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半拍の先

淮西へ向かう道の途中で、アタシは瓊英に石礫を投げてもらう事にした。

……自分で頼んでおいて何だけど、嫌な稽古だった。

痛いから嫌なのではない。

いや、痛いのも嫌だけど。

それ以上に、見えているのに合わないのが嫌だった。

矢なら分かる。

飛んで来る線がある。

身体が勝手に動く。

でも、石礫は違う。

線じゃない。

点で来る。

見えたと思った時には、もう近い。

合わせようとすれば遅れる。

早く出せば空を切る。

本当に、腹が立つ。

「三娘、稽古の相手に瓊英を選ぶ時点で大概だよォ」

孫二娘が、柄杓を肩に乗せながら言った。

「苦手なんだから仕方ないでしょ」

「苦手だから普通は避けるんだよォ」

顧大嫂が荷車の縄を締めながら鼻を鳴らす。

「避けてたら、また同じ所で落とされるからね。そこは三娘の方が正しいよ」

「ほら」

「ただし、やりすぎると今度は別の所で倒れる」

「ほらじゃなかったわ」

孫二娘が笑った。

「顧大嫂は褒める時も棍棒で殴るねェ」

「アンタは冗談で煙に巻きすぎなんだよ」

「煙なら淮西へ向かう前からずっと出てるよォ」

「縁起でもない事を言うんじゃないよ」

紅玉は、少し離れた場所でこちらを見ていた。

相変わらず真面目な顔をしている。

「紅玉、どうしたの」

「……瓊英様の石礫は、怖いです」

「そうね」

「でも、扈三娘様が何度も見ようとしていたので……怖いものは、見た方がいいのだと思いました」

孫二娘が紅玉を見た。

「真面目だねェ」

顧大嫂も頷く。

「でも、間違ってはいないね。怖いから見ない、で済む場所ならそれでいい。でも、戦場で次も来るなら、見ておいた方がいい」

紅玉は小さく頷いた。

「はい」

「ただし」

顧大嫂が続ける。

「見るのと、無茶して突っ込むのは違うよ」

紅玉が一瞬、こちらを見た。

孫二娘もこちらを見た。

顧大嫂もこちらを見た。

「何で全員アタシを見るのよ」

「心当たりがあるからじゃないかい」

「ないわよ」

「あるねェ」

紅玉が申し訳なさそうに言った。

「少しだけ……」

「紅玉まで」

孫二娘が楽しそうに笑った。

「今日もよく刺すねェ」

「刺しているつもりはありません」

「だから痛いんだよォ」

本当に、この子は時々まっすぐ刺してくる。

でも、そのまっすぐさが今は悪くない。

瓊英と向き合ってから、紅玉は少し変わった。

怖いと言う。

分からないと言う。

それでも見ようとする。

前より少しだけ、戦場の見方を覚えている。

それは、きっと悪い事じゃない。

アタシは手を握った。

まだ、完全には戻っていない。

石礫に崩された感触は、腕の奥に残っている。

でも、全く見えなかった訳じゃない。

合わなかっただけだ。

いや、合わなかったから落とされたんだけど。

それでも、見えた瞬間はあった。

「矢は線。礫は点」

そう呟くと、孫二娘が眉を寄せた。

「また難しい事を言い出したねェ」

「難しくないわよ」

「いや、難しいよォ。アタシなら、石は嫌だ、で終わるねェ」

「それはそれで正しいわ」

顧大嫂が笑った。

「三娘がそう言う時は、大体まだ諦めてない時だね」

「諦める理由がないもの」

「そういう所だよ」

「何がよ」

「前に出る理由を見つけるのが早い」

言い返せなかった。

そうかもしれない。

でも、今回はただ前へ出ればいい訳じゃない。

来るものを追うだけでは遅い。

通る場所に身体を残せば死ぬ。

半拍だけ先に外す。

瓊英に言われて、頭では分かった。

身体は、まだ遅れる。

でも、山南州の前で段五と当たった時、ほんの少しだけ分かった。

槍先だけを見るんじゃない。

肩。

足。

馬の首。

呼吸。

ほんの少し沈む場所。

そこを見た時、身体が半拍だけ先に動いた。

石礫を弾き返した訳じゃない。

瓊英に勝てる様になった訳でもない。

でも、生き残れる場所が一つ増えた気がした。

「段五を討ったんだろ?」

顧大嫂が言った。

「ええ」

「なら、無駄じゃなかったって事だ」

孫二娘が頷く。

「石に転ばされて、槍で少し取り返したってところかねェ」

「言い方」

「でも、そうだろォ」

「まあ……そうかもしれないわね」

紅玉が小さく口を開いた。

「扈三娘様は、まだ納得されていないのですね」

「してないわよ」

「段五を討ったのに」

「段五は討った。でも、石礫はまだ弾き返せてない」

紅玉は少しだけ考え込んだ。

「では、まだ続くんですね」

「続くわ」

「怖いです」

「怖いままでいいわ」

アタシはそう答えた。

「でも、見るのよ」

紅玉は頷いた。

「はい」

孫二娘がにやりと笑う。

「紅玉もだいぶ三娘に染まってきたねェ」

「えっ」

「怖いって言いながら見るところなんか、そっくりだよォ」

顧大嫂が笑う。

「いや、三娘よりは慎重だね」

「そこは大事よ」

「自分で言うんだねェ」

「アタシみたいになったら困るでしょ」

三人が黙った。

玉楼まで、少しだけ目を伏せた。

「だから何でそこで黙るのよ」

孫二娘が腹を抱えて笑った。

「いやァ、三娘が自分で言ったからねェ」

顧大嫂も笑っている。

紅玉も、口元を押さえていた。

少しだけ腹が立つ。

でも、少しだけ救いでもある。

石礫の痛みも。

届かなかった悔しさも。

淮西へ向かう乾いた風も。

全部、まだ残っている。

でも、笑えるなら、まだ進める。

山南州の城門は、まだ先にある。

王慶軍は、こちらを待っている。

段五の様な相手も、きっとまだいる。

石礫。

飛刀。

流星鎚。

次に何が来るかは分からない。

でも、来るものをただ追うだけでは遅い。

通る場所に、身体を残さない。

半拍だけ先に外す。

それを、身体に覚えさせる。

「行くわよ」

アタシが言うと、孫二娘が片手を上げた。

「はいはい、石嫌いの扈将軍」

「その呼び方やめなさい」

顧大嫂が荷車を叩く。

「じゃあ、半拍遅れない扈将軍かい」

「まだ遅れるわよ」

紅玉が真面目に言った。

「でも、少しだけ近付きました」

アタシは紅玉を見る。

その言葉は、瓊英と同じだった。

少しだけ近付いた。

まだ届かない。

でも、近付いた。

「……そうね」

アタシは手綱を握り直した。

「少しだけね」

淮西へ向かう風は、まだ乾いている。

でも、刀は落としていない。

なら、まだ前へ出られる。

淮西へ向かう途中、幕舎の中は妙に静かだった。

外では兵達が動いている。

馬の鳴く声も、荷を運ぶ音もする。

それなのに、ここだけ少し遠い。

アタシは膝に手を置いたまま、しばらく黙っていた。

玉楼は何も言わず、傍に控えている。

「……あの時さ」

声にすると、思っていたより苦かった。

「分かってたのよ」

「石礫が来るって」

玉楼は黙って聞いている。

「見えてた」

「でも、間に合わなかった」

指先を見る。

刀を握っていたはずの手が、今でも少し重い。

「どうしても、遅れる」

「いや……違うわね」

「ずれてしまうのよね……」

矢なら違う。

飛んで来る。

流れる様に身体が勝手に動く。

でも、石礫は違った。

見えたと思った時には、もう近い。

刀を出した時には、もう遅い。

遅れたと思って早く出せば、今度は空を切る。

玉楼は少し間を置いてから言った。

「……瓊英殿に、手合わせをお願いしてみては」

アタシは頷いた。

「分かったわ。ありがとう」

立ち上がり、幕舎を出る。

そのまま張清の幕舎へ向かった。

「瓊英、いる?」

少し間があって、瓊英が出てきた。

改めて顔を見る。

……こんな愛らしい顔で、あの石を投げるのね。

「いかがなされましたか?」

「少し、付き合ってくれる?」

「……石礫のことなんだけど」

瓊英は、少しだけ考えた。

それから静かに頷く。

「分かりました」

外へ出て、少し開けた場所へ移る。

玉楼も、いつの間にか後ろに来ていた。

瓊英が距離を取る。

手の中に、小さな石がある。

「いつも通りでいいわ」

「承知しました」

アタシは双刀を構えた。

一歩、踏み出す。

――来る。

分かる。

でも、石は線にならない。

音もない。

大きな構えもない。

ただ、手元から小さく消える。

見えた。

そう思った時には、もう頬の横を抜けていた。

刀は遅れて空を切る。

もう一度。

――来る。

今度は早く出した。

でも、何もない場所を斬った。

石はその後で来た。

「……早いですね」

瓊英が静かに言う。

「分かってる」

もう一度、石が来る。

見えた。

刀を出す。

また遅れる。

次は早すぎた。

その次は手だけが出た。

足が残り、身体が開く。

もし戦場なら、その後を斬られていた。

アタシは足を止めた。

「……やっぱりダメね」

瓊英は動かない。

「矢は平気なのですか?」

少しだけ間を置く。

「……平気よ」

「矢は、見えるし」

「身体が勝手に動くの」

言ってから、違うと思った。

「……違うわ」

「アタシじゃない」

「石礫を、身体が知らないのよ」

瓊英は静かに頷いた。

「……そういうことですね」

少しだけ間を置く。

瓊英は手の中の石を見た。

「でしたら、今は当てにいかないでください」

「来るのを、見るだけでよろしいかと」

「見るだけ?」

「はい」

「刀を合わせようとするから、遅れます」

「遅れたと思って急げば、今度は早すぎます」

腹が立った。

その通りだったからだ。

「石は、矢のように線で追えません」

「追えば、遅れます」

「まず、見失わないことです」

「見失わないって……」

「石を斬るのではなく、石が来た場所に身体を残さない」

「今は、それだけで」

アタシは息を吐いた。

「……もう一度」

瓊英が石を構える。

飛んで来るのを見るだけ。

手は出さない。

石が頬の横を抜ける。

身体が動きかける。

でも、止める。

また来るのを見る。

今度は目だけが追い過ぎた。 身体が固まり、石が抜ける。

また来る。

今度は見えた。

けれど、身体がまだ信じていない。

何度か繰り返すうちに、息が少し上がった。

「扈三娘様」

玉楼の声がした。

「林冲様が、お呼びです」

アタシは息を整え、瓊英を見る。

瓊英は小さく頷いた。

「待っています」

林冲の幕舎へ向かう。

玉楼もついてくる。

中に入ると、林冲が立っていた。

「さっきのは、何だ?」

「石礫の対策よ」

林冲は目を細める。

「矢は受けられるだろう」

「矢は線だわ」

「礫は、点で来る」

林冲は少し黙った。 それから、短く言う。

「続けろ」

「斥候は、しばらく黄信に任せる」

それだけだった。

でも、それで十分だった。

幕舎を出て、瓊英のところへ戻る。

瓊英は、まだ立っていた。

「……もう一度」

夕刻になり、空気が少し冷えていた。

影が伸びる。

石が来る。

見る。

身体は、まだ追いつかない。 石が、頬の横を抜ける。

手は出さない。

次。

見る。

今度は見失わなかった。

でも、身体は固まった。

次。

少しだけ肩が動く。

でも、遅い。

「今は、それくらいで」

瓊英が言う。

「腹立つわね」

「はい」

あっさり返されて、余計に腹が立った。

火の周りに座る。

湯気が上がる。

アタシは箸を持ったまま、しばらく動かなかった。

「……ダメね」

玉楼は何も言わない。

「見えてるのに」

「間に合わない」

箸を持つ手を見る。

まだ合わない。

でも、全く見えていない訳ではない。

そこが余計に腹立たしい。

「矢は、線」

「礫は、点」

小さく呟く。

蠅が飛んでいた。

小さくて速い。

軌道が読めない。

ふっと動き、ふっと止まる。 また消えるように飛ぶ。

アタシは目で追う。

蠅が見える。

でも、手は出さない。

蠅が椀の縁に止まり、また飛ぶ。

見失わない様に、目で追う。

手は、まだ出さない。

少しだけ間合いを詰める。

箸先がわずかに動く。

――今。

動きに合わせる。

箸先が、空を切った。

玉楼は黙っている。

紅玉も、少し離れたところで見ていた。

アタシは箸を置いた。

「……腹立つわね」

誰も笑わなかった。

翌朝、淮西へ向けて、また出発した。

次の宿営地に入ると、日が落ちる前に瓊英を呼んだ。

同じ距離。

同じ位置。

「行きます」

石が来るのを見る。

手は出さず、石が抜ける。

風だけが残る。

もう一回、見る。

今は、目が追いすぎた。

石の後を追ってしまい、反応が遅れる。

「追いすぎです」

「分かってる」

次は見える。

身体が動く。

でも、足が残る。

「避けるだけです」

「分かってる!」

次。

反応が早い。 空を切る。

次。

遅い。 頬の横を抜ける。

次。

身体が固まり、合わない。

それでも、やめない。

別の日の夕暮れ。

影が伸びる。

石が来る。

見る。

今度は、少しだけ身体が近い。

でも、かするだけだった。

「……もう少しです」

瓊英が言った。

「もう少しじゃ意味ないのよ」

「ですが、近付きました」

アタシは息を吐いた。

まだ合わない。

でも、最初とは違う。

遅いだけではない。

早すぎるだけでもない。

ほんの少し、石が通る場所を身体が覚え始めている。

数日が経ち、山南州が見えた。

城門は厚く閉ざされている。 その手前に、王慶軍が待ち構えていた。

陣形を整え、道を塞いでいる。

林冲の隊が止まる。

前へ出るよう、目で示された。

アタシは手綱を握り直す。

石礫は来ない。

飛刀も来ない。

流星鎚も来ない。

来るのは、槍と盾。

普通の兵だ。

でも、身体の中にはまだ、石が抜ける感覚が残っていた。

玉楼が後ろに来る。

紅玉もいる。

「前へ」

林冲が号令を発する。

アタシは馬腹を蹴った。

刀と槍がぶつかり、甲高い金属音が鳴る。

重い。

一振りの重さが、これまでの雑兵とは違う。

押し返せない。

敵兵が来る。

アタシは踏み込み、刀で斬り倒す。

でも、抜けが悪い。

刃が止まる。

次の敵兵が来るのを、アタシは見る。

遅れて踏み込む。

敵兵の切先が先に来る。

――間に合わない。

ギリギリで避け、 頬を掠めた。

皮膚が裂け、熱が走る。

その瞬間、石礫の感覚が戻った。

来るのが見える。

でも、手が遅れる。

遅れた手を無理に合わせれば、今度は早すぎる。

当てにいかない。

追いすぎない。

石が来る場所に、身体を残さない。

敵兵の槍先が来る。

見える。

でも、槍先だけを追わない。

肩、足、馬、呼吸。

ほんの少し、沈む。

――そこ。

足が先に動いた。

身体が半歩外れる。

槍が頬の横を抜ける。

その後で、刀がついてくる。

振ると、刃が身体を抜けた。

敵兵が崩れる。

次の敵兵が来る。

今度は、刃を見るのではなく、刃が来る場所を見る。

視界が開いた訳じゃない。

全部が分かった訳でもない。

ただ、さっきまでずれていたものが、ほんの少しだけ合った。

それだけで、戦場の音が変わった。

敵の隊列が揺れる。

アタシは止まらず踏み込む。 刀を振り、間合いに入る。

槍を避け、斬る。

舞っている訳じゃない。

流されている訳でもない。

半拍だけ、先に入れている。

玉楼が隣に来る。

紅玉は後ろ。

三人で敵陣を割る。

林冲の声が後ろから飛んだ。

「扈三娘に続け!」

崩れた王慶軍の中から、一騎だけ前に出る。

周囲の兵が、わずかに道を空けた。

長槍に重そうな鎧。

馬も大きい。

相手は真正面から突っ込んでくる。

「我が名は――段五!」

アタシは段五めがけて、そのまま踏み込む。

段五の槍が来る。

速い。

それでいて、重い。

真正面から潰しに来る。

刀と槍が激しく噛み合い、火花が散る。

押し切れない。

段五が、そのまま槍を押し込んでくる。

馬ごと潰すつもりだ。

アタシは刀を滑らせ、力を外す。

その瞬間、段五の槍先が頬の横を抜ける。

浅い。

でも、速い。

段五が目を細めた。

「ほう」

次が来る。

アタシは見る。

槍先じゃない。

肩、足、馬の首。

槍が出た直後、その線に身体を残さないための半拍。

段五の馬が踏み込み、槍が伸びる。

――半拍、早い。

足が動いた。

槍が通る場所から身体が外れる。

そのまま、懐へ入ると、段五の目がわずかに開いた。

アタシは、脇腹辺りを目掛けて、斬り払う。

鎧が裂け、段五の身体が傾く。

止まらない。

もう一歩。

返す刀で、さらに斬る。

段五が馬上から崩れ落ちた。

周囲の王慶軍が止まる。

アタシは刀を振り払い、前を見る。

――今は遅れなかった。

そう言い切れるほど、甘くはない。

石礫なら、まだ外すかもしれない。

飛刀なら、見落とすかもしれない。

流星鎚なら、受け損ねるかもしれない。

でも、分かった。

来たものを追うだけでは遅い。

通る場所に残れば死ぬ。

半拍だけ先に、身体を外す。

それだけで、生き残れる場所が一つ増える。

アタシが段五を討ち取った瞬間、敵兵が退き始めた。

隊列が割れ、崩れていく。

林冲に目をやると、林冲が頷く。

後続も前へ出る。

玉楼が隣で槍を払いながら、静かに言った。

「掴まれましたね」

アタシは息を吐く。

「まだよ」

頬の傷が熱い。

手も痺れている。

息も荒い。

でも、刀は落としていない。

「でも、少しだけね」

玉楼が小さく頷いた。

紅玉が後ろで、何かを言いたそうにしている。

アタシは前を向いた。

「行くわよ」

王慶軍の崩れた陣へ、さらに踏み込む。

山南州の城門は、まだ閉じている。

でも、さっきより少しだけ近く見えた。

淮西へ向かう途中、扈三娘様は瓊英殿に石礫の稽古を申し出られました。

苦手だから避ける。

そういう選び方もあります。

ですが、あの方はそうされませんでした。

苦手だから見る。

届かなかったから、もう一度向き合う。

それは、扈三娘様らしい選び方だったと思います。

もっとも、見ている側としては、胃に悪い選び方でもありました。

「玉楼、最初から本音が漏れてるよォ」

孫二娘殿が横から言いました。

「本音ではありません」

「いや、本音だろ。胃に悪いって顔してるよォ」

顧大嫂殿も荷車の横で頷きました。

「三娘が瓊英に石を投げてもらうって聞いた時点で、普通は止めるからね」

「止めても聞かれません」

「そこは分かってるんだねぇ」

「分かっております」

孫二娘殿が笑います。

「三娘も三娘だけど、玉楼も大概だねェ。止めても聞かないって分かってて、隣で見てるんだから」

「見ていなければ、もっと危ないでしょう」

「ほらねェ」

「何がですか」

「似てるんだよォ」

私は少し黙りました。

顧大嫂殿まで笑っています。

「三娘は前へ出る。玉楼はその半歩後ろまで出る。結局、二人とも戻る場所を考える前に身体が動いてる時がある」

「その様な事はありません」

「あるね」

少し離れた所で、紅玉が小さくこちらを見ました。

「……少しだけ、あると思います」

「紅玉」

紅玉は慌てて目を伏せました。

「す、すみません」

孫二娘殿が楽しそうに笑います。

「今日も刺すねェ、紅玉」

「刺しているつもりはありません」

「だから痛いんだよォ」

顧大嫂殿も笑いました。

「でも、よく見てるじゃないか」

紅玉は困った様に口を結びました。

けれど、以前よりも慌てすぎてはいません。

見た事を、言葉にする。

その力が、少しずつ育っています。

今回、紅玉は扈三娘様の稽古を見ていました。

瓊英殿の石礫が来る。

扈三娘様は、それを見ようとする。

刀を出そうとして遅れる。

早く出せば、今度は空を切る。

手を出さず、見るだけにしても、身体が信じ切れない。

それを、紅玉は見ていました。

怖いまま、見ていました。

「紅玉」

私が呼ぶと、紅玉は顔を上げました。

「はい」

「瓊英殿の石礫を見て、どう思いましたか」

紅玉は少しだけ考えました。

「怖いです」

「はい」

「でも、前より少しだけ……見えるものが増えた気がします」

孫二娘殿が、柄杓を肩に乗せます。

「へェ」

紅玉は言葉を探していました。

「石そのものは、まだ見えません。でも、扈三娘様がどこで遅れるのか、どこで早すぎるのか、それは少しだけ分かりました」

顧大嫂殿が頷きました。

「いい見方だね。石ばっかり追うと、肝心なところを見落とす」

「肝心なところ、ですか」

「人だよ。石を投げる方も、避ける方も、人なんだ。手元だけ見ても、全部は分からない」

紅玉は真剣に頷きました。

「はい」

私は少しだけ安心しました。

紅玉は、ただ瓊英殿に憧れているだけではありません。

ただ扈三娘様を心配しているだけでもありません。

見て、考えようとしている。

それは、戦場で生き残る為に必要な力です。

「それにしても、三娘もよくやるねェ」

孫二娘殿が言いました。

「石に落とされて、また石を見に行くんだからさ」

「嫌なものほど、忘れてはいけないのでしょう」

私が言うと、孫二娘殿は眉を上げました。

「玉楼が言うと真面目だねェ」

顧大嫂殿が鼻を鳴らします。

「二娘が言うと、嫌なものほど飯の味が濃くなる、くらいになるからね」

「ひどいねェ」

「事実だろ」

「否定しきれないねェ」

紅玉が、少しだけ笑いました。

その笑いは、まだ小さいものでした。

ですが、淮西へ向かう乾いた道の上では、それだけでも十分でした。

石礫の稽古は、すぐに成果が出るものではありません。

扈三娘様は、石を弾き返した訳ではありません。

瓊英殿に勝てる様になった訳でもありません。

けれど、山南州の前で段五と当たった時、あの稽古は確かに形を変えて現れました。

槍先だけを追わない。

肩を見る。

足を見る。

馬の首を見る。

呼吸を見る。

動き出す前の、わずかな沈みを見る。

そこから、半拍だけ先に身体を外す。

あれは、扈三娘様が瓊英殿との稽古で掴みかけていたものです。

完全ではありません。

ですが、確かに少しだけ近付きました。

「半拍だけ先に外す、かい」

顧大嫂殿が言いました。

「はい」

「難しいねぇ」

孫二娘殿が笑います。

「アタシなら、危ないから避ける、で終わるよォ」

「それも一つの正解です」

「また半分褒めてるだろ」

「今回は七割ほどです」

「増えたねェ」

顧大嫂殿が笑いました。

「残り三割は何だい」

「孫二娘殿らしい、という意味です」

「やっぱり褒めてないねェ」

紅玉が小さく言いました。

「でも、避けるのも大事ですよね」

「大事さ」

顧大嫂殿がすぐに答えました。

「勝つ事より先に、死なない事だ。死ななきゃ、次に考えられる」

紅玉は頷きました。

「はい」

孫二娘殿が紅玉を見ます。

「紅玉は、だいぶ分かってきたねェ」

「分かってきたのでしょうか」

「少なくとも、怖いと言いながら見てる」

顧大嫂殿も頷きます。

「それだけで、前よりずっとましだよ」

紅玉は少しだけ目を伏せました。

「まだ、怖いです」

「怖いままで良いのです」

私が言うと、紅玉は顔を上げました。

「はい」

「怖いから見えるものもあります。怖くないふりをすると、見落とすものがあります」

紅玉は静かに頷きました。

「怖いまま、見ます」

孫二娘殿がにやりと笑います。

「また一つ覚えたねェ」

「はい」

「真面目だねェ」

「真面目に覚えないと、また怖いので」

顧大嫂殿が笑いました。

「いい答えだ」

そう言って、顧大嫂殿は荷車の縄を締め直しました。

戦場で覚える事は、きれいなものばかりではありません。

怖いもの。

嫌なもの。

痛いもの。

届かなかったもの。

そういうものも、覚えなければならない時があります。

扈三娘様にとって、瓊英殿の石礫はその一つでした。

そして、その石礫から学んだ半拍が、段五を討つ時にほんの少し役に立った。

それだけの事かもしれません。

ですが、戦場では、その「ほんの少し」が命を分ける事があります。

「玉楼」

孫二娘殿が、ふとこちらを見ました。

「はい」

「また難しい顔だよォ」

「考え事です」

「眉間に皺が寄るよ」

「寄っておりません」

顧大嫂殿が即座に言いました。

「寄ってるね」

紅玉も、小さく頷きます。

「少しだけ……」

「紅玉まで」

孫二娘殿が笑いました。

「ほら、玉楼も疲れてるんだよォ」

「私は疲れておりません」

「疲れてるって言えない奴から潰れるんじゃなかったかい?」

顧大嫂殿がそう言うと、私は少し黙りました。

それは、以前に私自身が言った事でもあります。

怖いと言えるなら、まだ大丈夫。

疲れたと言えるなら、まだ大丈夫。

ならば、私も言うべきなのでしょう。

「……少しだけ、疲れています」

孫二娘殿が満足そうに頷きました。

「よし」

紅玉が小さく続けます。

「よし、なのですね」

「そうだよォ。怖いも、疲れたも、苦手も、言えるならよしだよォ」

顧大嫂殿が荷車を押し始めました。

「じゃあ、疲れた玉楼も動くよ。山南州は待ってくれないからね」

「待ってくれないのですか」

紅玉が真面目に聞きます。

孫二娘殿が笑いました。

「城が待ってくれるなら、戦なんか楽なんだけどねェ」

顧大嫂殿が鼻を鳴らします。

「待ってくれないから、こっちが見るんだよ。前も、横も、後ろもね」

紅玉は頷きました。

「はい」

私は前を見ます。

山南州へ向かう道が伸びています。

段五は討たれました。

けれど、王慶軍はまだ残っています。

石礫。

飛刀。

流星鎚。

次に何が来るかは分かりません。

扈三娘様は、きっとまた前へ出られるでしょう。

紅玉は怖がりながらも、見ようとするでしょう。

孫二娘殿と顧大嫂殿は、文句を言いながらも場を保つでしょう。

私は、その半歩後ろで見ています。

誰が無理をしているか。

誰が怖がっているか。

誰が笑えているか。

誰が、半拍遅れそうになっているか。

それを見落とさない様に。

淮西へ向かう風は乾いています。

ですが、完全な沈黙ではありません。

その事だけは、まだ救いでした。

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