今度は、指一本も残らない
拾ってきた女の子が、ようやく目を覚ますかもしれない。
「まず名前を聞かないとねェ」
孫二娘が言う横で、顧大嫂は腕を組んだ。
「起きたら飯だ。話は食わせてからでいい」
「アンタ達、方向性が違い過ぎない?」
「で、三娘は?」
「何が?」
孫二娘がにやつく。
「女の子が落ち着いたら、次は李俊だろォ?」
「何でそうなるの!」
顧大嫂まで頷いた。
「あと指一本だったんだろ?」
「何でアンタまで知ってるの!?」
梁山泊、本当に秘密が守れない。
「未完了の課題は完了させないとねェ」
「心理学で煽るな!」
……でも今回は、その指一本。
本当に、なくなるかも……
数刻が経った。
まだ少女は目を覚まさない。
灯りを落とした部屋では、外を歩く者の足音まで遠く聞こえていた。
玉楼は少女の傍に座り、ときどき呼吸や顔色を確かめている。
孫二娘は扉口へ背を預け、アタシは少し離れた場所から二人を眺めていた。
東京へ行き、李師師に会い、帰り道では人攫いを捕まえた挙げ句、知らない女の子まで連れて帰ってきたのだから、梁山泊へ戻った実感が追いつかないのも仕方ない。
「三娘」
「何よ?」
孫二娘が、いかにも思いついたような顔をする。
「帰ってきたのに、李俊のところへ行かなくていいのかい?」
「今それ言う!?」
「今だからだよォ。東京にいる間も、帰ったら会えるって顔してたじゃないか」
「してない!」
すぐ否定したのに、玉楼が少女から目を離さないまま口を挟んだ。
「先ほどから廊下で足音がする度、三娘様は扉をご覧になっております」
「玉楼!?」
「事実でございます」
味方だと思っていたのに、こういう時だけ正確過ぎる。
孫二娘が楽しそうに笑い始めたところで、少女の指がわずかに動いた。
玉楼の表情がすぐに変わる。
「……起きそうですね」
少女の喉が小さく鳴り、それまで一定だった呼吸が揺れた。
閉じていた瞼がゆっくり開いたものの、灯りが眩しいのか、すぐに目を細める。
玉楼は身体を急に起こさず、肩へ手を添えてから水の入った器を近づけた。
「少しずつお飲みくださいませ」
唇へ水が触れると、少女はほんの少し口に含んだところでむせた。
玉楼は急かさず背中を支え、呼吸が整うのを待ってから、もう一度だけ器を傾ける。
今度は飲めた。
少女の視線が天井から壁へ動き、玉楼、孫二娘を順に見たあと、最後にアタシのところで止まる。
「……ここは?」
声はかすれていた。
「梁山泊よ」
その途端、少女の顔からわずかに血の気が引いた。
まあ、そうなるわよね……
目を覚まして最初に「ここは山賊の本拠地です」と教えられて安心する人間なんて、まずいない。
玉楼もそれを察したらしく、少女を驚かせない距離のまま声をかける。
「ご安心くださいませ。わたくし達が危害を加えることはございません」
「運が良かったと思っていいよォ。少なくとも、アンタを運んでた連中よりはね」
孫二娘の言い方には問題がある気もするけれど、少女には意味が伝わったらしい。
目を閉じたまま何度か息を整え、しばらくしてから小さく尋ねた。
「……助けて、くれたの?」
「その話はあとでいいわ。まず身体を戻して」
少女はわずかに首を動かしたものの、何かを伝えたいらしく唇を開いた。
孫二娘の声が少し柔らかくなる。
「覚えてるところまででいいよォ。無理に思い出さなくてもいいし、話せないところは話さなくていい」
少女は時間をかけ、途切れ途切れに言葉を探した。
馬で運ばれたこと。
途中から目を隠され、何日経ったのかも分からなくなったこと。
そして、自分達がどこかへ売られるのだという話を聞いたこと。
「……何人も、連れていかれて……」
そこまで言ったところで、呼吸がまた速くなった。
玉楼が少女の手を包む。
「今はここにおります。もう運ばれてはおりません」
その言葉を確かめるように何度か息を繰り返すうち、少女の肩から少しずつ力が抜けていった。
アタシも、それ以上は聞かなかった。
「……助かるの?」
不安の残った目で聞かれ、今度は迷わず答える。
「ここにいれば大丈夫よ」
本当なら、そんな保証はどこにもない。
梁山泊にも戦は来るし、朝廷が何をしてくるかも分からない。
それでも今、この子へ将来の危険まで説明する必要はなかった。
しばらく静かにしてから、アタシは一つだけ尋ねる。
「名前、聞いていい?」
そこだけは、少女も迷わなかった。
唇を湿らせ、かすかな声で答える。
「……紅玉」
紅玉――
その名だけが、静かな部屋へ微かに響いた。
「紅玉ね」
アタシが繰り返すと、少女は小さく頷いた。
姓までは聞かなかったし、どこで生まれたのかも尋ねなかった。
今は、目を覚まして自分の名前を言えたことだけで十分だと思った。
林冲へ知らせると、すぐに部屋まで来た。
「話せるか?」
紅玉は一瞬だけアタシを見てから、わずかに頷く。
林冲は寝台へ近づき過ぎず、どこから運ばれたのか、行き先を聞いていないか、道中で何か覚えているものはないかと、必要なことだけを尋ねた。
ほとんど答えは出なかった。
紅玉自身が何も知らされないまま運ばれていたのだから当然だ。
ただ一つ、
「……水の流れる音が、近くて」
と答えた時だけ、孫二娘と玉楼の目が同時に動いた。
「水路を通ったのかねェ」
孫二娘が呟くと、林冲は少し考えたものの、それ以上紅玉へ負担をかけようとはしなかった。
「もういい。休ませろ」
そして今度はアタシへ向き直る。
「しばらく、お前のところで見ろ」
「分かった」
その瞬間、孫二娘が待ってましたとばかりに笑った。
「三娘、とうとう人まで拾って育て始めたねェ」
「育てるって言うな!」
「昨日、自分で拾ったって言ってたじゃないか」
「言葉の綾よ!」
林冲は聞かなかったことにして部屋を出ていった。
師匠、その判断は正しい。
それから数日は、紅玉の身体を元へ戻すことだけを考えた。
粥を少し食べては眠り、水を飲んではまた休むという繰り返しだったが、最初より顔色は良くなり、やがて自分で身体を起こせるようになった。
ある日、玉楼が手を貸そうとした時、紅玉は首を振った。
「……自分で」
「まだ無理はなさらぬ方がよろしいかと」
「立ちたい」
小さな声だったけれど、その意思ははっきりしていた。
玉楼はしばらく紅玉を見てから、無理に寝かせることも、好きにさせることもせず、傍へ膝をついた。
「では、立つところまでにいたしましょう。倒れそうになれば、わたくしが支えます」
紅玉は寝台から足を下ろし、時間をかけて身体を起こした。
膝が震え、すぐに崩れそうになったところへ玉楼が腕を添えるが、立てたと分かれば余計には支えない。
アタシなら最初から全部手を貸してしまいそうなのに、玉楼は出来る部分を本人へ残している。
「十分でございます」
「……まだ」
「今日は十分です」
「でも……」
「明日もございます」
紅玉は不満そうだったけれど、それ以上は逆らわなかった。
壁際で見ていた孫二娘が笑う。
「玉楼、思ったより厳しいねェ」
「無理をさせることと、鍛えることは違いますので」
「いい先生じゃないか」
玉楼は少し困った顔でアタシを見る。
「先生、なのでございましょうか?」
「そこ気にするんだ」
さらに数日経つ頃には、紅玉は一人で立てるようになった。
そこで玉楼が持ってきたのは木刀だった。
「早くない?」
「振らせるつもりはございません。まずは持てるか確かめるだけです」
紅玉は渡された木刀を迷わず握ったが、指にも肩にも余計な力が入り、見るからに固い。
それでも、手放そうとはしなかった。
「肩の力を抜いてくださいませ。構える必要はございません」
玉楼に言われ、紅玉が息を吐く。
「では、一歩だけ前へ」
紅玉は木刀を持ったまま足を出し、身体が揺れると一度踏ん張った。
玉楼はそこで手を出さず、紅玉が自分で姿勢を戻すのを待つ。
戻ってから、また一歩。
同じ動きを何度も重ねるうちに、最初より身体の揺れが小さくなっていった。
「頑固そうだねェ」
隣で孫二娘が呟く。
「誰かに似てない?」
「誰よ?」
「三娘」
「何で!」
「止められても、とりあえずもう一回やろうとするだろォ?」
否定しようとしたが、思い当たることが多すぎた。
玉楼まで振り返り、
「よく存じております」
と真顔で頷く。
「玉楼まで納得しないで!」
そのやり取りを見ていた紅玉が、ほんの少しだけ笑った。
拾ってきてから初めて見る笑顔だった。
それだけで、胸の奥にあった重さが少し軽くなる。
その日の夕方、部屋を出たところで、廊下の先に見慣れた男が立っていた。
李俊――
思わず足が止まった。
向こうもアタシを見ている。
「戻ったな」
「……とっくに戻ってるわよ?」
「知ってる」
「じゃあ何で今さら言うの?」
李俊は少しだけ笑った。
「顔見て言いたかった」
何それ?
ずるい……
胸が急に忙しくなる。
「東京はどうだった?」
「人が多かった。あと、回りくどかった」
「そうか」
「それだけ?」
「お前が無事ならいい」
さらにずるい。
李俊がこちらへ歩いてくると、アタシの頭は勝手に前回の距離を思い出した。
あと指一本。
今回は孫二娘もいない。
玉楼もいない。
誰も叫ばない。
李俊も、そのことを忘れてはいなかったらしい。
「……この前の続き」
「言わなくていい!」
「分かってるだろ」
「分かってない!」
反射でいつものように否定したけれど、今回は一歩も下がらなかった。
李俊も笑わず、その場でアタシを見る。
「嫌ならやめる」
逃げ道を残されると、逆に逃げにくい。
ずっとそうだった。
この男は、自分で勝手に決めてアタシを連れていこうとはしない。
だから、こっちが決めるしかない。
「……嫌って言ってないでしょ」
李俊の目がわずかに見開かれた。
「三娘」
「何よ?」
「もう一回言ってくれ」
「言わない」
「じゃあ、いいんだな」
「確認多い!」
「大事だからな」
その言い方だけは笑えなかった。
アタシは李俊の襟元を掴む。
「だったら早くしなさいよ」
今度は、指一本も残らなかった。
唇が触れた。
長くはなかったはずなのに、離れた後も互いに動けず、近過ぎるところで目が合った。
李俊の耳が赤い。
多分、アタシも同じくらい赤い。
「……したわね」
「したな」
「何でそんな普通なのよ!」
「どう言えばいいんだ?」
「知らないわよ!」
李俊が笑った。
その顔を見た瞬間、腹が立つより嬉しいと思ってしまった自分が一番腹立たしい。
部屋へ戻ると、孫二娘が一度アタシを見ただけで口元を上げた。
「おや?」
「何も言うな!」
「まだ何も言ってないよォ?」
玉楼までこちらを見る。
「三娘様」
「玉楼も言わないで!」
「何も申し上げておりませんが?」
「顔が喋ってる!」
孫二娘が顎へ手を添え、わざと真面目な顔を作った。
「ところで、指は?」
「ゼロよ!!」
言ってから、自分で何を自白したのか理解した。
孫二娘が腹を抱え、玉楼まで口元を隠す。
「自分から言ったねェ!」
「忘れて!!」
布団の上でこちらを見ていた紅玉だけが、何の話か分からず首を傾げている。
「……何の話?」
「紅玉は知らなくていい!」
それから数日が過ぎ、紅玉が木刀を持って一歩出ては戻る稽古を続けていた頃、外を行き交う者達の動きが急に慌ただしくなった。
孫二娘が壁から背を離し、玉楼も紅玉の前で動きを止める。
「……騒がしくなってきたねェ」
廊下へ出てみると、朝廷から使者が来たという話がすぐに耳へ入った。
忠義堂へ頭領達が集められ、アタシ達も向かう。
中には宋江を中心に主だった顔が揃っており、その中には李俊もいた。
目が合った瞬間、これまでなら「あと指一本」を思い出していたところなのに、今度はその先まで思い出してしまう。
……駄目だ。
今それどころじゃない。
扉が開き、使者が入ってくる。
服装から、これまで来た者とは違うと分かった。
忠義堂の中央で立ち止まり、深く頭を下げた。
「朝廷よりの使いにございます」
誰も声を出さない。
宋江が前へ出た。
「ようこそおいで下さいました」
使者が顔を上げる。
「詔をお持ちいたしました」
場の空気が張り、宋江も動かない。
しばらくして、口を開いた。
「……開けよ」
紅玉様は、ようやくお名前を教えてくださいました。
そして三娘様にも、別の進展があったようでございます。
「で、指は?」
孫二娘様が聞いた瞬間、三娘様のお顔が真っ赤になりました。
「ゼロよ!!」
顧大嫂様が吹き出します。
「とうとうやったのかい!」
「何で全員それだけで分かるの!?」
「分かりやす過ぎるんだよォ」
わたくしは何も申し上げておりません。
「玉楼、その顔やめて!」
「何もしておりませんが?」
「笑ってる!」
ようやく消えた、あと指一本。
ですが、その直後――
朝廷より詔が届きました。
「恋が進んだ途端にこれかい?」
さて三娘様……
次に動くのは恋ではなく、梁山泊そのものかもしれません。




