見えていても、止められない
軍師が二人とも「罠だ」と言った。
「じゃあ止まるのね?」
孫二娘が首を振る。
「進むみたいだねェ」
「何で!?」
顧大嫂が前を見たまま言った。
「勝ってるからじゃないか?」
それが一番怖い。
孫二娘まで真顔になる。
「成功体験が続くと、自分達の判断を過信しやすくなるんだよォ」
「今から実証しなくていい!」
しかも敵は逃げているのに、槍も列も妙に揃っていた。
紅玉まで気づいた。
つまり――みんな見えていた。
それでも、軍は止まらなかった。
そして気づいた時には、盧俊義達五千人が消えていた。
翌日、山から妙な包みが転がってきた。
「……何あれ?」
「人だねェ」
「何で人が山から転がってくるのよ!?」
中にいたのは白勝。
そして、笑っている場合じゃなくなった。
盧俊義達は――青石峪に閉じ込められていた。
軍師が二人とも「罠だ」と言った。
それでも、進軍の太鼓は鳴る。
覇州を出た時から、アタシはずっと嫌な感じがしていた。
空が暗いとか、鳥が騒いでいるとか、そういう話じゃない。
もっと単純で、もっと分かりやすい。
敵が、都合よく負けすぎている。
「……これ、行くの?」
馬を進めながら聞くと、孫二娘が隣で肩をすくめた。
「行くみたいだねェ」
「罠って言われた直後なのに!?」
「成功が続くと、自分達の判断を正しいと思いやすくなるんだよォ。正常性バイアスとは少し違うけど、都合のいい情報ばかり拾いやすくなるのは――」
「今から実証実験しないで!」
後ろから顧大嫂が笑った。
「もう始まってるんじゃないかい?」
「笑えない!」
そんなやり取りの間も、玉楼は前方から目を離していなかった。
「三娘様」
「何?」
「前の兵、退いております」
「……本当に?」
「はい。ただし、崩れてはおりません」
その一言で、アタシも改めて敵を見る。
遼軍は確かに逃げているのに、その列がまるで死んでいない。
前の兵が下がれば後ろも合わせて退き、左右まで妙に揃っていた。
負けて我先に逃げている軍なら、もっと列が崩れ、兵の向きもばらばらになるはずだ。
紅玉も目を凝らしながら、遼軍の動きを追っている。
「槍が……揃っています」
「見えた?」
「はい、逃げているのに、向きが同じです」
アタシは思わず舌打ちした。
「やっぱり罠じゃない!」
ところが前方では、追撃を促す太鼓がまだ鳴っている。
関勝と賀重宝は三十合あまり打ち合った末、賀重宝が馬首を返して退いた。
関勝がそれを追い、その後ろから軍勢まで続いていく。
一度走り始めた大軍の流れは、アタシ一人が嫌だと言った程度で止められるものじゃない。
「紅玉、前だけ見ないで。横も見て」
「はい」
「でも離れないでね」
「はい」
返事は落ち着いている。
少し前までの紅玉なら、敵が退けば、その背中を追うことしか考えなかったかもしれない。
けれど今は、目の前に見えているものをそのまま信じようとはしていない。
それなのに、軍は進み続けた。
十里ほど進み、それでも賀重宝は捕まりそうで捕まらない距離を保ったまま逃げている。
こちらが馬足を速めれば向こうも速め、隊列が乱れかければ、わずかに距離を縮めて追う気を繋いでくる。
「上手すぎるのよ」
アタシが呟くと、孫二娘もすぐに頷いた。
「逃げる側が、追う側の速度を調整してるねェ」
「それ、完全に誘導じゃない!」
顧大嫂が前方を睨みつける。
「だったら止まりゃいいんじゃないか?」
「それが出来ないから怖いのよ!」
その瞬間、左からいくつもの鼓が鳴り、その響きが山肌にぶつかって重なりながら、あたり一帯を揺らした。
「左!」
玉楼が叫ぶ。
土煙を押し分けるように遼兵が現れ、それとほぼ同時に右手でも旗が立った。
さらに前方では、今まで逃げ続けていた賀重宝の軍が一斉に反転する。
「ほらぁ!」
アタシは双刀を抜いた。
「言ったじゃない!」
「三娘、敵に言っても仕方ないよォ!」
「知ってる!」
三方から遼兵が押し寄せ、さっきまで追う側だったこちらの軍が、あっという間に狭いところへ押し込まれていく。
「玉楼!」
「おります!」
返事だけで位置が分かった。
左から突き込まれた槍を双刀で弾くと、玉楼がすぐ横へ入り、こちらへ寄ろうとした別の兵を止める。
一人を退けても、その向こうから次が来る。
前を塞げば右が裂け、右へ寄れば後ろが薄くなる。
今までなら、敵陣に開いた場所を見つければ、そこへ入ればよかった。
今日は違う。
目の前に出来る隙そのものが、本当に味方へ通じる道なのか、それとも敵がわざと作った穴なのか分からない。
「三娘! 左が切られたよォ!」
孫二娘の声が飛び、ほぼ同時に顧大嫂まで怒鳴った。
「右もだ! どっち見りゃいいんだい!」
「両方よ!」
「無茶言うな!」
「アタシだって分かってる!」
その背後では、紅玉が朴刀を構えていた。
一人の敵兵が迫る。
紅玉は前へ出たものの、相手が退いたところで追わなかった。
その場で受け、半歩だけ下がる。
そこへ玉楼が横から槍を差し込み、敵兵を退かせた。
「今のままでいい!」
紅玉の顔は青ざめていたが、ただ怖がっているだけではない。
敵が不自然に退いていることも、罠の可能性も見えていた。
それでも自分達は今、その罠の中にいる。
その意味を、紅玉はようやく実感し始めたのだ。
「三娘様」
紅玉が息を整えながら、こちらを見る。
「見えていても……止められないことがあるんですね」
答えたくはなかった。
けれど、ここで嘘を言う方がよくない。
「あるわ」
それだけ答えた直後、風向きが変わった。
最初は戦場の土煙が巻き上がっただけかと思った。
ところが風は急激に強くなり、土と枯れ草を空高く巻き上げながら、見る間に空の色まで変えていく。
「何よ、これ!」
黒い雲が広がり、昼だというのに光が薄れていく。
ついさっきまで見えていた前方の兵の背中さえ闇の向こうへ消え、あちこちで馬が怯えて嘶き始めた。
「今度は天気まで敵なの!?」
孫二娘が闇の向こうから叫び返す。
「これは心理学じゃ説明出来ないねェ!」
「諦めるの早い!」
「専門外だよォ!」
その間にも視界はさらに悪くなり、近くにいるはずの兵すら輪郭しか見えなくなった。
顧大嫂の声だけが、すぐ近くから聞こえる。
「三娘! 玉楼!」
「ここ!」
「おります!」
その直後、さっきまで玉楼のそばにいた紅玉の姿が見えなくなった。
「紅玉!」
返事がない。
胸の奥が跳ね、すぐに馬を寄せようとした時、黒い砂混じりの風の向こうから玉楼の声が届いた。
「紅玉様、こちらを!」
目を凝らすと、玉楼が紅玉の腕を掴んでいる。
「三娘様を探して動いてはなりません。今は、わたくしを見てくださいませ」
紅玉は何度も頷いた。
「は……はい!」
よかった、と口にしかけたが、すぐに飲み込んだ。
まだ安心出来る状況ではない。
あたりでは兵達の呼び声が飛び交っているのに、前後も左右も分からず、味方の号令すらまともに届かない。
それなのに敵の鼓だけは、闇のどこかからやけにはっきり聞こえてくる。
「これが賀重宝の術か!」
誰かが叫んだ。
術――
もう驚くのも疲れた。
しばらくすると、遠くから公孫勝の声が聞こえてきた。
何を唱えているのかまでは分からないが、やがて風向きが変わり始め、空を覆っていた黒雲が少しずつ裂けていく。
光が戻り、ようやく周囲が見え始めた。
「……助かった」
息を吐いた。
けれど次の瞬間、アタシは違和感に気づいた。
景色がおかしい。
さっきまで近くにいたはずの隊が見当たらず、旗の数も兵の数も明らかに足りていない。
「待って」
周囲を見回す。
林冲はいる。孫二娘も顧大嫂も残っているし、紅玉も玉楼のそばにいる。
けれど――
「盧俊義は?」
誰もすぐには答えなかった。
玉田県の記憶が、頭の中へ嫌でも蘇ってくる。
またか……
ただし、今度は一人ではなかった。
各隊で人数を調べる声が飛び交い、やがて報告が届く。
盧俊義以下、十三人の頭領。
そして兵、五千余り。
まとめて姿が見えなくなっていた。
「……五千?」
孫二娘の顔から、いつもの笑いが消えた。
顧大嫂も眉を寄せる。
「消える数じゃないだろ」
「消えたのではございません」
玉楼は周囲の山と道を見渡した。
「切り離されたのでございます」
その日のうちに、盧俊義達は見つからなかった。
軍はいったん動きを止め、夜になると、いつもなら兵達の声が飛び交う焚き火の周りまで妙に静かになった。
紅玉は火のそばで膝を抱えるように座り、ずっと地面を見ている。
「紅玉」
呼ぶと、ようやく顔を上げた。
「アンタが見落としたわけじゃないからね」
「でも、私は……敵が逃げていないことに気づきました」
「うん」
「それでも、何も出来ませんでした」
少し離れたところにいた孫二娘が、そこで口を挟んだ。
「気づくことと、変えられることは別だよォ」
紅玉を見る目は、いつものように人をからかっている時とは違う。
「自分に出来ないことまで自分の責任にすると、次の判断がおかしくなる。見えたんなら、それは次に使えばいい」
紅玉はしばらく黙っていた。
アタシはその隣へ腰を下ろす。
「アタシだって止められなかった」
「三娘様も?」
「軍師二人でも止められなかったのよ。アタシにどうしろっていうの」
すると孫二娘が、ようやく少し笑った。
「開き直りも時には大事だねェ」
「フォローしてるのか刺してるのか、どっち?」
「両方」
紅玉の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
翌朝、林冲の隊にも捜索命令が出た。
各隊は東西南北へ分かれ、消えた軍の行方を探し始める。
馬蹄の跡や折れた枝、踏み荒らされた草まで、紅玉は一つずつ目で追っていた。
「こっちに跡があります」
声を上げた紅玉へ、アタシはすぐには行かないよう手で制した。
「すぐ飛びつかない」
紅玉が振り返る。
「昨日、見たもの全部をそのまま信じないって覚えたでしょ」
言われた紅玉は、もう一度地面へ目を落とした。
「……わざと残した可能性もあります」
「そう」
玉楼も頷く。
「痕跡にも、残した者の意図がございます」
捜索はそのまま続き、昼近くになって、ようやく解珍と解宝から知らせが届いた。
山の奥に、青石峪という場所があるらしい。
入口は狭く、中へ入れば四方を険しい崖に囲まれる。
出口を押さえられれば、たとえ大軍でも簡単には抜けられない地形だという。
「そこに?」
「可能性が高い」
林冲の顔が険しくなった。
アタシも背中が冷える。
五千もの兵を抱えたまま閉じ込められているなら、問題は敵だけじゃない。
持っている兵糧が尽きれば、それだけで軍は動けなくなる。
急がなければならない。
その時だった。
遠くから石勇の怒鳴り声が聞こえてきた。
「待て! そいつを止めろ!」
何を止めるのかと思った、その直後。
山道の上から、何か大きな塊が転がってきた。
毛せんでぐるぐる巻きにされた、妙に長い包みだった。
その後ろから段景住が必死に追いかけている。
塊は石にぶつかって跳ね上がり、向きを変えてさらに斜面を転がった。
「……何あれ?」
誰も答えない。
やがて包みは大きな石にぶつかり、ようやく止まった。
その中から、
「う……」
声がした。
その場にいた全員が固まった。
「……人!?」
孫二娘が目を細める。
「人だねェ」
「何で人が山から転がってくるのよ!?」
「知らないよォ!」
石勇と段景住が慌てて縄を切り、毛せんを開いていく。
中から出てきたのは、全身傷だらけになり、完全に目を回している白勝だった。
「白勝!?」
白勝は大きく息を吸おうとして、そのまま激しく咳き込んだ。
林冲がすぐそばへ膝をつく。
「何があった」
白勝は何度か口を開き、ようやく掠れた声を絞り出した。
「盧俊義達が……青石峪に閉じ込められちまった」
一度、息を詰まらせる。
そして白勝は、さらに続けた。
「兵糧もないぜ」
誰も声を出さなかった。
「早く……助けを」
本日は、軍師のお二人が「罠では」と仰ったにもかかわらず、そのまま進軍いたしました。
「しかも本当に罠だったねェ」
「答え合わせが早すぎるだろ」
まったくでございます。
三娘様も紅玉様も、敵の退き方がおかしいと気づいておりました。
「見えてても止められないことはあるんだよォ」
「五千人ごと消えるとは思わないけどねぇ」
そこへ翌日――
山から大きな包みが転がってまいりました。
「中身、人だったねェ」
「白勝だったな」
……なぜ毛氈に包まれて山を転がってきたのでしょう。
詳しく伺う前に、もっと大きな問題が判明しました。
盧俊義様方は、青石峪の中。
そして――
兵糧がございません。




