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止まれぬ官軍

まえがき

檀州が落ちた。

薊州も落ちた。

……勝ってる。

勝ってるはずなのよ。

なのに、どうしてこんなに息が重いのかしらね。

官軍になった梁山泊は、止まらない。

落としたら次。

進んだら次。

勝った場所に腰を下ろす暇もなく、また馬を出す。

それが戦だと言われれば、そうなのかもしれない。

でも、城門の向こうから聞こえてくる声まで、全部まとめて勝ちで片付けられるほど、アタシは器用じゃない。

「三娘、顔が怖いよォ」

横から孫二娘が覗き込んできた。

「元からよ」

「自分で言うんだねェ」

「今は笑うところじゃないでしょ」

「笑わないとやってられない時もあるんだよォ」

孫二娘は肩をすくめた。

顧大嫂が荷車の方から戻ってくる。

「そいつの言う通りだね。真面目な顔してたって、怪我人の手当てが早くなる訳じゃないよ」

「アンタ達、城内へ行かないのね」

アタシが言うと、顧大嫂は鼻を鳴らした。

「行ってどうするんだい。見物かい」

孫二娘も笑った。

「アタシらは料理女でもあるけど、見世物小屋の客じゃないからねェ」

「料理女って自分で言うのもどうなのよ」

「じゃあ人肉饅頭屋って言った方がいいかい?」

「やめなさい」

紅玉が横で固まった。

顧大嫂がすぐに孫二娘の背中を叩く。

「子供の前で言うんじゃないよ」

「痛いねェ。冗談だよォ」

「冗談にも向き不向きがあるんだよ」

紅玉は困った顔でアタシを見た。

「……本当なんですか」

「聞かなくていい」

「聞かない方がいいですか」

「聞かない方がいいわ」

孫二娘が笑いながら手を振る。

「安心しな。今は真面目に水を運んでるだけだよォ」

「今は、って何ですか」

紅玉が小さく聞いた。

顧大嫂が即座に割って入る。

「紅玉。世の中にはね、聞いた瞬間に面倒になる話があるんだよ」

「はい……」

「だから今は水だ。布だ。怪我人だ。そこだけ見てりゃいい」

紅玉は少しだけ頷いた。

こういう時、この二人は本当に強い。

ふざけている様で、見ている場所は間違えない。

城内の騒ぎには入らない。

でも、門の外で倒れている者は見捨てない。

勝った後の嫌な音を、無かった事にはしない。

けれど、そこへ紅玉を引きずり込む事もしない。

孫二娘が紅玉の方へ顎をしゃくった。

「怖かったかい」

紅玉は少し迷ってから頷いた。

「怖かったです」

「そりゃいい」

「いいんですか」

「怖くないって言う奴の方が怖いんだよォ」

顧大嫂も頷く。

「怖いまま手を動かせるなら上等だね。震えてても、水を渡せりゃ役に立つ」

紅玉は自分の手を見た。

まだ少し震えている。

でも、隠さなかった。

アタシは、その手を見て思う。

この子には、強くなってほしい。

でも、壊れてほしい訳じゃない。

全部を見て、全部に名前を付けて、全部を背負えば強くなるなんて、そんな都合のいい話じゃない。

見なくていいものがある。

今は分からないまま置いておいていいものもある。

それを教えるのは、剣より難しいのかもしれない。

「で、次は覇州だって?」

孫二娘が空を見上げた。

「忙しいわね」

「官軍様は馬の尻も休ませないらしいねェ」

顧大嫂が低く笑う。

「馬だけじゃないよ。人間の尻も休ませちゃくれない」

「言い方」

「事実だろ」

紅玉が少しだけ笑いそうになって、慌てて口を結んだ。

孫二娘がそれを見逃さない。

「お、笑ったねェ」

「笑ってません」

「今、ちょっと笑ったよォ」

「笑ってません」

「三娘、この子、意外と意地張るねェ」

「誰に似たのかしらね」

顧大嫂がアタシを見る。

孫二娘もアタシを見る。

紅玉まで、なぜかアタシを見た。

「何よ」

三人とも、何も言わなかった。

言わないのが一番腹立つ時もある。

でも、少しだけ空気が軽くなった。

それでいい。

勝った気がしない勝ちの中でも。

次へ次へと押し出される道の上でも。

こういう馬鹿なやり取りが、息を繋ぐ事もある。

檀州は落ちた。

薊州も落ちた。

次は覇州。

官軍になった梁山泊は、まだ止まれない。

だからアタシ達も、止まらずに進む。

紅玉が壊れない様に。

玉楼が無理をし過ぎない様に。

孫二娘と顧大嫂が、いつも通り騒げる様に。

アタシは手綱を握る。

「行くわよ」

孫二娘が笑う。

「はいはい、扈将軍」

顧大嫂が荷車を叩く。

「怪我人乗せたら出すよ! 置いていかれたくなきゃ急ぎな!」

紅玉が小さく息を吸った。

そして、今度は少しだけ早く答えた。

「はい」

その声は、まだ細い。

でも、ちゃんと前を向いていた。

檀州は落ちた。

門は破られ、隊列が中へ流れ込んでいく。

勝った。

そう言っていい場面のはずだった。

でも、アタシは足を止めた。

城内から声が上がっている。

歓声ではない。

戦の声でもない。

笑い声と、怒号と、何かが壊れる音。

それらが混ざって、門の外まで流れてくる。

紅玉が、わずかに顔を上げた。

「……行かないんですか?」

アタシは城門を見たまま答えた。

「行かなくていい」

紅玉の目が揺れる。

「あなたには、見せたくないの」

玉楼も、静かに続けた。

「今は、関わる必要はありません」

紅玉は少しだけ唇を結んだ。

何かを聞きたそうにした。

けれど、聞かなかった。

「……はい」

その返事を聞いて、アタシはようやく城門から目を外した。

勝った後に、見なくていいものがある。

勝った後に、見せてはいけないものもある。

官軍になったからといって、それが無くなる訳じゃない。

むしろ、名前が変わった分だけ、余計に嫌だった。

孫二娘が少し離れた所で兵を追い立てている。

「そっちは負傷者だよォ! 酒樽じゃなくて水を持って来な!」

顧大嫂も荷車の横で怒鳴っていた。

「布はこっち!矢束と一緒に積むんじゃないよ!怪我人が先だ!」

二人とも、城内の方へは行かない。

見る場所が分かっている。

見なくていいものも分かっている。

紅玉は、二人の声を聞いていた。

顔はまだ固い。

けれど、さっきよりは呼吸が落ち着いている。

「紅玉」

「はい」

「今見たものを、全部覚えようとしなくていいわ」

紅玉がこちらを見る。

「忘れていいんですか」

「違う。今すぐ名前を付けなくていいって事」

紅玉は、少しだけ考える顔をした。

「分からないものは、分からないまま置いておきなさい。無理に分かったふりをすると、後で間違える」

玉楼が頷いた。

「戦場では、分からないまま持っておく事も必要です」

紅玉は小さく頷いた。

「はい」

その時、伝令が駆けて来た。

「次の命、出ました!」

足が止まる。

勝ちを味わう間もない。

嫌なものから目を逸らす間もない。

檀州を落としたばかりなのに、もう次へ動かされる。

伝令が息を整え、声を張った。

「薊州へ!」

誰も声を上げなかった。

驚きもしなかった。

ただ、空気が少しだけ重くなる。

アタシは小さく息を吐いた。

「……本当に休ませないわね」

孫二娘が近くで笑った。

「官軍ってのは忙しいねェ」

顧大嫂が鼻を鳴らす。

「勝ったら次。落としたら次。命令する方は楽なもんだよ」

「聞こえるわよ」

「聞こえる様に言ってるんだよ」

顧大嫂は平然としていた。

孫二娘も笑っている。

でも、目は笑っていない。

林冲の号令が飛ぶ。

「隊列を整えろ。薊州へ向かう」

それだけで兵達が動き出す。

檀州の城門を背に、梁山泊の隊列はまた伸びていく。

誰も、勝った顔をしていなかった。

道は乾いていた。

蹄が土を叩く音だけが続く。

檀州の煙は、少しずつ後ろへ流れていく。

振り返る者はいない。

紅玉は馬上で少し遅れながらも、列を乱さなかった。

玉楼が隣につく。

アタシは少し前を進む。

「息は?」

玉楼が聞く。

「大丈夫です」

紅玉の返事は早かった。

「早く答えなくていいです」

「……はい」

紅玉は少しだけ息を整えた。

その仕草が、前より少し自然になっている。

怖さが消えた訳ではない。

でも、怖いまま動く事を覚え始めている。

薊州へ近付くにつれ、空気が変わった。

檀州の時より、敵の動きが硬い。

負けて崩れた兵の集まりではない。

門前に出てくる騎兵の列も、城壁の上に立つ弓兵も、こちらを待っていた。

「檀州が落ちたのを聞いてるわね」

アタシが言うと、玉楼が頷いた。

「はい。こちらの勢いも、警戒されております」

紅玉が城壁を見る。

目は忙しく動いている。

城門。

騎兵の影。

城壁の上の旗。

何を見ればいいのか、まだ定まっていない。

「紅玉」

「はい」

「全部見ようとしない。まず動くもの。次に、動いていないのに目立つもの」

紅玉は少しだけ目を細めた。

「動いていないのに、目立つもの……」

「そう。隠れているつもりで、周りと呼吸が違うもの」

紅玉の視線が城壁の端で止まった。

弓兵の列の中に、一人だけ身を低くしている影がある。

射る為ではない。

合図を待っている。

「……あそこ」

「見えたなら、十分」

次の瞬間、城壁の上で旗が振られた。

門前の騎兵が動く。

同時に、横の土手から伏せていた歩兵が立ち上がった。

紅玉の肩が跳ねる。

でも、声は出さなかった。

「横から来ます」

「そうね」

アタシは双刀を抜いた。

「玉楼、右を受けて」

「はい」

玉楼が馬を寄せる。

紅玉も続く。

遅れない。

まだ危なっかしい。

でも、止まらない。

敵兵が横から押し込んでくる。

檀州の勢いをそのままぶつけてくるこちらを、横から裂こうとしている。

悪くない。

でも、見えたなら遅くない。

「紅玉、下がりすぎない!」

「はい!」

声が少し震えている。

けれど、返事は届いた。

敵兵の槍が伸びる。

アタシは弾き、馬を寄せる。

玉楼が横から差し込み、槍の先を落とす。

紅玉は一歩遅れて、倒れそうになった味方の兵の前へ入った。

また助けようとした。

それが分かった。

「受けるだけ!」

アタシが叫ぶと、紅玉は踏み込みすぎず、朴刀の柄で敵の刃を受けた。

重さに腕が沈む。

でも、足は残った。

倒れた兵が後ろへ転がる。

紅玉は追わない。

いい。

「戻りなさい!」

「はい!」

今度は、悔しそうな顔をしながらも、すぐ下がった。

檀州の時より早い。

それだけで十分だった。

門前では、林冲の隊が押していた。

蛇矛が動くたび、敵の列が崩れる。

魯智深の怒声が響き、武松が横から切り込む。

楊志の隊も、崩れた穴を広げていく。

薊州の門が軋んだ。

城壁の上から矢が降る。

盾が上がる。

兵が倒れる。

また別の兵が前に出る。

官軍――

その言葉が、頭の奥で嫌に響く。

でも、今この場で倒れているのは、梁山泊の兵だ。

朝廷の名で動いていても、声を上げ、血を流し、前へ進んでいるのは、見知った者達だった。

「止まるな!」

林冲の声が通る。

城門が、さらに揺れた。

木が裂ける音がした。

鉄具が外れ、内側から悲鳴が上がる。

次の瞬間、門が破れた。

隊列が中へ流れ込む。

「入るな」

アタシは紅玉へ言った。

紅玉は一瞬、門の奥を見た。

檀州の時と同じ音が、また流れてくる。

笑い声。

怒号。

何かが壊れる音。

紅玉は唇を結んだ。

今度は聞かなかった。

「……はい」

玉楼が静かに頷く。

「よく止まりました」

紅玉の肩が少しだけ落ちる。

緊張が抜けたのではない。

止まれた事に、自分で少し驚いている様だった。

孫二娘と顧大嫂の声が、後ろから近付いてくる。

「負傷者はこっちだよォ! 城内へ流すんじゃない!」

「水を回しな! 布もだ! 勝った顔してる暇があるなら手を動かしな!」

勝った。

そう言っていいはずだった。

檀州も落ちた。

薊州も落ちた。

でも、勝った気はしなかった。

城門は破れ、城は落ち、隊列は進む。

それでも、胸の中の苦さは薄れない。

紅玉は門の外に立ったまま、薊州の城壁を見ていた。

中へ入らない。

でも、目を逸らしてもいない。

少しだけ変わった。

檀州の時より、ほんの少し……

アタシはそれを見て、双刀を収めた。

「次も、すぐ来るわね」

玉楼がこちらを見る。

「もう、次を?」

「どうせ来るわ」

そう言った時、遠くからまた早馬の音がした。

本当に、来た。

伝令は泥を跳ね上げて止まり、息を切らしたまま声を張る。

「次の命! 覇州へ進軍!」

孫二娘が、乾いた声で笑った。

「ほらねェ。官軍は忙しいよォ」

顧大嫂が低く息を吐く。

「勝ったら次。落としたら次。休ませる気はないらしいねぇ」

アタシは空を見た。

檀州の煙も、薊州の声も、まだ体の中に残っている。

紅玉も、まだ息を整えている途中だ。

それでも、隊列はまた動く。

官軍になった梁山泊は、止まれない。

勝っても、勝った場所に留まれない。

見たくないものを見ない様にしても、次の門はすぐ前に現れる。

アタシは手綱を握り直した。

「行くわよ」

玉楼が頷く。

紅玉も少し遅れて、はっきり頷いた。

「はい」

薊州の門を背に、アタシ達はまた進み始めた。

檀州、薊州が落ちました。

続いて、覇州へ。

……言葉にすれば、それだけです。

ですが、実際にその場にいると、一つの城が落ちるという事は、決して「一つ勝った」で終わるものではありません。

門が破られる音。

中へ流れ込む兵の足音。

歓声ではない声。

笑い声とも、怒号とも、悲鳴ともつかないもの。

そういうものが、勝利の後ろに必ず付いてくる。

扈三娘様は、それを見ない事を選ばれました。

いいえ。

見えなかった訳ではありません。

分からなかった訳でもありません。

むしろ、分かっているからこそ、紅玉には見せなかったのだと思います。

「全部見れば強くなる」

そう考える方もいるでしょう。

ですが、私は少し違うと思っています。

人は、見れば見ただけ強くなる訳ではありません。

受け止める準備のないものを無理に見れば、心の中で形を間違えます。

恐怖を勇気と勘違いしたり。

怒りを正義と勘違いしたり。

諦めを覚悟と勘違いしたり。

そういう歪みは、後で必ず身体のどこかを噛みます。

だから、扈三娘様は紅玉に言われたのでしょう。

今すぐ名前を付けなくていい。

分からないまま置いておけばいい、と。

「難しい事言うねぇ、玉楼」

孫二娘殿が、いつの間にか横へ来ていました。

手には水の入った柄杓を持っています。

「難しい話ではありません」

「いや、難しいよォ。アタシなんか、嫌なもん見たら嫌だねェで終わりだよ」

「それはそれで、かなり強い処理方法です」

「褒めてるのかい?」

「半分ほどは」

「残り半分は何だい」

「孫二娘殿らしい、という意味です」

「それ、褒めてないねェ」

孫二娘殿は笑っていました。

そこへ顧大嫂殿が、布の束を抱えて戻ってきます。

「また余計な事を言ってるね」

「玉楼が真面目すぎるから、ほぐしてやってるんだよォ」

「アンタがほぐすと、結び目が増えるんだよ」

「ひどいねェ」

「事実だろ」

私は少しだけ笑ってしまいました。

すると、孫二娘殿がすぐにこちらを見ます。

「お、玉楼が笑ったよ」

「珍しいものを見た様に言わないでください」

「珍しいだろう」

顧大嫂殿まで頷きました。

「玉楼は笑う前に、まず考えるからね」

「それは悪い事でしょうか」

「悪くはないよ。ただ、たまには考える前に笑っても罰は当たらないって話さ」

そう言って、顧大嫂殿は布を荷車へ放りました。

紅玉が、それを受け取ろうとして少し慌てます。

「す、すみません」

「謝る前に持つ!」

「はい!」

紅玉は布の束を抱え直しました。

まだ動きはぎこちないです。

けれど、檀州の時よりは早い。

薊州の時よりは、迷いが少ない。

怖さが消えた訳ではありません。

むしろ、怖さを覚えたまま、手を動かす事を少しずつ覚えている。

それは、悪い変化ではありませんでした。

孫二娘殿が紅玉を見て、にやりと笑います。

「紅玉、怖かったかい」

紅玉は少しだけ黙りました。

それから、正直に頷きます。

「怖かったです」

「よし」

「よし、なんですか」

「怖いって言えるなら、まだ大丈夫だよォ」

顧大嫂殿も頷きました。

「怖くないふりを始めたら、そっちの方が危ないね」

紅玉は、自分の手元を見ました。

「でも……怖いままだと、足手まといになりませんか」

「なる時はなるよ」

顧大嫂殿が、あっさり言いました。

紅玉が固まります。

「顧大嫂殿」

私が止める前に、顧大嫂殿は続けました。

「でもね、怖くないふりをして突っ込む奴よりは、ずっとましだ。怖いから下がる。怖いから周りを見る。怖いから手綱を握る。それが出来るなら、怖いのも役に立つ」

紅玉は、ゆっくり頷きました。

孫二娘殿が、手の柄杓を軽く揺らしました。

「そうそう。怖さは捨てるもんじゃないよォ。持ち方を間違えなきゃいい」

「持ち方……」

「刃物と同じだねェ。握る場所を間違えると自分が切れる」

紅玉は、妙に真剣な顔で頷きました。

「はい。覚えておきます」

孫二娘殿が少し困った顔をしました。

「いや、そんな真面目に取られると照れるんだけどねェ」

顧大嫂殿が笑います。

「たまには良い事言ったんだから、黙って受け取っておきな」

「アタシはいつも良い事言ってるよォ」

「どの口が言うんだい」

「この口だよォ」

そう言って、孫二娘殿は自分の口を指差しました。

紅玉が、今度ははっきり笑いました。

ほんの少しです。

けれど、檀州の門の外で固まっていた時とは違います。

笑える余地が、まだ残っている。

それが、今は大事なのだと思います。

扈三娘様は、紅玉を強くしようとしておられます。

けれど、壊そうとはしていません。

戦場は、人を簡単に変えます。

官軍という名も、梁山泊という名も、時には人を守りますが、時には人の目を曇らせます。

勝ったから正しい。

命令だから仕方ない。

そう言ってしまえば、楽になる場面は多いのでしょう。

ですが、扈三娘様は楽な方へ行かれません。

行けないのだと思います。

城門の奥から聞こえる声を、勝利の音として飲み込めない。

紅玉に、無理に見せられない。

それでも、負傷者を見捨てる事は出来ない。

その不器用さが、あの方をあの方のままにしています。

「玉楼」

紅玉が、小さく声をかけてきました。

「何でしょう」

「分からないまま置いておいていいものって、本当にあるんですね」

「あります」

「逃げじゃなくてですか」

「逃げになる時もあります。ですが、守りになる時もあります」

紅玉は考え込む様に目を伏せました。

私は、少しだけ言葉を選びます。

「今、全部を分かろうとしなくて良いのです。ですが、何も感じなかった事にしてはいけません」

紅玉は顔を上げました。

「はい」

その返事は、まだ頼りないものでした。

けれど、嘘ではありませんでした。

顧大嫂殿が荷車の縄を締め直します。

「さあ、難しい話はそこまでだよ。覇州へ行くんだろう」

孫二娘殿が大げさに肩を落としました。

「檀州、薊州、次は覇州。官軍様は本当に働き者だねェ」

「働かされてるだけだろ」

「それを言ったら身も蓋もないよォ」

「蓋があったって、中身は変わらないよ」

「顧大嫂は現実的だねェ」

「アンタが現実から逃げすぎなんだよ」

「逃げてないよォ。ちょっと横道に逸れてるだけさ」

「それを逃げるって言うんだよ」

紅玉がまた小さく笑いました。

今度は、隠しませんでした。

私はそれを見て、少し安心しました。

覇州への道は、きっとまた重いものになります。

その先も、止まる事はないのでしょう。

檀州が落ちた。

薊州が落ちた。

次は覇州。

勝ち続けているはずなのに、私達の足取りは軽くありません。

それでも、進まなければならない。

ならばせめて、紅玉が怖いと言えるままでいられる様に。

扈三娘様が、勝利を勝利だけで片付けないままでいられる様に。

孫二娘殿と顧大嫂殿が、こうして騒ぎながら場を保てる様に。

私は、半歩後ろから見ていようと思います。

……もっとも。

「玉楼、また難しい顔してるよォ」

「考え事です」

「眉間に皺が寄るよ」

「寄っていません」

「寄ってるね」

顧大嫂殿まで言いました。

紅玉も、なぜか小さく頷きます。

「少しだけ……」

「紅玉まで」

孫二娘殿が楽しそうに笑いました。

「ほらねェ。玉楼もたまには肩の力を抜きな」

「私は十分、抜いております」

「それで抜いてるなら、入れた時が怖いねェ」

顧大嫂殿が荷車を押し始めました。

「ほら、行くよ。玉楼の眉間の皺を数えてる暇があるなら、足を動かしな」

「皺はありません」

「はいはい」

孫二娘殿が笑い、紅玉も少し笑いながら荷車の後ろへ回りました。

私は一つ息を吐き、前を見ます。

覇州への道が、また伸びています。

重い道です。

けれど、完全な沈黙ではありません。

その事だけは、少しだけ救いでした。

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