勝利を運ばされる者達
檀州が落ちた。
薊州も落ちた。
覇州も、落ちた。
……勝ってる。
勝っているはずなのよ。
三つも城を落として、道は幽州へ近付いている。
普通なら、もっと誇っていいのかもしれない。
胸を張って、官軍の勝利だと言えばいいのかもしれない。
でも、そんな気分にはなれなかった。
門が破れるたびに、同じ音がした。
兵が流れ込む音。
怒号。
笑い声。
悲鳴なのか、泣き声なのか、よく分からない声。
何かが壊れる音。
檀州でも。
薊州でも。
覇州でも。
同じだった。
「三娘、顔がまた怖いよォ」
横から孫二娘が覗き込んできた。
「またって何よ」
「ずっと怖いって言うより、優しいだろォ」
「優しくないわよ」
顧大嫂が荷車の縄を締めながら鼻を鳴らした。
「どっちでもいいよ。怖い顔してたって、門は直らないし、怪我人も減らないからね」
「分かってるわよ」
「分かってる顔には見えないねぇ」
「じゃあ、どんな顔ならいいのよ」
孫二娘が少し考え込むふりをした。
「そうだねェ。勝ちました、嬉しいです、次も頑張ります、みたいな顔かねェ」
「絶対しない」
「だろうねェ」
顧大嫂が笑った。
笑い声は軽い。
でも、軽くしようとしているのだと分かる。
この二人は、ふざけている様で、ちゃんと場を見ている。
兵が倒れれば水を運ぶ。
布が足りなければ集める。
城内の嫌な音には近付かない。
でも、門の外で倒れている者は見捨てない。
そういう線の引き方を、二人は知っている。
紅玉は、その横で黙っていた。
覇州の門の前で、あの子は止まった。
アタシが言う前に、止まった。
入らなくていいのだと、自分で分かった。
それは良かった。
でも、良かっただけでは終わらない。
見ない事を覚える。
聞かない事を覚える。
追わない事を覚える。
それが強さなのか、逃げなのか、まだ紅玉には分からないはずだ。
アタシだって、全部分かっている訳じゃない。
「紅玉」
「はい」
返事は早かった。
でも、すぐに自分で気付いたのか、紅玉は小さく息を吸い直した。
「……はい」
玉楼が静かに頷く。
「それで良いです」
孫二娘がにやりと笑った。
「お、ちゃんと息を置いたねェ」
紅玉は少しだけ困った顔をした。
「見ていたんですか」
「見てるよォ。若い子が成長してる所を見るのは、年寄りの楽しみだからねェ」
「二娘殿は、年寄りなんですか」
一瞬、空気が止まった。
孫二娘の笑顔も止まった。
顧大嫂が吹き出した。
「紅玉、今のはいいねぇ」
「えっ」
「言われたねェ、二娘」
「いやいや、アタシはまだ年寄りじゃないよォ。今のは例えだよ、例え。まだまだお姉さんで通るだろォ!」
「でも、今、ご自分で年寄りと」
紅玉が真面目に言う。
孫二娘が胸を押さえた。
「真面目な刃は痛いねェ……」
「刃物は握る場所を間違えると自分が切れるんでしょう?」
紅玉が小さく続けた。
顧大嫂が腹を抱えて笑った。
「覚えがいいじゃないか!」
孫二娘が空を仰ぐ。
「玉楼、この子、意外と強くなるよォ」
玉楼は少しだけ目を細めた。
「はい。ですが、そこは真似しなくてよろしいかと」
「真似って何さ」
「二娘殿の口の悪さです」
「ひどいねェ」
「事実だろ」
顧大嫂が即座に言った。
紅玉が、今度は隠さずに笑った。
ほんの少し。
でも、ちゃんと笑った。
その顔を見て、アタシは少しだけ息を吐いた。
この子は、まだ大丈夫だ。
怖がっている。
疲れている。
でも、笑える。
それは小さな事に見えて、戦場ではかなり大きい。
「で、次は幽州だって?」
孫二娘が急に声を低くした。
笑いの後ろに、疲れが見えた。
「ええ」
「とうとうそこまで行くんだねェ」
顧大嫂も水袋を荷車へ積みながら言う。
「檀州、薊州、覇州。次は幽州。命令する方は、地図の上で指を動かしてるだけなんだろうねぇ」
「聞こえるわよ」
「聞こえる所では言ってないよ」
「聞こえなくても危ないでしょ」
「危ないくらいがちょうどいい時もあるんだよ」
「ないわよ」
孫二娘が笑った。
「三娘は真面目だねェ」
「真面目じゃないわよ」
「真面目だよォ。勝ったのに、ずっと勝った気がしない顔してる」
言い返せなかった。
勝った気がしない。
それは本当だった。
檀州も落ちた。
薊州も落ちた。
覇州も落ちた。
でも、何かを掴んだ感じがしない。
ただ、次の門へ運ばれている。
そんな感じがする。
官軍になった梁山泊は、止まれない。
勝った場所に留まれない。
嫌なものを見ない時間さえ、こちらで選べない。
進めと言われれば進む。
幽州へ、と言われれば幽州へ向かう。
紅玉が小さく口を開いた。
「幽州は……怖い所ですか」
アタシは少し考えた。
怖くないとは言えない。
大丈夫とも言えない。
だから、嘘はつかなかった。
「怖い所よ」
紅玉の喉が、小さく動いた。
でも、目は逸らさない。
「でも、行くんですよね」
「行くわ」
「……はい」
孫二娘が柄杓を肩に乗せた。
「怖いって分かってて行くなら、上等だよォ」
顧大嫂も頷いた。
「怖くないふりして行くより、よっぽどましだね」
紅玉は二人を見た。
それから、アタシを見る。
「怖いままでも、いいんですね」
「いいわ」
アタシは短く答えた。
「怖いまま、遅れなければいい」
紅玉は少しだけ息を吸った。
今度は、急いで返事をしなかった。
息を整え、手綱を握り直し、それから言った。
「はい」
その声は、まだ細い。
でも、ちゃんと前へ向いていた。
玉楼が隣で静かに頷く。
孫二娘が笑う。
顧大嫂が荷車を叩く。
「ほら、行くよ! 幽州が待ってるんだろ!」
「待ってなくていいわよ」
「向こうが待ってなくても、こっちが行かされるんだよ」
「本当に嫌な言い方するわね」
「事実だろ」
孫二娘が楽しそうに笑った。
「顧大嫂はいつも事実で殴るねェ」
「アンタは冗談で煙に巻きすぎなんだよ」
「煙なら檀州にも薊州にも覇州にも残ってるよォ」
その一言で、少しだけ笑いが止まった。
孫二娘も、それ以上は続けなかった。
冗談にしていい所と、してはいけない所。
この二人は、それも分かっている。
アタシは前を見る。
幽州。
燕京。
まだ遠い。
でも、確実に近付いている。
檀州の煙も、薊州の声も、覇州の壊れる音も、まだ体の中に残っている。
それでも、隊列は進む。
勝っているのか。
運ばれているのか。
もう、その境目は少し曖昧になっていた。
でも、紅玉は列から外れない。
玉楼は半歩後ろにいる。
孫二娘と顧大嫂は、文句を言いながら荷車を動かしている。
それだけは、まだ見えている。
「行くわよ」
アタシが言うと、紅玉が頷いた。
「はい」
孫二娘が片手を上げる。
「はいはい、扈将軍」
顧大嫂が笑う。
「怖い顔の扈将軍について行くよ」
「誰が怖い顔よ」
「アンタだよ」
紅玉が、また少しだけ笑った。
それでいい。
今は、それでいい。
幽州へ向かう道は、きっと重い。
でも、完全な沈黙じゃない。
その事だけは、まだ救いだった。
薊州の門を背に、アタシ達はまた進み始めた。
檀州の煙も、薊州の声も、まだ体に残っている。
それなのに、隊列は止まらない。
覇州へ――
その一言だけで、兵達はまた前を見る。
誰も文句を言わなかった。
文句を言う暇もなかった。
官軍になった梁山泊は、勝った場所に留まれない。
門を破れば、次の門。
城を落とせば、次の城。
休むより先に、命令が来る。
紅玉は後ろで黙っている。
薊州の門の前で、あの子は何かを見た。
けれど、中へは入らなかった。
聞かなかった。
追わなかった。
戻った。
それだけでも、前よりは進んでいる。
アタシは手綱を握り直した。
「覇州まで、遅れるんじゃないわよ」
紅玉が顔を上げる。
「はい」
声はまだ細い。
でも、逃げる声ではなかった。
玉楼が少しだけ視線を寄せる。
「息が乱れたら、すぐ言いなさい」
「はい」
「早く答える必要はありません」
紅玉は一度、息を吸った。
「……はい」
その返事を聞いて、玉楼は前へ視線を戻した。
少しずつだ。
本当に少しずつ。
紅玉は、返事をする前に息を整える事を覚え始めている。
道は乾いていた。
兵達の足音と蹄の音が、ずっと続く。
檀州から薊州へ。
薊州から覇州へ。
地名だけが変わり、やる事は変わらない。
進む。
ぶつかる。
押す。
門を破る。
また進む。
それだけだった。
途中、孫二娘が馬を寄せて来た。
いつもの様に笑っている。
でも、顔には疲れが残っていた。
「三娘」
「何よ」
「官軍ってのは、本当に休まないねェ」
「アタシに言わないで」
「アンタに言うしかないだろォ。宋江に言ったら、ありがたいお言葉が返って来そうだしねェ」
「二娘」
顧大嫂が後ろから声を飛ばす。
「聞こえたら面倒だよ」
「聞こえる様には言ってないよォ」
「嘘つきだねぇ」
二人の声に、少しだけ周りの兵が笑った。
笑ったと言っても、短い。
すぐに消える。
それでも、何もないよりはましだった。
紅玉も、その声を聞いている。
顔は前を向いたままでも、肩の固さが少し緩んでいた。
孫二娘が紅玉へ目をやる。
「紅玉」
「はい」
「馬の上で固まりすぎだよォ。そんなに力を入れてたら、覇州に着く前に足が死ぬよ」
紅玉は少しだけ慌てる。
「すみません」
「謝る事じゃない。抜く所は抜けって話さ」
顧大嫂も横から言う。
「怖い時に力が入るのは仕方ないけどねぇ。力を入れっぱなしだと、いざという時に動けないよ」
紅玉は手綱を握る手を見た。
指に力が入りすぎている。
それに気付いたのか、ゆっくりと息を吐く。
玉楼が静かに頷いた。
「それで良いです」
紅玉は小さく頷いた。
覇州が近付く頃には、陽が傾き始めていた。
空の色が薄く変わり、遠くに城壁の影が見える。
檀州や薊州の時と同じ様で、同じではない。
敵も、こちらが来る事を知っている。
城壁の上には旗が並び、門前には兵が固まっていた。
だが、薊州ほどの余裕は見えなかった。
檀州が落ち、薊州が落ちた。
その知らせは、覇州にも届いている。
待ち構えてはいる。
けれど、怖れてもいる。
「崩れかけてるわね」
アタシが言うと、玉楼が頷いた。
「持ちこたえる為の構えですが、内側が揺れております」
紅玉が城門を見る。
今度は、目の動きが少しだけ絞られていた。
全部を追っていない。
旗。
門前の隊列。
城壁の端。
動くものと、動いていないのに目立つもの。
薊州で言った事を覚えている。
「何が見える?」
アタシが聞くと、紅玉はすぐには答えなかった。 息を一つ整える。
「門前の兵が、少し下がっています」
「そうね」
「でも、城壁の弓は前に出ています」
「続けて」
紅玉は目を細める。
「門を守るより、こちらを近付けたくない様に見えます」
玉楼が静かに言った。
「よく見ています」
紅玉の顔が少しだけ動く。
嬉しいのか、驚いたのか。
でも、すぐ前を向いた。
林冲の号令が飛ぶ。
「前へ」
隊列が押し出される。
声は少ない。
でも、動きは鈍くない。
梁山泊の兵達は、疲れていても進む。
怒っていても進む。
納得していなくても進む。
それが、余計に苦かった。
官軍……
朝廷の兵……
そう呼ばれる様になっても、前へ出る背中は変わらない。
変わらないのに、旗だけが変わる。 名目だけが変わる。
勝てば、朝廷の威。
死ねば、賊上がりの末路。
そんな言葉が、どこかで待っている気がした。
「三娘様」
玉楼の声で、意識が戻る。
敵の矢が来た。
盾が上がる。
矢が刺さる。
悲鳴が上がる。
それでも、隊列は止まらない。
アタシは馬を前へ出した。
「紅玉、下がりすぎない。でも、前に出すぎない」
「はい!」
「返事より、足」
紅玉は唇を結び、馬を合わせる。
遅れない。
少しだけ揺れる。
でも、戻す。
玉楼が右へ入り、アタシは左から押す。
敵の騎兵が前に出て来る。
数は多くない。
こちらを止めるというより、門前までの時間を稼ぐ動きだった。
「押し切るわ」
玉楼が頷く。
「はい」
刃が当たり、金属の音が近くで弾ける。
敵兵の槍を受け、馬を寄せ、間合いを潰す。
玉楼が横から入り、槍持ちの腕を落とす。
紅玉は後ろで、倒れた味方を見た。 動きかける。
でも、すぐには飛び出さない。
見ている。
間に合うか。
出るべきか。
戻れるか。
考えている。
「行っていい!」
アタシが叫ぶと、紅玉が動いた。
倒れた兵の前へ出る。
朴刀を横にして、飛んできた刃を受ける。
腕が沈み、足がずれる。
でも、倒れない。
「押し返さなくていい!」
紅玉は歯を食いしばり、刃を受けたまま半歩下がった。
倒れていた兵が後ろへ引きずられる。
顧大嫂の声が飛んだ。
「こっちへ回しな!」
負傷兵が下げられる。
紅玉は追わない。
敵を睨む事もしない。
呼吸を乱しながら、こちらへ戻った。
「戻りました」
その声は震えていた。
「よし」
アタシは短く言った。
それだけで、紅玉の肩から少しだけ力が抜けた。
覇州の門は長く持たなかった。
林冲の隊が正面を押し、楊志が横から崩す。
武松が開いた隙へ切り込み、門前の守りを乱した。
そこへ、魯智深の歩兵軍が押し寄せる。
丸太が運ばれ、盾が前に出る。
怒声とともに、門へ叩きつけられた。
木が軋み、鉄具が鳴る。
もう一度。
さらに、もう一度。
門前の守りが崩れ、内側から悲鳴が上がった。
次の瞬間、覇州の門が破れた。
何度も聞いた音だ。
聞き慣れたくない音でもあった。
門が破れ、歓声が上がる。
怒号も上がる。
隊列が中へ流れ込む。
アタシは、また足を止めた。
紅玉も止まった。
今度は、アタシが言う前に止まった。
城内から、声が流れてくる。
笑い声。
叫び声。
何かが壊れる音。
檀州。
薊州。
そして覇州。
同じ音だった。
「……入らなくて、いいんですよね」
紅玉が小さく言った。
アタシは紅玉を見た。
顔色は悪い。
でも、目は逸らしていない。
「ええ」
短く答えた。
玉楼が静かに続ける。
「今は、それで構いません」
紅玉は頷いた。
前より少しだけ、迷いが少ない。
孫二娘が負傷兵を押し戻しながら近付いて来る。
「三つ目だねェ」
「数えなくていいわよ」
「数えたくなくても、数えちまうだろォ」
顧大嫂が水袋を兵に投げながら言う。
「勝ってるはずなんだけどねぇ。ちっとも勝った気がしないよ」
「本当にね」
アタシは覇州の門を見た。
檀州も落ちた。
薊州も落ちた。
覇州も落ちた。
それなのに、何かを掴んだ感じがしない。
ただ、次から次へと門を破らされている。
そんな気がした。
その時、また早馬が来た。
もう驚かない。
誰も、驚かなかった。
伝令は息を切らし、声を張る。
「次の命! 幽州へ進軍!」
空気が止まった。
幽州。
燕京。
そこまで行くのか……
そこまで、行かされるのか……
林冲が少しだけ顔を上げた。
李俊が遠くで目を細める。
楊志は腕を組んだまま、顔を動かさない。
魯智深が低く鼻を鳴らす。
武松は何も言わない。
宋江の姿は、少し離れた本隊にある。
見えなくても、そこにいるのは分かる。
アタシは手綱を握ったまま、しばらく黙った。
幽州へ――
勝った後の声が、まだ耳に残っている。
紅玉の息も、まだ乱れている。
兵達も疲れている。
でも、命令は出た。
孫二娘が乾いた声で笑った。
「とうとう幽州だってさ」
顧大嫂が眉を寄せる。
「本当に止まらないねぇ」
「止まれないんでしょ」
アタシはそう言った。
自分でも、少し嫌な声だった。
官軍になった梁山泊は、もう止まる場所を選べない。
進めと言われれば進む。
退けと言われれば退く。
勝った場所に留まる事も、見たくないものから目を背ける時間も、こちらでは決められない。
紅玉がこちらを見る。
「幽州は……大きいんですか」
「大きいわ」
「燕京とも呼ばれる場所です」
玉楼が補う。
「遼にとっても、重要な城です」
紅玉は小さく息を飲んだ。
それでも、目を伏せない。
「行くんですね」
「行くわ」
そう答えるしかなかった。
林冲の号令が飛ぶ。
「隊列を整えろ。幽州へ向かう」
短い声。
でも、その一言で、また兵達が動き出す。
覇州の門を背に、隊列は北へ伸びる。
蹄の音が乾いた道に続く。
空気が少し冷えていた。
地の色も変わり始めている。
紅玉は、黙ってついて来る。
怖いはずだ。
疲れているはずだ。
それでも、列から外れない。
玉楼が隣で静かに見ている。
アタシは前を見る。
遠くに、まだ見えない城がある。
幽州。
燕京。
そこへ行けば、また何かが待っている。
遼の女部隊。
白い馬。
こちらを測っていたあの目。
まだ終わっていない。
むしろ、近付いている。
風が抜け、血と土と煙の匂いが、少しずつ後ろへ流れていく。
アタシは小さく息を吐いた。
「……本当に、休ませないわね」
誰に言った訳でもない。
でも、玉楼が聞いていた。
「はい」
紅玉も、小さく頷いた。
「でも……行きます」
その声に、アタシは少しだけ振り返った。
紅玉は前を見ていた。
顔色は悪い。
でも、まだ目は死んでいない。
「そう」
アタシは前へ向き直る。
「じゃあ、遅れないで」
「はい」
隊列は進む。
檀州を背にし、薊州を越え、覇州を抜け、幽州へ向かう。
勝っているのか。
運ばれているのか。
もう、その境目が分からなくなってきた。
それでも、足は止まらない。
幽州は、まだ遠い。
でも、確実に近付いていた。
檀州、薊州、覇州。
三つの城が落ちました。
言葉にすれば、ただそれだけです。
ですが、その一つ一つの門の前で、扈三娘様は足を止めておられました。
勝ったから進む。
命令が出たから進む。
官軍になった梁山泊は、それで動きます。
けれど、扈三娘様は、勝ったという言葉だけでその場を通り過ぎられる方ではありません。
門の奥から聞こえる声。
兵が流れ込む音。
怒号。
笑い声。
何かが壊れる音。
そういうものを、聞こえなかった事には出来ない。
けれど、紅玉には無理に見せない。
その判断は、簡単な様で、実はとても難しいものです。
見せなければ、甘やかしと言われるかもしれません。
見せれば、強くなると言う者もいるでしょう。
ですが、私はそうは思いません。
人は、見たもの全てを正しく受け止められる訳ではありません。
受け止める準備がないまま見てしまえば、傷だけが先に残ります。
怒りを覚悟と間違えたり。
恐怖を弱さと決めつけたり。
何も感じないふりを、強さだと思い込んだり。
そういう間違いは、後で必ずどこかを歪ませます。
だから、扈三娘様は紅玉に入るなと言われたのだと思います。
逃がしたのではありません。
壊さない為に、止めたのです。
「玉楼は難しく言うねェ」
孫二娘殿が、横から声をかけてきました。
手には、いつもの様に柄杓を持っています。
「難しい話ではありません」
「いや、難しいよォ。アタシなら、嫌なもんは嫌だねェで終わりだよ」
「それで済ませられるのは、ある意味では強さです」
「褒めてるのかい?」
「半分ほどは」
「残り半分が気になるねェ」
そこへ、顧大嫂殿が荷車の横から戻って来ました。
「気にしなくていいよ。どうせ玉楼の事だ。半分は呆れてるんだろ」
「呆れてはおりません」
「じゃあ、考えてる」
「それは否定しません」
孫二娘殿が笑いました。
「ほらねェ。玉楼は何でも一回考えるんだよォ」
「考えずに喋る孫二娘殿とは、違いますので」
「ひどいねェ」
「事実だろ」
顧大嫂殿が即座に言いました。
紅玉が、その横で小さく笑いました。
以前なら、すぐに口を結んでいたでしょう。
ですが、今は少しだけ、その笑いを隠さずにいられる様になっています。
それは、小さな変化です。
けれど、戦場では小さくありません。
檀州の門の前で、紅玉は固まっていました。
薊州では、止まる事を覚えました。
覇州では、扈三娘様に言われる前に、自分で止まりました。
入らない。
追わない。
無理に見ない。
それを、自分で選んだのです。
「紅玉」
私が呼ぶと、紅玉は顔を上げました。
「はい」
少し早い返事でした。
けれど、すぐに息を整え直します。
「……はい」
「良い返事です」
紅玉は少しだけ目を伏せました。
「まだ、慣れません」
「慣れなくて良いのです」
「でも、慣れないと、足手まといになります」
顧大嫂殿が鼻を鳴らしました。
「慣れたふりをする奴の方が、よっぽど足手まといだよ」
紅玉が顧大嫂殿を見る。
「そうなんですか」
「そうさ。怖いのに怖くない顔をして、出来もしない事をやろうとする。そういう奴が、一番周りを巻き込むんだ」
孫二娘殿も柄杓を肩に乗せました。
「怖いなら怖いでいいんだよォ。怖いから下がる。怖いから見る。怖いから手を抜かない。そういう怖さなら、役に立つ」
紅玉は、じっと二人を見ていました。
二人とも、口は荒いです。
けれど、言っている事はいつも現場の言葉です。
生き残る為の言葉です。
「怖いままでも、いいんですね」
紅玉が小さく言いました。
孫二娘殿が笑います。
「さっき三娘も言ってただろォ。怖いまま、遅れなきゃいいって」
「はい」
「まあ、三娘は怖い顔のまま進むけどねェ」
顧大嫂殿が頷きます。
「怖い顔の扈将軍だね」
「それを扈三娘様の前で言えるのですか」
私が聞くと、顧大嫂殿は平然としていました。
「言えるよ」
孫二娘殿も頷きます。
「言えるねェ」
紅玉が少し驚いた顔をします。
「怒られませんか」
「怒られるよォ」
「怒られるんですか」
「でも、本気では怒らないよ。三娘はそういう所が甘いからねェ」
「甘い、のでしょうか」
紅玉が真剣に考え始めました。
顧大嫂殿が笑います。
「そこは真面目に考えなくていいんだよ」
孫二娘殿も困った様に笑いました。
「この子、本当に真っ直ぐ刺してくるねェ」
「刃物は握る場所を間違えると自分が切れる、と教えたのは二娘殿です」
私が言うと、孫二娘殿は胸を押さえました。
「またその刃が戻って来たよォ」
紅玉が、今度は少しだけ口元を押さえて笑いました。
その笑いを見て、私は少し安心しました。
紅玉は、強くなっています。
ですが、戦場に染まり切っている訳ではありません。
怖いと言える。
分からないと言える。
笑う余地がある。
それは、扈三娘様が守ろうとしているものでもあります。
扈三娘様は、紅玉を弱いままにしておきたい訳ではありません。
戦えないまま庇いたい訳でもありません。
ただ、壊れた強さを望んでいないのです。
その事が、私はよく分かります。
「で、次は幽州かい」
顧大嫂殿が、低く言いました。
空気が少し変わります。
孫二娘殿も、さっきまでの笑いを少し引っ込めました。
「とうとう燕京だねェ」
幽州。
燕京。
その名は、今までの城とは違います。
檀州、薊州、覇州を落として進んできた道の先。
遼にとっても、梁山泊にとっても、ただの次の城ではありません。
「怖い所なんですよね」
紅玉が言いました。
「はい」
私は答えました。
「大きな城です。そして、敵もこちらを見ています」
「見ている……」
「こちらがどれほど疲れているか。どこで勢いが落ちるか。誰が前へ出るか。そういうものを、見ているはずです」
紅玉は小さく息を飲みました。
ですが、目を伏せませんでした。
孫二娘殿が紅玉の顔を覗き込みました。
「怖いかい」
「怖いです」
「よし」
「よし、なんですね」
「怖いって言えるなら、よしだよォ」
顧大嫂殿が荷車の縄を引き直します。
「怖くない奴から先に死ぬからね」
「顧大嫂殿」
私が少し咎めると、顧大嫂殿は肩をすくめました。
「言い方は悪いけど、本当の事だよ」
「それは、そうですが」
「だったらいいじゃないか。紅玉は怖がってる。なら、まだ周りが見える」
紅玉は、ゆっくり頷きました。
「周りを見るんですね」
「そうさ。怖い時ほど、自分の中だけ見るんじゃないよ。前を見る。横を見る。戻る場所を見る。三娘がどこにいるか、玉楼がどこにいるか、それを見ておきな」
紅玉の目が、こちらへ向きます。
それから、少し離れた扈三娘様の背へ向きました。
「はい」
その返事は、まだ細いものでした。
ですが、逃げる声ではありませんでした。
孫二娘殿が小さく笑います。
「いい返事だねェ」
顧大嫂殿も頷きました。
「前よりはましになったね」
「顧大嫂殿は、褒め方が厳しいです」
紅玉が言うと、顧大嫂殿は笑いました。
「褒めてるだけありがたいと思いな」
「はい」
「そこは素直なんだねぇ」
孫二娘殿が横から口を挟みます。
「紅玉、顧大嫂の褒め言葉は半分くらい砂利だからねェ。噛まずに飲むんだよ」
「砂利は飲めません」
紅玉が真面目に返しました。
孫二娘殿が固まります。
顧大嫂殿がまた笑いました。
「二娘、今日はよく刺されるねぇ」
「本当にねェ。若い子は怖いよォ」
「年寄りの楽しみではなかったのですか」
私が言うと、孫二娘殿はまた胸を押さえました。
「玉楼まで刺してきたよォ」
紅玉が小さく笑いました。
完全な明るさではありません。
けれど、完全な沈黙でもありません。
それで良いのだと思います。
檀州が落ちました。
薊州が落ちました。
覇州も落ちました。
勝っているはずなのに、足取りは軽くありません。
そして次は幽州です。
きっと、さらに重い道になるでしょう。
扈三娘様は、また勝利を勝利だけで片付けられないはずです。
紅玉は、また怖がるでしょう。
孫二娘殿と顧大嫂殿は、また文句を言いながら場を動かすでしょう。
私は、その半歩後ろで見ています。
誰が無理をしているか。
誰が息を乱しているか。
誰が笑えているか。
それを見落とさない様に。
「玉楼」
孫二娘殿が、ふとこちらを見ました。
「はい」
「また難しい顔してるよォ」
「考え事です」
「眉間に皺が寄るよ」
「寄っておりません」
顧大嫂殿が横から言います。
「寄ってるねぇ」
紅玉も、申し訳なさそうに小さく頷きました。
「少しだけ……」
「紅玉まで」
孫二娘殿が楽しそうに笑いました。
「ほら、玉楼も怖い顔だよォ。三娘の事、言えないねェ」
「私は怖い顔ではありません」
「じゃあ、難しい顔だ」
「それは否定しません」
「否定しないんだね」
顧大嫂殿が荷車を押し始めました。
「ほら、行くよ。幽州が待ってるんだろ」
「待っていなくても、行かされるんでしょう?」
紅玉がぽつりと言いました。
顧大嫂殿が一瞬、目を丸くしました。
孫二娘殿が、それからゆっくり笑います。
「おや、言う様になったねェ」
紅玉は少し慌てました。
「す、すみません」
「謝る事じゃないよ」
顧大嫂殿が笑います。
「そのくらい分かってるなら、上等だ」
紅玉は、少しだけほっとした顔をしました。
私は前を見ます。
幽州へ向かう道が、伸びています。
重い道です。
ですが、完全な沈黙ではありません。
その事だけは、まだ救いでした。




