表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
60/101

八陣の継ぎ目

西京が見えた時、アタシは少しだけ嫌な予感がした。

城が大きいからじゃない。

敵の数が多いからでもない。

その前に並んでいた陣形が、どうにも気持ち悪かったのだ。

六花の陣。

名前だけ聞くと、綺麗そうでしょ?

花よ、花。

六つの花びらよ。

でも、戦場で見る花なんて、だいたいロクなものじゃない。

「花っていうなら、もう少し可愛げがあってもいいじゃない」

アタシが言うと、孫二娘が横で笑った。

「戦場に咲く花に可愛げを求めるんじゃないよォ」

「名前が悪いのよ」

「名前のせいかい」

「だって六花の陣よ。もっとこう、ふわっとしてそうじゃない」

「ふわっとしてる陣に負けたら、それはそれで嫌だねェ」

顧大嫂が腕を組んだまま、呆れたように言う。

「アンタら、軍議の話を何だと思ってるんだい」

「花の話」

「陣形の話だよ」

紅玉が少し真面目な顔で、こちらを見た。

「でも、扈三娘様。六花の陣というのは、本当に花の形なのですか?」

「遠目には、そう見えたわ」

「綺麗だったのですか?」

「嫌な綺麗さだったわね」

紅玉が首を傾げる。

「嫌な綺麗さ……」

「そう。どこを斬ればいいのか分からない綺麗さ」

孫二娘が酒瓶を持ったまま、にやりとする。

「三娘は、正面から来る相手の方が好きだもんねェ」

「好きじゃないわよ」

「でも、分かりやすいだろォ」

「それはそう」

正面から来るなら、まだいい。

強いなら強いで、受ければいい。

重いなら、外せばいい。

速いなら、半拍先に入ればいい。

でも、六花の陣は違った。

隙に見える所へ入ろうとすると、奥から別の列が来る。

前へ出たと思ったら、横が閉じる。

追えると思ったら、こっちの足が止まる。

ああいうの、本当に嫌い。

顧大嫂が鼻を鳴らした。

「要するに、アンタが勝手に飛び込むと危ない陣ってことだね」

「何でそうなるのよ」

「そうなるだろ」

「なりますねェ」

「なります……」

「紅玉まで」

紅玉は慌てて頭を下げた。

「す、すみません」

「謝るくらいなら言わないの」

「でも、押されているように見えたら、扈三娘様は前へ出そうです」

「また刺したねェ」

「刺していません」

「刺してないつもりで刺すから痛いんだよォ」

孫二娘が笑う。

顧大嫂も少しだけ笑っている。

腹立たしい。

でも、言い返しきれない。

実際、あの時も一瞬、前へ出かけた。

押されているように見えた。

兵が下がった。

旗が揺れた。

王慶軍が食い込んだ。

だから、身体が動きかけた。

でも、玉楼に止められた。

あれは正しかったと思う。

「朱武殿の策は、難しかったです」

紅玉がぽつりと言った。

「循環八卦で受けて、八陣へ変化させる……というところまでは聞きましたが」

「聞いたのは偉いわね」

「扈三娘様は聞いていなかったのですか?」

「聞いてたわよ」

「分かりましたか?」

「半分くらい」

「半分も?」

「嘘。三割くらい」

「三娘、正直だねェ」

孫二娘が楽しそうに笑う。

「アタシに軍師の話を全部理解しろって方が無理なのよ」

「開き直ったよ、この人」

顧大嫂がため息をつく。

「まあ、朱武の役目と三娘の役目は違うからねぇ」

「そうそう」

孫二娘が頷く。

「朱武が嵌めて、三娘が裂く」

「物騒な分担にしないで」

「じゃあ、朱武が考えて、三娘が突っ込む」

「もっと悪くなったわよ」

「だいたい合ってるじゃないか」

顧大嫂が言う。

「合ってない」

紅玉が少しだけ笑った。

最近、紅玉も笑うようになってきた。

前より、戦場の中で息ができるようになっている。

それは良い事だと思う。

少なくとも、怯えたまま固まるよりはいい。

「でも、扈三娘様が入った時、敵の動きが止まったのは分かりました」

紅玉が言った。

「それは見えた?」

「はい」

「なら、それでいいわ」

六花の陣も、循環八卦も、八陣も、名前を並べられると頭が痛くなる。

でも、流れが変わる瞬間だけは分かった。

押されていた場所が、急に噛み合う。

逃げ道に見えた場所が、閉じる。

兵と兵の間に、ほんの一瞬だけ継ぎ目が開く。

そこへ入る――

それだけは、アタシにも分かった。

「つまり、三娘は花の名前は覚えなくてもいいんだねェ」

孫二娘が言う。

「覚えるわよ。六花の陣でしょ」

「じゃあ次に出たら分かるのかい?」

「……花びらっぽいやつ」

顧大嫂が額を押さえた。

「そこからかい」

「分かればいいのよ」

「本当に大丈夫かねぇ」

「生き残れば大丈夫」

孫二娘が、少しだけ目を細めた。

「それは、まあ、そうだねェ」

顧大嫂も頷く。

「生き残るために、分かる所だけ分かればいい。全部分かった気になって突っ込むよりは、その方がまだましだよ」

その言い方は、少し重かった。

西京攻略は、まだ始まったばかりだ。

六花の陣の一角は止めた。

でも、城壁はまだ遠い。

王慶軍も、このまま黙っているとは思えない。

飛刀も、流星鎚も、まだ先にあるかもしれない。

見えるものは増えた。

でも、見えたからといって、全部自分で斬ればいい訳じゃない。

朱武が考え、林冲が待つ。

玉楼が止め、紅玉が塞ぐ。

孫二娘と顧大嫂が、後ろで場を繋ぎ止める。

アタシは、入るべき場所へ入る。

それでいい。

多分、それが一番生き残れる。

「で、三娘」

孫二娘がにやりと笑う。

「六花の陣、好きになれそうかい?」

アタシはすぐさま答えた。

「嫌い」

「即答だねェ」

「斬る場所が分かりにくい花なんて嫌よ」

「花への文句じゃないだろ、それ」 顧大嫂が呆れる。

紅玉が小さく笑った。

玉楼も、たぶん少しだけ笑っていた。

まあ、いいわ。

花だろうが、八卦だろうが、八陣だろうが、こっちは生き残らなきゃいけない。

綺麗な名前に騙されて、花びらの中で散るつもりはない。

朝靄が、平地を薄く覆っていた。

火は小さくなり、見張りの兵が静かに交代していく。

夜明け直後の野営地は、まだ半分眠っている。

馬の吐く息が白い。

遠くでは、朝食の支度を始める音も聞こえていた。

アタシは浅い川で顔を洗った。

水が冷たい。

でも、頭は妙に冴えている。

昨夜から、ほとんど眠れていない。

それでも、身体は重くない。

むしろ、妙に軽かった。

玉楼が後ろへ来る。

「……お休みになられていませんね」

アタシは顔の水を払った。

「少しは寝たわよ」

玉楼は黙っている。

でも、全部分かっている顔だった。

紅玉が薪を抱えて戻ってくる。

「もう少ししたら、朝餉みたいです」

周囲を見ると、兵達もゆっくり動き始めていた。

火を起こす者。

馬を見に行く者。

鎧を締め直す者。

まだ出立前なのに、空気は昨日までより張っている。

西へ進むほど、敵の気配が濃くなっている。

それは、誰の身体にも分かっていた。

アタシは川から立ち上がる。

その時、風が吹き、遠くで草が揺れる。

身体が、勝手にそちらへ視線を向ける。

――まだ残ってる。

小さく息を吐いた。

消えていない。

むしろ、少しずつ馴染み始めている。

それが良い事なのかどうかは、まだ分からなかった。

梁山泊軍が、再び西へ動き始める。

野営地は、あっという間に片付けられていく。

残るのは、踏み荒らされた草と、消えかけた灰だけだ。

アタシ達も馬へ戻る。

林冲の隊列が前へ出る。

一路軍は宛州攻略へ向かい、二路軍は西京を目指して進軍を続けていた。

アタシ達は、その二路軍の中にいる。

誰も無駄口を叩かない。

昨日の伏兵で、空気が変わっていた。

王慶軍は、もう本格的に抵抗しに来ている。

隊列が進む。

風が吹き、乾いた土が流れる。

しばらく進んだその時、前方の騎馬が速度を上げた。

斥候だ。

林冲の前で止まり、短く何かを告げる。

周囲の空気が変わった。

アタシも視線を上げる。

林冲が前を見たまま、低く言う。

「進むぞ」

斥候が頷き、再び前へ出た。

隊の空気が、さらに重くなる。

アタシは前を見る。

まだ距離はある。

でも――遠くに、影が見え始めていた。

霞の向こうに、西京の巨大な城壁が、うっすらと浮かび上がっている。

紅玉が息を呑んだ。

「……あれが、西京」

「ええ」

玉楼が静かに答える。

「王慶軍にとっても、容易に捨てられぬ場所でしょう」

その言葉通りだった。

西京の前には、王慶軍がいた。

陣を敷いている。

遠目でも、数が多いのは分かる。

でも、それ以上に目につくものがあった。

形がいつもと違う。

見慣れた形じゃなかった。

六つの花びらの様にも見える。

けれど、兵の間が広い場所もあれば、詰まっている場所もある。

前へ出ている列もあれば、妙に下がっている列もある。

隙がある様に見える場所がある。

でも、その奥に別の列が見える。

嫌な感じだった。

梁山泊軍の動きも止まる。

前へ出ていた兵達がざわつき始めた。

紅玉が小さく呟く。

「……何ですか、あれ」

玉楼は黙ったまま前を見ている。

林冲も蛇矛を持ったまま、じっと西京前の陣を見る。

いつものように、すぐ命じない。

それだけで、相手が厄介なのだと分かる。

風が吹き、西京の前に並ぶ王慶軍の旗が揺れる。

その変な陣形だけが、じっとこちらを待っていた。

林冲が蛇矛を下ろした。

視線は、まだ西京前の陣形へ向いたままだ。

やがて後方から騎馬が近付いてくる。

「林冲殿!」

伝令だった。 馬を止め、そのまま告げる。

「朱武殿がお呼びです」

「各隊の頭領方を、本陣へ」

周囲の空気が少し変わる。

林冲が頷いた。

「分かった」

伝令はすぐ別の隊へ向かう。

玉楼が前を見る。

「……軍議ですね」

アタシも、もう一度西京前を見る。

王慶軍の変な陣形は、まだ動かない。

なのに、見ているだけで落ち着かない。

林冲が馬を返した。

「行くぞ」

アタシ達も後ろへ続く。

西京攻略は、もう始まっていた。

本陣には、既に各隊の頭領達が集まり始めていた。

地図が広げられている。

その周囲で、皆、西京前の陣形を睨んでいた。

朱武が落ち着いた顔で、その中心にいる。

でも、目だけは鋭い。

アタシ達が入ると、朱武がゆっくり口を開いた。

「相手は、六花の陣を用いています」

地図の上へ、羽扇を置く。

「下手に突っ込めば、こちらもタダでは済まないでしょう」

何人かが頷く。

アタシは正直、半分くらいしか分かっていない。

朱武は続ける。

「正面から合わせれば、呑まれます」

「故に――」

羽扇が動く。

「まずは循環八卦で受けます」

沈黙が落ちた。

林冲も黙ったまま聞いている。

盧俊義が腕を組む。

「敵を誘うのか」

朱武が頷いた。

「はい」

「相手に、こちらを崩せると思わせます」

さらに地図の駒が動く。

「食い付いた所で、八陣へ変化させる」

周囲の空気が少し変わった。

頭領達の視線が地図へ集まる。

アタシは地図を見る。

……さっぱり分からない。

駒が動く。

線が引かれる。

旗の位置が変わる。

でも、それがどう戦場で動くのか、頭では追えない。

隣で玉楼は静かに地図を見ていた。

紅玉は、もっと分かっていない顔をしている。

孫二娘が隣で肩をすくめた。

「ま、要するに嵌めるんだろ?」

朱武が少しだけ口元を緩める。

「簡単に言えば、そういうことです」

「最初からそう言いなよォ」

「それだけでは、兵は動きませんので」

「面倒だねェ、軍師ってのは」

顧大嫂も腕を組んでいる。

「で、アタイらはどこを見ればいいんだい?」

朱武の目が顧大嫂へ向く。

「負傷者の流れを止めないでください」

「崩れたように見せる場面があります」

「本当に崩れた者と、わざと流した者を混ぜぬように」

顧大嫂が鼻を鳴らした。

「なるほどねぇ」

「見た目より面倒じゃないか」

孫二娘が笑う。

「つまり、三娘が飛び出しそうになる所を止めりゃいいんだねェ」

「何でそうなるのよ」

アタシが睨むと、孫二娘は涼しい顔だった。

「だって、押されてるように見えたら行くだろォ」

言い返せないのが腹立たしい。

朱武が、今度は林冲を見る。

「林冲殿の隊は、変化の合図まで動かず」

「敵の突き出した一角が止まった瞬間、そこを裂いていただきます」

林冲は短く頷いた。

「分かった」

それだけだった。

その瞬間、本陣の外で洞簫が鳴る。

低い音が、西京前の空へ流れていった。

軍議が終わり、頭領達が本陣から次々と出ていく。

外へ出ると、西京前の空気が肌へ張り付いた。

王慶軍の六花の陣は、相変わらずだ。

風の中で、旗だけが揺れている。

林冲が蛇矛を持ったまま歩く。

「ゆくぞ」

各隊が一気に動き始めた。

伝令が走る。

旗が振られ、兵が位置を変えていく。

梁山泊軍の形が、少しずつ広がり始める。

アタシは、玉楼に促されながら周囲を見る。

正直、何がどう変わっているのかは分からない。

でも――

流れだけは分かる。

軍全体が、何か一つの形へ噛み合っていく。

水が渦を作るように……

人と馬と旗が、ばらばらに動いているようで、どこかで繋がっている。

玉楼が前を見る。

「循環八卦です」

アタシは苦笑した。

「だから、よく分かんないのよ」

紅玉も小さく頷く。

「私もです……」

孫二娘だけが肩をすくめた。

「分かんなくても、死ななきゃ勝ちさ」

顧大嫂が隣で言う。

「それと、引く時に勝手に転ぶんじゃないよ。押されるふりと本当に崩れるのは違うからねぇ」

「それが一番難しいわよ」

そう言った時――

西京前の王慶軍が動いた。

六つの花びらの様な陣形が、ゆっくりと、こちらへ押し出してくる。

西京前の空気が重くなる。

王慶軍の六花の陣が、じわじわと近づいてくる。

こちらの旗が振られ、各隊が左右へ広がっていく。

兵の列が流れるように位置を変え、陣形が変わっていく。

アタシは馬上で周囲を見る。

やっぱり、何をしているのか細かくは分からない。

でも、流れだけは感じる。

その時、王慶軍の一角が突然、こちらへ突き出してきた。

先頭の兵が一気に距離を詰め、梁山泊軍の前列へ食い込む。

悲鳴と金属の擦り合う音が響く。

隊列が押される。

梁山泊軍が後ろへ下がる。

さらに別の一角が横から入り込む。

崩れる――

そう見えた。

紅玉が声を上げる。

「押されてます!」

実際、押されていた。

隊列の間へ、王慶軍が食い込み、 兵が倒れ、旗が揺れる。

アタシも思わず前へ出かける。

でも、玉楼が手綱を押さえた。

「まだです」

林冲も動かない。

蛇矛を持ったまま、前だけを見ている。

王慶軍は、さらに押し込んでくる。

循環八卦――

正直、何がどうなっているのか分からない。

ただ――

梁山泊軍が、わざと崩れているようにも見え始めていた。

王慶軍が押し込んでくる。

梁山泊軍の前列が裂け、兵が左右へ流されていく。

怒号、悲鳴、砂煙。

西京前の平地が、一気に荒れ始める。

アタシは手綱を握る。

本当に崩れているようにしか見えない。

でも――

林冲は動かない。

蛇矛を持ったまま、ただ前を見ている。

玉楼も、まだ前へ出ない。

「……我慢です」

その時だった。

押し込んでいた王慶軍の一角が、ふっと止まった。

止まった、というより――

止められた。

さっきまで左右へ流されていた梁山泊の兵が、そこで急に向きを変える。

逃げていたのではない。

下がっていたのでもない。

流されているように見せて、そこへ誘っていた。

旗が振られる。

銅鑼が鳴る。

別方向へ散っていた兵達が、同時に動き出した。

王慶軍の突き出した部分を、横から挟み込むように。

紅玉が息を呑む。

「……えっ」

アタシも、理屈は分からない。

循環八卦だの、八陣だの、そんなものを頭で追える訳がない。

でも――

流れが変わったのは分かった。

さっきまで押されていた場所が、今は相手を飲み込む場所になっている。

逃げ道に見えた所が、閉じる道になっている。

そこへ、敵が入り込んだ。

「……嵌めたのね」

玉楼が小さく頷く。

「はい」

林冲の蛇矛が動いた。

「今だ」

短い声だった。

それだけで、身体が動く。

アタシは馬腹を蹴った。

玉楼が隣へ来る。

紅玉も後ろへ続く。

「紅玉、前に出過ぎない!」

「はい!」

王慶軍の突き出した一角は、もう逃げ場を失っていた。

前へ出れば林冲の隊。

左右は梁山泊の兵。

後ろへ下がろうとしても、味方の列が詰まっている。

そこに、隙間があった。

兵と兵の間に、ほんの少しだけ。

旗が揺れ、馬が乱れ、槍の先が一瞬だけ下がる。

――そこ。

アタシは、そこへ入った。

昨日までなら、敵の槍を見るだけだった。

今は違う。

槍ではなく、隊列の継ぎ目が見えた。

刀を振り、敵兵を崩す。

玉楼が横から入り、逃げようとした兵を止める。

紅玉は追わず、後ろの隙間を塞ぐ。

それでいい。

半拍先に見えたのは、敵の刃だけではなかった。

軍全体の流れの中で、どこが閉じ、どこが開くのか。

ほんの一瞬だけ、それが見えた。

王慶軍の兵が慌てて槍を突き出す。

遅い。

その槍が来る場所も見える。

でも、今はそこだけを見ない。

後ろの兵がどこへ逃げるか。

横の列がどこで詰まるか。

林冲の隊がどこから入るか。

少しだけ、繋がって見える。

「左、塞いで!」

紅玉が動く。

まだ速くはない。

けれど、位置は合っている。

敵兵がそこへ逃げようとして、紅玉の朴刀に足を止めた。

そこへ梁山泊の兵が押し寄せる。

玉楼が隣で槍を払う。

「扈三娘様、前へ」

「分かってる!」

アタシはさらに踏み込んだ。

崩れた敵の一角へ、林冲の隊が雪崩れ込む。

蛇矛が動くたび、王慶軍の列が裂ける。

後ろから銅鑼が鳴る。

旗がさらに動く。

西京前の平地で、梁山泊軍の形が変わっていく。

さっきまで受けていた軍が、今は挟み、押し、割っている。

朱武の言っていた八陣。

多分、それなのだろう。

でも、名前はどうでもよかった。

アタシには、ただ、流れが変わったことだけが分かった。

「押し込む!」

林冲の声が響く。

王慶軍の突き出した一角が、ついに崩れた。

押し込んできたはずの兵達が、今度は逃げ場を失って押し潰されていく。

悲鳴、怒号、砂煙。

アタシが刀を振り、玉楼が横を支える。

紅玉が後ろで、空いた隙を塞ぐ。

それだけで、前へ進めた。

やがて、王慶軍の旗の一つが倒れた。

その瞬間、敵の陣形全体に揺れが走る。

西京の城壁は、まだ遠い。

けれど、王慶軍の六花の陣に、初めて大きな裂け目が入った。

アタシは馬上で息を吐く。

循環八卦だの、八陣だの――

やっぱり、アタシには分からない。

でも、分からないままでも見えるものはある。

押されていた場所が、噛み合う。

逃げ道に見えた場所が、閉じる。

隊列の継ぎ目が、一瞬だけ開く。

そして――

そこへ入る。

アタシは、刀を握り直した。

西京攻略は、まだ始まったばかりだった。

西京前の戦は、まだ終わっておりません。

六花の陣、循環八卦、八陣。

朱武殿の説明を聞いていた時、扈三娘様は、たいへん真面目なお顔をされていました。

本当に、真面目なお顔でした。

ですが、理解されていたかどうかは、また別の話でございます。

「玉楼」

孫二娘殿が、酒瓶を揺らしながらこちらを見ました。

「今、すごく丁寧に三娘を刺したねェ」

「事実を申し上げただけです」

「それが刺さるんだよォ」

顧大嫂殿が腕を組んだまま頷きます。

「まあ、三娘は軍議で分かった顔をする時ほど、だいたい分かってないからねぇ」

「分かってるわよ!」

扈三娘様が、すぐに反論されました。

「では、循環八卦とは?」

私が尋ねると、扈三娘様は少しだけ黙られました。

「……ぐるぐるするやつ」

孫二娘殿が吹き出しました。

「雑だねェ!」

「間違ってはいないでしょ!」

「間違ってはいないけど、軍師が泣くよォ」

顧大嫂殿が、火へ薪を足しながら言いました。

「朱武が聞いたら、羽扇を落とすねぇ」

紅玉殿は、少し困った顔で扈三娘様を見ていました。

「扈三娘様、八陣は……」

「形が変わるやつ」

「……なるほど」

紅玉殿は真面目に頷きました。

孫二娘殿が、すぐに紅玉殿を見る。

「納得するんじゃないよォ」

「す、すみません」

「紅玉は素直だねぇ」

顧大嫂殿が笑います。

「だから、たまに三娘より危ない」

「何でアタシが基準なのよ」

「一番分かりやすいからだよ」

扈三娘様は、不服そうなお顔をされました。

ですが、私は存じております。

あの時、扈三娘様は確かに理解されていませんでした。

少なくとも、朱武殿が語った理屈の全てを、頭で追えていた訳ではございません。

六花の陣がどのように誘い、どこで受け、循環八卦がどの拍で流れを変え、八陣へ移るのか。

その全てを、言葉で説明することは難しかったでしょう。

ですが、戦場に入った瞬間、扈三娘様は別のものを見ておられました。

兵の流れ、旗の揺れ、押されているように見える場所。

逃げ道の様で、実は閉じていく場所。

敵の列と列の間に生まれる、ほんの一瞬の継ぎ目。

あの方は、そこを見ておられた。

「玉楼様」

紅玉殿が、静かに尋ねます。

「扈三娘様は、分かっていなかったのに、分かっていたのですか?」

たいへん紅玉殿らしい問いでした。

扈三娘様が少しだけ顔をしかめます。

「何か、すごく嫌な言い方ね」

孫二娘殿が笑いました。

「分かってないのに分かってる。三娘そのものじゃないか」

「それ褒めてる?」

「半分くらいは」

「残り半分は?」

「心配だねェ」

顧大嫂殿も頷きました。

「理屈で分からない分、身体が先に行くからねぇ。そこが強いし、危ない」

その通りでございます。

山南州からこちら、扈三娘様の踏み込みは明らかに変わっておりました。

石礫に対する稽古。

段五との戦い。 斥候を逃がさなかった動き。

伏兵地帯での反応。

少しずつ、半拍が縮んでいる。

今までは、敵の刃へ反応しておられました。

今は、刃が来る場所へ先に身体を置き、あるいは外しておられる。

そして今回、西京前では、それが一人の敵だけでなく、隊列の流れにまで及び始めていました。

これは、良い変化です。

ただし、危険な変化でもあります。

「また怖い事を考えてる顔だねェ」

孫二娘殿が私を見ます。

「顔に出ていましたか」

「出てるよォ。玉楼は黙ってる時の方が怖いんだよ」

顧大嫂殿が鼻を鳴らしました。

「三娘が前へ出過ぎる時は、アンタが止めるんだろ」

「はい」

「なら、しっかり見ておきな」

「承知しております」

扈三娘様は、横で少しだけ視線を逸らされました。

「そんなに前へ出てないわよ」

「出てたねェ」

孫二娘殿が即答しました。

「出てました」

紅玉殿も続きました。

「紅玉まで」

「す、すみません。でも、出ておられました」

「また真っ直ぐ刺したねェ」

「刺していません」

「刺してないつもりで刺すから痛いんだよォ」

扈三娘様は、少しだけむくれたようなお顔をされました。

ですが、怒ってはいませんでした。

おそらく、分かっておられるのです。

ご自身が、少しずつ速くなっていること。

見えるものが増えていること。

その分、戻る場所を失えば危ういこと。

顧大嫂殿が言いました。

「見えるようになったからって、全部自分で拾いに行く必要はないんだよ」

扈三娘様は黙っておられます。

「見えても任せる。見えても待つ。見えても戻る。そこまで出来て、初めて使えるんだ」

「……分かってるわよ」

「本当に?」

孫二娘殿が聞きます。

「本当」

「本当に本当かい?」

「しつこいわね」

「三娘は勢いで返事する時があるからねェ」

紅玉殿が、小さく手を上げました。

「私も、見ます」

扈三娘様が紅玉殿を見る。

「何を?」

「扈三娘様が、前へ行き過ぎていないかを」

少しだけ、空気が止まりました。

紅玉殿は怯えているようで、それでも目を逸らしませんでした。

扈三娘様は、しばらく紅玉殿を見ておられました。

それから、少しだけ笑われました。

「じゃあ、頼むわ」

紅玉殿の目が開きます。

「はい」

孫二娘殿がにやりと笑いました。

「紅玉も出世したねェ。三娘の見張り役だよォ」

「見張りではありません」

「じゃあ何だい?」

紅玉殿は少し考えました。

「……戻る場所を、見る役です」

顧大嫂殿が、そこで小さく笑いました。

「いいじゃないか」

私も、同じことを思いました。

扈三娘様は、前へ入る方です。

敵の隙へ。 戦場の継ぎ目へ。 誰も踏み込めない一瞬へ。

だからこそ、後ろを見る者が要ります。

横を塞ぐ者が要ります。

行き過ぎた時に止める者が要ります。

戻って来られる場所を、消さない者が要ります。

林冲殿は待ちます。

朱武殿は形を作ります。

顧大嫂殿は場を保ちます。

孫二娘殿は空気を緩めます。

紅玉殿は見て、覚えます。

そして私は、扈三娘様の隣におります。

「玉楼」

扈三娘様が、ふとこちらを見ました。

「はい」

「さっきから、また真面目な顔してる」

「いつも通りです」

「嘘。何か考えてる顔」

孫二娘殿が笑います。

「三娘が玉楼の顔を読んでるよォ」

顧大嫂殿が言いました。

「長く一緒にいると、そういうのは分かるもんだよ」

私は少しだけ息を吐きました。

「では、申し上げます」

扈三娘様が少し身構えます。

「何よ」

「六花の陣は、まだ破れておりません」

その場が静かになりました。

そうです。

今回、裂け目は作りました。

一角は止めました。

王慶軍の流れを、確かに乱しました。

ですが、西京はまだ落ちておりません。

戦は、まだ始まったばかりです。

扈三娘様は、少しだけ口元を引き締められました。

「分かってる」

その声は、軽くありませんでした。

孫二娘殿も、酒瓶を置きます。

「ま、花びら一枚ちぎったくらいかねェ」

顧大嫂殿が頷きます。

「根っこはまだ残ってるってことだ」

紅玉殿が小さく息を吸いました。

「では、まだ……」

「ええ」

私は頷きました。

「続きます」

扈三娘様は、火の向こうを見るように前を向いておられました。

「なら、次も入る場所を探すだけよ」

「前へ出過ぎないでください」

私が言うと、扈三娘様は少しだけ顔をしかめました。

「分かってるわよ」

「本当に?」

孫二娘殿がまた聞きます。

「本当!」

「紅玉、聞いたねェ」

「はい。聞きました」

「顧大嫂、縄は?」

「必要ならすぐ出すよ」

「だから縄はやめなさい!」

その声で、少しだけ笑いが戻りました。

戦は続きます。

西京は、もう目の前にございます。

ですが、王慶軍はまだ立ち塞がっております。

六花の陣そのものも、まだ形を失っておりません。

ですが、こちらにも形があります。

前へ入る方。

横を支える者。

後ろを締める者。

見て覚える者。

茶化して、場を壊れないようにする者。

そうして、ようやく一つの軍になります。

扈三娘様は、きっとまた前へ出るでしょう。

それが、あの方です。

ならば私は、隣で見ます。

止めるべき時は止めます。

支えるべき時は支えます。

そして、あの方が花びらの中で散らぬように。

必ず、戻る場所を残しておきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ