赦されたら、戦場だった
朝廷から詔が来た。
どうやらアタシ達、ようやく山賊を卒業して赦されるらしい。
「良かったじゃないか。これで晴れて官軍だねぇ」
「……何で顧大嫂、その言い方だと嫌な予感しかしないの?」
孫二娘が横で笑った。
「役割が変わる時ってのは、不安より先に新しい仕事を押しつけると考える暇がなくなるんだよォ」
「心理学で朝廷のやり口を説明するな!」
「で、次の仕事は?」
顧大嫂に聞かれ、アタシは届いた命を思い出した。
「……遼と戦えって」
「早いねぇ!」
「早いよねェ!」
「アンタ達、そこだけ息ぴったりね!?」
しかも紅玉にとっては初めて見る本物の戦場。
そしてアタシにとっては――
「李俊との指ゼロ後、初出陣だねェ」
「今それ言うな!!」
赦されたと思ったら、次は戦争だった。
使者が詔勅を開いた時、忠義堂の中から音が消えた。
紙の擦れる音だけが、妙に大きく聞こえる。
頭領達は皆、座ったまま使者の声を聞いていたが、途中で口を挟む者はいなかったし、そもそも簡単に挟めるような内容でもなかった。
帰順すれば赦す。
従わなければ討つ。
言葉にしてしまえば、それだけだ。
けれど梁山泊には、官職を追われた者もいれば、役人に家を壊された者もいる。
捕縛を恐れて逃げ、朝廷を憎み、その果てにここへ流れ着いた者達へ、今さら朝廷が「赦す」と言っている。
……今さら、誰が誰を赦すのよ?
奥で椅子の脚が床を擦った。
林冲が立っていた。
怒鳴りもせず、拳も振り上げず、ただ立って使者を見ているだけなのに、それまで張り詰めていた堂の空気が一段冷えた気がした。
「……今さらだな」
高俅に官職も家も妻も奪われ、最後には罪人として追われた人が、朝廷から赦すと言われている。
その声を聞いて、何も感じない方が無理だった。
続いて魯智深が鼻で笑う。
「今さら何を言うか!」
笑っているようで、まったく笑っていない。
武松は黙っていたが、使者へ向けた目が鋭く、楊志は腕を組んだまま顔を動かさなかった。
あの人は、元々官職へ戻ることを望んでいた。
だから喜んでいるとも、怒っているとも決めつけられない。
ただ、口の中に苦いものを残したような顔をしている。
少し離れた場所には李俊がいた。
目が合う。
その瞬間、この前のことまで一緒に思い出した。
唇が触れて、指一本どころか何も残らなくなって――
……今それどころじゃない!
慌てて前を向くと、近くにいた孫二娘が口元を上げた。
何も言うな。
この空気で言ったら本気で怒る。
睨むだけで通じたらしく、孫二娘は肩を揺らしながら黙った。
一方の李俊は、何事もなかったみたいに使者を見ている。
川の流れを読む時と同じ顔だった。怒っていないわけではないのだろうけれど、怒りだけで流れが逆へ向くわけじゃないことも知っている。
使者の声が一度止まった。
宋江は動かない。
「……続けよ」
その一言で、詔勅の続きが読み上げられた。
誰も声を上げないまま最後まで聞いたけれど、同じ場所に座っているからといって、同じ考えでいるわけじゃない。
林冲の怒りも、魯智深の苛立ちも、楊志の沈黙も、李俊の静けさも、それぞれ違う。
梁山泊は、もう心の中では割れていた。
ただ、まだ誰も刃を抜いていないだけだ。
使者が詔勅を畳むと、呉用が静かに立った。
「以上にございます」
宋江はすぐには答えなかった。
迷っているようには見えない。
何を言うかではなく、いつ言うかを選んでいるような沈黙だった。
やがて顔を上げる。
「……受ける」
忠義堂の空気が揺れた。
怒号にはならなかったが、林冲は座らず、魯智深も笑わない。
武松の目も動かず、楊志は腕を組んだままだった。
それでも宋江は変わらない。
この場にいる全員が何を思っていても、自分が決めた先だけを見ている。
その強さを頼もしいと思えれば楽だったのかもしれない。
今のアタシには、少し怖かった。
使者を送り出したあと、頭領達はまとまらずに忠義堂を出た。
廊下へ流れる人の列もいくつかに分かれ、誰も大声を出していないのに、怒鳴り合うより息苦しい。
少し先で林冲が止まり、アタシも足を止めた。
李俊も後ろにいる。
「……決まったな」
「ええ」
驚きはなかった。
宿元景を東京へ送った時から、こうなる可能性は見えていた。
梁山泊は大きくなり過ぎて、いつまでも山塞の中だけで終われる集団じゃなくなっている。
でも、分かることと納得することは別だ。
李俊が廊下の外へ目を向けた。
「水軍は逆らわない」
林冲は何も言わなかった。
ここで宋江に逆らえば、最悪の場合は梁山泊の中で血が流れる。
そのくらいはアタシにも分かる。
林冲がこちらを見る。
「納得しているのか?」
「してないわ。でも、ここで割れたら終わる」
嘘をつく意味はなかった。
李俊が小さく息を吐く。
「流れるしかない水もある」
その言葉が胸に残った。
流されるのと、自分で流れるのは違う。
でも今、その違いまで選べるのかは分からない。
部屋へ戻ると、玉楼は紅玉の前に立っていた。
紅玉は木刀を握ったまま動きを止め、こちらを見ている。
「詔が出たわ」
玉楼は一度だけ瞬いた。
「……受けましたか?」
「受けた」
「承知しました」
それ以上、何も聞かなかった。
紅玉には梁山泊と朝廷の関係なんて、まだ全部は分からないだろう。
それでも何かが変わったことだけは感じたらしく、木刀を握る指へ力が入っている。
「続けて」
「……いいのですか?」
「ここはここよ。外が変わったからって、アンタが今やることまで変わらないわ。見るものは見るし、覚えるものは覚える」
玉楼も頷いた。
紅玉は息を整えて木刀を振り始めたが、まだ動きは遅く、身体の芯も安定していない。
それでも最初に持った時より肩の力は抜け、何度か振っても木刀を落とさなくなっていた。
しばらくして止めると、紅玉はもう一度構えようとする。
「今日はそこまで」
「まだ出来ます」
扉口から孫二娘の笑い声がした。
「その言い方、ますます三娘に似てきたねェ」
「何でアタシなのよ!」
玉楼まで真顔で頷く。
「わたくしも、少々似てきたように思います」
「玉楼まで!?」
紅玉が困ったように笑った。
「笑うところじゃないからね!」
「三娘様、紅玉が笑えるようになったのでございますから、よろしいではありませんか」
正論で殴られた。
翌日からは、紅玉を部屋の外へ連れ出した。
木刀の振り方だけ覚えても、周りが見えなければ戦場では生き残れない。
人の足音、荷を運ぶ兵の速さ、背後から近づく気配を拾わせ、何か聞こえたからといってすぐ振り返らせない。
最初の紅玉は、後ろで音がする度に身体を固くした。
捕まって目を隠され、知らない場所へ売られそうになったのだから当然だ。
孫二娘も、そこだけは茶化さない。
「怖いのを無理に消さなくていいよォ。怖いままで、何が本当に危ないのか分ければいい」
「……分ける?」
「後ろを歩く奴が全員アンタを捕まえに来るわけじゃない。急いでる奴もいれば、飯に遅れそうな奴もいる」
ちょうどそこへ顧大嫂が荷を担いで通りかかった。
「誰が飯だって?」
「呼んでない!」
「飯なら呼びな! 帰順しようが官軍になろうが、腹減ってちゃ戦えないだろ!」
孫二娘が紅玉を見る。
「ほら、あれは食欲」
「人を分類するな!」
紅玉がまた笑った。
けれど、そんな時間は長く続かなかった。
帰順の手続きが進むと、梁山泊へ次の命が下る。
遼と戦え。
この間まで山賊だった人間が、今度は朝廷の軍として国境へ向かうらしい。
「展開が早いのよ!」
「所属が変わった途端、仕事だけ増える。よくある話だねェ」
「現代社会みたいに言うな!」
「似たようなもんだろォ?」
否定したかったけれど、出来なかった。
出陣の日、梁山泊は朝から忙しかった。
顧大嫂は荷車の横で兵を怒鳴りつけ、孫二娘は別の隊へ入る兵達の背を叩いている。
「官軍になったんだとさ。なら官軍らしく、せいぜい生きて帰りな!」
それ、励ましてる?
アタシは玉楼と並び、紅玉を後ろへ置いた。
もちろん、紅玉に戦わせるつもりはない。
「今日は見るのが第一。勝手に前へ出ないで」
「はい」
後ろから孫二娘の声が飛んでくる。
「返事が早過ぎる時は信用ならないんだよねェ」
「アンタ別の隊なのに最後まで絡んでくるわね!」
「三娘が寂しいかと思ってねェ!」
「誰が!」
玉楼が平然と続けた。
「三娘様には李俊様がおられますので」
「玉楼!?」
孫二娘の笑い声を背中に受けながら馬を進めた。
やがて遼軍が見えた。
土煙の向こうへ黒い線が広がり、号令とともにこちらの隊列も締まる。
「紅玉、全部見ようとしなくていい。まず近いところから」
「……はい」
前列がぶつかると、槍と盾、馬と人の声が一つになって押し寄せた。
紅玉の呼吸が浅くなる。
玉楼が横から声をかける。
「息を止めないように」
紅玉が長く息を吐いた。
その時、遼軍の横から別の騎馬隊が現れた。
女ばかりだ。
だから目立ったわけじゃない。
馬の首が揃い、こちらの端を削りながら、追えば下がり、止まればまた寄ってくる。
前へ出る者と退く者の間隔も乱れず、こちらがどこまで追うのかを確かめている。
「……嫌な動きね」
「誘っております」
玉楼も同じところを見ていた。
さらに奥で白い馬が動く。
その馬上にいたのも女だった。
派手な鎧をまとい、周囲の女兵がその一騎の動きに合わせている。
近くで遼兵の声が飛んだ。
「答里孛様!」
なるほど、あれが指揮官。
そう思った瞬間だった。
「女将軍だぁ~~!!」
聞き覚えがあり過ぎる声が、斜め後ろから戦場いっぱいに響いた。
「……は?」
振り向いた時には、もう遅い。
別の持ち場にいたはずの王英が、どこから割り込んできたのか馬を飛ばしている。
「何でアンタがいるのよ!?」
「女将軍だぞ! あれは俺が――」
「何の答えにもなってない!」
王英は止まらない。
答里孛の部隊は、その馬鹿を見ても慌てなかった。
むしろ左右の騎兵がわずかに開き、奥へ入れる形を作っている。
完全に誘われてる!
「王英様、お戻りくださいませ」
玉楼が馬を出した。
「邪魔すんな! せっかく女将軍が――」
王英が言い終えるより早く、玉楼の槍が動いた。
刃ではなく柄だった。
横薙ぎに振られた槍の柄が王英の身体をまともに捉え、馬上から派手に吹き飛ばす。
「ぐえっ!?」
「玉楼!?」
王英が地面を転がる横で、玉楼は何事もなかったように槍を戻した。
「お止まりになりませんでしたので」
「だからって味方をぶっ飛ばす!?」
「止まりました」
「結果論!」
王英が何か言い返そうとしたが、玉楼が槍を持ったまま見下ろすと黙った。
そこだけは学習するのね……
けれど笑っている場合じゃない。
答里孛は白い馬の上から、こちらを見ていた。
王英が飛び出したことも、玉楼がそれを一撃で止めたことも、おそらく全部。
「……最悪。余計なものまで見せたかも」
玉楼もすぐに答里孛へ視線を戻す。
「こちらを測っておりますね」
その直後、前列で味方の兵が倒れた。
遼兵の刃が上がる。
紅玉が動いた。
「紅玉!」
止めるより早く踏み込み、持たせていた朴刀で刃を受けた。
重い音に身体を弾かれながらも、刃の向きだけは逸らし、その間に倒れていた兵が転がって間合いを外れる。
紅玉は追わなかった。
膝も手も震えているのに、朴刀は落としていない。
アタシはすぐに馬を寄せる。
「戻りなさい」
一瞬だけ悔しそうな顔をしたが、紅玉は従って下がった。
「……はい」
「息を整えてくださいませ。前だけをご覧にならぬように」
玉楼に言われ、紅玉は荒い呼吸を戻しながら周囲へ目を配る。
それでいい。
倒す必要なんてない。
今は見て、生きて戻る。
答里孛の女部隊は、いつの間にか矢の届くぎりぎり外まで下がっていた。
白い馬が少し動いた瞬間、周囲の槍が同時に向きを変える。
細い笛の音が響いた。
女兵達が退き始める。
逃げているんじゃない。
崩れてもいない。
最初から、ここまで見たら帰ると決めていたような退き方だった。
味方の一部が追おうとする。
「追うな!」
声を張ると、兵達が止まった。
紅玉も半歩出かけて、自分で足を止める。
答里孛の隊は背を完全には見せず、こちらの動きを確かめながら離れていった。
女だから珍しいんじゃない。
引き方が綺麗過ぎる。
こちらの端を削り、王英みたいに釣れる奴がいることを見て、こちらがどう助けるかまで確かめた。
必要な情報だけ持って帰る。
「面倒な相手ね」
玉楼が小さく頷く。
「こちらを覚えて帰るのでしょう」
紅玉は黙ったまま、助けた兵と遠ざかる白馬を交互に見ている。
「紅玉」
「はい」
「今日は勝ったと思わないこと。一人助けたのはいい。でも、あいつらは負けて逃げたんじゃない」
紅玉は少し唇を結んだあと、答里孛の方を見たまま頷いた。
「……はい」
「悔しかったら覚えておきなさい。次に会った時、今より見えるように」
白い馬は最後までこちらを向いていた。
あれもアタシ達を覚えた。
そう思うと、嫌な予感しかしない。
「下がるわよ」
玉楼が頷く。
「はい」
紅玉も、少し遅れて頷いた。
「はい」
アタシ達は列を戻す。
蹄の音が、さっきより重く聞こえた。
官軍になった梁山泊の初陣。
紅玉が初めて立った戦場。
そのどちらも、勝ったとは言い切れない。
ただ、終わらなかった。
それだけは確かだった。
本日は、梁山泊が官軍として初めて戦場へ出ました。
紅玉様も初めて戦場をご覧になり、一人の兵をお助けになりましたが、まだ勝ったとは申せません。
そして、遼には答里孛という女将軍がおりました。
「女将軍だぁ~~!!」
「……王英様でございますね」
「何であとがきでも出てくるんだい、あいつ?」
顧大嫂様が呆れ、孫二娘様が笑います。
「で、玉楼。王英を槍でぶっ飛ばした感想は?」
「お止まりになりませんでしたので」
「反省ゼロだねェ!」
「止まったんだからいいじゃないか!」
結果として、王英様は止まりました。
ですが――
答里孛様は、こちらを最後まで見ておられました。
次に会う時、見られるだけで済むのでしょうか?




