止まれぬ半拍
伏兵を退けた後の夜は、妙に静かだった。
静かというより、音が全部遠い。
火の爆ぜる音も。
兵達が歩く音も。
馬が鼻を鳴らす音も。
全部、少し離れた所で鳴っているみたいだった。
アタシは盃を持ったまま、火を見ていた。
山南州は落ちた。
段五も討った。
王慶軍の斥候も逃がさなかった。
今日の伏兵も、退けた。
……勝っている。
勝っているはずなのに、身体の奥だけがまだ止まらない。
「三娘、また火を睨んでるよォ」
孫二娘が横から覗き込んできた。
「睨んでないわよ」
「睨んでるねェ。火が逃げ出しそうな顔だよ」
「火は逃げないでしょ」
顧大嫂が、火のそばへ腰を下ろしながら鼻を鳴らした。
「火は逃げないけど、燃え移るよ。睨むより、距離を見る方が大事だね」
「何の話よ」
「今のアンタの話だよ」
孫二娘が小さく笑った。
いつもの軽口だ。
でも、今日は少しだけ刺さる。
距離を見る。
戻る場所を見る。
そう言われていたのに、今日のアタシは少し奥へ入りすぎた。
草が揺れる。
肩が動く。
矢尻が光る。
その前に、身体が動く。
分かるから、踏み込める。
踏み込めるから、止まらない。
それが、少し怖かった。
「今日は速すぎたねェ」
孫二娘が言った。
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「怖いねェ」
即答だった。
顧大嫂も頷く。
「速いのはいい。だが、速すぎて自分で戻れなくなるのは困る」
「戻ってるわよ」
「戻されたんだろ」
言い返せなかった。
玉楼が、火を見たまま静かに言う。
「本日は、かなり深く入られていました」
「……そうね」
「分かっておられるなら、まだ良いです」
孫二娘が笑った。
「玉楼も言い方が怖いねェ」
「事実です」
「顧大嫂が二人になったよォ」
「私は顧大嫂殿ほど厳しくはありません」
顧大嫂が笑う。
「そうかい?」
玉楼は少し黙った。
紅玉が薪を抱えたまま、小さくこちらを見る。
「……玉楼様も、厳しい時は厳しいと思います」
「紅玉」
紅玉は慌てて目を伏せた。
「す、すみません」
孫二娘が腹を抱えて笑った。
「今日も刺すねェ、紅玉」
「刺しているつもりはありません」
「だから痛いんだよォ」
少しだけ笑いが起きた。
完全な明るさではない。
今日の伏兵の気配は、まだ皆の中に残っている。
それでも、笑えた。
その笑いで、ようやく少しだけ身体の熱が下がった気がした。
紅玉は薪を置いてから、こちらへ向き直った。
「でも……今日の扈三娘様は、本当に速かったです」
「またそれ?」
「はい」
紅玉は真面目に頷いた。
「草が動く前に、もう見ている様でした」
「動いた後よ」
「でも、私にはそう見えませんでした」
「……そう」
嬉しい、とは違う。
怖い、とも少し違う。
ただ、自分の身体が、自分の考えより少し前にいる。
そんな気持ち悪さが残っている。
「見えすぎるのも、良くないわね」
ぽつりと漏らすと、顧大嫂が腕を組んだ。
「見えるのは悪くないよ。問題は、見えたもの全部に反応する事だ」
孫二娘が柄杓を肩に乗せる。
「草が揺れるたびに飛び込んでたら、犬みたいだねェ」
「誰が犬よ」
「飛びつく方の犬だよォ」
「説明しなくていい」
紅玉が少しだけ笑った。
玉楼も、ほんの少し目元を緩めた。
顧大嫂が続ける。
「見えたから全部動くんじゃない。見えても待つ。見えても戻る。見えても誰かに任せる。それが出来なきゃ、見える分だけ危ない」
その言葉は、重かった。
敵の動きが見える。
逃げ道が見える。
伏兵が出る場所が見える。
それなら、全部自分で潰せる気がする。
でも、それはたぶん違う。
全部、自分で行けばいい訳じゃない。
玉楼がいる。
紅玉がいる。
林冲がいる。
兵達がいる。
孫二娘も、顧大嫂もいる。
アタシ一人が半拍先に出ても、戻る場所がなければただの孤立だ。
「……分かってるわよ」
「本当にかい?」
顧大嫂が即座に聞いた。
「本当よ」
「本当に?」
孫二娘まで聞く。
「本当」
紅玉が、申し訳なさそうにこちらを見た。
「……少しだけ、心配です」
「紅玉まで」
孫二娘が楽しそうに笑う。
「三娘、信用ないねェ」
「うるさいわね」
でも、腹は立たなかった。
いや、少しは立った。
でも、それ以上に、見られている事が分かった。
「紅玉」
「はい」
「今日、怖かった?」
紅玉は少し考えた。
「怖かったです」
「何が?」
「伏兵も怖かったです。でも……」
そこで言葉を止める。
アタシは待った。
紅玉は、少しだけ息を吸う。
「扈三娘様が、どんどん先へ行ってしまう様に見えたのが、怖かったです」
火が小さく爆ぜた。
孫二娘も、顧大嫂も黙る。
玉楼は静かに紅玉を見ている。
アタシは盃を置いた。
「……そう」
それしか言えなかった。
紅玉は慌てて頭を下げる。
「す、すみません」
「謝らなくていいわ」
声が、思ったより静かに出た。
「それは、言ってくれていい」
紅玉は顔を上げた。
少し驚いた顔だった。
孫二娘が、小さく笑う。
「お、三娘が素直だよォ」
「茶化さない」
「茶化してないよォ。半分くらいは」
「残り半分は?」
「安心だねェ」
それも、言い返せなかった。
顧大嫂が火へ薪を足す。
「怖いって言える奴がいるなら、まだましだよ。見てる側が黙り始めたら、本当に危ない」
玉楼が頷いた。
「はい」
紅玉も、小さく頷く。
「見ます」
「敵だけじゃないのよ」
アタシは紅玉を見る。
「アタシも、見て」
紅玉の目が少し開いた。
「扈三娘様を、ですか」
「そう」
少しだけ笑う。
「前に出すぎてたら、後で言いなさい。戦ってる最中は無理でも、終わった後なら聞くわ」
孫二娘が片手を上げる。
「証人だよォ」
顧大嫂も頷く。
「聞いたね」
玉楼が静かに言う。
「私も聞きました」
紅玉が、少しだけ緊張した顔で頷いた。
「はい。言います」
「……ほどほどにね」
孫二娘が笑った。
「そこは保険をかけるんだねェ」
「刺されすぎると痛いのよ」
「紅玉の言葉は真っ直ぐだからねェ」
紅玉が困った様に目を伏せた。
「刺しているつもりは……」
「ないんだろォ。だから痛いんだよォ」
また、少しだけ笑いが起きた。
夜警の洞簫が、遠くで低く鳴る。
その音を聞くと、全員の顔が少しだけ引き締まった。
今日、岩場から矢が飛んだ。
草が揺れた。
伏兵が出た。
その感覚は、まだ身体に残っている。
でも、さっきより少しだけ静かだった。
「西京はまだ遠いねェ」
孫二娘が言う。
「遠いわね」
「王慶軍も、まだまだ出てくるだろうねェ」
顧大嫂が荷を見ながら言う。
「だからこそ、無理に燃え尽きられちゃ困るんだよ」
「燃え尽きないわよ」
「火を睨んでた奴が言ってもねぇ」
「だから睨んでないって」
紅玉が小さく笑った。
玉楼も隣で静かに火を見ている。
アタシは前ではなく、火の向こうにある闇を見た。
敵はまだいる。
西京はまだ遠い。
飛刀も、流星鎚も、まだ先にあるかもしれない。
見えるものは増えた。
でも、見えるからこそ危ないものもある。
敵だけじゃない。
自分も。
仲間も。
戻る場所も。
全部、見なければいけない。
「行くわよ」
そう言うと、孫二娘が笑った。
「今からかい?」
「違うわよ。明日よ」
「よかったねェ。夜中に出るって言い出したら、顧大嫂と二人で縄をかけるところだったよォ」
「やめなさい」
顧大嫂が真顔で頷いた。
「必要ならやるよ」
「やめなさいってば」
紅玉が、今度ははっきり笑った。
それでいい。
今は、それでいい。
夜はまだ冷たい。
淮西の風も乾いている。
でも、完全な沈黙じゃない。
なら、まだ進める。
隊列が、またゆっくり動き出す。
倒れた斥候の死体を残したまま、 梁山泊の軍は西へ進む。
風が吹き、草が揺れ、 血の匂いが少しずつ薄れていく。
アタシは馬を進めながら、 さっきの斥候戦を思い返していた。
見えた。
逃げる方向、馬を返す間、槍を出す前の肩。
全部ではない。
でも、 昨日より近い。
玉楼が隣で口を開く。
「……速くなっていますよ」
アタシは前を向いたまま聞く。
「半拍?」
「はい」
でも、それで分かる。
紅玉は後ろで首を傾げている。
「半拍って、そんなに変わるものなんですか?」
玉楼は少しだけ考える。
「生死が変わります」
紅玉が黙る。
風だけが抜ける。
アタシは手綱を握り直す。
先日まで届かなかった場所へ、 少しずつ手が届き始めている。
でも――
まだ完全じゃない。
その時、 前方で洞簫が鳴り、林冲の隊が止まる。
また、空気が変わった。
洞簫の音が、風の中へ長く流れていく。
隊列が止まり、 前方の兵がざわつき始める。
でも、騒ぎにはならない。
林冲が前へ出ている。
その視線の先を追う。
道が狭くなっている。
左右は低い岩場で、草も深い。
伏兵には丁度いい。
玉楼が周囲へ視線を走らせる。
「……嫌な地形ですね」
紅玉も、少しだけ表情を固くする。
アタシは前を見る。
静かだ。
静か過ぎる。
風だけが草木を揺らしている。
その時。
――来る。
頭より先に、 身体がそう感じる。
アタシは馬を引いた。
次の瞬間。
岩場の奥から矢が飛ぶ。
梁山泊軍の前列へ突き刺さる。
悲鳴。
馬が暴れる。
アタシは岩場を見る。
次に、どこが動くか。
少しだけ見える。
岩場の草が揺れる。
――そこ。
視線が先に動く。
「右!」
声が飛ぶ。
玉楼が即座に槍を向ける。
次の瞬間、草の奥から敵兵が飛び出す。
槍。
朴刀。
数は多くない。
でも、近い。
梁山泊軍の前列へ、一気に食い込もうとしている。
林冲の声が響く。
「崩すな!」
前列が踏み止まる。
アタシは馬腹を蹴った。
草を裂いて踏み込む。
向こうの兵が驚く。
まだ、構え切れていない。
遅い。
踏み込む前に分かる。
刀を振る。
血が散る。
隣で金属音。 玉楼の槍が喉を貫く。
紅玉も後ろから入り、 逃げようとした兵を斬り倒す。
でも――
終わらない。
左の岩場。
また草が動く。
アタシはそちらを見る。
来る。
次の瞬間、左の岩場から矢が飛ぶ。
でも――
見えている。
アタシは手綱を引き、馬をずらす。
矢が頬の横を抜ける。
続けて、兵が飛び出す。
今度は多い。
岩場に潜んでいた連中が、一気に押し寄せてくる。
「前へ!」
林冲の声。
梁山泊軍も押し返すように前へ出る。
槍と刀が噛み合い、 悲鳴と怒号が狭い道へ響く。
アタシは前を見る。
草の揺れ。
足。
肩。
次に誰が踏み込むか、 少しだけ先に見える。
右。
刀を振る。
兵が崩れる。
次は左。
踏み込む。
振る前に、相手の身体が止まる。
遅い。
玉楼が横へ並ぶ。
「前へ出過ぎないでください!」
声が飛ぶ。
でも、 身体が止まらない。
来る前に分かる。
だから踏み込める。
草を裂き、 さらに奥へ入る。
その時、岩場の上で、一瞬だけ何かが光った。
岩場の上で光ったのは、矢尻だった。
次の瞬間、矢が飛ぶ。
でも――
遅い。
アタシは馬を横へ流す。
矢が肩の横を抜け、 後ろの岩へ突き刺さる。
岩場の上にいた兵が、舌打ちする。
逃がさない。
アタシは、そのまま岩場へ踏み込む。
草を裂き、 斜面を駆け上がる。
向こうの兵が慌てて弓を捨て、剣を抜く。
でも、遅れているのが、踏み込む前に分かる。
刀を振る。
血が飛ぶ。
兵が崩れる。
その後ろ。
まだ草が揺れている。
伏兵は、終わっていない。
林冲の声が下から響く。
「押し込め!」
梁山泊軍が前へ出る。
狭い道の中で、王慶軍の伏兵が崩れ始める。
玉楼も岩場へ上がってくる。
槍が閃く。
紅玉も続く。
アタシは前を見る。
次に、どこが動くか。
また、少しだけ見えていた。
岩場の伏兵が崩れる。
逃げる者。
草の中へ転がる者。
武器を捨てる者。
梁山泊軍が押し返し、そのまま岩場へ踏み込んでいく。
林冲が蛇矛を上げる。
「残すな!」
兵が左右へ散る。
草を踏み荒らし、岩陰を潰していく。
潜んでいた王慶軍の兵が、次々と引きずり出される。
短い悲鳴、金属音、土煙。
狭い道の中へ、まだ戦の音が残り続ける。
玉楼が周囲へ視線を走らせる。
「……左、まだいます」
アタシは先に動く。
草が揺れ、来る前に分かる。
踏み込む。
草の奥から飛び出しかけた兵が、 驚いた顔のまま止まる。
遅い。
刀を振る。
兵が崩れる。
紅玉も後ろから入り、別の伏兵を斬り倒す。
林冲の隊が、そのまま伏兵地帯を掃討していく。
やがて、抵抗の声が少しずつ減り始める。
風が吹く。
血の匂いが、草の匂いに混ざって流れていった。
抵抗の声が消えていく。
草を踏む音だけが残る。
梁山泊軍が岩場を確認しながら、ゆっくり道へ戻ってくる。
負傷兵が運ばれる。
矢を回収する者もいる。
林冲が蛇矛を下ろす。
周囲を見渡し、短く言う。
「進むぞ」
隊列が組み直される。
アタシは馬を戻しながら、岩場へ視線を向ける。
もう動く気配はない。
でも――
まだ感覚だけは残っている。
草が揺れるだけで、身体が先に反応しそうになる。
玉楼が馬を寄せる。
「……少し、休まれた方が」
アタシは苦笑する。
「動いている方が、消える気がするのよ」
玉楼が黙る。
紅玉は少し後ろで、まだ周囲を警戒している。
空は赤く沈み始めていた。
風も冷たくなってくる。
この先で、今日の野営になる。
日が沈み切る前に、梁山泊軍が足を止める。
開けた平地、近くには浅い川が流れ、周囲も見渡しやすい。
伏兵を置くには向かない地形だ。
兵達が慣れた動きで散っていく。
馬を繋ぐ者、火を起こす者、見張りへ向かう者。
今日は、見張りの数も多い。
伏兵地帯を抜けたばかりだ。
誰も気を抜いていない。
アタシは馬から降り、地面へ足を付けた瞬間、少しだけ身体が重くなる。
でも――
感覚は消えない。
静かになった分だけ、逆に残っている。
玉楼が馬を繋ぎながら、こちらを見る。
「本日は、かなり踏み込まれていました」
アタシは苦笑する。
「そう?」
「はい」
でも、 否定はしていない声だった。
紅玉が薪を抱えて戻ってくる。
「今日は見張り、多めみたいです」
周囲を見る。
確かに、普段より兵の動きが多い。
見張りが外周へ散っていく。
火も、必要以上には大きくしない。
その時――
少し離れた場所で、 孫二娘の笑い声が聞こえた。
「まだ気張ってんのかい、アンタら」
軽い声。
でも、どこか周囲を探っている声でもあった。
孫二娘がこちらへ歩いてくる。
手には酒瓶。
でも、足音は軽い。
周囲を見ながら近付いてくる。
「今日は、流石に皆ヒリついてるねぇ」
紅玉が薪を下ろしながら頷く。
「伏兵、多かったですし……」
孫二娘は鼻を鳴らす。
「多いってより、まだ探ってきてるんだろうさ」
酒瓶を卓へ置く。
「西へ近付いてる証拠だ」
アタシは座りながら息を吐く。
身体は重い。
でも、 感覚だけは妙に冴えている。
風が吹く度に、 視線が勝手に動きそうになる。
玉楼が火を見ながら口を開く。
「本日は、反応が速過ぎました」
アタシは苦笑する。
「褒めてないわね、それ」
「はい」
即答だった。
紅玉が少し困った顔になる。
孫二娘だけが、小さく笑う。
「止まれなくなってるのかい?」
火が揺れる。
アタシは少しだけ黙る。
否定しきれなかった。
火が、小さく爆ぜる。
周囲では、他の幕舎の灯りも揺れている。
でも、騒がしさは無い。
皆、今日の伏兵を引きずっている。
孫二娘が酒を注ぐ。
「ま、止まれないってのは厄介だねぇ」
盃をくゆらせている。
「勢いってのは、強い時ほど切れなくなる」
アタシは黙って聞いている。
玉楼は火を見たまま動かない。
紅玉だけが少し不安そうだった。
「でも……今日は、本当に速かったです」
アタシは盃を見る。
酒が揺れている。
「自分でも分かるわ」
「前より、先に動ける」
風が吹き、火が揺れる。
「でも――」
言葉が止まる。
玉楼が静かに続きを待っている。
アタシは少しだけ目を伏せる。
「どこまで行くのか、自分でも分からないのよ」
その時、遠くで洞簫が鳴る。
低い音。
夜警の合図だ。
張り詰めた空気が、 夜の平地をゆっくり流れていった。
あとがき
伏兵を退けた後の夜、扈三娘様は火を見つめておられました。
山南州は落ちました。
段五も討たれました。
王慶軍の斥候も逃がさず、伏兵も退けました。
言葉にすれば、勝利です。
ですが、あの方の身体はまだ戦場から戻り切っていない様でした。
敵の肩が動く。
草が揺れる。
矢尻が光る。
その前に身体が動く。
半拍先へ出る感覚。
それは確かに、扈三娘様の強さになっています。
けれど、強さだけではありません。
半拍先へ出られるという事は、半拍分だけ、周りより先に離れてしまうという事でもあります。
誰よりも早く見えてしまう。
誰よりも早く動けてしまう。
だからこそ、誰よりも早く戻れなくなる危うさがある。
今日の扈三娘様には、それが見えました。
「玉楼は、また難しい顔してるねェ」
孫二娘殿が横から言いました。
「考え事です」
「いつも考えてるじゃないか」
「では、いつも通りです」
「開き直ったねェ」
顧大嫂殿が、火のそばで笑います。
「玉楼が考えなかったら、それはそれで怖いよ」
「どういう意味でしょうか」
「三娘が前へ出る。玉楼まで考えずに前へ出る。そうなったら、誰が止めるんだい」
孫二娘殿が笑いました。
「それは困るねェ。半拍早い扈将軍が二人になるよォ」
「私は扈三娘様ほど前へは出ません」
「そうかい?」
顧大嫂殿が真顔で言いました。
「そうです」
「本当に?」
孫二娘殿まで真顔で聞きます。
「本当です」
少し離れたところで、紅玉が小さくこちらを見ました。
「……玉楼様も、時々かなり前へ出ておられると思います」
「紅玉」
紅玉は慌てて目を伏せました。
「す、すみません」
孫二娘殿が楽しそうに笑います。
「今日も刺すねェ、紅玉」
「刺しているつもりはありません」
「だから痛いんだよォ」
顧大嫂殿も頷きました。
「でも、よく見てるじゃないか」
紅玉は困った様に口を結びました。 ですが、以前ほど慌てすぎてはいません。
見た事を、言葉にする。
怖かった事を、怖かったと言う。
心配した事を、心配だと言う。
それは簡単な様で、戦場では難しい事です。
今日、紅玉は扈三娘様に言いました。
扈三娘様が、どんどん先へ行ってしまう様に見えたのが怖かった、と……
あの言葉は、きっと扈三娘様にも届いたはずです。
「紅玉」
私が呼ぶと、紅玉は顔を上げました。
「はい」
「今日、扈三娘様を見ていて、他には何を思いましたか」
紅玉は少しだけ考えました。
「速かったです」
「はい」
「でも……速いだけではなくて、遠く見えました」
孫二娘殿が、柄杓を肩に乗せます。
「遠く、かい」
紅玉は頷きました。
「はい。すぐ近くにおられるのに、戦っている時だけ、少し遠くへ行ってしまう様に見えました」
顧大嫂殿が静かに頷きます。
「見えてるね」
「そうなのでしょうか」
「そうさ。強い奴が一番危ない時ってのは、敵に押されてる時だけじゃない。自分の勢いに乗りすぎた時も危ないんだよ」
紅玉は真剣に聞いていました。
「自分の勢いに……」
「そうだよ。敵が見える。勝てる。届く。そう思った時ほど、足元を見なくなる」
孫二娘殿が少し笑います。
「三娘なんか、まさにそれだねェ」
「孫二娘殿」
「何だい」
「それを扈三娘様の前で言えますか」
「言えるよォ」
顧大嫂殿がにやりと笑いました。
「本当にかい?」
孫二娘殿は少しだけ黙りました。
「……言えるけど、怒鳴られるねェ」
紅玉が真面目に頷きました。
「怒られると思います」
孫二娘殿が胸を押さえます。
「紅玉まで追い打ちするねェ」
「す、すみません」
「謝らなくていいよ」
顧大嫂殿が笑いました。
「そのくらい言えるなら上等だ」
紅玉は少しだけ安心した様に頷きました。
今日の紅玉は、ただ扈三娘様の後ろにいただけではありません。
見ていました。
伏兵の気配。
扈三娘様の踏み込み。
玉楼が横へ入る位置。
孫二娘殿と顧大嫂殿が場を支える呼吸。
そして、扈三娘様が前へ出すぎている事。
以前なら、怖いと思っても言えなかったでしょう。
ですが、今は言いました。
怖かった、と……
扈三娘様が遠くへ行く様で怖かった、と……
その言葉は、紅玉にとっても大きかったはずです。
そして、扈三娘様にとっても――
「アタシも、見て」
そう言われた時、紅玉は少し驚いていました。
無理もありません。
今まで紅玉は、見なさいと言われる側でした。
敵を見る。
味方を見る。
戻る場所を見る。
怖いまま見る。
ですが今度は、扈三娘様を見る側にもなりました。
それは、紅玉が少しずつ信頼されているという事でもあります。
「紅玉」
「はい」
「扈三娘様を見るのは、簡単ではありません」
紅玉は背筋を伸ばしました。
「はい」
「速い方です。強い方です。そして、ご自身が危うい時ほど、平気な顔をされます」
孫二娘殿が笑います。
「そうそう。怖い顔で、平気よ、って言うんだよォ」
顧大嫂殿も頷きました。
「大丈夫よ、も信用しすぎちゃいけないね」
紅玉は真剣に頷きました。
「はい。大丈夫、は疑います」
「そこまで真面目に覚えなくてもいいんだけどねェ」
孫二娘殿が困った様に笑いました。
顧大嫂殿は面白そうに肩を揺らします。
「いいじゃないか。三娘の大丈夫を疑える奴は、一人でも多い方がいい」
「扈三娘様は、怒られませんか」
紅玉が聞くと、孫二娘殿がすぐに答えました。
「怒るよォ」
「怒るんですね」
「でも、本気では怒らないよ。三娘はそういう所が甘いからねェ」
「甘い……」
紅玉が真面目に考え始めます。
孫二娘殿が慌てました。
「紅玉、そこを本人の前で真面目に言うんじゃないよォ」
「言わない方がいいですか」
「言わない方がいいねェ」
顧大嫂殿が笑います。
「でも、分かっておくのは悪くないよ」
「はい」
紅玉はまた真面目に頷きました。
この子は、覚えていきます。
少しずつ――
怖いものも。
嫌なものも。
言っていい事も、言わない方がいい事も。
戦場で見るべきものも、見すぎると危ないものも。
そして今は、扈三娘様の背中も見る事になりました。
「玉楼様」
紅玉が小さく言いました。
「何でしょう」
「扈三娘様を止める事は、出来るのでしょうか」
私は少し考えました。
「戦っている最中に止めるのは、難しいでしょう」
紅玉の顔が少し強張ります。
「はい」
「ですが、戻る場所を作る事は出来ます」
「戻る場所……」
「はい。声をかける。見ている。帰って来た時に、違っていたら言う。疲れているなら気付く。無理をしているなら止める。そういう事です」
紅玉は、ゆっくり頷きました。
「それなら……出来るかもしれません」
「はい」
孫二娘殿がにやりと笑います。
「三娘を見張る仲間が増えたねェ」
顧大嫂殿も頷きます。
「いい事だよ。一人で見張るより、何人かで見た方が逃げにくい」
「扈三娘様を逃がす話になっていませんか」
私が言うと、孫二娘殿は笑いました。
「似たようなもんだよォ。三娘は放っておくと、前へ前へ逃げるからねェ」
その言葉に、少しだけ黙りました。
前へ逃げる。
確かに、そういう時があります。
立ち止まるより先に前へ出る。
考えるより先に斬る。
迷いを押し潰す様に、戦場の中へ入っていく。
それは強さでもあります。
ですが、逃げでもあるのかもしれません。
顧大嫂殿が火へ薪を足しました。
「まあ、前へ逃げる奴を止めるには、後ろに戻れる場所を作ってやるしかないんだよ」
孫二娘殿が頷きます。
「戻ってきたら酒がある。水がある。説教がある。そういう場所だねェ」
「説教は必要ですか」
紅玉が真面目に聞きました。
「必要だよォ」
顧大嫂殿が即答しました。
「かなり必要だね」
紅玉は真剣に頷きました。
「覚えておきます」
孫二娘殿が胸を押さえました。
「また変な所を覚えたよォ」
少しだけ笑いが起きました。
完全な明るさではありません。
夜はまだ冷たく、伏兵の気配も、矢が飛んだ感触も、皆の中に残っています。
ですが、完全な沈黙でもありません。
声があります。
笑いがあります。
見ている者がいます。
止めようとする者がいます。
怖いと言える者がいます。
それは、今の私達にとって、とても大事な事でした。
「玉楼」
孫二娘殿が、ふとこちらを見ました。
「はい」
「また難しい顔だよォ」
「考え事です」
「眉間に皺が寄るよ」
「寄っておりません」
顧大嫂殿が即座に言いました。
「寄ってるね」
紅玉も、小さく頷きます。
「少しだけ……」
「紅玉まで」
孫二娘殿が楽しそうに笑いました。
「ほら、玉楼も見られてるよォ」
「私は問題ありません」
「本当に?」
顧大嫂殿が聞きます。
「本当です」
紅玉が、少しだけこちらを見ました。
「……玉楼様も、無理をされる時があります」
「紅玉」
孫二娘殿が腹を抱えて笑いました。
「今日は玉楼が刺される日だねェ」
「す、すみません」
「謝らなくていいよ」
顧大嫂殿が笑いました。
「見てる証拠だ」
私は小さく息を吐きました。
「……では、私も気を付けます」
孫二娘殿が満足そうに頷きます。
「よし」
紅玉が続けます。
「よし、なのですね」
「そうだよォ。三娘も玉楼も、前へ出すぎないならよしだよォ」
「私は前へ出すぎておりません」
「まだ言うかい」
顧大嫂殿が笑いながら立ち上がりました。
「ほら、そろそろ休むよ。明日も進むんだろ」
「はい」
私は前を見ました。
西京へ向かう道は、まだ遠いです。
王慶軍も、まだいるでしょう。
飛刀も、流星鎚も、まだ見ぬ敵も。
そして、扈三娘様ご自身の中にある、半拍先へ出すぎる危うさ。
見落としてはいけないものは、増えています。
ですが、見ている者も増えています。
敵だけではなく、味方も。
前だけではなく、戻る場所も。
半拍先へ出た者が、ちゃんと帰って来られる様に――
淮西の夜風は冷たく、乾いていました。
ですが、完全な沈黙ではありません。
その事だけは、まだ救いでした。




