石礫の壁
田虎の地に入った途端、空気が変わった。
幽州の門を前にしていた時とは違う。
あの時は、重かった。
近いのに届かない。
見えているのに行けない。
そういう重さだった。
でも、田虎の地は違う。
乾いている。
軽い。
軽いのに、嫌なものだけが残る。
「三娘、顔がまた難しいよォ」
孫二娘が横から覗き込んできた。
「また?」
「最近ずっとだねェ」
「それ、褒めてないでしょ」
「褒めてないねェ」
顧大嫂が荷物の縄を締めながら鼻を鳴らした。
「難しい顔になるだけましだよ。何も考えずに突っ込まれるよりはね」
「アタシ、そんなに突っ込んでる?」
孫二娘と顧大嫂が、同時にこちらを見た。
紅玉まで、少しだけこちらを見る。
「何よ」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙が一番腹立つ。
「……扈三娘様は」
紅玉が遠慮がちに口を開いた。
「時々、かなり前へ出られると思います」
「紅玉まで」
孫二娘が手を叩いて笑った。
「いいねェ、紅玉。見えてるじゃないか」
顧大嫂も笑う。
「若い子は正直でいいねぇ」
「正直すぎるのも問題よ」
「正直に言われる覚えがあるから痛いんだろ」
「うるさいわね」
でも、言い返しきれなかった。
実際、前へ出た。
石礫が来ると分かっていて、前へ出た。
止まっていたら何も変わらないと思った。
でも、届かなかった。
肩に当たり、腕に当たり、手元を崩され、馬の首を打たれた。
落ちた。
あの感触は、まだ残っている。
「……石礫、本当ダメね」
思わず漏らすと、孫二娘が眉を上げた。
「よっぽど嫌だったんだねェ」
「嫌よ」
「珍しく素直だね」
「嫌なものは嫌だもの」
顧大嫂が頷いた。
「嫌だって言えるなら、まだいいよ」
「そういうもの?」
「そういうもんさ。苦手を苦手と言えない奴から、同じところで転ぶんだよ」
紅玉が小さく頷いた。
「苦手を、苦手と言う……」
孫二娘が紅玉を見た。
「真面目に覚えてるねェ」
「覚えた方がいいと思いました」
「いいけどね。三娘の場合、苦手って言いながら前へ出るから困るんだよォ」
「そこは真似しなくていいわ」
アタシが言うと、紅玉は少しだけ困った顔をした。
「はい」
玉楼が静かに頷く。
「紅玉は、前に出すぎてはいませんでした」
紅玉の顔が、ほんの少しだけ動いた。
褒められたと分かったのだろう。
でも、すぐに表情を戻す。
「でも、怖かったです」
「怖いままでいいわ」
アタシは短く言った。
「怖いまま、逃げなかった。それで十分」
孫二娘がにやりと笑う。
「三娘が先生みたいな事言ってるよォ」
「茶化さない」
「いや、いい事言ってると思うよォ」
顧大嫂も荷車の横で腕を組む。
「紅玉は、ちゃんと間に入った。前に出すぎてもいない。逃げてもいない。あれなら上等だね」
紅玉が目を伏せた。
「……ありがとうございます」
「ただし」
顧大嫂が続けた。
「次からは、自分が下がる道も見ておきな。助けに入って、自分まで詰められたら意味がない」
「はい」
紅玉は真面目に頷いた。
孫二娘が笑う。
「顧大嫂の褒め言葉は、だいたい半分説教だねェ」
「アンタの冗談より役に立つよ」
「ひどいねェ」
「事実だろ」
少しだけ笑いが生まれた。
重い空気の中で、ほんの少しだけ。
それでいい。
今は、それでいい。
田虎の城は、いくつも落ちた。
でも、手応えは薄かった。
押せば割れる。
入れば散る。
勝っているのに、勝った感じがしない。
その中で、襄垣だけが違った。
見えない石礫が、こちらの間合いを握っていた。
押しても通らない。
引いても切れない。
見えない相手に、足元だけを取られている様な気持ち悪さ。
アタシは、それが嫌だった。
本当に、嫌だった。
「野球とかソフトボールみたいなのよね」
ぽつりと言うと、玉楼がこちらを見た。
「やきゅう……」
紅玉も小さく続ける。
「そふと、ぼうる……」
「忘れて」
孫二娘が目を細めた。
「また変な事言ってるねェ」
「いいのよ。通じなくて」
「じゃあ言わなきゃいいだろ」
顧大嫂が即座に言う。
「出ちゃったのよ」
「変なものが?」
「言葉が」
孫二娘が肩を揺らして笑った。
紅玉も、少しだけ笑った。
玉楼は笑わなかったけれど、目元だけがほんの少し柔らかかった。
石礫は嫌だ。
届かなかった事も、悔しい。
でも、紅玉が笑えるなら、まだ悪くない。
そう思うくらいは、許してほしい。
アタシは腕を少し動かした。
痛みが戻る。
肩から腕の奥へ、鈍く響く。
あの石の感触が、まだ残っている。
「無理するんじゃないよォ」
孫二娘がすぐに言った。
「してないわよ」
「してる顔だねェ」
顧大嫂が頷く。
「してる顔だね」
玉楼も静かに言う。
「無理をされております」
紅玉まで、小さく頷いた。
「少しだけ……」
「全員で言わないで」
孫二娘が楽しそうに笑った。
「よかったねェ、三娘。みんなに見られてるよォ」
「嬉しくないわよ」
「見られてるうちは、倒れても拾ってもらえるさ」
顧大嫂が、少し低い声で言った。
その言葉は、冗談の様で、冗談ではなかった。
実際、拾われた。
玉楼に。
紅玉に。
孫二娘に。
前線から退かされた。
届かなかった悔しさと一緒に、その事も残っている。
「次は届かせるわ」
そう言いかけて、やめた。
まだ相手の名も知らない。
姿もはっきり見ていない。
ただ、石礫だけがある。
見えない相手に、間合いだけを握られている。
それが、どうしようもなく気持ち悪い。
「三娘」
玉楼が静かに呼ぶ。
「何?」
「次に出る時は、私も見ます」
「いつも見てるでしょ」
「さらに見ます」
「怖い言い方ね」
孫二娘が笑った。
「玉楼も大概、前に出る気満々だねェ」
「必要があれば」
「ほら、三娘と同じだよ」
顧大嫂が言うと、玉楼は少しだけ黙った。
紅玉が、遠慮がちに言う。
「……似ています」
玉楼が紅玉を見た。
紅玉は慌てて目を伏せる。
「す、すみません」
孫二娘がまた笑った。
「今日の紅玉はよく刺すねェ」
「刺しているつもりはありません」
「だから痛いんだよォ」
少しだけ、空気が軽くなる。
でも、襄垣の城は閉じたままだ。
石礫の気配は、消えない。
膠着。
その言葉が、頭の中に残っている。
見えない相手に間合いを握られたまま、こちらは動けない。
田虎の戦は、手応えのないまま進むと思っていた。
でも違った。
手応えがない場所の奥に、手の届かない壁があった。
アタシは前を見る。
次に石が来るなら、今度は見切る。
そう思った。
でも、腕の痛みがそれを笑う。
簡単じゃない。
分かっている。
だからこそ、嫌なのだ。
「……本当、嫌な相手ね」
誰に言うでもなく呟く。
孫二娘が、柄杓を肩に乗せた。
「嫌な相手ほど、忘れられないもんだよォ」
顧大嫂が鼻を鳴らす。
「忘れたら次も同じ所で転ぶからね」
紅玉が、小さく頷いた。
玉楼も、黙って前を見ていた。
襄垣の城は、まだ開かない。
石礫の主も、まだ姿を見せない。
それでも、あの相手がいる。
その事だけは、はっきり分かっていた。
田虎の勢力圏に入ると、空気が変わった。
幽州へ向かっていた時の張り詰めた重さとは違う。
もっと乾いていて、軽い。
軽いのに、嫌な感じだけが残る。
道は広い。
草は低く、遠くまで見える。
でも、人の気配はあまり無い。
城へ向かっているはずなのに、迎え撃つ熱が少なかった。
林冲が目だけで合図した。
アタシは頷き、玉楼と並んで隊列より前へ出る。
紅玉は後ろに残した。
無理に前へ出す場面じゃない。
隊列から離れると、途端に音が減った。
蹄の音。
草を裂く音。
風が耳元を抜ける音。
それだけになる。
馬を駆り、草を分ける。
土は乾いている。
踏まれた跡がある。
人が通った跡もある。
姿は見えない。
でも、見られている気がした。
アタシは前を見たまま、手綱を絞る。
速度を落とした瞬間だった。
石礫が一つ、足元へ落ちた。
乾いた音がする。
遅れて、もう一つ。
馬の前足の少し先へ落ちる。
当てるつもりなら、当てられた。
でも、当ててこなかった。
位置は取っている。
こちらを見ている。
そして、進みすぎるなと言っている。
玉楼がわずかに寄った。
「……警告ですね」
「でしょうね」
姿は見えない。
けれど、気配はもう消えかけていた。
見せるだけ見せて、引いた。
こっちの反応を見るだけ見て、消えた。
嫌なやり方だ。
アタシはしばらく前方を見ていた。 草が揺れている。
そこに誰かがいたはずなのに、今は何もない。
「戻るわ」
「はい」
アタシと玉楼は馬首を返した。
隊列へ戻ると、紅玉が視線だけこちらに向ける。
顔は少し強張っていた。
何かあった事くらいは、遠くからでも分かったのだろう。
林冲の前で馬を止める。
「前方に敵影」
「石礫の名手がいるわ」
アタシが言うと、林冲は静かに頷いた。
「当ててきたのか」
「いいえ。当ててこない。けど、位置は取られてるの」
林冲の目が細くなる。
「間を詰めるな。列を保て」
短い指示だった。
それだけで、隊列が静かに揃っていく。
こういう時、林冲の部隊は早い。
誰も余計な声を出さない。
言われた事だけを、すぐ形にする。
アタシは前を見たまま、ぽつりとぼやいた。
「……石礫、苦手なのよね」
少しだけ間を置く。
「野球とかソフトボールみたいで」
玉楼と紅玉は、反応しなかった。
――通じなかった。
アタシは小さく息を吐いた。
「しかも、アタシは野球もソフトボールも経験ゼロなのよ」
玉楼が、わずかに首を傾げる。
「やきゅう……?」
「忘れて」
紅玉も困った様にこちらを見た。
「そふと……ぼうる?」
「本当に忘れて」
言ってから、自分でも何を言っているのか分からなくなる。
でも、あの石礫はそういう嫌さがあった。
手から離れた小さなものが、見えない速さで飛んでくる。
矢とは違う。
槍とも違う。
刃でもない。
なのに、間合いを殺してくる。
……あの石。
まだ、気にかかる。
そのまま田虎の城へ攻め寄せた。
田虎の占領地は広い。
山もあり、道も伸びている。
でも、守りは思ったより弱かった。
梁山泊軍は二手に分かれ、それぞれの城へ向かう。
最初の城は、門を閉じたまま持ちこたえられなかった。
こちらが押す前に、内側から崩れた。
兵が逃げ、門が開き、あっという間に落ちる。
次の城も同じだった。
構えはある。
旗もある。
兵も並んでいる。
でも、踏み込んでこない。
押せば割れる。
入れば散る。
逃げ足だけは速い。
物資は置き去りになり、兵はいない。
そういう城が、一つ、また一つと落ちていった。
勝っている。
確かに、前へ進んでいる。
でも、重みがない。
城を落としているはずなのに、掴んだ感じがしない。
敵を斬った感触より、空の蔵を開けている様な虚しさが残る。
別働隊は、妖術使いに苦戦したらしい。
公孫勝が何とかしたと噂で聞いた。 そちらはそちらで厄介だったのだろう。
でも、アタシ達の側は違った。
押せば終わる。
入れば散る。
進めば次へ行かされる。
それだけだった。
アタシは前を見たまま、ぽつりと漏らす。
「……手応えがないわね」
玉楼がわずかに首を振った。
「油断してはダメですよ」
紅玉も前を見たまま言う。
「慢心は禁物です」
「分かってるわよ」
そう言いながら、アタシは素直に頷いた。
二人の言う通りだ。
手応えがない時ほど、危ない。
勝っている時ほど、足元をすくわれる。
そして、あの石礫がまだ気になっていた。
次は襄垣。
その名を聞いた時、胸の奥が少しだけ重くなった。
襄垣が見える。
城門は固く閉じられ、その前に鄔梨の部隊が横に広がっていた。
これまでの城とは違う。
待ち受けている。
ただ並んでいるのではない。
こちらが来るのを知って、そこで止める為にいる。
間合いに入った瞬間、隊列の前がわずかに沈んだ。
流れが鈍る。
誰も声を上げていない。
それなのに、速度だけが落ちていく。
見えないものに、足を掴まれた様だった。
林冲が叫ぶ。
「止まるな!」
前が動く。
兵が踏み込む。
馬が前へ出る。
槍の穂先が揃う。
詰めた、その瞬間だった。
石礫が走った。
乾いた音が、隊列の前で弾ける。
遅れて、もう一つが馬の足元を叩いた。
林冲の馬が、前脚を崩した。
「林冲!」
アタシはすぐに馬を寄せる。
林冲は落ちきる前に体勢を立て直したが、馬は膝をついている。
アタシは前へ出て、林冲の前を塞ぐ。
遅れて黄信も入った。
これまでにはなかった感触だ。
押せば割れた間合いで、力が抜ける。
敵が崩れている訳じゃない。
こちらが止められている。
目に見える壁ではない。
なのに、前へ出る踏み込みだけが奪われる。
アタシは手綱を絞り、馬の頭をわずかに立てた。
見えない。
石礫は正確で、間合いを殺してくる。
踏み込みを、寸前でずらす。
前に出る勢いを、足元から消してくる。
――いる。
この場を止めているのは、これだ。
アタシは馬を前に出した。
ここで止まるわけにはいかない。
「扈三娘様!」
玉楼の声が飛ぶ。
「分かってる!」
分かっている。
でも、止まっていたら何も変わらない。
――来る。
石礫が走る。
身を反らして避ける。
耳元を抜けた音が、遅れて響く。
もう一つ。
速い。
軌道に合わせる。
馬の首を少しだけ逃がす。
かすめて抜ける。
さらに一つ。
肩に当たった。
鈍い衝撃が走る。
骨の奥で音がした様な痛み。
でも、止まらない。
アタシは歯を食いしばる。
もう一歩、踏み込む。
今度は手元に石礫が来る
身体を後ろへ引き、やり過ごす。
――まだ前へ。
更にもう一歩、踏み込む。
頬をかすめ、熱い線が走る。
次は腕に当たり、鈍い痛みが走る。
もう一つ、手元。
刀を握る力が抜ける。
「ッ……!」
石礫が馬の首元を打った。
馬が跳ね、体勢が外れる。
――落ちる。
地面が近い。
アタシは受け身で転がった。
土が口に入る。
視界が揺れる。
耳の奥で、蹄の音が跳ねる。
敵兵が寄せる。
詰められる――
その瞬間、横から斬り込む影が入った。
玉楼――
細い刃が敵の進路を切る。
一拍遅れて、紅玉が前へ出る。
「紅玉、下がりなさい!」
叫ぶつもりだった。
でも、声がすぐには出なかった。
紅玉は震えながらも、朴刀を横に構えていた。
アタシと敵兵の間に、割って入っている。
さらに、別の影が割り込んだ。
孫二娘だった。
「無茶してんじゃないよォ!」
石礫が逸れ、流れが切れる。
玉楼がアタシの腕を掴む。
孫二娘が敵兵を牽制し、紅玉が後ろへ下がる道を空ける。
アタシは退かされた。
前線が遠くなる。
吐息が漏れる。
――届かなかった。
石礫は止まらない。
前に出れば崩される。
引けば詰められる。
押しも引きも効かない。
隊列が動かない。
互いに距離を保ったまま、削るだけになる。
こちらが前へ出ようとすれば、必ず石礫が足元に来る。
馬の首に来る。
手元に来る。
見えない相手に、間合いだけを握られている。
それが、気持ち悪かった。
やがて城側の隊列に合図が走った。
一斉に動きが変わる。
前に出ていた隊が、揃って止まる。
次の瞬間、一糸乱れず退いた。
間合いを保ったまま、下がる。
壁のように。
城門が開き、そのまま中へ入っていく。
アタシは前を見つめた。
――なぜ?
追えない。
追えば、また石礫が来る。
それが分かっているから、誰も踏み込めない。
幕舎の中は、静かだった。
外の音は遠い。
布の擦れる音だけが近い。
アタシは腰を下ろしている。
玉楼に腕を取られ、布を巻かれていた。
傷に触れた瞬間、少しだけ息が止まる。
「……いっ」
玉楼は黙ったまま、手だけを動かす。
怒っているのか、心配しているのか。
たぶん、両方だ。
紅玉は少し離れた場所に立っていた。
こちらを見ている。
まだ顔色が悪い。
「……大丈夫ですか」
アタシは頷く。
「……大丈夫よ」
大丈夫……
そう言うしかない。
腕を見ると、腫れていた。
手を握っても、力が入らない。
残っている。 あの感触が……
肩に当たった重さ。
腕を止められた痛み。
手元を撃たれた瞬間の力の抜け方。 馬の首元を打たれ、体勢を崩された感覚。
全部、まだ残っている。
「……石礫、本当ダメね」
ぽつりと漏れた。
玉楼の手が、一瞬止まる。
こちらを見る。
紅玉は、たじろいだ。
――怖い顔してる。
アタシは小さく息を吐く。
強がるつもりはなかった。
でも、弱音に聞こえたかもしれない。
外では、まだ隊列が動いている。
襄垣の城は閉じたまま。
敵も、こちらも、決定打を出せない。
前へ出れば、崩される。
下がれば、詰められる。
押せば殺される。
引けば逃げられる。
膠着。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
見えない相手に、間合いだけを握られている。
それが、どうしようもなく気持ち悪かった。
襄垣の前で、戦は止まりました。
城門は閉じたまま。
こちらも押し込めず、向こうも深くは出てこない。
ただ、一定の間合いだけが残る。
その間合いを握っていたのは、石礫でした。
姿は見えません。
声も聞こえません。
ですが、こちらが前へ出ようとするたび、足元へ来る。
馬の首へ来る。
手元へ来る。
扈三娘様の踏み込みを、出る前に殺してくる。
あれは、ただの飛び道具ではありません。
戦場の流れそのものを止める石でした。
「玉楼は、また難しい言い方をするねェ」
孫二娘殿が、横から声をかけてきました。
手には水の入った柄杓を持っています。
「難しい話ではありません」
「いや、難しいよォ。アタシなら、嫌な石だねェで終わるよ」
「それで済ませられるのも、ある意味では強さです」
「褒めてるのかい?」
「半分ほどは」
「残り半分が怖いねェ」
顧大嫂殿が荷車の横から戻って来ました。
「気にしなくていいよ。玉楼の半分は、だいたい考えすぎで出来てるんだから」
「その様な事はありません」
「あるよ」
孫二娘殿が笑います。
「玉楼が考えずに動いたら、それこそ三娘が二人になるよォ」
「私は扈三娘様ほど無茶は致しません」
「そうかい?」
顧大嫂殿が真顔で言いました。
「そうです」
「本当に?」
孫二娘殿まで真顔で見ます。
「本当です」
少し離れた場所で、紅玉が小さくこちらを見ました。
「……玉楼様も、必要な時はかなり前に出られると思います」
「紅玉」
紅玉は慌てて目を伏せます。
「す、すみません」
孫二娘殿が楽しそうに笑いました。
「今日も刺すねェ、紅玉」
「刺しているつもりはありません」
「だから痛いんだよォ」
顧大嫂殿も頷きました。
「でも、よく見てるじゃないか」
紅玉は少しだけ困った様に口を結びました。
今回、紅玉は扈三娘様と敵兵の間に入りました。
震えていました。
怖がっていました。
けれど、前に出すぎてはいなかった。
逃げてもいなかった。
あれは、無謀とは違います。
正しい場所へ、怖いまま入ったのです。
「紅玉」
私が呼ぶと、紅玉は顔を上げました。
「はい」
「先程の入り方は、悪くありませんでした」
紅玉の目が少しだけ動きました。
「本当ですか」
「はい。ですが、顧大嫂殿が言われた通り、次は下がる道も同時に見ておきなさい」
「はい」
顧大嫂殿が鼻を鳴らしました。
「助けに入って、自分まで詰められたら意味がないからね」
「はい。覚えておきます」
孫二娘殿が紅玉を見ます。
「真面目だねェ」
「真面目に聞いた方がいいと思いました」
「まあ、そこはいい事だねェ」
「珍しく素直に褒めましたね」
私が言うと、孫二娘殿は肩をすくめました。
「アタシだって、褒める時は褒めるよォ」
顧大嫂殿が笑います。
「ただし、余計な事も一緒に言うけどね」
「それは顧大嫂も同じだろォ」
「アタシは必要な事を言ってるんだよ」
「必要な砂利だねェ」
紅玉が真面目に首を傾げました。
「砂利は、必要なのですか」
孫二娘殿が固まりました。
顧大嫂殿が大きく笑います。
「また刺されたねぇ」
「紅玉、最近本当に痛いよォ」
紅玉は慌てます。
「す、すみません」
「謝らなくていいさ」
顧大嫂殿が言いました。
「言葉も石も、投げる場所を間違えなきゃ役に立つ」
「言葉と石は同じなのですか」
「同じじゃないけど、似てる時もある」
紅玉は少し考えました。
その真面目さが、今は少しだけ救いに見えます。
襄垣の石礫は、扈三娘様を止めました。
林冲殿の馬を崩し、隊列の踏み込みを鈍らせ、こちらの勢いを殺した。
そして、扈三娘様も落とされた。
あの方が前へ出ても、届かなかった。
それは、きっと扈三娘様の中に深く残っています。
あの方は、負けたとは言われないでしょう。
ですが、届かなかった事は忘れません。
「三娘、悔しそうだったねェ」
孫二娘殿が低く言いました。
「はい」
私は頷きます。
「悔しいでしょうね」
顧大嫂殿が荷車の縄を締め直しました。
「でも、悔しいで済めばまだいいよ。生きて戻ってきたんだから」
「そうですね」
「前に出て、落とされて、それでも戻って来た。戻って来たなら次がある」
紅玉が小さく言いました。
「次が、あるんですね」
「あります」
私は答えます。
「ですが、同じ様に前へ出れば良いという意味ではありません」
紅玉は頷きました。
「見て、考えて、下がる場所を探す……」
「はい」
孫二娘殿が柄杓を肩に乗せます。
「紅玉は覚えがいいねェ」
「覚えないと、また怖いので」
その言葉に、少しだけ空気が変わりました。
紅玉は怖がっています。
けれど、怖がっているから見ようとしている。
怖いから覚えようとしている。
それは、悪い怖さではありません。
「怖いなら、見ておきな」
顧大嫂殿が言いました。
「怖くないふりをするより、ずっといい。怖いなら、前を見る。横を見る。戻る場所を見る。誰がどこにいるか見る」
「はい」
「三娘がどこにいるか。玉楼がどこにいるか。二娘がどこで余計な事を言ってるか」
「そこも見るのですか」
紅玉が真面目に聞きました。
孫二娘殿が少し考え込みます。
「まあ、見ておいて損はないねェ」
「損はないんですか」
「余計な事を言う奴がどこにいるか分かれば、場の空気も分かるからねェ」
顧大嫂殿が頷きました。
「それはあるね」
私は少しだけため息をつきました。
「戦場の教えとしては、かなり妙な方向へ伸びています」
「伸びるだけましだよ」
顧大嫂殿が言いました。
その言葉に、私は黙りました。
確かに、そうです。
伸びるだけまし。
覚えるだけまし。
怖がれるだけまし。
笑えるだけまし。
扈三娘様は、石礫が苦手だと言われました。
苦手だと言いながら、それでも前へ出ようとされる。
あの方らしいと言えば、あの方らしい。
ですが、それだけでは届かない相手もいます。
今回の石礫は、それを見せつけました。
見えない相手に、間合いを握られる。
前へ出る力を、出る前に削られる。
それは、扈三娘様にとって、かなり嫌な戦い方だったはずです。
「玉楼」
孫二娘殿が、ふとこちらを見ました。
「はい」
「また難しい顔だよォ」
「考え事です」
「眉間に皺が寄るよ」
「寄っておりません」
顧大嫂殿が即座に言いました。
「寄ってるね」
紅玉も、申し訳なさそうに小さく頷きます。
「少しだけ……」
「紅玉まで」
孫二娘殿が笑いました。
「玉楼も、少しは疲れてるんだよォ」
「私は疲れておりません」
「疲れてるって言えない奴から潰れるんじゃなかったかい?」
顧大嫂殿がそう言うと、私は少し黙りました。
確かに、前にも同じ様な事を言いました。
疲れたと言えるなら、まだ大丈夫。
怖いと言えるなら、まだ大丈夫。
なら、私も言うべきなのでしょう。
「……少しだけ、疲れています」
孫二娘殿が満足そうに頷きました。
「よし」
紅玉が小さく続けます。
「よし、なのですね」
「そうだよォ。怖いも、疲れたも、苦手も、言えるならよしだよォ」
顧大嫂殿が荷車を押し始めました。
「じゃあ、疲れた玉楼も動くよ。襄垣は勝手には開かないからね」
「開くのを待つしかないのでしょうか」
紅玉がぽつりと言いました。
顧大嫂殿が少しだけ紅玉を見る。
孫二娘殿も、目を細めました。
「おや、言う様になったねェ」
紅玉は慌てます。
「す、すみません」
「謝らなくていいよ」
顧大嫂殿が笑いました。
「そのくらい分かってるなら、上等だ」
紅玉は、少しだけ安心した様に頷きました。
私は前を見ます。
襄垣の城は、まだ閉じています。
石礫の主は、まだ姿を見せません。
けれど、そこにいる。
その事だけは、はっきり分かります。
扈三娘様は、きっとまた前へ出ようとされるでしょう。
紅玉は怖がりながらも、見ようとするでしょう。
孫二娘殿と顧大嫂殿は、文句を言いながらも場を回すでしょう。
私は、その半歩後ろで見ています。
誰が無理をしているか。
誰が怖がっているか。
誰が笑えているか。
誰が、前へ出すぎようとしているか。
それを見落とさない様に。
見えない相手に、間合いだけを握られている。
それは、どうしようもなく気持ちの悪い事です。
ですが、完全な沈黙ではありません。
それだけは、まだ救いでした。




