官軍としての初陣
「官軍としての初陣だってさ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら言った。
「……その言い方、何か嫌ね」
アタシは腕を組む。
「間違っちゃいないだろォ。今までは梁山泊の兵。今度は朝廷の兵。言い方だけなら立派なもんだねェ」
顧大嫂が酒の椀を置いた。
「立派かどうかは知らないけど、面倒が増えるのは確かだねぇ」
「面倒って何よ」
「旗も違う。名目も違う。動き方も見られる。勝てば朝廷のおかげ、負ければ賊上がりのせい。そういう面倒だよ」
「……本当に嫌な言い方するわね」
「本当の事だからねぇ」
言い返せなかった。
詔を受けた。
梁山泊は、朝廷に帰順した。
言葉にすれば、それだけだ。
でも、そんな簡単な話じゃない。
今まで朝廷に追われ、恨み、逃げ、抗ってきた者達が、今日から朝廷の名で戦う。
納得なんて、出来る訳がない。
それでも、動くしかない。
ここで割れれば、梁山泊の中で血が流れる。
それだけは、避けなければならなかった。
孫二娘が、こちらを横目で見た。
「で、三娘」
「何よ」
「また面倒な顔してるねェ」
「してない」
「してるよォ。詔だの招安だの官軍だの、嫌な言葉が三つも並んでる顔だ」
顧大嫂も頷く。
「眉間に出てるねぇ」
「出てない!」
「出てるよォ」
二人の声が重なる。
本当に腹が立つ。
でも、多分、出ている。
紅玉が、部屋の隅で小さくこちらを見ていた。
まだ立っているだけで息が乱れる。
それでも、木刀を手放さない。
その姿を見ると、少しだけ胸の奥が重くなる。
「紅玉」
声をかけると、紅玉の背がわずかに伸びた。
「はい」
「そんなに固くならなくていいわよ」
「……はい」
全然、力が抜けていない。
孫二娘が笑った。
「三娘に言われてもねェ」
「何でよ」
「アンタも固い時は相当固いからねェ」
顧大嫂が椀を持ち上げた。
「紅玉の方が、まだ素直かもしれないねぇ」
「顧大嫂まで!」
紅玉は少しだけ目を伏せた。
笑った訳じゃない。
でも、ほんの少しだけ、空気が緩んだ気がした。
それでいい。
今は、それでいい。
紅玉はまだ何者でもない。
梁山泊の兵でもない。
アタシの弟子と言い切れるほどでもない。
ただ、さらわれていたところを助けて、ここに置いた娘だ。
それでも、木刀を握った。
立とうとした。
前を見ようとしている。
だから、放ってはおけない。
孫二娘が鍋をよそい、紅玉の前へ椀を置いた。
「食いな」
紅玉が少し戸惑う。
「でも……」
「でもじゃないよォ。立ちたいなら食う。歩きたいなら食う。戦場を見るなら、もっと食う」
顧大嫂も続けた。
「食えないうちは、無理に前へ出るんじゃないよ。倒れたら、守る方も余計に手がかかる」
「はい」
紅玉は小さく答え、椀を受け取った。
その手はまだ細い。
でも、前より震えていない。
アタシはそれを見ていた。
孫二娘が、ふと真面目な顔になる。
「三娘」
「何」
「初陣に連れて行くなら、勝たせようと思うんじゃないよ」
「分かってる」
「一人斬っただの、敵を退けただの、そういう事じゃない。まずは、生きて戻る」
顧大嫂が頷いた。
「見て、戻って、飯を食って、また眠る。最初はそれでいい」
「……分かってるわよ」
少しだけ声が硬くなった。
分かっている。
紅玉に無理はさせない。
でも、外を見せなければ、何も始まらない。
梁山泊は動く。
官軍として、戦へ出る。
その流れの中で、紅玉だけをずっと部屋に閉じ込めておく訳にもいかない。
玉楼が静かに言った。
「私が見ます」
紅玉が玉楼を見る。
玉楼は表情を変えない。
「倒れそうなら止めます。進み過ぎれば戻します。見落とせば、もう一度見せます」
「……はい」
紅玉の返事は小さい。
でも、逃げる声ではなかった。
孫二娘が口の端を上げる。
「玉楼がそう言うなら、まあ大丈夫だねェ」
顧大嫂も頷く。
「三娘一人だと、つい前へ出るからねぇ」
「またそれ?」
「事実だよ」
「事実だねェ」
本当に、この二人は遠慮がない。
けれど、その遠慮のなさに救われる時もある。
詔が下り、梁山泊は官軍になった。
忠義だの赦しだの、綺麗な言葉は並んでいる。
でも、アタシ達のやる事は急には変わらない。
目の前で倒れる者を見れば、助ける。
危ないものを見れば、止める。
戻れない者がいれば、戻す場所を作る。
その一つ一つを捨てたら、多分、アタシ達は本当に何者でもなくなる。
孫二娘が椀をこちらへ差し出した。
「で、三娘も食いな」
「また?」
「まただよォ。官軍だろうが賊だろうが、腹が減ったら動けない」
顧大嫂が笑う。
「紅玉に食えと言うなら、まず自分が食わないとねぇ」
紅玉まで、こちらを見ていた。
アタシはため息をついて、椀を受け取る。
「……いただくわ」
孫二娘が満足そうに笑った。
顧大嫂も、少しだけ肩を揺らす。
紅玉は椀を抱えたまま、静かに湯気を見ていた。
外では、もう兵達が動き始めている。
梁山泊は官軍として戦に出る。
納得出来ないまま。
腹に苦いものを抱えたまま。
それでも、進むしかない。
そして、紅玉にとっては初めての戦場になる。
勝つ為だけではない。
生きて戻る為の戦場だ。
アタシは鍋を一口すすった。
熱かった。
それで、少しだけ腹が決まった。
官軍としての初陣。
紅玉の初陣。
どちらも、簡単に終わる気はしなかった。
使者が詔勅を開いた時、忠義堂の中から音が消えた。
紙の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえる。
頭領達は皆、座ったまま聞いていた。
誰も口を挟まない。
挟める言葉ではなかった。
帰順すれば赦す。
従わねば討つ。
言葉にすれば、それだけだった。
でも、その短い言葉の中に、梁山泊の今までが押し込められていた。
官職を追われた者。
役人に家を壊された者。
捕縛を恐れて逃げた者。
朝廷を憎んで、ここまで来た者。
その者達へ、朝廷は赦すと言っている。
今さら――
奥で、椅子の脚が床を擦った。
林冲が立っていた。
怒鳴りはしない。
拳も振り上げない。
ただ、立っているだけだった。
それだけで、堂の空気が一段冷えた。
「……今さらだな」
低い声だった。
高俅に全て奪われた者が、朝廷から赦すと言われた時の声だった。
視線が集まる。
でも、林冲は座らない。
続けて、魯智深が鼻で笑った。
「今さら何を言うか!」
笑っているようで、笑っていない。
吐き捨てた言葉が、床に落ちる。
武松は黙っていた。
でも、目が違う。
刃を抜いていないのに、もう抜いているような目だった。
楊志は腕を組んだまま、顔を動かさない。
官軍……
その言葉を、あの人がどう聞いたのか。
アタシには分からない。
ただ、苦いものを飲み込んだ顔だけが見えた。
李俊は少しだけ目を細めた。
河の流れを見る時の顔だった。
怒っていない訳ではない。
けれど、怒りだけで流れは止まらない。
その事を知っている顔だった。
使者の声が一瞬止まる。
忠義堂の中に、誰の息か分からない音が残った。
宋江は動かず、顔色も変えない。
最初から、ここへ来る事が分かっていたように座っている。
「……続けよ」
その一言で、使者は再び読み始めた。
詔勅の言葉が終わるまで、誰も声を上げなかった。
けれど、黙っているだけで、皆が同じ場所にいる訳ではなかった。
堂の中は、もう割れていた。
使者が詔勅を畳む。
呉用が静かに立った。
「以上にございます」
それだけ言って、宋江を見る。
宋江はすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって嫌だった。
迷っている沈黙ではない。
言う時を選んでいる沈黙だった。
やがて、宋江が顔を上げた。
「……受ける」
短い言葉だった。
忠義堂の空気が揺れた。
怒号にはならない。
それでも、空気が崩れた。
林冲は座らない。
魯智深は笑わない。
武松は目を伏せない。
楊志は腕を解かない。
李俊は、ようやく視線を上げた。
アタシは宋江を見ていた。
あの人は、変わらない。
この場がどれだけ揺れても、変わらない。
それが怖いと思った。
使者が深く頭を下げる。
呉用は何も言わない。
分かっている。
全部、分かっていた顔だった。
忠義堂を出ると、人の流れが幾つにも分かれた。
誰も大きな声を出さない。
怒鳴るよりも、もっと重いものを抱えたまま歩いている。
廊下へ出て、少し進んだ所で林冲が止まった。
アタシも止まる。
後ろに、李俊がいる。
風が通った。
誰もすぐには喋らなかった。
「……決まったな」
林冲の声は抑えられていた。
でも、抑えているからこそ重かった。
「ええ」
アタシは答えた。
驚きはなかった。
いつかこうなる気はしていた。
梁山泊は、ただの山塞のままではいられない。
大きくなりすぎたものは、どこかへ流される。
それでも、納得とは違う。
李俊が小さく息を吐いた。
「水軍は逆らわない」
林冲は何も言わなかった。
逆らえば、梁山泊の中で血が流れる。
そのくらい、誰でも分かっている。
分かっているから、余計に息苦しい。
林冲が前を見たまま言った。
「納得しているのか」
アタシは首を振った。
「してないわ」
嘘を言う気はなかった。
「でも、ここで割れたら終わる」
林冲の目がわずかに動く。
李俊は、廊下の外を見た。
「流れるしかない水もある」
その言葉が嫌に残った。
流れるしかない。
分かっている――
分かっているから、苦い。
部屋へ戻ると、扉の向こうは静かだった。
玉楼がこちらを見た。
紅玉は木刀を持ったまま、動きを止めている。
額に汗が浮いていた。
さっきまで振っていたのだろう。
アタシは扉を閉めた。
外の音が遠くなる。
「詔が出たわ」
玉楼は瞬きもしなかった。
「……受けましたか」
「受けた」
短く答える。
玉楼は目を伏せない。
ただ、静かに頷いた。
「承知しました」
紅玉は黙っている。
まだ全部は分からないはずだ。
でも、何かが変わった事だけは分かっている。
木刀を握る手に、少し力が入っていた。
アタシは紅玉を見る。
「続けて」
紅玉の目が上がる。
「ここはここよ。外がどう変わっても、振るものは振る。見るものは見る」
玉楼がわずかに頷いた。
紅玉も、息を整えて構える。
木刀を上げ、振り下ろす。
そして、また振る。
外では梁山泊が変わっている。
この部屋の中では、紅玉が変わろうとしている。
どちらも止まらない。
しばらく見てから、アタシは手を上げた。
「そこまで」
紅玉が木刀を下ろす。
息は上がっている。
けれど、目は死んでいない。
「明日から外に出るよ」
紅玉の顔が上がった。
「中だけじゃ足りないわ。人の目、気配、歩く速さ、近付く音。そういうものを拾えるようにする」
「はい」
返事は早かった。
早すぎるくらいだった。
玉楼が静かに言う。
「紅玉、返事より息を整えなさい」
紅玉は少しだけ唇を結び、頷いた。
翌朝、梁山泊の空気はもう昨日と違っていた。
人の動きが早い。
でも、声は少ない。
武具が運ばれ、馬が引かれ、荷が分けられていく。
誰も帰順を祝い事だとは思っていない。
それでも、動かなければならない。
外へ出ると、顧大嫂が荷車の横で怒鳴っていた。
「矢束は前! 水と布は後ろだよ! 逆に積んでどうするんだい!」
孫二娘は兵の背を叩きながら笑う。
「官軍になるんだとさ。なら官軍らしく、せいぜい腹ァ括りな!」
笑っている。
でも、目は笑っていない。
アタシは紅玉を連れて、門の外へ出た。
玉楼が隣にいる。
紅玉は一歩後ろ。
離れないが、寄りすぎない。
昨日よりは周りを見ている。
風が当たる。
門を出るだけで、音が変わった。
「止まって」
三人とも止まる。
「人の気配がするわ」
紅玉の呼吸が浅くなる。
目が動く。
まだ遅い。
でも、拾おうとしている。
「……います」
「どこ」
紅玉はすぐに答えられない。
視線が迷う。
右へ行きかけ、戻る。
そして、木立の影で止まった。
「そこにいるのは、分かります」
声が硬い。
間が空いた。
影が一つ動く。
紅玉の足が半歩だけ前へ出た。
追うつもりだったのだと思う。
けれど、止まった。
止まれた。
「……追いません」
アタシは頷いた。
「いい判断よ」
紅玉の肩から、少し力が抜ける。
「今のは味方」
紅玉が驚いた顔をする。
「誰ですか」
「時遷」
玉楼は分かっていたのだろう。
何も言わない。
「見て帰るのが役目。追う相手じゃない。見つけた後に、どうするかを間違えない事」
紅玉はゆっくり頷いた。
それから数日、紅玉を外へ連れ出した。
人混みの中を歩かせた。
荷の流れを見せた。
わざと声をかけず、背後から近付く兵を拾わせた。
時には遅れた。
時には気付きすぎて、無駄に身構えた。
その度に玉楼が直した。
「敵意だけを探してはいけません」
「急ぐ者と、隠れる者は違います」
「見えたものを、すぐ敵にしない事です」
紅玉は覚えていった。
早くはない。
でも、逃げなかった。
そして、梁山泊は動き出した。
隊列が伸びる。
蹄の音が揃い、土が鳴る。
前も後ろも人で溢れている。
もう山塞の中ではない。
朝廷に帰順した梁山泊として、戦へ出る。
アタシは馬上で前を見る。
玉楼が隣にいる。
紅玉は後ろ。
顔は強張っているが、目は逸らしていない。
「見える?」
振り返らずに聞く。
「……はい」
「近いわ」
遠くで土煙が上がっていた。
遼の軍勢。
黒い線が横へ広がり、止まらずに近付いてくる。
隊列が締まる。
空気が重くなる。
次の瞬間、前列同士がぶつかった。
音が潰れた。
槍と盾。
馬と馬。
人の声。
全部が混ざり、戦場の音になる。
紅玉の呼吸が変わる。
無理もない。
稽古場の音とは違う。
外の気配を拾う訓練とも違う。
ここでは、見落としたものが人を殺す。
遼の隊列が一度割れた。
その隙間から、別の一隊が出てくる。
女ばかりだった。
けれど、軽くはない。
馬の首が揃っている。
前へ出る者と引く者の間が乱れない。
こちらの端を削りながら、決して深く入ってこない。
誘っている。
測っている。
「……違うわね」
アタシは手綱を締めた。
玉楼が頷く。
紅玉も、その一隊を見ている。
その時、前列で味方が倒れた。
足を取られ、起き上がる前に遼兵の刃が来る。
間に合わない。
そう思った瞬間、紅玉が動いた。
「紅玉!」
止めるより早かった。
紅玉は踏み込み、朴刀を上げる。
刃を受けた。
重い音がした。
体が弾かれる。
それでも、刃の向きは逸れた。
倒れていた兵が転がり、間合いから逃げる。
紅玉は追わない。
膝が少し沈んでいた。
手も震えている。
でも、朴刀を落とさない。
アタシは馬を寄せた。
「戻りなさい」
紅玉は一瞬、悔しそうな顔をした。
それでも下がった。
「……はい」
玉楼が静かに言う。
「息を戻しなさい」
紅玉は荒い息を整える。
目は前から外さない。
それでいい。
倒す必要はない。
今は、生きて戻る。
見て、覚える。
それが出来れば十分だ。
遼の女部隊は少し離れた位置で止まっていた。
矢の届くぎりぎり外で、こちらを見ている。
奥で、白い馬が動いた。
顔までは見えない。
でも、その馬が動いた瞬間、女兵達の槍の角度が揃った。
「あれが動かしているわね」
玉楼が目を細める。
「指揮官でございましょう」
細い音が鳴った。
笛か、角笛か。
女部隊が、すっと退いた。
崩れた訳ではない。
逃げた訳でもない。
最初から、そこまでと決めていたような退き方だった。
追おうとした味方の兵が、一歩前へ出る。
「追うな!」
アタシは声を張った。
兵が止まる。
紅玉も動きかけて、止まった。
いい。
今の紅玉は、追える。
けれど、追わない事を覚えなければならない。
遼の女部隊は、こちらから離れながらも、背を向けなかった。
馬の首が揃っている。
列も乱れない。
女だから珍しいのではない。
引き方が嫌だった。
こちらの出方を見た。
端を削った。
紅玉の動きも、おそらく見られた。
そして、必要なものだけを持って下がった。
アタシは双刀を収めないまま、白い馬の方を見る。
「面倒な相手ね」
玉楼が小さく頷いた。
「こちらを測っております」
紅玉は黙っている。
朴刀を握る手には、まだ力が入っていた。
助けた兵の姿を見ているのか。
退いていく敵を見ているのか。
その両方かもしれない。
アタシは言う。
「紅玉」
「はい」
「今日は、勝ったと思わない事」
紅玉の顔がこちらを向く。
「一人助けた。それはいい。でも、相手は引いただけ。負けた訳じゃない」
紅玉は少しだけ唇を結んだ。
「……はい」
「それでいいわ。悔しいなら覚えておきなさい」
風が抜けた。
血の匂いと、土の匂いが残る。
前列の兵が立て直し始める。
倒れた者が後ろへ運ばれる。
顧大嫂がいれば、すぐに怒鳴るだろう。
孫二娘なら、軽口を叩きながら背中を押すだろう。
ここにはいない。
でも、そういう場所へ戻すために、アタシ達は前にいる。
紅玉はまだ前を見ていた。
怖がっている。
悔しがっている。
それでも、目は逸らしていない。
それだけで、今日は十分だった。
遼の女部隊は、土煙の向こうへ下がっていく。
白い馬だけが、最後までこちらを向いていた。
アタシはその影を見つめる。
これで終わりじゃない。
むしろ、見つかった。
そう思った。
「下がるわよ」
玉楼が頷く。
「はい」
紅玉も、少し遅れて頷いた。
「はい」
アタシ達は列を戻す。
蹄の音が、さっきより重く聞こえた。
官軍になった梁山泊の初陣。
紅玉が初めて立った戦場。
そのどちらも、勝ったとは言い切れない。
ただ、終わらなかった。
それだけは確かだった。
官軍としての初陣は、勝ったのか負けたのか、私にはすぐに言えませんでした。
敵を退けた場面はあります。 助けられた兵もおります。
紅玉も、初めての戦場で朴刀を落とさず、一人の兵を助けました。
ですが、それを勝ちと言ってよいのかは、分かりません。
遼の女部隊は、崩れて退いた訳ではありませんでした。
こちらを測り、端を削り、必要なものだけを見て下がった。
あの引き方は、負けた者のものではありません。
そして、三娘様もそれを分かっておられました。
「で、玉楼」
孫二娘殿が鍋を混ぜながら言いました。
「紅玉の初陣、どう見たんだい?」
「よく戻りました」
私が答えると、孫二娘殿は少しだけ笑いました。
「まずそこだねェ」
顧大嫂殿も酒の椀を置きます。
「斬ったかどうかより、戻ったかどうかだよ。初陣なんて、そこを間違えたら終わりだからねぇ」
「はい」
私は頷きました。
紅玉は部屋の隅に座っております。
膝の上に手を置き、まだ少し顔色が悪い。それでも、目は伏せておりません。
戦場から戻って、まだ身体の震えは残っているはずです。
刃を受けた時の重さ。
馬の音。
人の倒れる音。
血と土の匂い。
それらは、すぐには消えません。
けれど、紅玉はここに戻って来ました。
水を飲み、息を整え、今は鍋の湯気を見ております。
それで、まずは十分なのだと思います。
孫二娘殿が紅玉を横目で見ました。
「で、紅玉」
紅玉の肩がわずかに跳ねます。
「はい」
「怖かったかい?」
紅玉は、少しだけ黙りました。
それから、小さく答えます。
「怖かったです」
孫二娘殿は笑いませんでした。
「なら、よし」
紅玉が顔を上げます。
「……よし、ですか」
「怖くなかったなんて言う方が危ないんだよォ。初めての戦場で怖くない奴は、見えてないか、壊れてるか、どっちかさ」
顧大嫂殿が頷きます。
「怖くて、それでも戻って来たなら上出来だねぇ」
紅玉は、言葉を探す様に唇を動かしました。
「でも、私は……」
言いかけて、止まります。
何を言おうとしたのかは、分かります。
もっと出来たはずだ。
もっと早く動けたはずだ。
もっと強く受けられたはずだ。
そういう顔でした。
三娘様に似ていると、少しだけ思いました。
「紅玉」
私が声をかけると、紅玉はこちらを見ました。
「今日、あなたが覚えるべき事は、倒せなかった相手の数ではありません」
「自分がどこで息を乱し、どこで足が遅れ、どこで追いそうになったかです」
紅玉は小さく頷きます。
「はい」
孫二娘殿が鍋杓子を止めました。
「あと、助けた兵の事も忘れるんじゃないよォ」
紅玉が目を動かします。
「あの兵が生きて戻ったなら、それは今日の分としては大きい」
顧大嫂殿も続けます。
「ただし、それで勝った気になるんじゃない。助けた後に自分が死んだら、次は誰も助けられないからねぇ」
「はい」
紅玉の返事は、先ほどよりも少しだけ落ち着いておりました。
三娘様は、黙って鍋を見ておられました。
けれど、聞いていない訳ではありません。
紅玉が答えるたびに、目だけが少し動いております。
孫二娘殿が、今度は三娘様へ視線を向けました。
「で、三娘」
「何よ」
「アンタも、勝った顔じゃないねェ」
「勝ったと思ってないもの」
三娘様はすぐに答えました。
「一人助けた。それはいい。でも、あの女部隊は引いただけよ」
「崩れてない。乱れてない。こっちを見て、必要な所だけ見て帰った」
顧大嫂殿が少し目を細めます。
「嫌な相手だねぇ」
「嫌な相手よ」
三娘様は短く言いました。
「女だから珍しいんじゃない。引き方が嫌だった。こっちの端を削って、追わせる気配を出して、それで深く入ってこない」
「たぶん、紅玉の動きも見られたわ」
紅玉の手が、膝の上で少し強く握られました。
私はその手を見ました。
まだ細い手です。
けれど、戦場で朴刀を離さなかった手です。
孫二娘殿が、少しだけ声を軽くしました。
「人気者だねェ、紅玉」
「孫二娘殿」
私が静かに言うと、孫二娘殿は笑いました。
「冗談だよォ。半分はね」
「半分なのですか」
「見られたなら、次は狙われるかもしれないって事さ」
部屋の空気が少しだけ重くなりました。
顧大嫂殿がすぐに言います。
「だから、食うんだよ」
紅玉が瞬きをします。
「……そこへ戻るのですか」
「戻るよ。狙われるなら倒れない体を作る。動くなら飯を食う。息が乱れるなら寝る。これを飛ばして強くなる奴はいないからねぇ」
孫二娘殿も頷きます。
「そういう事だねェ。強くなりたいなら、まず椀を空にしな」
紅玉は少しだけ困った顔をしました。
けれど、椀を手に取ります。
その様子を見て、扈三娘様が小さく息を吐きました。
「……ちゃんと食べるのよ」
「はい」
紅玉が答えると、孫二娘殿がすかさず笑います。
「三娘もねェ」
「何でアタシに来るのよ」
「アンタも戦場から帰って来たんだから、同じだろォ」
顧大嫂殿も椀を押し出しました。
「官軍としての初陣だろうが、何だろうが、帰って来たら食う。それが一番分かりやすい区切りだよ」
扈三娘様は少し不満そうな顔をしながら、結局、椀を受け取りました。
「……いただくわ」
孫二娘殿が満足そうに笑います。
「素直でよろしい」
「うるさい」
そのやり取りに、紅玉がほんの少しだけ目を伏せました。
笑った、とまでは言えません。
ですが、戦場から戻って来てから初めて、張り詰めたものが少し緩んだ様に見えました。
私は、それでよいと思いました。
官軍としての初陣は、梁山泊全体にとって苦いものでした。
詔を受け、朝廷の名で動き、まだ納得出来ないまま戦場に立つ。
紅玉にとっての初陣も、華々しいものではありません。
一人を助け、刃を受け、震えながら戻って来ただけです。
けれど、その「戻って来ただけ」が、今は何より大事なのだと思います。
孫二娘殿が鍋を混ぜながら、ぽつりと言いました。
「まあ、初陣なんざ、派手に勝つより、生きて飯食ってる方が偉いんだよォ」
顧大嫂殿が笑います。
「二娘にしては、まともだねぇ」
「アタイはいつでもまともだって言ってるだろォ」
「鍋の前ではねぇ」
「鍋の前じゃなくてもだよォ」
扈三娘様が少しだけ呆れた顔をしました。
紅玉は椀を両手で持ち、湯気を見ています。
私は、その四人を見ておりました。
外では、まだ兵達の動く音がしています。
官軍となった梁山泊は、これから先も戦へ向かうのでしょう。
遼の女部隊とも、またどこかでぶつかるはずです。
三娘様は、それを分かっておられます。
紅玉も、きっと分かり始めております。
だからこそ、今は食べる。
眠る。
息を戻す。
そして、次に立つ。
それだけです。
大きな戦の流れの中で、紅玉の一歩はまだ小さい。
ですが、その一歩を雑に扱えば、きっと先はありません。
私は、紅玉が椀を空にするのを見届けながら、そう思いました。
官軍としての初陣。
紅玉の初陣。
どちらも、勝ったとは言い切れません。
けれど、終わってもおりません。
終わっていないのなら、次に戻る場所を作る。
それが、今の私達に出来る事なのだと思います。




