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見破れても、破れるとは限らない

先鋒は、兀顔延寿。

しかも陣法の達人らしい。

「……陣法?」

孫二娘がアタシの顔を覗き込む。

「今、思考止まったねェ」

「だって分かんないもの!」

顧大嫂まで笑った。

「威張ることじゃないだろ」

敵は次々と陣を変え、そのたび朱武が名前を言い当てていく。

「太乙三才陣です」

「もう分からない!」

「河洛四象陣」

「増えた!」

「三娘、数字しか聞いてないねェ」

いいのよ……陣形は朱武に任せる。

アタシは玉楼と、自分の場所を守ればいい。

ところが兀顔延寿は、こっちの九宮八卦陣まで見破った。

そして、自信満々で中へ入ってきた。

顧大嫂が眉を上げる。

「分かってるなら、マズいんじゃないのかい?」

朱武は笑った。

「見破ることと、破ることは別です」

……その言い方、嫌な予感しかしない。

「先鋒は――兀顔延寿」

聞いたことのない名前だった。

だから安心出来るかと言えば、もちろんそんなことはない。

斥候の顔を見れば、名前を知らない方がむしろ怖いくらいだった。

「それで、その兀顔延寿って何者なの?」

アタシが聞くと、呉用より先に朱武が答えた。

「兀顔統軍の子です。父より陣法を学び、その術に通じているとか」

嫌な単語が聞こえた。

「……陣法?」

孫二娘が横から顔を覗き込んでくる。

「三娘、今すごく嫌そうな顔したねェ」

「だって分かんないもの!」

「潔いな」

顧大嫂まで笑っている。

アタシは剣とか槍とか、騎兵がどこから来るとか、列のどこが薄いとか、そういうのなら見る。

でも、兵を何千人も並べて形を作り、それぞれに難しそうな名前を付けられたらお手上げだ。

朱武が何か説明しようと口を開いたので、先に止める。

「待って……聞いたら分かる?」

「それは三娘殿次第ですが」

「じゃあ必要になったら聞く!」

孫二娘が声を上げて笑った。

「得意不得意の自己認識は大事だよォ」

「心理学でフォローされると余計へこむ!」

李俊が隣で平然と言った。

「分からねえなら、分かる奴に任せりゃいい」

「アンタは簡単に言うわね」

「舟でも同じだ。全部を一人で見ようとする奴から沈む」

また急に正しいことを言う。

アタシが黙ると、孫二娘の目が細くなった。

「アタイが言った時より素直だねェ?」

「黙ってて!」

その日のうちに宋江は軍を進め、幽州近くの方山へ陣を敷いた。

こちらの兵も多い。

けれど、向こうから近づいてくる遼軍の列は、それまで見てきたものとは少し違っていた。

先鋒だけでも二万を超え、そこへ太真駙馬や李金吾の残兵が加わる。

見渡しても端が遠い。

紅玉が馬上で息を飲んだ。

「多いですね……」

「数えても終わらないから、数えなくていいわよ」

「そういう問題でしょうか?」

「多分違う」

玉楼がそっと笑った。

やがて両軍が向かい合うと、こちらでも旗が動き始めた。

宋江の本隊を中心に兵が広がり、各隊が定められた場所へ入っていく。

朱武や呉用が指示を飛ばし、騎兵も歩兵も次々に位置を変えた。

紅玉がしばらく眺めたあと、アタシに聞く。

「三娘様、これは何という陣なのでしょう?」

「知らない」

即答した。

紅玉がこっちを見る。

「……ご存じないのですか?」

「アタシに陣形を聞かないで。朱武!」

少し離れた場所から返事が来る。

「九宮八卦陣です!」

「だって!」

「三娘様……」

何よ、その顔……

孫二娘が楽しそうに肩を揺らした。

「紅玉、覚えておきなよォ。三娘は分からないものを堂々と人に聞ける」

「それ褒めてる?」

「半分くらい」

「残り半分は!?」

答えてもらう前に、遼軍が動いた。

兀顔延寿の軍から一騎が進み出た。

ぱっと見では若く、遠目にも姿勢がよい。

派手に威圧するというより、こちらの陣を確かめるように眺めている。

しばらくして遼兵の声が飛んできた。

どうやら、こちらの陣を九宮八卦陣だと言い当てたらしい。

「……分かるの?」

「分かる者には分かります」

朱武が普通に答えた。

「何で!?」

「陣ですので」

「説明になってない!」

孫二娘が笑う横で、今度は兀顔延寿の軍が形を変え始めた。

中央が三つに分かれたように見え、左右の兵がそれに合わせて動く。

アタシには、人が移動したことしか分からない。

朱武は一目見ただけで言った。

「太乙三才陣です」

「もう名前付いた!」

さらに遼兵が動く。

さっきまで前にいた隊が左右へ広がり、別の旗が中央へ寄る。

「河洛四象陣」

朱武の答えが早い。

「待って、さっきのと何が違うの!?」

「三才から四象になりました」

「数字が増えたことしか分からない!」

顧大嫂が横で吹き出した。

「分かってるじゃないか」

「そこだけね!」

兀顔延寿もこちらの反応が気に入らないらしい。

また旗が振られ、兵が動く。

円を描くように見えたと思えば、その中でさらに隊が入れ替わっていく。

朱武は少し眺めただけだった。

「循環八卦陣」

「また増えた!」

「三娘、数字しか聞いてないねェ」

「だって他が分かんないのよ!」

今度は紅玉まで笑いそうになっている。

「笑っていいのよ。アタシも諦めてるから」

「諦めるのですか?」

「知らないこと全部その場で覚えようとしたら、戦う前に頭が死ぬわよ」

玉楼が穏やかに頷いた。

「三娘様には、三娘様のお役目がございます」

そう、陣の名前を当てるのは朱武の仕事で、アタシの仕事は、決められた場所で敵を通さないことだ。

さらに兀顔延寿が陣を変えた。

今度はさすがのアタシでも、さっきまでとは雰囲気が違うのが分かった。

兵のまとまりが幾つにも分かれ、それぞれが独立して動けるように見える。

朱武が声を張る。

「八陣図です!」

「まだあるの!?」

孫二娘が楽しそうに言った。

「相手も意地になってきたんじゃないかねェ」

「心理学的に?」

「自分の能力に自信があるほど、それを否定された時に取り返そうとすることはあるよォ」

顧大嫂が鼻で笑う。

「要するに負けず嫌いだろ」

「専門家の説明を一行で潰さないで!」

でも、兀顔延寿が苛立っているように見えるのはアタシにも分かった。

何を出しても朱武が答える。

向こうからすれば、こっちにも陣法を知り尽くした相手がいると分かったはずだ。

やがて遼軍から挑発するような声が上がった。

こちらの九宮八卦陣など、見破った以上は恐れるに足りない。

そんな意味らしい。

「見破ったから破れるの?」

アタシが聞くと、朱武は少し笑った。

「それは別の話です」

「そこは分かりやすい!」

兀顔延寿は本当に来た。

千ほどの騎兵を率い、真正面からこちらの陣へ入り込んでくる。

「入るの!?」

孫二娘が肩をすくめる。

「知ってるから出来ると思ったんじゃないかねェ」

「嫌な予感する言い方やめて!」

敵の先頭が入った瞬間、こちらの陣が動いた。

弓兵が左右から射かけ、兀顔延寿へ続こうとした後続を分断する。

入り込んだ騎兵だけが奥へ押し込まれ、その周囲をこちらの兵が閉じていった。

どこまでが最初から決められていた動きなのか、アタシには分からない。

分からないけれど、ひとつだけはっきりしている。

兀顔延寿が、戻れなくなった。

「紅玉、周り見て!」

「はい!」

アタシと玉楼は割り当てられていた外側の一角を守る。

抜け出そうとする遼兵がこちらへ寄ればアタシが正面を受け、横へ散ろうとする相手を玉楼の槍が止めた。

「右、来ます!」

紅玉の声が飛ぶ。

「見えてる!」

アタシが馬を寄せて敵の槍を双刀で払い、その横を玉楼が詰める。

今度は玉楼の側へ二騎が寄った。

「玉楼!」

「承知しております!」

呼び合うだけで位置が分かる。

陣形の理屈は分からなくても、玉楼がどこへ動くかは分かる。

アタシが一歩出れば玉楼が残り、玉楼が前を塞げばアタシが横を取る。

相手が逃げようとしても二人の間から抜けられず、後ろでは孫二娘と顧大嫂が歩兵をまとめて穴を埋めていた。

「三娘、今日は陣の名前分からなくても動けてるねェ!」

「戦いながら褒めるな!」

「褒められてるうちが華だよ!」

「アンタ最近アタシに絡みすぎ!」

「嫌かい?」

答える暇がない。

というか、そんな顔で聞くな。

やがて陣の中央が妙に霞み始めた。

また妖法かと思ったけれど、今度はこちら側だった。

公孫勝が術を使っているらしい。

中へ入った兀顔延寿達の周りに雲が広がり、外からでは何が起きているのか見えなくなる。

紅玉が目を凝らした。

「……見えません」

「うん、アタシも」

「どうしますか?」

「待つ」

今までなら、何が起きているか分からないだけで馬を出したくなったかもしれない。

今は行かない。

中には呼延灼達がいる。

見えないからといって、アタシが突っ込めばいいわけじゃない。

しばらくして、霧の向こうから激しい金属音が聞こえた。

一度。

二度。

それから人の叫び声。

「どうなってるの?」

「アタイに聞かれてもねェ」

孫二娘が隣へ寄ってきた。

「心理学で分からない?」

「霧の中の武将の位置まで分かったら、それ心理学じゃないよォ?」

「たまには万能でいてよ!」

「無茶言うねェ」

やがて風が流れ、霞が薄くなった。

最初に見えたのは呼延灼だった。

双鞭を持ったままこちらへ戻ってくる。

その隣に、もう一騎いる。

いや、乗っているというより連れられていたのは、さっきまで大軍を動かしていた若い将。

兀顔延寿だった。

「……捕まえたの!?」

呼延灼は当然のような顔をしている。

聞けば、陣内で兀顔延寿の方天戟の柄を双鞭で折り、そのまま生け捕りにしたらしい。

「陣形いっぱい知ってたのに!?」

孫二娘が笑う。

「知識があることと、捕まらないことは別だからねェ」

「今日そればっかり!」

兀顔延寿を助けようと李金吾の軍が前へ出たものの、今度は秦明が立ちはだかった。

戦いは長引かず、李金吾が討たれると遼軍の勢いは一気に崩れ、太真駙馬も残兵をまとめて退いていった。

勝った。

しかも今回は、敵の陣を全部理解したわけでもないアタシ達まで、決められた場所でちゃんと役に立てた。

それが少し嬉しかった。

紅玉が兀顔延寿の連れて行かれる姿を見ながら、ぽつりと言った。

「強い人だったんですよね?」

「多分ね。少なくともアタシより陣形は百倍詳しい」

「百倍で足りますかねェ?」

孫二娘が口を挟む。

「ゼロの百倍はゼロよ!」

言ってから、自分で傷ついた。

顧大嫂が腹を抱えて笑っている。

「三娘、自分で言うなよ!」

「うるさい!」

李俊まで口元を緩めているのが見えた。

「アンタまで笑うな!」

「笑ってねえ」

「笑ってる!」

「無事ならいいだろ?」

「今それ使えば何でも許されると思ってる!?」

返事はなかった。

また少し笑っていた。

夕方には、捕らえた兀顔延寿のことも、李金吾が討たれたことも、遼側へ伝わったらしい。

当然、これで終わるとは思っていなかった。

でも、その夜に駆け込んできた斥候の顔を見た時、今日の勝ちを喜ぶ時間くらいは欲しかったと思った。

「遼軍が動きました!」

宋江が立ち上がる。

「誰が率いている?」

斥候は息を整え、それでも声を震わせていた。

「兀顔統軍、自ら出陣しております」

アタシはさっき捕まった若い将を思い出した。

「……父親?」

「はい」

嫌な予感しかしない。

「兵は?」

斥候が答えた。

「二十万余り」

……桁、増えてない?

本日は、兀顔延寿殿を生け捕りにいたしました。

「陣形いっぱい知ってたのにねェ」

「三娘なんか一つも分かってなかったぞ」

それでも三娘様は、わたくしと共に任された場所を守ってくださいました。

「少なくともアタシより百倍詳しいって言ってたねェ」

「ゼロの百倍はゼロだけどな」

……三娘様には聞かせない方がよろしいでしょう。

李俊様まで笑っておられましたので、あとで何か起きそうでございます。

もっとも、それどころではなくなりました。

兀顔延寿殿を捕らえた夜、父君である兀顔統軍が自ら動いたとの報せが届きました。

「兵は?」

「二十万余り」

孫二娘が黙りました。

顧大嫂も黙りました。

……これは、笑って済ませてよい数ではございません。

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