそ戻る場所を見失ってはいけない。

玉楼がいて、紅玉がいる。

孫二娘がいて、顧大嫂がいる。

怒られて、茶化されて、刺されて、止められる。

それでようやく、アタシは戻って来られるのかもしれない。

「で、三娘」

孫二娘がにやりと笑った。

「次は考えてから突っ込むんだねェ?」

「突っ込まないわよ」

「本当に?」

「必要なら行くけど」

「ほらねェ」

顧大嫂がため息をついた。

玉楼が目を閉じた。

紅玉が困った顔をした。

アタシは、少しだけ笑った。

大丈夫。

たぶん――

次は、もう少しだけ考える。

……もう少しだけ。

銅鑼が、再び鳴った。

低い音が、西京前の空へ長く流れていく。

一度噛み合った梁山泊軍が、今度は押し返し始めていた。

左右から挟まれた王慶軍の勢いが、少しずつ鈍る。

旗が揺れ、兵が流れる。

怒号と金属音が、西京前の平地へ広がっていく。

アタシは馬上で前を見ていた。

循環八卦……

八陣……

正直、まだ何をしているのか分からない。

朱武が考えていることを、全て頭で追える気はしない。

でも――

流れだけは見える。

押されていた場所が、噛み合う。

分散したはずの兵が戻る。

左右へ流された列が、別の場所で相手の退路を塞ぐ。

ただの押し合いじゃない。

軍全体が、何か大きな手みたいに動いている。

玉楼が槍を構えた。

「来ます!」

その声が終わる前に、王慶軍の中から別の隊が突き出してきた。

さっきまで濁った水みたいに広がっていた陣が、今度は一本の槍みたいに細くなる。

迷いがない。

まっすぐ、こちらの隙間を貫こうとしている。

紅玉が息を呑んだ。

「まだあるんですか、これ……!」

林冲が蛇矛を持ち直す。

その目が、少しだけ鋭くなった。

「前へ出る」

短い号令だった。

それだけで、林冲隊が動いた。

今まで耐えていた兵達が、一気に前へ流れ込む。

馬が嘶き、土が跳ねる。

盾が上がり、槍が前を向く。

玉楼が馬を進める。

「続きますよ。扈三娘様」

紅玉も、息を整えながら後ろへつく。

アタシは手綱を握り直した。

王慶軍の鋭い隊列が、梁山泊軍を貫こうとしている。

でも、今度はこっちも止まらない。

林冲隊が横から入る。

蛇矛が唸る。

先頭の敵兵ごと、隊列の頭が乱れた。

その乱れへ、こちらの兵が流れ込む。

玉楼の槍が光る。

紅玉も、前へ出過ぎない位置で隙を塞ぐ。

アタシは前を見る。

見える――

敵の槍が来る前。

馬が踏み込む前。

兵の肩が上がる前。

けれど、そこだけを見てはいけない。

前に出れば、横が空く。

横へ寄れば、後ろが遅れる。

一人で入れば、戻る場所がなくなる。

紅玉の声が、昨日の夜みたいに耳に残っていた。

「扈三娘様が、どんどん先へ行ってしまう様に見えたのが、怖かったです」

アタシは、ほんの少しだけ手綱を引いた。

前へ出たい身体を、そこで止める。

玉楼が隣にいる。

紅玉は少し後ろ。

林冲の隊は、まだ横から入っている。

味方は押している。

今なら、戻れる。

でも――

次の瞬間には遅い。

王慶軍の奥に、一つだけ動かない場所があった。

旗の後ろ。

馬上の男。

周りの兵が流れているのに、そこだけが流れを作っている。

あれだ――

理由は、うまく言えない。

名前も知らない。

でも、分かる。

あそこを斬れば、この流れは切れる。

「扈三娘様」

玉楼の声が、今度は低く飛んだ。

止めるつもりだ。

自分でも分かってる。

止まった方がいい。

普通なら、待つべきだ。

でも、今は――

アタシは振り返らずに言った。

「玉楼、左を塞いで」

「扈三娘様」

「紅玉、後ろ。深く追わない」

紅玉が、一瞬遅れて答える。

「はい!」

玉楼は何か言いかけた。

でも、言わなかった。

玉楼の槍が横へ流れる。

紅玉が後ろの隙を塞ぐ。

戻る場所が、まだある。

だから、行く。

アタシは馬腹を蹴った。

王慶軍の兵が前に出る。

槍が来る。

遅い。

踏み込み、刀を振る。

血飛沫が飛ぶ。

さらに前へ。

盾が並び、兵が重なる。

普通なら厚い。

でも、今は薄い。

そこだけ、流れが切れている。

「退きなさい!」

叫ぶより先に、身体が入った。

盾の縁を弾き、空いた隙間へ馬をねじ込む。

敵兵の顔が歪む。

驚きと怒りが混ざった顔。

その奥で、馬上の男がこちらを見た。

初めて、焦りが浮かぶ。

誰かが叫んだ。

「奚勝様!」

奚勝――

詳しくは知らない。

でも、それで十分だった。

奚勝が剣を抜く。

遅い。

アタシは、もう懐に入っていた。

日月双刀が、脇腹へ走る。

刃が鎧を噛み、硬い手応えを感じた。

奚勝の身体が馬上で傾いた。

もう一太刀。

返す刃で、肩から胸へ走らせる。

奚勝が声もなく崩れ落ちた。

その瞬間、王慶軍の旗が大きく揺れた。

怒号が響き渡る。

押していた兵が止まり、横へ流れていた隊が迷う。

後ろの兵が、前に出られなくなる。

流れが切れた。

アタシは刀の血を振り払い、前を見る。

今度は、アタシ一人の戦じゃなかった。

切れた場所へ、梁山泊軍が入る。

林冲の蛇矛が唸る。

敵列を割り、その後ろから兵がなだれ込む。

玉楼が、ようやく隣へ追いついた。

「扈三娘様!」

怖い声だった。

とても怖い声だった。

アタシは前だけを見た。

今、振り向くと怒られる。

絶対に怒られる。

紅玉も後ろから来る。

「扈三娘様、今の……!」

言葉になっていない。

でも、無事について来ている。

それだけで少しだけ息が戻った。

王慶軍は崩れ始めていた。

前へ出る兵。

下がろうとする兵。

横へ逃げる兵。

全部がぶつかり合う。

「奚勝様が討たれた!」

その声が、王慶軍の中を走った。

一つ、また一つと旗が乱れ、列が割れていく。

林冲の声が響いた。

「押せ!」

梁山泊軍が、一気に前へ出る。

アタシが斬った場所へ、今度は味方が入り込む。

盾を並べる者。

長槍を構える者。

鉤槍を持って走る者。

地面を踏み鳴らしながら、城門前へ押し寄せていく。

騎馬が裂いた所へ、歩兵が根を張るように入り込む。

逃げようとする王慶軍を押し返し、城門前の空間を奪っていく。

紅玉が息を呑む。

「すごい……」

アタシも同じものを見ていた。

これは、アタシの刀だけでは出来ない。

林冲だけでもない。

朱武だけでもない。

玉楼だけでも、紅玉だけでもない。

軍が動いている。

一つの大きな生き物みたいに。

孫二娘の声が飛んだ。

「前へ! 前へ押せ!」

盾がぶつかる。

槍が突き出される。

城門前で、歩兵同士が真正面から噛み合う。

林冲の蛇矛がまた唸る。

城門前で踏み止まっていた敵兵が崩れ、列に隙間が生まれる。

その隙間へ、梁山泊の兵が入り込んだ。

「門を破れ!」

丸太を担いだ兵達が前へ出る。

城壁の上から矢が降る。

石が落ちる。

悲鳴が上がる。

それでも止まらない。

丸太が振り上げられる。

轟音。

城門が軋む。

もう一撃。

さらに一撃。

西京前の空気そのものが震えた。

木が割れる音がした。

金具が悲鳴を上げる。

そして――

城門が割れた。

木片が吹き飛び、梁山泊軍が一気に雪崩れ込む。

悲鳴、怒号、乱れた銅鑼の音。

逃げる王慶軍を押し潰しながら、兵達が西京へ流れ込んでいく。

アタシは馬上で、その流れを見ていた。

循環八卦、八陣、六花の陣……

結局、最後までよく分からなかった。

でも、分かったこともある。

朱武が形を作り、林冲が待つ。

兵が押し、玉楼が支える。

紅玉が塞ぎ、孫二娘や顧大嫂が、後ろを締める。

その中で、アタシは入る場所へ入る。

一人で勝ったんじゃない。

一人で落としたんじゃない。

でも、あの一瞬だけは、アタシが入らなければ切れなかった。

西京は、落ちた。

そう思った瞬間、身体の奥に残っていた熱が、少しだけ遅れて震えに変わった。

城内では、まだ怒号が残っている。

逃げ遅れた王慶軍を捕える声。

負傷兵を運ぶ声。

燃え始めた建物へ水を運ぶ声。

でも、戦そのものは終わっていた。

アタシは馬を降りる。

その瞬間、玉楼が無言で近付いてきた。

怖い。

かなり怖い。

紅玉が、そっと距離を取り、孫二娘の後ろに隠れた。

孫二娘は面白そうにこっちを見ている。

玉楼が、アタシの前で止まった。

「……何を考えておられたのですか」

静かな声だった。

でも、今までで一番怖い声だった……

アタシは視線を逸らす。

「いや……何か、見えたから」

「見えたから突っ込んだのですか」

「……はい」

即答してしまった。

玉楼が額を押さえる。

「敵陣の奥ですよ」

「奚勝の本隊ですよ」

「普通は行きません」

怒っている。

かなり怒っている。

でも、全く声を荒げない。

それが余計に怖い。

アタシは少しだけ肩を縮める。

「……だって、そこを斬れば崩れる気がしたし」

「気がした、で突っ込まないでください!」

ついに声が大きくなった。

紅玉が後ろで肩を跳ねさせる。

孫二娘が吹き出した。

「ははッ! そりゃ怒るさ!」

玉楼はまだ止まらない。

「もし囲まれたら、どうするつもりだったんですか」

「こちらは追いつくので精一杯だったんですよ」

反論出来ない……

実際、無茶だった。

戻る場所は見た。

玉楼と紅玉の位置も見た。

でも、それでも危なかった。

一歩ずれていたら……

一呼吸遅れていたら……

奚勝の周りが厚かったら……

たぶん、戻れなかった。

玉楼が深く息を吐いた。

しばらく黙ってから、小さく呟いた。

「……ご無事で、良かったです」

その声は、少し震えていた。

アタシはそこで、ようやく視線を上げる。

玉楼は怒っている。

でも、アタシが本当に危なかったのだと分かった。

今さら、身体の奥が冷える。

見えたから行った。

行けると思った。

実際、行けた。

でも、戻れなければ終わりだった。

紅玉が、孫二娘の後ろから少し顔を出す。

「扈三娘様……次は、言ってから行ってください」

「戦場で?」

「せめて、目で」

孫二娘が笑った。

「紅玉も言うようになったねェ」

玉楼がこちらを見る。

「聞こえましたか」

「……聞こえたわ」

「では、お願いします」

顧大嫂が少し離れた所から歩いてきて、腕を組む。

「西京は落ちた。でも、アンタまで落ちたら何の意味もないよ」

「落ちてないわよ」

「落ちかけてたんだよ」

言い返せなかった。

アタシは息を吐き、刀を鞘へ戻した。

西京は落ちた。

でも、戦はまだ続く。

見えるものが増えた。

入れる場所も増えた。

だからこそ、戻る場所を見失ってはいけない。

玉楼がまだこちらを見ている。

紅玉も見ている。

孫二娘は笑っている。

顧大嫂は呆れている。

それでも、皆そこにいる。

アタシは小さく頷いた。

「分かったわ。次は、もう少し考える」

孫二娘が即座に言った。

「もう少し、かい」

顧大嫂も頷く。

「全部考えろとは言わないよ。無理だからねぇ」

「無理って言うな」

紅玉が小さく笑った。

玉楼も、ほんの少しだけ息を緩めた。

それで、ようやくアタシも少し笑えた。

西京の城内では、まだ煙が上がっている。

勝った匂いと、血の匂いと、燃える木の匂いが混ざっていた。

その中で、アタシはもう一度前を見る。

生き残った……

戻って来られた……

なら、次も進める――

西京は落ちました。

六花の陣も破れ、王慶軍の流れも切れました。

ですが――

私の中では、勝ったという安堵よりも、別のものの方が強く残っております。

扈三娘様が、敵陣の奥へ入られたことです。

もちろん、結果だけを見れば正しかったのでしょう。

奚勝を討ったことで、敵の流れは止まりました。

あのまま放っておけば、こちらの押し込みも鈍り、城門前でさらに多くの兵が倒れていたかもしれません。

扈三娘様は、それを見ておられたのだと思います。

兵の動き。

旗の揺れ。

馬の向き。

隊列が繋がる場所と、切れる場所。

そして、その奥で動かずに全体を支えていた者。

それを、理屈ではなく、戦場の中で掴んでおられたのでしょう。

「すごく丁寧に褒めてるねェ」

孫二娘殿が、横から口を挟まれました。

私は少しだけ息を吐きます。

「褒めております。そこは間違いございません」

「でも、怒ってるんだねェ」

「怒っております」

「即答だよォ」

孫二娘殿が笑われます。

顧大嫂殿は腕を組んだまま、深く頷かれました。

「そりゃ怒るさ。勝ったからいい、じゃない。戻って来たからいい、でもない。次も戻れるとは限らないんだからね」

まったく、その通りでございます。

扈三娘様は、以前より多くのものが見えるようになっておられます。

敵の刃だけではありません。

伏せている兵。

逃げ道。

崩れる場所。

隊列の継ぎ目。

そして、戦場の流れそのもの。

見えるものが増えれば、入れる場所も増えます。

ですが、入れる場所が増えるということは、同時に、帰れなくなる場所も増えるということです。

紅玉が、小さく口を開きました。

「私は、まだ全部は見えません」

声は控えめでした。

けれど、以前よりもはっきりしておりました。

「でも、扈三娘様が戻れるかどうかは、見たいです」

孫二娘殿が、目を細められます。

「紅玉、今日も真っ直ぐ刺すねェ」

紅玉は少し困った顔をしました。

「刺しているつもりは……」

「刺してるよォ。三娘より痛いかもしれないねェ」

顧大嫂殿が笑われました。

「いいんだよ。前を見る奴がいるなら、後ろを見る奴も要る。三娘が前へ行くなら、誰かが戻る場所を見てやらないとね」

はい。

その役目は、必要です。

扈三娘様は強い方です。

ですが、強いから危ういのです。

怖れずに前へ出られる。

見えた場所へ迷わず入られる。

それは、確かにあの方の強さです。

けれど、その強さは時に、ご自身の命を置き去りにしてしまう。

「見えたから行く」

それだけでは、戦場では足りません。

見えたからこそ、戻る道を残さねばなりません。

見えたからこそ、隣を見る必要がございます。

孫二娘殿が、にやりと笑いました。

「次にまた見えたって言って飛び込んだら?」

顧大嫂殿が即答されました。

「縛る」

「早いねェ」

「必要ならね」

紅玉が真面目な顔で頷きました。

「縄を用意します」

「紅玉まで乗るのかい。今日の三娘、逃げ場がないねェ」

孫二娘殿が楽しそうに肩を揺らします。

私は、少しだけ笑ってしまいました。

扈三娘様がこの場におられたなら、きっと怒られたでしょう。

無理って言うな。

縛るな。

アタシは分かってる。

そう言って、少し頬を膨らませる姿まで見えるようです。

ですが、分かっておられるからこそ、私は言わねばなりません。

扈三娘様。

あなたは、もっと先へ行ける方です。

けれど、先へ行くことだけが、生き残ることではございません。

戻って来ること。

隣にいる者の声を聞くこと。

後ろに残した者の目を信じること。

それもまた、戦場で生き残るために必要な力でございます。

西京は落ちました。

けれど、戦はまだ終わっておりません。

見えるものが増えた今だからこそ、危うさも増えております。

ですから私は、隣で見ます。

止めるべき時は止めます。

支えるべき時は支えます。

紅玉も、きっと後ろを見てくれるでしょう。

孫二娘殿は茶化しながら、折れそうな空気を逃がしてくださるでしょう。

顧大嫂殿は、崩れそうな場を締めてくださるでしょう。

扈三娘様が、戦場の中で散らぬように。

前へ進んでも、必ず戻れるように。

見えるものが増えたからこそ、戻る場所を見失ってはいけないのです。

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