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届かぬ城門

幽州の門は、近かった。

本当に、近かった。

あと少しで届くところまで来ていた。

檀州を越え、薊州を越え、覇州を越えて、ようやく燕京の門が見えた。

そこで、止められた。

……いや、止められたというより、引き剥がされたと言った方が近いのかもしれない。

門は目の前にあった。

兵は前へ出ていた。

林冲も、楊志も、武松も、魯智深も、そこにいた。

答里孛も捕らえた。

女兵の一隊も道を空けた。

幽州は、まだ落ちてはいなかった。

でも、手は届いていた。

それなのに――

退け。

その一言で、全部が変わった。

「三娘、顔が死んでるよォ」

孫二娘が横から覗き込んできた。

「死んでないわよ」

「じゃあ、半分死んでるねェ」

「余計悪いわよ」

顧大嫂が荷車の縄を締めながら鼻を鳴らした。

「まあ、城門の前まで行って退けって言われりゃ、そういう顔にもなるさ」

「そういう顔って何よ」

「今の顔だよ」

「説明になってない」

「見れば分かるだろ」

孫二娘が笑った。

でも、声は軽くなかった。

幽州の門の前で退かされた事は、誰の胸にも残っている。

笑いで流せるほど軽くない。

でも、黙っていたらもっと重くなる。

だから孫二娘は茶化す。

顧大嫂は文句を言いながら荷車を動かす。

いつも通りに見えるように、いつも通りをやっている。

紅玉は少し後ろで黙っていた。

顔色は良くない。

でも、泣いてはいない。

幽州の門を見た。

答里孛を見た。

遼の女兵を見た。

門前で退く事も見た。

あの子には、まだ重すぎるものが多い。

それでも、列からは外れなかった。

「紅玉」

「はい」

返事は少し早かった。

すぐに気付いたのか、紅玉は小さく息を吸い直した。

「……はい」

玉楼が静かに頷く。

「良いです」

孫二娘がにやりとした。

「お、また息を置いたねェ」

紅玉は少しだけ困った顔をした。

「見ていたんですか」

「見てるよォ。若い子の成長は、年寄りの楽しみだからねェ」

紅玉が真面目に孫二娘を見た。

「二娘殿は、また年寄りとおっしゃるんですか」

孫二娘の笑顔が止まった。

顧大嫂が吹き出した。

「また刺されたねぇ」

「いやいや、今のは言葉の綾だよォ。まだまだお姉さんで通るだろォ」

紅玉は少し考えた。

「……通る、と思います」

「間があったねェ」

「すみません」

「謝られると余計刺さるんだけどねェ」

顧大嫂が腹を抱えて笑った。

「紅玉、いいよ。その調子だ」

「いいんですか」

「いいんだよ。二娘はたまに刺した方が静かになる」

「ひどいねェ」

孫二娘は胸を押さえた。

でも、その顔は少しだけ楽しそうだった。

紅玉も、小さく笑った。

本当に少しだけ。

でも、笑った。

アタシはそれを見て、少しだけ息を吐いた。

幽州の門は遠ざかった。

勝ちかけた戦も、答里孛を捕らえた手応えも、全部置き去りにされる。

次は田虎討伐。

河北へ転進。

命令だけなら簡単だ。

地図の上で指を動かせば済む。

でも、実際に動くのは人間だ。

馬も疲れる。

兵も疲れる。

紅玉も疲れる。

アタシだって、疲れる。

「……ちょっと疲れたわ〜」

思わずそう言うと、孫二娘がすぐに笑った。

「お、三娘が弱音吐いたよォ」

「弱音じゃないわよ」

「じゃあ何だい」

「事実よ」

顧大嫂が頷いた。

「事実なら仕方ないね」

「顧大嫂まで」

「疲れてないふりされるより、ずっとましだよ。疲れたなら疲れたで、水を飲む。飯を食う。馬を休ませる。そうしない奴から潰れるんだ」

孫二娘が柄杓を肩に乗せる。

「そうそう。疲れた時は、疲れたって言えばいいんだよォ。格好つけて倒れたら、こっちの手間が増えるからねェ」

「言い方」

「事実だろ」

「アンタ達、本当に事実で殴るわね」

紅玉が小さく笑った。

玉楼も、ほんの少しだけ目を細めている。

それでいい。

今は、それでいい。

幽州を前にして退かされた。

勝っているのか、運ばれているのか、もう分からない。

官軍になった梁山泊は、また別の戦へ向かわされる。

でも、完全な沈黙じゃない。

孫二娘が茶化す。

顧大嫂が現実で殴る。

玉楼が半歩後ろから見ている。

紅玉が少しだけ笑える。

それだけは、まだ残っている。

「行くわよ」

アタシが言うと、孫二娘が片手を上げた。

「はいはい、疲れた扈将軍」

「そこは普通に扈将軍でいいでしょ」

顧大嫂が笑う。

「怖い顔で疲れた扈将軍だね」

「増やさないで」

紅玉が、今度ははっきり笑った。

ほんの短い笑いだった。

でも、確かに聞こえた。

河北へ向かう道は、重い。

田虎討伐。

また新しい戦が始まる。

幽州の門は背中に残ったまま。

それでも、隊列は進む。

アタシ達も、進むしかなかった。

幽州へ向かう道は、今までより静かだった。

檀州も落ちた。

薊州も落ちた。

覇州も落ちた。

それなのに、隊列の中に勝ちの熱は残っていない。

あるのは、乾いた蹄の音と、疲れた兵達の息遣いだけだった。

誰も大きな声を出さない。

誰も笑わない。

ただ、前へ進む。

幽州……

燕京……

その名が出てから、空気は変わっていた。

ただの次の城ではない。

そこへ近付いているのだと、誰もが分かっている。

紅玉は、アタシの少し後ろを進んでいた。

顔色はまだ良くない。

でも、隊列からは外れない。

玉楼が、その横で静かに見ている。

「呼吸は」

玉楼が聞く。

紅玉はすぐには答えなかった。

一度、息を吸う。

「……大丈夫です」

玉楼は小さく頷いた。

「それで良いです」

アタシは前を見たまま聞いていた。

少しずつだ。

本当に少しずつ。

紅玉は、戦場の中で呼吸を整える事を覚え始めている。

でも、幽州は待ってくれない。

遠くで土煙が上がった。

「来るわ」

アタシが言うより早く、前方の隊列が締まる。

林冲の合図が飛び、兵達が動く。

盾が前へ出る。

槍が揃う。

馬の首が並ぶ。

遼の騎兵が見えた。

今までより数が多い。

それだけじゃない。

動きが揃っている。

檀州や薊州で出てきた兵とは違う。

幽州へ近付いた事で、向こうも本気で止めに来ている。

玉楼が目を細めた。

「正面だけではありません」

「分かってる」

横だ――

右の土煙が薄く割れる。

そこから、一隊が出て来る。

女ばかりの騎兵。

檀州で見た。

薊州でも気配だけはあった。 覇州では、遠くからこちらを測っていた。

でも、今度は違う。

隠れていない。

堂々と前へ出て来る。

馬の首が揃っている。

槍の角度も揃っている。

前へ出る者と、引く者の間が乱れない。

「……来たわね」

アタシは手綱を締めた。

紅玉が息を飲む。

「女の兵……」

「女だから軽いと思わないこと」

紅玉はすぐに頷いた。

「はい」

声は震えている。

でも、見ている。

それでいい。

女の一隊は、こちらの右端を削るように動いた。

深くは入ってこない。

こちらの反応を見ている。

追わせたいのか。

崩したいのか。

それとも、誰が動くかを見ているのか。

「右を寄せて」

アタシが言うと、玉楼が動く。

紅玉も遅れない。

ちゃんとついてくる。

流れが変わる。

一瞬、間合いが開く。

そこに踏み込み、アタシは刃を走らせた。

敵の槍を弾く。

続けて、玉楼が横を押さえる。

紅玉は後ろで止まる。

前に出ない。

けれど、下がり過ぎもしない。

いい。

女の一隊は、すっと退いた。

崩れた訳ではない。

逃げた訳でもない。

最初から、そこまでと決めていたような退き方だった。

追おうとした兵が一歩前へ出る。

「追うな!」

アタシの声で止まる。

紅玉も、わずかに動きかけて止まった。

自分で止まった。

アタシは、それを横目で見た。

「今のは?」

紅玉は息を整えながら答える。

「誘い込み……だと思います」

「そう」

「追えば、横から切られます」

「それでいい」

紅玉の肩が少しだけ落ちる。

褒められた事に安心したのではない。

見えた事に、自分で気付いた顔だった。

その時、奥で白い馬が動いた。

女の一隊の後ろ。

騎兵の列が、そこだけ静かに割れる。

白い馬に乗った女が、一騎、前へ出た。

距離はある。

けれど、目が合った気がした。

玉楼が低く言う。

「指揮官でしょう」

「でしょうね」

白い馬の女が手を上げる。

それだけで、女兵達の槍の角度が揃った。

細い音が鳴る。

笛か、角笛か。

女の一隊が、今度は退かない。

右から回り、門へ向かうこちらの進路を塞ぐように広がる。

幽州は、まだ遠い。

でも、もう守りは始まっている。

林冲の隊が正面を押す。

楊志の隊が左へ回る。

武松が裂け目を探す。

魯智深の歩兵軍は後ろで押し上げている。

アタシ達は右を押さえるしかない。

「玉楼」

「はい」

「紅玉を見て」

「承知しております」

紅玉が顔を上げた。

「私も、見ます」

声は小さい。

でも、逃げる声ではなかった。

アタシは少しだけ口元を緩めた。

「なら、見なさい。無理に勝とうとしなくていい。見て、戻る。それだけでいい」

「はい」

女の一隊が近付く。

槍が来る。

速い。

でも、雑じゃない。

こちらの馬首を狙い、間合いを潰さず、削るように突いてくる。

アタシは受ける。

弾く。

押し返す。

玉楼が隣で槍先を流す。

紅玉は後ろで朴刀を構えた。

構えはまだ硬い。

でも、前より崩れていない。

一人の敵兵が、紅玉の方へ馬を寄せた。

試している。

紅玉の呼吸が変わる。

「受けるだけよ!」

アタシが叫ぶ。

紅玉は踏み込まない。

朴刀を横にし、槍を受ける。

重さに腕が沈み、肩が上がる。

でも、足は残る。

玉楼がすぐに入り、相手の槍先を払う。

敵兵は深追いせず、すぐ下がった。

見られた。

紅玉も、それに気付いたらしい。

唇を結んでいる。

「悔しがるのは後」

アタシが言うと、紅玉は息を吐いた。

「はい」

白い馬がまた動く。

女兵達が左右へ割れた。

中央が開く。

その中を、白い馬の女が進んで来る。

近くで見ると、若い女だった。

鎧は軽く、動きを邪魔しない。

目がまっすぐだった。

その女が、こちらを見た。

「私は遼の天寿公主――答里孛」

声はよく通った。

名乗る為の声だった。

周囲の兵が、一瞬動きを止める。

遼の敵兵達も、こちらの兵達も、その声を聞いた。

アタシは双刀を握り直す。

「そう」

答里孛の目がわずかに動いた。

「名を聞こう」

「一丈青、扈三娘」

「梁山泊の女か」

「今は官軍らしいわよ」

自分で言って、嫌な響きだと思った。

答里孛は笑わなかった。

「ならば、その腕を見せてもらうわ」

「好きになさい」

馬の腹を蹴り、踏み込む。

一合。

刃がぶつかり、鍔迫り合いになる。

重い……

見た目より、ずっと重い。

二合。

答里孛の七星宝剣が流れる。

太刀筋が速い。

玉楼とは違う。

林冲とも違う。

無駄が少なく、こちらを測りながら詰めてくる。

三合。

弾き返し、姿勢を戻す。

相手も崩れない。

四合。

受け流す。

間合いを詰めてくる。

アタシは退かない。

五合。

押し込まれるのを耐え、相手の剣を弾き返す。

六合。

弾き返される。

太刀筋を読まれている。

七合。

互いに打ち合う。

相手も合わせてくる。

八合。

日月双刀で受ける。

相手の剣を弾き返す。

でも――

まだ取らない。

九合。

踏み込ませ、間合いを詰めさせる。

同じ軌道、同じ間、癖を掴む。

十合。

弾いても、すぐに剣が来る。 太刀筋を変える。

でも、まだ合わせてくる。

十一合。

剣を避け、わざと遅らせると、答里孛が詰めてくる。

十二合。

日月双刀で薙ぎ払い、半歩下がる。

ここで間合いを外し、馬首を返した。

答里孛が迷い無く、追ってくる。

アタシは紅綿套索を取り、腕に投げつける。

縄が絡まり、答里孛の腕が止まる。

体勢が崩れ、 馬上に留まろうとする。

でも、もう遅い――

迷いなく縄を引き、答里孛の動きを封じる。

白い馬が嘶き、答里孛の体が鞍から落ちた。

地に落ちても、答里孛は声を上げなかった。

息も乱れていない。

ただ、こちらを見ている。

女の一隊が止まる。

遼兵も動かない。

アタシは馬上から見下ろした。

「……ここまでね」

答里孛は少しだけ口元を動かした。

「見事ですね……」

その言葉に、周囲の空気が揺れた。

でも、終わりではない。

幽州はまだ先にある。

門はまだ開いていない。

正面では、林冲の隊が押している。

アタシは前を向いた。

「行くわよ」

玉楼が頷く。

紅玉も、少し遅れて頷いた。

「はい」

女の一隊が道を空けた。

誰も斬りかからない。

答里孛が捕らえられた以上、下手に動けば主を危うくする。

それが分かっているのだろう。

アタシ達は狭間を抜けた。

後ろでざわめきが起こる。

遼の女兵達が退く気配がする。

追わない。

前だけを見る。

隊列は止まらない。

幽州へ向かって押し出される。

城壁が見え始める。

遠くに高く、黒く、重く立っている。

燕京。

前に見た東京の門とは違う。

でも、胸の奥で、なぜか重なった。

あの時は、街の音が近かった。

人の声、店の匂い、湯気、笑い声…… 面倒だと思いながら、それでも悪くないと思った。

今は違う。

同じ城門でも、そこには戦の音しかない。

「扈三娘様」

玉楼の声で、目を戻す。

城門前で、敵がまた固まっていた。 答里孛を捕らえても、幽州そのものは崩れない。

それだけ、遼は統制が取れているという事だ。

林冲が蛇矛を掲げる。

「押せ!」

隊列が前へ出る。

盾が上がり、矢が降る。

馬が嘶き、兵達が倒れる。

また別の兵が前へ出る。

アタシも馬を寄せた。

玉楼が隣につく。

紅玉も後ろから離れない。

「紅玉」

「はい」

「今度は助けに出ない。見るだけ」

紅玉は一瞬だけ悔しそうな顔をした。

でも、頷いた。

「はい」

幽州の門が近付く。

門前の守りが揺れる。

林冲の隊が押し、楊志が左を裂く。 武松が入り、魯智深の歩兵軍が門前へ押し出される。

丸太が運ばれ、盾が並び、怒声が飛ぶ。

木が軋んだ。

幽州の門が揺れる。

もう少し。 そう思った。

その時だった。

後ろから早馬が来た。

蹄の音が、隊列を裂くように近付く。

「止まれ!」

声が鳴り響いた。

続けて、

「退け!」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

退け――

今……

ここで……

門の前で……

誰も動かない。

馬も止まる。

兵の吐息だけが残る。

前で、林冲が動いた。

蛇矛を握り直す。

その柄が、きしむ音がした気がした。

「……退けだと」

声は低かった。

怒鳴ってはいない。

それなのに、周囲の空気が冷えた。

早馬の兵が息を整える。

「宋江様の命にございます」

林冲は蛇矛を下ろさない。

「理由は」

「詔を賜わりました」

空気が張り詰める。

詔――

また、それか。

林冲は歯を食いしばった。

それが見えた。

しばらく、誰も動かなかった。

幽州の門は目の前にある。

まだ揺れている。

もう少しで届く。

でも、命令は出た。

林冲は、ゆっくりと蛇矛を下ろした。

「……分かった」

短い声だった。

それだけで、こちらの何かが切れた気がした。

林冲が振り返る。

「全軍、退け!」

隊列が、ゆっくり向きを変える。

誰も声を上げない。

怒鳴らない。

ただ、蹄の音だけが戻り始める。

アタシは城門を見た。

幽州……

燕京……

近い――

もう、そこにある。

でも、行けない。

前に東京で見た門を思い出した。

あの時も、門は大きかった。

でも、中には人の暮らしがあった。 店があり、湯気があり、声があった。

今、目の前にある門は、ただの壁に見えた。

近い……

でも遠い……

切り分けられている。

「扈三娘様」

玉楼が静かに呼ぶ。

「分かってる」

そう答えた。

分かっている。

ここで逆らえば、梁山泊の中で血が流れる。

進めない。

退くしかない。

でも、納得は出来ない。

紅玉は黙っていた。

顔色は悪い。

何が起きたのか、全部は分かっていないはずだ。

でも、止められた事だけは分かっている。

アタシは馬首を返した。

「下がるわよ」

玉楼が頷く。

紅玉も、少し遅れて頷いた。

隊列は城門を背に離れていく。

誰も振り返らない。

振り返れば、余計に苦くなる。

少し離れた所で、宋江が使者と向き合っていた。

その声は遠い。

けれど、伝令がすぐに回って来る。

田虎討伐。

即日、転進。

言葉にすれば、それだけだった。

幽州を前にして退け。

そのまま河北へ向かえ。

アタシはしばらく黙った。

孫二娘が近くで息を吐く。

「……勝ちかけて、これかい」

顧大嫂も低く言う。

「城門の前で止められるのは、さすがに堪えるねぇ」

アタシは答えなかった。

林冲の声が飛ぶ。

「目標は河北」

それだけで、隊列がまた動き出す。

幽州の門は、もう後ろにある。

でも、背中に残っている。

刃の感触。

答里孛の重さ。

縄が絡んだ手応え。

門が軋んだ音。

全部、残っている。

それなのに、戦は別の場所へ移る。

勝っているのか。

運ばれているのか。

もう、その境目が分からない。

隊列は北から向きを変え、河北へ向かって進み始めた。

蹄の音だけが乾いた道に続く。

誰も口を開かない。

林冲の短い指示が下るたび、隊列は自然と整う。

無駄口はない。

街道はまっすぐ伸び、人の気配が次第に薄れていく。

やがて地の色が変わり、風が少しだけ冷え、土の硬さが足元から伝わってくる。

河北は近い。

ここまで来て、ようやく実感が乗る。

逃げ場はない。

このまま進めば、戦になる。

アタシは前を見たまま、手綱を引く。

しばらくそのまま進んでから、少しだけ軽口を言った。

「……ちょっと疲れたわ〜」

紅玉が、うつむいたまま小さく笑う。

玉楼は、何も言わずにこちらを見ている。

アタシは少しだけ顔をそらす。

――それくらいは、許してほしい。

幽州の門は、近くにありました。

本当に、近くに。

檀州、薊州、覇州を越え、ようやく見えた燕京の門。

その前で、私達は止められました。

いいえ。

止められた、という言い方では足りないのかもしれません。

届きかけた手を、横から引き剥がされた……

あの場にいた者の多くは、そう感じたのではないでしょうか。

林冲殿の隊は前へ出ていました。

楊志殿も、武松殿も、魯智深殿も、門前へ迫っていました。

扈三娘様に答里孛が捕らえられ、遼の女兵達も下手には動けなくなっていました。

幽州は、まだ落ちてはいません。

けれど、届かない場所ではなくなっていました。

その時に、退けと言われたのです。

詔――

その一言で、軍は止まりました。

戦場の前では、刃よりも重い言葉があります。

命令。

官軍。

詔。

そういうものは、時に人の腕よりも強く、人の心よりも冷たく、戦場そのものを動かしてしまいます。

扈三娘様は、納得しておられませんでした。

それでも、退かれました。

ここで逆らえば、敵ではなく、味方の内側で血が流れる。

あの方は、それも分かっておられたのだと思います。

「玉楼、また難しい顔してるよォ」

孫二娘殿が、横から声をかけてきました。

「考え事です」

「いつも考えてるじゃないか」

「では、いつも通りです」

「開き直ったねェ」

顧大嫂殿が荷車の横で笑いました。

「玉楼が考えなかったら、それはそれで怖いよ」

「どういう意味でしょうか」

「考えずに突っ込む玉楼なんて、三娘が二人いるようなもんだろ」

孫二娘殿が吹き出しました。

「それは怖いねェ。扈三娘が二人。幽州どころか、こっちの胃に穴が開くよォ」

「私は扈三娘様ほど無茶は致しません」

「そうかい?」

顧大嫂殿が、真顔で言いました。

「そうです」

「本当に?」

孫二娘殿まで、妙に真面目な顔をします。

「本当です」

紅玉が、少し離れた所で小さく首を傾げました。

「玉楼様も、時々かなり前に出ておられる気がします」

「紅玉」

「す、すみません」

孫二娘殿が腹を抱えて笑いました。

「ほら、若い子は正直だねェ」

顧大嫂殿も頷きます。

「紅玉の方がよく見てるじゃないか」

「私は必要な時に前へ出ているだけです」

「三娘も同じ事を言うよ」

「……」

言い返せませんでした。

紅玉が少しだけ口元を押さえます。

笑わない様にしているつもりなのでしょう。

ですが、隠しきれていません。

それを見て、孫二娘殿がにやりと笑いました。

「紅玉、笑っていいんだよォ」

「笑っていません」

「笑ってるねェ」

「少しだけです」

「素直になったねェ」

紅玉は、少し困った様に俯きました。

ですが、その顔色は、幽州の門の前にいた時よりは少しだけ戻っています。

幽州で退く事になった時、紅玉は黙っていました。

何が起きたのか、すべてを理解した訳ではないでしょう。

けれど、門の前で止められた事。

勝ちかけた流れが、別の言葉で断ち切られた事。

それは、あの子にも分かったはずです。

紅玉は、戦場の怖さだけでなく、戦場ではない場所から来る理不尽も見始めています。

それは、刃よりも分かりにくいものです。

矢なら避けられます。

槍なら受けられます。

敵なら、距離を測れます。

けれど、命令や詔は、どこから刺さるのか分かりません。

「玉楼」

紅玉が小さく声をかけてきました。

「何でしょう」

「幽州は、もう少しで落ちたんですか」

「分かりません」

私は、そう答えました。

紅玉は少し驚いた顔をしました。

「分からないんですか」

「はい。届きかけてはいました。ですが、戦は最後まで分かりません。門が破れても、その後がある。敵が退いても、罠がある。答里孛を捕らえても、幽州そのものが崩れた訳ではありません」

紅玉は、ゆっくり頷きました。

「でも……近かったんですよね」

「近かったです」

それだけは、否定できません。

門は近かった。

届きそうでした。

だからこそ、退けという命令は重かった。

顧大嫂殿が、低く息を吐きました。

「近い所で止められるのが、一番堪えるんだよ」

孫二娘殿も、柄杓を肩に乗せたまま頷きます。

「腹が減ってる時に、飯を目の前で下げられる様なもんだねェ」

「孫二娘殿」

「何だい」

「例えが少し軽いです」

「でも分かりやすいだろォ」

紅玉が真面目に考えました。

「分かりやすいです」

孫二娘殿が勝ち誇った顔をしました。

「ほらねェ」

顧大嫂殿が鼻を鳴らします。

「紅玉、何でも真面目に受け取るんじゃないよ」

「はい」

「そこも素直だねぇ」

孫二娘殿が笑います。

「顧大嫂の言葉は、半分くらい砂利だからねェ」

紅玉がすぐに答えました。

「砂利は飲めません」

孫二娘殿が固まりました。

顧大嫂殿が大きく笑います。

「また刺されたねぇ」

「最近、紅玉の返しが痛いよォ」

「孫二娘殿が教えたのではありませんか」

私が言うと、孫二娘殿は胸を押さえました。

「玉楼まで追い打ちするねェ」

紅玉が、今度ははっきり笑いました。

本当に短い笑いです。

ですが、確かに笑いました。

幽州の門を背にしても。

河北へ向かわされても。

紅玉がまだ笑える。

それは、今の私達にとって、小さくありません。

扈三娘様も疲れておられました。

「ちょっと疲れたわ〜」

そう口にされた時、私は少しだけ驚きました。

あの方は、強がる事が多い。

怒りや不満は表に出しても、疲れたとはあまり言われません。

ですが、あの時は違いました。

幽州の城門。

答里孛を捕らえた手応え。

詔による撤退。

田虎討伐への転進。

それらが、あの方の中にも重なっていたのでしょう。

「疲れたと言えるなら、まだ大丈夫だよ」

顧大嫂殿が言いました。

「そういうものですか」

紅玉が聞きます。

「そういうもんさ。疲れたと言えない奴から先に潰れる。痛いと言えない奴は、手当てが遅れる。怖いと言えない奴は、下がる場所を間違える」

孫二娘殿も頷きました。

「強がりも使い所だねェ。ずっと強がってたら、ただの馬鹿だよォ」

「孫二娘殿、それを扈三娘様に言えますか」

紅玉が真面目に聞きました。

孫二娘殿が少し黙りました。

顧大嫂殿がにやりとします。

「言えるんだろう?」

「言えるよォ」

「本当にですか」

紅玉が追い打ちをかけます。

孫二娘殿は胸を張りました。

「言えるとも。三娘、ずっと強がってたら馬鹿だよォ、ってね」

「怒られます」

紅玉が即答しました。

孫二娘殿の顔が少ししぼみました。

「……怒られるねェ」

顧大嫂殿がまた笑います。

「分かってるじゃないか」

「でも、本気では怒らないよ」

「それは、扈三娘様が甘いからですか」

紅玉がまた真面目に聞きました。

孫二娘殿が私を見ました。

「玉楼、この子、どんどん刺し方が上手くなってないかい?」

「見て、戻る事を覚えていますから」

「会話でも戻って来るんだねェ」

私は少しだけ笑いました。

確かに、紅玉は少しずつ変わっています。

怖がる事。

立ち止まる事。

笑う事。

疑問を口にする事。

そして、時々こちらを刺してくる事。

どれも小さな変化です。

けれど、戦場で小さな変化を保つのは、簡単ではありません。

「次は、田虎討伐なんですよね」

紅玉が言いました。

「はい」

「幽州とは、違う戦になるんですか」

「違うでしょう」

「怖いです」

「それで良いです」

紅玉は、少しだけ目を伏せました。

「怖いまま、遅れなければいいんですよね」

「はい」

顧大嫂殿が頷きます。

「それに、怖い時ほど周りを見るんだよ。前だけ見るんじゃない。横も見る。後ろも見る。戻る場所も見る」

孫二娘殿が柄杓を揺らしました。

「三娘がどこにいるか。玉楼がどこにいるか。顧大嫂がどこで水を持ってるか。アタシがどこで余計な事を言ってるか」

「孫二娘殿は、余計な事を言う場所も大事なのですか」

紅玉が真面目に聞きます。

孫二娘殿は、少し考えました。

「まあ、大事だねェ」

「大事なんですか」

「余計な事でも、言う場所を間違えると斬られるからねェ」

顧大嫂殿が頷きます。

「それは本当だね」

「本当なんですか」

紅玉がこちらを見ました。

私は少しだけ考えてから答えます。

「本当です」

紅玉は真剣に頷きました。

「覚えておきます」

孫二娘殿が困った顔をしました。

「いや、そこまで真面目に覚えなくてもいいんだけどねェ」

顧大嫂殿が笑いました。

「いいじゃないか。余計な事を言う場所を覚えるのも、生き残る知恵だよ」

「戦場の知恵が妙な方向へ伸びていませんか」

「伸びるだけましだよ」

その言葉に、少しだけ黙りました。

確かに、そうです。

伸びるだけまし。

笑えるだけまし。

怖いと言えるだけまし。

疲れたと言えるだけまし。

幽州の門は遠ざかりました。

河北への道が伸びています。

田虎討伐が待っています。

戦は終わっていません。

むしろ、また別の形で始まろうとしています。

扈三娘様は、きっとまた前へ出るでしょう。

林冲殿も、何も言わず隊列を整えるでしょう。

孫二娘殿と顧大嫂殿は、文句を言いながらも水と布を回すでしょう。

紅玉は、怖がりながらも見ようとするでしょう。

私は、その半歩後ろにいます。

誰が疲れているか。

誰が笑えているか。

誰が無理をしているか。

そして、誰が黙りすぎているか。

それを、見落とさない様に。

「玉楼」

孫二娘殿が、ふとこちらを見ました。

「はい」

「また難しい顔だよォ」

「考え事です」

「眉間に皺が寄るよ」

「寄っておりません」

顧大嫂殿が即座に言いました。

「寄ってるね」

紅玉も、申し訳なさそうに頷きます。

「少しだけ……」

「紅玉まで」

孫二娘殿が笑いました。

「ほら、玉楼も疲れてるんだよォ」

「私は疲れておりません」

「疲れてるって言えない奴から潰れるんじゃなかったかい?」

顧大嫂殿が笑います。

私は少し黙りました。

そして、小さく息を吐きます。

「……少しだけ、疲れています」

孫二娘殿が満足そうに頷きました。

「よし」

「よし、なのですね」

紅玉が言います。

孫二娘殿は笑いました。

「そうだよォ。怖いも、疲れたも、言えるならよしだよォ」

顧大嫂殿が荷車を押し始めます。

「じゃあ、疲れた玉楼も歩くよ。河北は待ってくれないからね」

「待っていなくても、行かされるのでしょう?」

紅玉が、ぽつりと言いました。

孫二娘殿と顧大嫂殿が、一瞬だけ顔を見合わせます。

それから、孫二娘殿が笑いました。

「本当に、言う様になったねェ」

紅玉は少し慌てました。

「す、すみません」

「謝らなくていいよ」

顧大嫂殿が言いました。

「そのくらい分かってるなら、上等だ」

紅玉は、少しだけ安心した様に頷きました。

私は前を見ます。

河北へ向かう道が、伸びています。

幽州の門は、もう見えません。

ですが、その重さは背中に残っています。

それでも、完全な沈黙ではありません。

その事だけは、まだ救いでした。

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