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半拍の流れ

山南州は落ちた。

段五も討った。

……勝った。

そう言っていい場面だったのだと思う。

でも、アタシの中には、妙な熱が残っていた。

槍が来る前に、身体が動いた。

敵の足が沈む。

馬の首が動く。

肩がわずかに開く。

呼吸が詰まる。

その前に、アタシの足が出ていた。

考えるより先に、刀が入っていた。

「三娘、また難しい顔してるよォ」

孫二娘が横から覗き込んできた。

「難しい顔じゃないわよ」

「じゃあ何だい?」

「……分からない顔よ」

顧大嫂が荷車の縄を締めながら鼻を鳴らした。

「自分で分からないなら、なおさら難しい顔だね」

「うるさいわね」

孫二娘が笑った。

「段五を討ったんだろォ? もっと勝った顔してもいいんじゃないかい」

「勝った顔って何よ」

「こう、扈将軍、敵将討ち取ったり、みたいな顔だよォ」

「絶対しない」

「だろうねェ」

紅玉が少し後ろで、こちらを見ていた。

顔色はまだ良くない。

山南州の城内から聞こえてきた音が、あの子の中にも残っているのだろう。

でも、目は逸らしていなかった。

「紅玉」

「はい」

「昨日、怖かった?」

紅玉はすぐには答えなかった。

一度、息を吸う。

それから、小さく頷いた。

「怖かったです」

「そう」

「でも……扈三娘様は、凄かったです」

アタシは首を振った。

「凄いかどうかは分からないわ」

「段五を討たれました」

「討ったわね」

「敵の動きも、逃げる場所も、見えていたように見えました」

その言葉に、少しだけ黙った。

紅玉は本当に、見ている。

見えたものを、ちゃんと言葉にしようとしている。

それは良い事だ。

でも、今のアタシには少し痛い。

「見えすぎるのも、気持ち悪いのよ」

孫二娘が眉を上げた。

「贅沢な悩みだねェ」

「そうかもしれないわね」

顧大嫂が少し真面目な声で言う。

「でも、分からなくもないね。身体が先に動きすぎると、自分が自分の後ろから見てるみたいになる時がある」

孫二娘が顧大嫂を見た。

「おや、珍しく難しい事を言うねェ」

「アンタほど何も考えずに動いてないからね」

「ひどいねェ」

「事実だろ」

少しだけ笑いが生まれた。

でも、すぐに消えた。

山南州の城門は、もう後ろにある。

でも、城が落ちた夜の音は、まだ耳に残っている。

勝鬨。

笑い声。

悲鳴。

何かを壊す音。

勝った時に必ずついてくる、どうしようもなく嫌な音。

アタシ達は、またその音を背にして進む。

「それで?」

孫二娘が柄杓を肩に乗せた。

「今度は何が気に入らないんだい」

「気に入らないっていうか……」

アタシは手を握った。

昨日より、震えは少ない。

でも、感覚は残っている。

「来る前に分かったのよ」

「槍が?」

「それだけじゃないわ」

少し前に出る。

敵が散る。

どこへ逃げるか。

どこを塞げば止まるか。

どこへ玉楼を行かせればいいか。

紅玉をどこへ置けばいいか。

それが、少しだけ先に見えた。

「敵が逃げる場所も、少し見えた」

顧大嫂が頷いた。

「斥候を逃がさなかった時だね」

「ええ」

紅玉が小さく言った。

「私は、斬らなくていいと言われて、少し安心しました」

「それでいいのよ」

アタシは紅玉を見る。

「斬るだけが戦じゃないわ。塞ぐ。戻る。追いすぎない。それが出来たなら十分」

紅玉は目を伏せた。

「はい」

孫二娘がにやりと笑う。

「紅玉、褒められたねェ」

「はい」

「嬉しいかい」

紅玉は少し迷ってから、素直に頷いた。

「……嬉しいです」

顧大嫂が笑った。

「素直でいいねぇ」

「アタシは素直じゃないみたいに言うわね」

「素直じゃないだろ」

「即答しないで」

孫二娘が笑った。

「三娘は素直じゃないよォ。凄いって言われても首を振るし、無理してるって言われてもしてないって言うし、怖い顔してるって言われても怖くないって言うし」

「うるさいわね」

「ほら、素直じゃない」

紅玉が、少しだけ笑った。

玉楼も、ほんの少しだけ目元を緩めている。

それを見て、少しだけ息が抜けた。

昨日の感覚は、まだ怖い。

身体が勝手に動く。

来る前に踏み込む。

考える前に斬る。

それが、以前の扈三娘に近いと言われた。

でも、石礫はまだ違う。

石は、まだ合わない。

だから、これはただ戻っただけじゃない。

今のアタシが、前のアタシの身体を少しずつ使えるようになっているのか。

それとも、別の何かになっているのか。

正直、まだ分からない。

「三娘」

孫二娘が、急に少し低い声で言った。

「何よ」

「止まれないと思ったら、言いな」

アタシは孫二娘を見る。

孫二娘は笑っていた。

でも、目は笑っていなかった。

「戦ってる最中に止まれってのは無理でもさ。終わった後に、止まれなかったって言うくらいは出来るだろォ」

顧大嫂も頷く。

「言えば、誰かが引っ張る。言わなきゃ、分からない時もある」

玉楼が静かに言った。

「私は、見ております」

紅玉も、小さく続けた。

「私も……見ます」

アタシは少しだけ黙った。

見られている。

止められる。

笑われる。

刺される。

それは面倒で、腹立たしくて、でも少しだけ救いだった。

「……分かったわ」

孫二娘が笑う。

「お、素直だねェ」

「たまにはね」

「明日は雪かい?」

「淮西で雪が降ったらアンタのせいよ」

顧大嫂が笑った。

「二娘のせいで天気まで狂うなら大したもんだね」

「ひどいねェ」

少しだけ、空気が軽くなった。

でも、西京へ向かう道は重い。

山南州は落ちた。

段五は討った。

王慶軍の斥候も潰した。

それでも、戦は終わっていない。

西京はまだ遠い。

敵はまだいる。

飛刀も、流星鎚も、まだ先にあるかもしれない。

アタシは手綱を握り直した。

半拍だけ先に外す。

流れの先へ、先に足を置く。

それが出来れば、生き残れる場所が少し増える。

でも、見えすぎたものに飲まれたら、今度は自分が戻れなくなる。

だから、見る。

敵だけじゃない。

自分も。

仲間も。

戻る場所も。

「行くわよ」

アタシが言うと、孫二娘が片手を上げた。

「はいはい、半拍早い扈将軍」

「その呼び方もやめなさい」

顧大嫂が荷車を叩く。

「じゃあ、戻る場所を忘れない扈将軍だね」

「長いわよ」

紅玉が小さく笑った。

「でも、大事だと思います」

アタシは紅玉を見る。

「そうね」

玉楼も隣で頷いた。

アタシは前を向いた。

淮西の風は冷たく、乾いている。

山南州の音は、まだ背中に残っている。

でも、完全な沈黙じゃない。

なら、まだ進める。

山南州の城門が開いた。

重い音を立てながら、ゆっくりと。

王慶軍は、もう止められない。

崩れたまま、城内へ逃げ込む者もいれば、外へ散ろうとする者もいる。

けれど、そのどちらも遅かった。

城外には、死体と折れた槍が散乱している。

踏み荒らされた土の上に、血が黒く沈んでいた。

アタシは馬を止めた。

呼吸が熱い。

まだ、身体の奥が騒いでいる。

玉楼が隣に並ぶ。

槍先には、まだ血が残っていた。

紅玉も後ろで止まる。

顔色は良くない。

でも、目は逸らしていなかった。

城門の向こうへ、梁山泊の兵が流れ込んでいく。

勝鬨が上がる。

「山南州、陥落!」

誰かが叫び、別の声も続いた。

でも――

少し遠い。

アタシは自分の手を見た。

まだ震えている。

さっきまで、全部が研ぎ澄まされた様に見えていた。

槍、足、馬、呼吸。

来る前に、身体が動いた。

考えるより先に、足が出た。

間合いが詰まり、刀が入った。

「……何なのよ、これ」

小さく声が漏れる。

玉楼がこちらを見る。

「扈三娘様」

視線を上げると、林冲がこちらへ来ていた。

蛇矛を下げたまま、ゆっくり馬を寄せる。

「良くやった」

アタシは首を振った。

「そんなことはないわ」

後ろから、玉楼の声が飛ぶ。

「扈三娘様の活躍あってのことです」

紅玉も頷く。

「扈三娘様、凄かったです」

凄い――

そう言われても、うまく飲み込めなかった。

城内から、悲鳴が混ざり始める。

梁山泊の兵が、さらに雪崩れ込んでいく。

扉を叩き割る音も聞こえた。

アタシ達三人は、馬を止めたまま動かなかった。

山南州は落ちた――

勝った。

そう言っていい。

でも、身体の奥に残っているものは、勝ちの熱だけではなかった。

その夜、幕舎の中で火が小さく揺れていた。

外は、まだ騒がしい。

勝鬨も、笑い声も、途切れない。

城が落ちた夜の音だった。

でも、この幕舎だけは少し静かだった。

鎧を外す音がする。

玉楼が槍を壁に立てかける。

紅玉は、ようやく息を抜いたように肩を落とした。

アタシは卓の前に座ったまま、また手を見ていた。

まだ熱い。

指先が、少しだけ震えている。

その時、幕舎の帷幕が揺れた。 孫二娘が入ってくる。

「元気かい?」

いつもの調子だった。

でも、声は少し低い。

孫二娘は酒瓶を卓に置いた。

「今日は飲むだろ?」

紅玉が少しだけ笑う。

「飲みます」

「アンタは水だよォ」

「……はい」

玉楼は黙ったまま盃を並べる。

孫二娘がアタシを見る。

「で?」

「何人斬ったんだい?」

アタシは少し考えた。

「覚えてない」

孫二娘が吹き出した。

「そりゃ重症だ」

紅玉が、少し身を乗り出す。

「でも、本当に凄かったです」

「段五まで――」

アタシは首を振る。

「違うのよ」

三人の視線が止まり、火が揺れる。

「……見えてたの」

「全部」

言葉が、少し遅れて出る。

「来る前に分かった」

「身体が、今まで以上に先に動いたわ」

玉楼は黙って聞いている。

孫二娘だけが、少し目を細めた。

「怖かったかい?」

アタシは、すぐには答えられなかった。

外で、また勝鬨が上がる。

アタシは盃を持つ。

酒が少し揺れていた。

「……分かんない」

「でも――」

少しだけ息をつく。

「止まれなかった」

誰も、すぐには口を開かなかった。

外では、まだ騒ぎが続いている。

笑い声、怒鳴り声、何かを壊す音。

幕舎の中だけ、火の音が小さく響く。

孫二娘が酒を注いだ。

「……ま、戦ってる最中に止まれる奴ぁ、そういないけどねェ」

軽口だった。

でも、目は笑っていない。

アタシは盃を見た。

酒がまた少し揺れる。

「違うのよ」

「怖いとか、そういうんじゃなくて……」

言葉が止まる。

玉楼が静かに口を開いた。

「敵が、見えていたのですね」

アタシは頷く。

「見えてた」

「来る前に、次が分かった」

紅玉が小さく息を呑む。

「それは……凄いことでは……」

アタシはまた首を振った。

「前より、分かり過ぎるのよ」

火が揺れる。

「槍が来る」

「足が動く」

「振る」

「斬れる」

ゆっくり、自分の手を見る。

「考える前に、終わってる」

孫二娘が酒を飲む。

「そりゃあ、身体の勘が鋭くなったのかねェ?」

アタシは、すぐ返せなかった。

身体――

その言葉が、妙に残る。

アタシの身体。

でも――

この身体は、本当にアタシだけのものなのか。

盃の酒を飲むと熱かった。

でも、身体の奥の熱は消えていない。

玉楼が、静かに盃を置いた。

「……以前の扈三娘様を、思い出しました」

紅玉が目を瞬かせる。

孫二娘は黙ったまま聞いている。

アタシは玉楼を見る。

玉楼は視線を逸らさない。

「本日の踏み込み」

「間合い」

「槍へ入る速さ」

少し間を置く。

「以前の扈三娘様に近うございました」

幕舎の中が静かになる。

外では、まだ騒ぎが続いている。

でも、遠い。

アタシは小さく息を漏らした。

「……でも、石礫は違う」

玉楼は頷く。

「はい」

「以前の扈三娘様も、石礫はご存じありませんでした」

火が小さく揺れる。

「ですので――」

玉楼が、少しだけ言葉を選ぶ。

「戻った、だけではないのでしょう」

盃の酒が波打つ。

アタシは、その揺れを見ていた。

身体が勝手に動く。

でも、石礫には遅れる。

今日の戦では、来る前に動けた。

なのに、石礫だけは、まだ合わない。

孫二娘が小さく鼻を鳴らす。

「以前って?」

アタシは笑ってごまかす。

「何でもないわ。何でも」

孫二娘は、それ以上は聞かなかった。

聞かないでくれた。

でも――

少しだけ。

本当に少しだけ。

あの半拍が、縮まった気がしていた。

山南州が落ちた次の日。

朝の空気は、まだ重かった。 城内の騒ぎは、夜のうちに少しだけ遠くなっていた。

でも、消えた訳じゃない。

アタシ達は、また馬上にいる。

山南州を背にする。

城門の前には、折れた槍と踏み荒らされた土が残っていた。

昨日の感覚は、まだ身体の奥にある。

けれど、昨夜よりは静かだった。

玉楼が隣に来る。

紅玉は後ろ。

孫二娘は少し離れたところで、欠伸を噛み殺している。

「眠れたかい?」

孫二娘が聞く。

「少しだけ」

本当は、何度か目が覚めた。 手が動く感覚が残っていた。 来る前に踏み込む感覚。

あの半拍。

玉楼は何も言わない。

でも、見ている。

林冲の隊が動き出す。

次の戦へ向かうために。

アタシは手綱を握り直した。

終わっていない。

山南州は落ちた。

でも、西京はまだ遠い。

「行くわよ」

馬が進む。

背後で、山南州の城門が小さくなっていく。

半日ほど進んだ頃、空は高く、風は少し冷たくなっていた。

けれど、隊の空気は重いままだ。

昨日の戦の匂いが、まだ残っている。

前方では、林冲の隊が一定の速さで進む。

誰も無駄口を叩かない。

アタシは馬を進めながら、手綱を握る手を見る。

震えは、もう消えていた。

でも、感覚だけは残っている。

前に出る前。

踏み込む前。

来るより先に、身体が動く感覚。

玉楼が隣を進む。

「……まだ残っていますか」

小さい声だった。

アタシは少しだけ笑う。

「顔に出てる?」

「少し」

玉楼は前を向いたまま答える。

紅玉が後ろから顔を出した。

「でも、昨日の扈三娘様、本当に凄かったです」

声が少し明るい。

アタシは肩をすくめる。

「そうでもないわよ」

「段五を倒したじゃないですか」

紅玉は、まだ興奮が抜けていない。

玉楼だけが静かだった。

しばらく進む。

風が草を揺らす。

その時、前方の騎馬が速度を上げた。

斥候だ。

林冲の前で止まり、短く何かを告げる。

隊の空気が変わった。

林冲が視線を上げる。

そのまま、こちらを見る。

「前だ」

林冲が馬を止める。

前方の列も、ゆっくり速度を落としていく。

土煙が、少しだけ前に流れた。

アタシ達も止まる。

道の先を見ると、低い丘の向こうに人影がある。

数は少ない。 王慶軍の斥候だ。

向こうも、こちらに気付いている。

風が吹き、草が揺れる。

少しの間、両軍とも動かなかった。

林冲が短く言う。

「逃がすな」

蹴散らせ、ではなかった。

殺せ、でもない。

逃がすな。

その言葉で、見えるものが少し変わった。

敵を斬る場所ではない。

逃げる場所を見る。

アタシは目を細めた。

相手の馬の向き。

丘の傾き。

草の倒れ方。

右に逃げれば道へ戻れる。

左に逃げれば林へ入れる。

正面は、こちらの騎馬が速い。

なら、散る。

「玉楼、左」

「紅玉、右」

「アタシは正面」

言葉が先に出た。

玉楼は迷わず左へ切る。

紅玉は一瞬だけ息を呑んだが、すぐに右へ流れた。

「斬らなくていい! 塞ぎなさい!」

「はい!」

紅玉の返事が飛ぶ。

馬腹を蹴る。

乾いた土が一気に後ろへ流れた。

丘を越える瞬間、王慶軍の斥候達が動いた。

思った通り、散った。

一騎は左へ。

玉楼が退路に入る。

槍を突き出すのではなく、馬の進路を塞ぐ。

敵兵が慌てて手綱を引く。

一騎は右へ。

紅玉がそこへ走る。

まだ速さは足りない。

でも、位置は悪くない。

敵の逃げ道をふさぐには、十分だった。

正面の一騎が、こちらを見て馬首を返そうとする。

――遅い。

アタシは正面へ踏み込み、相手が槍を構えるより早く、間合いを詰めた。

刀を振る。

斥候の身体が馬上から崩れ落ちる。

横で金属音が鳴る。

玉楼が一騎を落とした音だった。

右では、紅玉が敵兵の逃げ道を塞いでいた。

敵は焦り、無理に馬首を返す。

そこへ後続の兵が追いつく。

紅玉は追わない。

斬りに行かない。

ただ、塞いだ後に戻ってくる。

「戻りました!」

少し息が上がっている。

でも、悪くない。

最後の一騎が林へ逃げようとする。

アタシは追いかけかけて、止めた。

「玉楼!」

玉楼がもう動いていた。

林の手前へ入り、逃げ道を塞ぐ。

敵兵が馬を止めた瞬間、こちらの兵が囲む。

短い悲鳴が響き、すぐに消えた。

風と土煙だけが残る。

アタシは馬を止めた。

呼吸は乱れていない。

でも、さっきとは違う熱が手綱を握る手に残っていた。

昨日は、槍が来る場所が見えた。

今は、敵が逃げる場所が少しだけ見えた。

斬る為だけじゃない。

追う為だけでもない。

流れの先に、先に足を置く。

それが、半拍というものなのかもしれない。

玉楼が隣へ戻ってくる。

「お見事でした」

「まだよ」

同じ言葉が、また口から出た。

紅玉も戻ってくる。

少し息が荒い。

けれど、顔は前を向いている。

「紅玉」

「はい」

「今のは良かったわ」

「斬らずに止めた」

紅玉の目が少しだけ開く。

「……はい」

「深く追わなかったのも良かった」

紅玉は、小さく頷いた。

嬉しそうにするより先に、息を整えている。

それも、前より良かった。

林冲が遠くからこちらを見る。

短く頷いた。

それだけで、隊列はまた動き出す。

斥候を潰しても、戦は終わらない。

むしろ、ここから近いということだ。

アタシは前を見る。

西京は、まだ見えない。

でも、さっきまでより、道の先が少しだけ見えた気がした。

馬を進める。

玉楼が隣にいる。

紅玉が後ろに続く。

風が冷たい。

でも、身体の奥の熱は、もう怖いだけのものではなかった。

「行くわよ」

二人が頷く。

隊列は、さらに西京へ向かって進んでいった。

山南州は落ちました。

段五も討たれ、王慶軍の斥候も抑えられました。

言葉にすれば、勝利です。

ですが、扈三娘様の顔は、勝った者の顔ではありませんでした。

あの方は、段五との戦で確かに何かを掴まれました。

槍先だけを追わない。

肩を見る。

足を見る。

馬の首の向きを見る。

呼吸を見る。

動き出す前の、わずかな沈みを見る。

そこから半拍だけ先に身体を外し、相手の間合いへ入る。

瓊英殿の石礫で苦しんだものが、形を変えて段五との戦に現れたのだと思います。

ですが、それは単純に

「強くなった」

と喜べるものではなかったのでしょう。

身体が先に動く。

考える前に刀が入る。

敵の逃げる場所まで、少し先に見える。

それは強さであると同時に、扈三娘様ご自身にとっては、気味の悪いものでもあったのだと思います。

「玉楼は、また難しい顔してるねェ」

孫二娘殿が横から言いました。

「考え事です」

「いつも考えてるじゃないか」

「では、いつも通りです」

「開き直ったねェ」

顧大嫂殿が荷車の横で笑います。

「まあ、玉楼が考えなかったら、それはそれで怖いけどね」

「どういう意味でしょうか」

「三娘が前へ出て、玉楼まで考えずに前へ出たら、誰が止めるんだい」

孫二娘殿が笑いました。

「それは困るねェ。扈三娘が二人いるようなもんだよォ」

「私は扈三娘様ほど無茶は致しません」

「そうかい?」

顧大嫂殿が真顔で言いました。

「そうです」

「本当に?」

孫二娘殿まで真顔で聞きます。

「本当です」

少し離れた所で、紅玉が小さくこちらを見ました。

「……玉楼様も、時々かなり前へ出ておられると思います」

「紅玉」

紅玉は慌てて目を伏せました。

「す、すみません」

孫二娘殿が楽しそうに笑います。

「今日もよく刺すねェ、紅玉」

「刺しているつもりはありません」

「だから痛いんだよォ」

顧大嫂殿も頷きました。

「でも、よく見てるじゃないか」

紅玉は困った様に口を結びました。

ですが、以前よりも慌てすぎてはいません。

見た事を、言葉にする。

感じた事を、隠しすぎずに出す。

その力は、少しずつ育っています。

今回、紅玉は扈三娘様の変化を見ていました。

段五を討ったところ。

敵の斥候が散る前に、逃げ道を読んだところ。

紅玉自身が、斬るのではなく塞ぐ役目を与えられたところ。

そして、追いすぎず戻ったところ。

それらを、紅玉はちゃんと見ていました。

「紅玉」

私が呼ぶと、紅玉は顔を上げました。

「はい」

「斥候を抑えた時、何を考えていましたか」

紅玉は少しだけ考えました。

「最初は、追わなければと思いました」

「はい」

「でも、扈三娘様に、斬らなくていい、塞ぎなさいと言われて……少し、安心しました」

孫二娘殿が、柄杓を肩に乗せます。

「安心したんだねェ」

紅玉は小さく頷きました。

「はい。斬らなくても、役に立てるのだと思いました」

顧大嫂殿が笑いました。

「それは大事だね」

「大事、ですか」

「大事さ。戦場で役に立つってのは、何も敵を斬る事だけじゃない。道を塞ぐ。負傷者を下げる。水を回す。戻る場所を空ける。どれも役に立つ」

紅玉は真剣に聞いていました。

「はい」

孫二娘殿が笑います。

「紅玉は、斬るより塞ぐ方が向いてるかもしれないねェ」

「そうなのでしょうか」

「少なくとも、今はそれでいいんだよォ。無理に首を取りに行くより、逃げ道を塞いで戻って来る方がずっとましさ」

「はい」

紅玉は少しだけ息を吐きました。

その顔には、まだ怖さが残っています。

けれど、怖さだけではありません。

自分に出来る事を一つ見つけた顔でした。

扈三娘様も、それを見ておられたのでしょう。

「斬るだけが戦じゃない」

そう言われました。

その言葉は、紅玉にとって大きかったはずです。

戦場に立つ者は、どうしても前へ出る事や討ち取る事を強さだと思いがちです。

ですが、本当はそれだけではありません。

止める事、塞ぐ事、戻る事、追いすぎない事。

それもまた、生き残る為の強さです。

「三娘がそれを言うのが、面白いねェ」

孫二娘殿が言いました。

「どういう意味ですか」

私が聞くと、孫二娘殿は肩をすくめました。

「だって、本人が一番前へ出るだろォ」

顧大嫂殿も頷きます。

「斬るだけが戦じゃないって言いながら、自分は真っ先に斬りに行くからね」

「それは……」

否定しようとして、少し止まりました。

否定しきれません。

孫二娘殿が私を見て、にやりと笑います。

「ほら、玉楼も否定できない」

「扈三娘様は、必要な時に前へ出ておられるだけです」

「そうかい?」

顧大嫂殿がまた真顔で言います。

「そうです」

「本当に?」

紅玉まで、少しだけこちらを見ました。

私は小さく息を吐きます。

「……少し、前へ出すぎる時はあります」

孫二娘殿が楽しそうに笑いました。

「やっと認めたねェ」

「少しだけです」

「その少しが怖いんだよォ」

顧大嫂殿も頷きます。

「だから、止まれないと思ったら言えって話になるんだ」

その言葉に、少しだけ場が静かになりました。

扈三娘様は、昨夜そう言われていました。

止まれないと思ったら、言いな。

孫二娘殿は軽く言った様に見せましたが、あれは軽い言葉ではありません。

扈三娘様が、戦場の中で自分の身体の速さに飲まれかけている。

それを、孫二娘殿も顧大嫂殿も見ていたのだと思います。

「玉楼様」

紅玉が小さく声をかけてきました。

「何でしょう」

「扈三娘様は、怖いのでしょうか」

私は少し考えました。

「怖い、とは少し違うのかもしれません」

「違うのですか」

「はい。敵が怖いのではなく、ご自身の変化が分からないのだと思います」

紅玉は目を伏せました。

「分からないものは、怖いです」

「そうですね」

私は頷きました。

「ですが、扈三娘様は分からないまま放っておく方ではありません。だから、見る。だから、向き合う。だから、また前へ出る」

孫二娘殿が苦笑しました。

「そこが困るんだよォ」

顧大嫂殿も荷車の縄を締め直します。

「向き合うのはいい。でも、戻る場所を忘れられちゃ困る」

「はい」

私は静かに答えました。

扈三娘様には、戻る場所が必要です。

戦場で半拍先に出るなら、なおさらです。

戻る場所がなければ、先へ出たまま帰って来られなくなる。

それは、敵に討たれる事とは別の危うさです。

「紅玉」

私は言いました。

「はい」

「あなたも、見ると言いましたね」

「はい」

「ならば、敵だけではなく、扈三娘様も見ていなさい」

紅玉は顔を上げました。

「扈三娘様を、ですか」

「はい。あの方が前へ出すぎていないか。戻る場所を失っていないか。言葉に出来ない顔をしていないか」

紅玉は少しだけ緊張した顔になりました。

「私に、出来るでしょうか」

「今すぐ全ては出来ません」

「はい」

「ですが、見る事は出来ます」

紅玉はゆっくり頷きました。

「見ます」

孫二娘殿がにやりと笑います。

「三娘を見張る人数が増えたねェ」

顧大嫂殿も笑いました。

「いい事だよ。一人で見張るより、何人かで見た方が逃げにくい」

「扈三娘様を逃がす話になっていませんか」

「似たようなもんだろ」

孫二娘殿が楽しそうに言いました。

「三娘は怒るだろうねェ」

「怒られますでしょうか」

紅玉が真面目に聞きます。

「怒るよォ」

「怒るんですね」

「でも、本気では怒らないよ。三娘はそういう所が甘いからねェ」

顧大嫂殿が笑います。

「甘いというか、不器用なんだよ」

「不器用……」

紅玉が真面目に繰り返しました。

孫二娘殿が慌てます。

「紅玉、そこを本人の前で真面目に言うんじゃないよォ」

「言わない方がいいですか」

「言わない方がいいねェ」

顧大嫂殿が大きく笑いました。

「二娘、今日は珍しく止める側じゃないか」

「余計な火種は避けるんだよォ」

「それも生き残る知恵ですね」

紅玉が真剣に言いました。

孫二娘殿が胸を押さえます。

「また変な所を覚えたよォ」

少しだけ笑いが起きました。

完全な明るさではありません。

山南州の音は、まだ背中に残っています。

勝鬨、悲鳴、笑い声、何かを壊す音。

そして、扈三娘様の身体が半拍先に動いた感覚も、まだ消えていないのでしょう。

ですが、完全な沈黙でもありません。

声があります。

見ている者がいます。

止めようとする者がいます。

笑わせようとする者もいます。

「玉楼」

孫二娘殿が、ふとこちらを見ました。

「はい」

「また難しい顔だよォ」

「考え事です」

「眉間に皺が寄るよ」

「寄っておりません」

顧大嫂殿が即座に言いました。

「寄ってるね」

紅玉も、小さく頷きます。

「少しだけ……」

「紅玉まで」

孫二娘殿が笑いました。

「ほら、玉楼も戻る場所が必要なんじゃないかい」

「私は戻っております」

「本当に?」

顧大嫂殿が聞きます。

「本当です」

紅玉が、少しだけこちらを見ました。

「……少しだけ、前に出ておられる時があります」

「紅玉」

孫二娘殿が腹を抱えて笑いました。

「今日の紅玉は本当によく刺すねェ」

「す、すみません」

「謝らなくていいよ」

顧大嫂殿が笑います。

「見てる証拠だ」

私は小さく息を吐きました。

「……では、私も気を付けます」

孫二娘殿が満足そうに頷きます。

「よし」

紅玉が続けます。

「よし、なのですね」

「そうだよォ。三娘も玉楼も、前へ出すぎないならよしだよォ」

「私は前へ出すぎておりません」

「まだ言うかい」

顧大嫂殿が笑いながら荷車を押し始めました。

「ほら、行くよ。西京はまだ遠いんだろ」

「はい」

私は前を見ます。

西京へ向かう道が伸びています。

山南州は落ちました。

段五も討たれました。

王慶軍の斥候も抑えました。

けれど、戦はまだ終わっていません。

飛刀、流星鎚、まだ見ぬ敵……

そして、扈三娘様ご自身の中にある分からないもの。

次に何が来るかは分かりません。

ですが、見落とさない様にします。

敵だけではなく、味方も――

前だけではなく、戻る場所も――

そして、半拍先へ出た者が、ちゃんと帰って来られる様に。

淮西の風は冷たく、乾いています。

ですが、完全な沈黙ではありません。

その事だけは、まだ救いでした。

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