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白旗と次の命令

襄垣の城門が開いた。

白旗が見えた。

張清がいて、その横に若い女がいた。

田虎は捕らえた。

戦は終わった。

……言葉にすれば、それだけなのよ。

でも、アタシの腕にはまだ石礫の痛みが残っていた。

勝った。

確かに、梁山泊は勝った。

でも、アタシはあの女に届かなかった。

間合いを握られて、前に出る力を殺されて、落とされた。

それなのに、戦はアタシの知らない所で終わっていた。

「三娘、また顔が怖いよォ」

孫二娘が横から覗き込んできた。

「怖くないわよ」

「怖いねェ」

顧大嫂も水袋をまとめながら頷いた。

「怖い顔だねぇ」

「アンタ達、揃って言わなくていいでしょ」

紅玉まで、少しだけこちらを見る。

「……少しだけ」

「紅玉まで」

孫二娘が笑った。

「今日の紅玉はよく刺すねェ」

紅玉は慌てて首を振った。

「刺しているつもりはありません」

「だから痛いんだよォ」

顧大嫂が笑う。

「でも、よく見てるじゃないか」

紅玉は少しだけ困った顔をした。

そう。

この子は見ていた。

アタシが届かなかった所も。

瓊英が白旗を掲げて出てきた所も。

張清が妻だと言った所も。

戦が、こちらの知らない所で終わった所も。

「……瓊英、だったわね」

アタシが呟くと、孫二娘の顔から少し笑いが引いた。

「石礫の女だねェ」

「ええ」

「嫌な相手だったかい」

「嫌よ」

素直に言った。

顧大嫂が鼻を鳴らす。

「嫌だって言えるなら、まだいいよ」

「またそれ?」

「何度でも言うよ。嫌なものを嫌だと言えない奴は、同じ所で無理をする」

紅玉が小さく頷いた。

「嫌なものを、覚えておくんですね」

「そうさ。ただ怖がるだけじゃなくてね。どこが嫌だったのか、覚えておく」

どこが嫌だったのか。

石の速さ。

見えない位置。

こちらが踏み込む前に、手元や足元へ来る間。

前へ出ようとした瞬間に、力を抜かれる感触。

……全部、嫌だった。

「野球とかソフトボールみたいなのよね」

ぽつりと漏らすと、孫二娘が眉を寄せた。

「またそれかい」

紅玉が真面目に続ける。

「やきゅう、そふとぼうる……」

「覚えなくていいわよ」

「でも、扈三娘様が苦手なものなら、覚えた方がいいかと」

「覚えなくていいのは、そこ」

孫二娘が肩を揺らして笑った。

「紅玉は真面目だねェ」

顧大嫂も笑う。

「変な言葉まで拾うんじゃないよ」

紅玉は少しだけ赤くなった。

でも、少し笑った。

それでいい。

勝った気がしない勝ちの中でも。

腕の痛みが残る中でも。

紅玉がまだ笑えるなら、全部が終わった訳じゃない。

でも――

その直後に、恩賞が出た。

名前が呼ばれて、褒美が渡された。

周りは喜んでいた。

当然だ。

勝ったのだから。

喜んでいいはずだ。

でも、アタシの手に乗った重さは、変な重さだった。

勝った褒美なのか。

使われた証なのか。

次へ行かせる為の札なのか。

分からなかった。

「三娘、褒美を貰っても嬉しそうじゃないねェ」

孫二娘が言う。

「嬉しそうに見える?」

「見えないねェ」

「じゃあ聞かないで」

顧大嫂が低く笑った。

「まあ、あの流れじゃねぇ。褒美を渡して、はい次は淮西だ。休む暇もありゃしない」

「本当にね」

田虎が終わった。

だから次。

勝った。

だから次。

恩賞を渡した。

だから動け。

朝廷の命は、そう聞こえる。

幽州を前にして退かされた。

田虎へ向かわされた。

田虎が終われば、王慶討伐。

アタシ達は、勝っているのか。

ただ弄ばれているのか。

もう、その境目が分からなくなる。

「李俊殿、怒っていましたね」

紅玉が小さく言った。

アタシは少しだけ息を吐いた。

「怒るわよ」

「扈三娘様も、怒っていました」

「そうね」

「林冲殿は……」

紅玉は言いかけて、止まった。

玉楼が静かに続ける。

「林冲殿は、分かっていて動かれる方です」

「ええ」

だから、辛い。

林冲には、あの時からついていくと決めた。

でも、それと宋江についていくことは違う。

李俊の言うことも分かる。

このまま進めば、こき使われて、最後には捨てられる。

そんな予感が、だんだん形になっている。

孫二娘が柄杓を肩に乗せた。

「嫌な道だねェ」

顧大嫂が荷車を叩く。

「でも、行くんだろ」

「行くわよ」

「分かってるなら上等だ」

「上等かどうかは分からないけどね」

孫二娘が笑う。

「三娘は文句を言いながら前へ出るからねェ」

「それ、褒めてる?」

「半分くらいは」

「残り半分は?」

「心配だよォ」

言い返せなかった。

紅玉がこちらを見る。

「扈三娘様」

「何?」

「次は……淮西なんですよね」

「そうよ」

「怖いです」

「怖いままでいいわ」

アタシは短く答えた。

「でも、見るのよ。前だけじゃなくて、横も後ろも。戻る場所も」

紅玉は頷いた。

「はい」

顧大嫂が満足そうに鼻を鳴らす。

「覚えてるじゃないか」

孫二娘も笑う。

「紅玉は育ってるねェ。変な所まで育ってるけど」

「変な所ですか」

「たまに言葉が刺さる所だよォ」

紅玉は困った様に目を伏せた。

「刺しているつもりは……」

「ないんだろォ。だから痛いんだよォ」

少しだけ笑いが生まれた。

それでも、淮西へ向かう風は乾いている。

田虎の戦は終わった。

瓊英の石礫の痛みは残った。

恩賞の重さも残った。

李俊の背中も残った。

そして、次の命が出た。

王慶討伐。

また、新しい戦が始まる。

「……次は、必ず」

言い切る前に、声は消えた。

でも、決めてはいた。

今度は、届かせる。

届かなかった距離を、そのままにはしない。

アタシは手を握った。

まだ、力は戻りきっていない。

腕の奥が鈍く痛む。

孫二娘がそれを見て、すぐに言う。

「無理するんじゃないよォ」

「してないわよ」

顧大嫂が即座に返す。

「してる顔だね」

紅玉まで、小さく頷いた。

「少しだけ……」

「本当に、みんなで言わないで」

玉楼も、静かにこちらを見ていた。

その目が一番怖い。

でも、少しだけ救いでもあった。

見ている者がいる。

止める者がいる。

笑う者がいる。

怖いと言える子がいる。

なら、まだ進める。

淮西へ向かう風は乾いていた。

でも、完全な沈黙じゃない。

その事だけは、まだ救いだった。

両軍が睨み合ったまま、数日が過ぎた。

襄垣の城門は閉じたまま。

こちらも、無理には押し込めない。

前へ出れば、石礫が来る。

下がれば、城側の兵が間合いを詰める。

押しているはずなのに、流れがこちらへ来ない。

それが、何より気持ち悪かった。

アタシの腕は、まだ腫れていた。

刀は握れる。

でも、握った瞬間に、あの石が手元へ来た感触が戻る。

肩に当たった重さ。

腕を止められた痛み。

馬の首元を打たれた時の、体勢が外れる感じ。

全部、残っている。

「……嫌な相手ね」

ぽつりと漏らすと、玉楼が包帯を見ながら答えた。

「はい。こちらの力を、出す前に削ってきます」

紅玉は少し離れた場所で、じっと城を見ていた。

「見えないのに、止められるんですね」

「そうよ」

「怖いです」

「怖いままでいいわ。前に出すぎなければ」

紅玉は小さく頷いた。

その頷きは、前より少しだけ落ち着いていた。

怖がっている。

でも、怖いから逃げるだけではない。

見て、考えて、下がる場所を探す。

少しずつ覚えている。

外では、兵達の声が少なくなっていた。

怒鳴り声もない。

大きな衝突もない。

ただ、一定の距離を挟んで、互いに見ている。

こちらが動けば、向こうも動く。

こちらが止まれば、向こうも止まる。

まるで、目に見えない縄で繋がれている様だった。

孫二娘が幕舎の外から戻ってくる。

「水は回してきたよォ。けど、兵の顔色が良くないねェ」

顧大嫂も後ろから入ってきた。

「そりゃそうさ。前に出たくても出られない。下がりたくても下がれない。こういうのが一番疲れるんだよ」

「分かるわ」

アタシは腕を軽く動かして、すぐにやめた。

痛みが戻る。

孫二娘がそれを見る。

「無理するんじゃないよォ」

「してないわよ」

「してる顔だねェ」

顧大嫂が鼻を鳴らす。

「三娘は顔に出るからね」

「出てない」

「出てるよ」

紅玉まで、少しだけこちらを見る。

「……少しだけ」

「紅玉まで」

孫二娘が笑った。

「若い子は正直だねェ」

「笑ってる場合じゃないでしょ」

「笑わなきゃ、もっとしんどいよォ」

それは、そうだった。

笑える場所があるなら、まだましだ。

笑えなくなれば、きっと本当にまずい。

襄垣の城は、今日も静かだった。

静かすぎるくらいだった。

向こうは、何を待っているのか。

こちらを止めているだけなのか。

それとも、別の何かが進んでいるのか。

分からない。

分からないまま、時間だけが過ぎる。

その日の昼前だった。

城門の上で、動きがあった。

見張りの声が飛ぶ。

兵達が一斉にそちらを見る。

襄垣の城門が、ゆっくりと開いていく。

アタシは立ち上がった。

腕に痛みが走る。

でも、目は離さない。

「動いたわ」

玉楼がすぐ隣に立つ。

「はい」

紅玉も半歩後ろへ下がりながら、城門を見る。

孫二娘と顧大嫂も外へ出た。

開いた門の奥から、二騎が進み出て来る。

一人は男。

もう一人は女。

白旗を掲げていた。

敵兵は出てこない。

門は開いている。

けれど、攻めかかる気配はない。

二騎は、ゆっくりとこちらへ近付いてくる。

男の顔を見た瞬間、周囲がざわめいた。

張清。

あの石礫の使い手。

元は敵だった男。

今は、こちら側にいるはずの男。

その張清が、女を連れている。

アタシは目を細めた。

女は若かった。

思っていたよりも、ずっと若い。

だが、弱くはないと思った。

姿勢が崩れていない。

白旗を掲げているのに、怯えがない。

馬上で、こちらを真正面から見ている。

あの目――

あの気迫――

アタシの腕が、鈍く痛んだ。

――この娘なの?

張清の隣の女が、声を張った。

「戦は終わりです」

ざわめきが広がる。

女は続けた。

「田虎は、捕らえました」

一瞬、誰も動かなかった。

田虎が捕らえられた。

戦は終わった。

言葉は分かる。

意味も分かる。

でも、すぐには飲み込めない。

あれほど動かなかった戦線が、急にほどけた。

押しても通らなかったものが、こちらの知らない所で終わっていた。

女はさらに言う。

「これ以上、戦う理由はありません」

風が白旗を揺らした。

アタシは、その女を見た。

「……あなたなのね」

声に出すつもりはなかった。

でも、出てしまった。

女はアタシを見返した。

目を逸らさない。

そのまま、静かに名乗った。

「瓊英です」

瓊英。

その名が耳に入った瞬間、腕の奥がまた痛んだ気がした。

張清が、隣で続ける。

「……妻です」

誰に言ったというより、こちらへ知らせる為の言葉だった。

周囲が、またざわめく。

張清の妻。

そして、あの石礫の使い手。

そういうこと。

何があって、どうやって田虎を捕らえたのか。

今はまだ、全部は分からない。

でも、一つだけ分かる。

アタシは、まともには勝てなかった。

襄垣の前で止められた。

間合いを握られた。

前に出る力を殺された。

落とされた。

それは、腕の痛みよりも深く残っている。

「見事ね」

そう言うと、瓊英はわずかに目を伏せた。

「こちらも、必死でした」

張清は何も言わない。

瓊英も、それ以上は語らない。

ただ、白旗だけが揺れている。

戦は終わった。

そう言われても、胸の中は静かにならなかった。

しばらくして、城門がさらに開かれた。

兵達が動き始める。

捕らえられた者達の確認。

物資の確認。

使者の往来。

戦場は、戦が終わってからも忙しい。

朝廷の使者が現れたのは、その後だった。

宋江が使者に寄り、何かを告げられている。

アタシには聞こえない。

けれど、やがて声は広がってきた。

今回は恩賞が出るらしい。

次々と名前が呼ばれる。

周りが活気立つ。

兵達の顔が少し明るくなる。

当然だ。

勝ったのだから。

勝って、褒美が出る。

喜んでいい。

喜ぶべきなのかもしれない。

アタシの名前も呼ばれた。

前に出ると、何かを渡された。

手に乗せると、それなりの重さがあった。

でも、それが何の重さなのか分からなかった。

勝った褒美なのか。

使われた証なのか。

次へ進ませる為の札なのか。

周りは喜んでいる。

当然だ。

喜んでいいはずだ。

でも、アタシの腕には、まだ石礫の痛みが残っていた。

まともには、勝てなかった。

その言葉が、胸の奥で消えない。

恩賞が行き渡ったところで、宋江が口を開いた。

「次は淮西、王慶討伐」

空気が、ほんの少し止まった。

また……

そう思った。

田虎が終わった。

だから次。

勝った。

だから次。

恩賞を渡した。

だから動け。

そう聞こえた。

林冲の顔は変わらない。

でも、何かを抑えているのは分かった。

林冲は短く指示を下した。

「目標は淮西」

それだけで、隊列はまた動く。

アタシは朝廷のある方角を見た。

見えるはずもない。

でも、そこから次の命令が降ってくる。

幽州を前に退け。

田虎へ向かえ。

田虎が終われば、王慶へ向かえ。

アタシ達は、勝っているのか。

それとも、ただ弄ばれているのか。

もう、その境目が分からなくなってくる。

出発前に、林冲から呼ばれた。

前に行くと、そこには李俊がいた。

李俊は難しい顔をしている。

いつもの余裕は、少し無い。

「まだ宋江についていくのか?」

いきなりだった。

林冲は黙っている。

李俊は続けた。

「こっちは真っ平ごめんだ。幽州の前で退かされ、田虎が終われば王慶だ。次はどこだ? どこまで使われる」

アタシは、思わず口を開いた。

「そうよ。ただ、こき使われて、捨てられるだけよ」

言ってしまってから、少しだけ息を飲んだ。

でも、取り消す気にはならなかった。

分かっている。

言っても何も変わらない。

林冲を困らせるだけかもしれない。

それでも、黙っていられなかった。

林冲が眉間にしわを寄せる。

「……言いたいことは分かる」

声は低い。

「だが、決まったことだ」

李俊は林冲を見た。

それから、アタシを見た。

何かを言いかけて、やめた。

「……クソッ」

短く言い、背を向ける。

李俊は別の方へ歩いていった。

その背中は、離れていく。

同じ軍にいるはずなのに、距離だけが開く。

追わない。

呼びもしない。

あいつは、ああ言った。

でも、離れたわけじゃない。

たぶん、まだ……

アタシは林冲を見る。

林冲には、あの時からついていくと決めた。

でも、それと宋江についていくことは違う。

アタシは口を開きかけて、やめた。

言えば、林冲を困らせるだけだ。

林冲も分かっている。

分かっていて、動くしかない顔をしている。

「……分かったわ」

それだけ言うと、林冲は頷いた。

礼でもない。

命令でもない。

ただ、互いに引けないものを確認しただけだった。

しばらく、誰も動かなかった。

風が乾いている。

土の匂いがする。

アタシは手を握った。

まだ、力は戻りきっていない。

腕の奥が鈍く痛む。

あの石礫の感触が残っている。

届かなかった距離。

崩された間合い。

握れなかった刀の重さ。

全部、残っている。

アタシは視線を上げた。

「……次は、必ず……」

声は、そこで消えた。

言い切れなかったわけじゃない。

言い切る前に、もう決めていた。

林冲が歩き出す。

アタシも続く。

淮西へ向かう風は、乾いていた。

田虎は捕らえられました。

戦は終わりました。

そう告げられた時、兵達の間には安堵が広がりました。

当然です。

膠着していた襄垣の前で、これ以上血を流さずに済む。

田虎討伐は終わり、恩賞も出る。

勝った。

そう言ってよい場面だったのでしょう。

ですが、扈三娘様の顔は、晴れていませんでした。

理由は、分かります。

あの方は、襄垣の前で届かなかった。

石礫に間合いを握られ、踏み込みを殺され、落とされた。

そして、その相手が白旗を掲げて現れた時、戦はすでに終わっていました。

「勝った」と言われても、扈三娘様の中に残っていたのは、勝利の熱ではなかったのだと思います。

届かなかった距離。

崩された間合い。

握れなかった刀の重さ。

そういうものだったのでしょう。

「玉楼は、また難しいねェ」

孫二娘殿が横から言いました。

「難しい話ではありません」

「いや、難しいよォ。アタシなら、勝ったけど嫌な感じだねェ、で終わるよ」

「それも、かなり正確です」

「褒めてるのかい?」

「半分ほどは」

「最近、半分ばっかりだねェ」

顧大嫂殿が荷車の縄を締めながら笑いました。

「玉楼の褒め言葉は、だいたい半分考え事が混ざってるんだよ」

「その様な事はありません」

「あるよ」

「ありますね」

紅玉が小さく言いました。

私が見ると、紅玉はすぐに目を伏せました。

「す、すみません」

孫二娘殿が楽しそうに笑います。

「今日も刺すねェ、紅玉」

「刺しているつもりはありません」

「だから痛いんだよォ」

顧大嫂殿も頷きました。

「でも、よく見てるじゃないか」

紅玉は少し困った顔をしました。

ですが、以前よりも慌てすぎてはいません。

見た事を、少しずつ言葉に出来る様になっている。

それは、良い変化です。

今回、紅玉は多くのものを見ました。

扈三娘様が石礫に止められるところ。

自分が助けに入るしかなかったところ。

襄垣の戦線が動かないまま数日過ぎたこと。

そして、白旗を掲げた瓊英殿が現れ、戦が終わったこと。

紅玉にとっては、分からない事の方が多かったはずです。

それでも、何も見なかった事にはしていません。

「紅玉」

私が呼ぶと、紅玉は顔を上げました。

「はい」

「瓊英殿を見て、どう思いましたか」

紅玉は少しだけ迷いました。

それから、正直に言いました。

「怖かったです」

「そうですか」

「でも……敵、という感じだけではありませんでした」

孫二娘殿が、柄杓を肩に乗せます。

「へぇ」

紅玉は言葉を探していました。

「白旗を持っていました。戦は終わりだと言っていました。でも、弱そうには見えませんでした」

顧大嫂殿が頷きます。

「そうだね。ああいう女は、武器を下ろしてても油断ならない」

「顧大嫂殿」

私が少し咎めると、顧大嫂殿は肩をすくめました。

「褒めてるんだよ」

その時でした。

少し離れた所から、静かな声がしました。

「褒め言葉として、受け取っておきます」

振り向くと、瓊英殿が立っていました。

近くには張清殿の姿も見えますが、少し離れた場所で兵と話しています。

瓊英殿は一人でこちらへ来た様でした。

紅玉が、少しだけ身を固くします。

紅玉は、瓊英殿をじっと見ていました。

年は、そう離れていない様に見えます。

もしかすると、紅玉の方がわずかに上かもしれません。

ですが、立っている場所はまるで違いました。

瓊英殿は、もう戦場の流れを止める側にいる。

紅玉は、まだその流れに飲まれない様に立つ事を覚えている。

年の近さは、時に憧れよりも強く、人の胸へ刺さります。

瓊英殿は紅玉の様子に気付いたのでしょう。

すぐには近付きませんでした。

「驚かせましたか」

紅玉は小さく首を振ります。

「いえ……」

「嘘ですね」

瓊英殿が静かに言いました。

紅玉は目を見開きました。

孫二娘殿が小さく笑います。

「なかなか真っ直ぐ言うねェ」

瓊英殿は少しだけ困った様に目を伏せました。

「すみません。隠すのがあまり上手ではない方だと思いましたので」

紅玉は、少しだけ口を結びました。

「……怖かったです」

「はい」

瓊英殿は頷きました。

「怖がらせたと思います」

その言葉は、軽くありませんでした。

勝ち誇るでもなく、謝りすぎるでもなく、ただ事実として置いた声でした。

私は瓊英殿を見ます。

若い方です。

ですが、目に迷いがありません。

扈三娘様が嫌った石礫の主。

襄垣の前で、こちらの間合いを握っていた相手。

その本人が、今は白旗の後にこうして立っています。

戦場とは、奇妙なものです。

先程まで相手を止めていた者が、今は同じ場所で言葉を交わしている。

「瓊英殿」

私は言いました。

「扈三娘様を止めたのは、あなたですね」

瓊英殿は、目を逸らしませんでした。

「はい」

短い返事でした。

孫二娘殿が口笛でも吹きそうな顔をしましたが、顧大嫂殿に睨まれてやめました。

瓊英殿は続けます。

「止めなければ、こちらが崩れていました」

「だから、間合いを殺した」

私が言うと、瓊英殿は少しだけ頷きました。

「前へ出る方だと思いました」

紅玉が小さくこちらを見ました。

孫二娘殿が肩を揺らします。

「ほらねェ。相手にも分かってるんだよォ」

顧大嫂殿も笑いました。

「三娘は分かりやすいからねぇ」

「扈三娘様は、分かりやすいのでしょうか」

紅玉が真面目に聞きます。

孫二娘殿が即座に答えました。

「分かりやすいよォ」

顧大嫂殿も頷きます。

「分かりやすいね」

私も少しだけ沈黙しました。

紅玉がこちらを見ます。

「玉楼様も、そう思われますか」

「……戦場では、分かりやすい方です」

孫二娘殿が笑いました。

「玉楼が一番刺したねェ」

「刺しておりません」

瓊英殿が、少しだけ目を細めました。

笑ったのかもしれません。

ほんの少しだけですが。

紅玉は瓊英殿を見ていました。

怖がってはいます。

けれど、目を逸らしてはいません。

私はそれを見て、少しだけ安心しました。

「瓊英殿」

紅玉が、小さく声を出しました。

「はい」

「瓊英殿は……私と、あまり年が違わないのでしょうか」

瓊英殿は、少しだけ目を瞬かせました。

「そうかもしれません」

紅玉は、ほんの少し息を飲みました。

「なのに、あんなに……」

そこで言葉が止まりました。

怖い、とも。

すごい、とも。

悔しい、とも。

どれとも違う顔でした。

瓊英殿は、紅玉を責める様子も、誇る様子も見せませんでした。

ただ、静かに言いました。

「私も、最初から出来た訳ではありません」

紅玉は顔を上げました。

「そうなのですか」

「はい。怖いものも、分からないものも、たくさんありました」

「今も、怖いですか」

「怖いです」

瓊英殿は、迷わず答えました。

紅玉は少し驚いた顔をしました。

孫二娘殿がにやりとします。

「ほら、紅玉。怖いって言っていいんだよォ」

顧大嫂殿も頷きました。

「怖くないふりをする方が危ないからね」

紅玉は、ゆっくり頷きました。

「はい」

それから、もう一度瓊英殿を見ました。

「石礫は……怖いです」

「はい」

「でも、すごいと思いました」

瓊英殿は、少しだけ黙りました。

それから、静かに答えます。

「ありがとうございます」

紅玉は続けます。

「どうして、あんなに当てられるんですか」

孫二娘殿が目を丸くしました。

「そこ聞くんだねェ」

顧大嫂殿が笑います。

「紅玉らしいじゃないか」

瓊英殿は、少し考えました。

「当てようとしている、というより……止める場所を見ています」

紅玉は真剣に聞いています。

「止める場所」

「はい。人は、前へ出る時に必ず重さが移ります。馬も同じです。そこへ石を置くと、身体が崩れます」

私は頷きました。

やはり、そうです。

ただ速いだけではない。

ただ正確なだけでもない。

動き出す前の重心を見ている。

だから、扈三娘様の踏み込みが出る前に殺された。

孫二娘殿が、少し嫌そうな顔をしました。

「嫌な技だねェ」

瓊英殿は素直に頷きます。

「はい」

「自分で言うんだねェ」

「嫌な技だと思います」

顧大嫂殿が鼻を鳴らしました。

「でも、生き残るには役に立つ」

「はい」

瓊英殿の返事は静かでした。

そこには、軽さがありません。

この方もまた、ただ強くなったのではないのでしょう。

何かを背負い、何かを選び、その上で石を投げている。

そういう目をしていました。

紅玉は、まだ瓊英殿を見ています。

「怖いまま、見てもいいんですね」

その問いは、瓊英殿へ向けられていました。

瓊英殿は少しだけ驚いた様でした。 ですが、すぐに頷きました。

「いいと思います。怖いものを見ないままにすると、次にもっと怖くなります」

紅玉は、小さく息を吸いました。

「はい」

孫二娘殿が、柄杓を揺らします。

「紅玉、また覚える事が増えたねェ」

「はい」

「真面目だねェ」

「真面目に覚えないと、また怖いので」

顧大嫂殿が笑いました。

「いい答えだ」

少しだけ、場が和らぎました。

その直後、遠くで宋江殿の声が聞こえました。

恩賞が行き渡った後、次の命が出たのです。

淮西、王慶討伐。

瓊英殿の顔が、わずかに動きました。

紅玉も、息を飲みます。

孫二娘殿が乾いた声で笑いました。

「勝ったら次。終わったら次。本当に忙しいねェ」

顧大嫂殿が低く言います。

「褒美を渡して、はい次へ。よく出来た仕組みだよ」

「顧大嫂殿」

私が呼ぶと、顧大嫂殿は平然としていました。

「聞こえない所で言ってるよ」

「聞こえなくても危ないでしょう」

「危ない事くらい分かってるさ」

瓊英殿は、何も言いませんでした。

けれど、目は少しだけ暗くなっていました。

田虎を捕らえ、戦を終わらせた方です。

その終わりが、すぐ次の戦へ繋がる。

その事を、どう受け止めているのか。

私は聞きませんでした。

聞くには、まだ早い気がしました。

紅玉が、小さく言います。

「また、行くんですね」

「はい」

私は答えました。

「行く事になります」

「怖いです」

「それで良いです」

紅玉は頷きました。

瓊英殿が紅玉を見ます。

「怖いと言えるのは、良い事です」

孫二娘殿がにやりと笑いました。

「ほら、瓊英もそう言ってるよォ」

「はい」

紅玉は真面目に頷きました。

「怖いまま、見ます」

顧大嫂殿が満足そうに笑います。

「それでいい」

私は前を見ました。

淮西へ向かう道が、伸びています。

襄垣で止まった間合い。

瓊英殿の石礫。

扈三娘様の悔しさ。

恩賞の重さ。

李俊殿の背中。

すべてが残ったまま、また次へ進む事になります。

戦は終わっていません。

形を変えて、続いていくだけです。

「玉楼」

孫二娘殿が、ふとこちらを見ました。

「はい」

「また難しい顔だよォ」

「考え事です」

「眉間に皺が寄るよ」

「寄っておりません」

顧大嫂殿が即座に言いました。

「寄ってるね」

紅玉も、小さく頷きます。

「少しだけ……」

瓊英殿まで、ほんの少し首を傾げました。

「……少し」

「瓊英殿まで」

孫二娘殿が大きく笑いました。

「今日は玉楼が刺される日だねェ」

「私は刺されておりません」

「石礫じゃなくて良かったねェ」

「孫二娘殿」

顧大嫂殿が笑いながら荷車を押し始めます。

「ほら、行くよ。玉楼の皺を数えてる暇はないからね」

「皺はありません」

紅玉が少しだけ笑いました。

瓊英殿も、ほんの少しだけ笑った様に見えました。

完全な明るさではありません。

ですが、完全な沈黙でもありません。

私はそれを見て、少しだけ息を吐きました。

扈三娘様は、きっとまだ悔しいままでしょう。

瓊英殿も、全てを晴れやかに終えた訳ではないのでしょう。

紅玉は怖がっています。

私も、少し疲れています。

けれど、声はあります。

笑いもあります。

見ている者もいます。

ならば、まだ進める。

淮西へ向かう風は乾いています。

ですが、完全な沈黙ではありません。

その事だけは、まだ救いでした。

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