静の中の詔
「で、あの子、まだ目ぇ覚まさないのかい?」
孫二娘が、鍋を混ぜながら言った。
「まだよ」
アタシは答えた。
「玉楼が見てる」
「玉楼なら大丈夫だろうねェ」
孫二娘は鍋杓子を止めずに言う。
「三娘が見てたら、起きた途端に質問攻めにしそうだからねェ」
「しないわよ!」
顧大嫂が横で酒の椀を置いた。
「いや、しそうだねぇ」
「顧大嫂まで!」
「名前は? どこから来たの? 誰にさらわれたの? どこへ売られるはずだったの? って聞く顔してるよォ」
孫二娘が、こちらを見もせずに言う。
「さっきからずっとねェ」
「してない!」
そう言い返したけど、少しだけ詰まった。
知りたいのは本当だった。
あの子が何者なのか……
どこから来たのか……
誰にさらわれたのか……
どこへ連れて行かれるはずだったのか……
でも、まだ眠っている。
目を覚ましたばかりの子に、いきなり全部を聞く訳にはいかない。
それくらいは、アタシにも分かる。
「……今は、起きるまで待つわよ」
そう言うと、孫二娘が少しだけ目を細めた。
「ならいいさ」
「あの子、だいぶ弱ってたからねェ」
その声は、いつもの軽さだけではなかった。
孫二娘も見ていた。
東京からの帰り道。
草が乱れ、土に深い跡があり、男達があの子を隠していた場所を……
布にくるまれていた……
細い体を……
抱え上げた玉楼の顔が、一瞬だけ硬くなった事も……
「二娘は、どう見たの」
アタシが聞くと、孫二娘は鍋を混ぜる手を少しだけ止めた。
「体は細い。息も浅い。けどねェ」
「目が覚めたら分かるよ」
「心が折れてるか、まだ残ってるかくらいは」
顧大嫂が低く頷いた。
「二娘がそう言うなら、まずは起きるまで待つしかないねぇ」
「そういう事だよォ」
孫二娘がまた鍋を混ぜる。
「無理に聞いたって、出るもんも出ない。怯えさせるだけさ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃないねぇ」
顧大嫂が言う。
「してるよォ」
孫二娘も続けた。
「今にも飛び出しそうな顔してる」
「してない!」
「してるねェ」
「してるねぇ」
二人の声が重なる。
腹が立つ。
でも、否定し切れないのも腹が立つ。
あの子を見つけた時、胸の奥が冷えた。
都の近く。
朝廷の膝元。
人も物も金も集まる場所のすぐ外で、あんな風に女の子が運ばれていた。
李師師の屋敷で見た、綺麗なもの。
柔らかな声。
刀では開かない門。
その帰り道で、あの子を見つけた。
偶然とは、思えなかった。
顧大嫂が静かに聞いた。
「林冲には話したのかい?」
「話した」
「何て?」
「守れ、って」
孫二娘が短く笑った。
「林冲らしいねェ」
「余計な事は言わないけど、そこだけは外さない」
「そうね」
守れ――
長い言葉はいらなかった。
あの一言で十分だった。
あの子はもう、梁山泊の中にいる。
アタシ達の部屋に寝かせている。
顧大嫂が腕を組み直した。
「なら、まずは寝かせる。水を飲ませる。食わせる。体を戻す」
「話はそれからだねぇ」
「分かってる」
「三娘」
「何よ」
「分かってるなら、まずアンタも食いな」
孫二娘が、すぐに椀を差し出した。
「ほら」
「またそれ?」
「またそれだよォ」
孫二娘が笑う。
「守る方が腹空かせてどうするんだい」
顧大嫂も頷いた。
「その子が目を覚ました時、三娘の方が怖い顔してたら、向こうが怯えるよ」
「そんな顔してないわよ」
「してるねぇ」
「してるよォ」
また二人の声が重なる。
アタシはため息をついて、椀を受け取った。
湯気が上がる。
東京の香りとは違う。
李師師の屋敷の匂いとも違う。
梁山泊の、いつもの匂いだった。
孫二娘が少しだけ声を落とす。
「三娘」
「何よ」
「あの子は、たまたま拾った荷じゃない」
「生きてる人間だ」
「分かってる」
「なら、焦るんじゃないよォ」
「助けた後に壊したら、意味がないからねェ」
その言葉に、少しだけ黙った。
孫二娘は茶化している様で、見ている。
現場を見ている。
あの子の軽さも、息の浅さも、男達の目も見ている。
だから、軽く言っている様で、軽くはなかった。
顧大嫂が鍋の火を見ながら言った。
「二娘の言う通りだよ」
「起きる。飲む。食う。眠る。少しずつ戻す」
「それから、聞ける事を聞く」
「……そうね」
そうするしかない。
孫二娘がにやりと笑う。
「で、三娘も食う」
「結局そこなの?」
「そこだよォ」
顧大嫂も笑った。
「飯を食わないで守れる命はないからねぇ」
アタシは椀を持ち直す。
「……いただくわ」
鍋を一口すする。
熱い。
それで、少しだけ腹が決まった。
東京から戻って来ただけのはずなのに……
今度は、名前も知らない一人の娘を梁山泊へ連れて来てしまった。
本当に、面倒な事ばかりだ。
でも――
孫二娘も見た。
玉楼も抱えた。
林冲も守れと言った。
顧大嫂も、もう寝床と飯の話をしている。
なら――
もうアタシ一人の話じゃない。
見つけてしまった以上、もう見なかった事には出来ない。
数刻が経った。
まだ少女は目を覚まさない。
灯りは暗く、部屋の空気はほとんど動かなかった。
玉楼が傍にいる。
孫二娘は扉口に立っている。
アタシは少し離れて座っていた。
時間だけが過ぎる。
ふと、少女の指がわずかに動いた。
玉楼の視線が落ちる。
「……起きそうですね」
少女の喉が鳴り、浅い呼吸が揺れた。
目が、ほんの少し開く。
けれど、灯りを嫌う様にすぐ閉じかける。
「水を」
玉楼が静かに言い、器を差し出した。
唇が水に触れる。
少しだけ飲んだ後、すぐにむせていた。
玉楼が背中を支える。
少女は息を整え、もう一度、目を開いた。
視線が揺れる。
天井、壁、玉楼、孫二娘、そして、アタシ……
「……ここは」
少女の声は、かすれていた。
アタシは、出来るだけやさしく答える。
「梁山泊よ」
しばらくの間、沈黙が流れる。
少女の目が揺れ、恐怖が先に来ている事がわかる。
まだ、何が起きたのか分からない目だった。
玉楼が一歩だけ寄る。
「安心してください」
「危害は加えません」
その声で、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
孫二娘が扉口で鼻を鳴らす。
「運が良かったねェ」
少女は目を閉じた――
けれど、眠った訳では無かった。
呼吸は浅いままでも、意識は戻っている。
「……助けて、くれたの」
アタシは頷かず、否定もしなかった。
「話を聞きたいの」
少女の指が震えているのが分かる。
言葉を探している。
けれど、喉が動くだけで、すぐには声にならなかった。
玉楼がまた水を差し出すと、少女は少しだけ飲んだ。
今度はむせずに、呼吸を整える。
「……どこまで」
声が細い。
アタシは座ったまま、少女の顔色を見る。
「覚えてるところまででいいわ」
「急がなくていいよ」
少女の目が揺れた。
思い出そうとしている。
けれど、思い出す事そのものが恐いのか、顔が小さく歪む。
「……馬で」
そこで途切れる。
「目を、隠されて」
孫二娘が低く言った。
「雑だねェ」
少女は続けようとした。
「何日か……分からない」
「……売られるって」
息が浅くなる。
玉楼が一歩寄り、少女の手を取った。
「大丈夫です」
「今は、ここにおります」
それで、少しだけ呼吸が落ち着いた。
「……何人も」
「連れていかれて……」
言葉がそこで止まった。
アタシは、それ以上聞かなかった。
「もういいわ」
少女の目がこちらを向く。
「……助かるの」
答えは簡単ではない。
でも、今ここで必要な言葉は、一つだけだった。
「ここにいれば、大丈夫よ」
少女の体から、少しだけ力が抜ける。
まだ震えている。
けれど、目は閉じなかった。
アタシは少し間を置いて聞いた。
「名前は?」
少女の動きが止まる。
そこだけは、迷わなかった。
唇が少し震えながら、それでも小さく声が出た。
「……紅玉」
紅玉――
その名だけが、部屋の中に残った。
アタシはゆっくり立ち上がった。
「玉楼、見ていて」
「はい」
孫二娘が扉口から少し身を引く。
「林冲に言うのかい」
「ええ」
扉を静かに閉め、廊下に出る。
足を止めず、林冲の部屋へ向かった。
扉の前で止まり、一度だけ叩く。
「入れ」
中に入ると、林冲がこちらを見た。
「起きたわ」
「話せるか」
「少し」
林冲は短く頷いた。
「案内しろ」
部屋へ戻ると、空気は少し落ち着いていた。
玉楼が紅玉の傍にいる。
孫二娘は扉口。
紅玉は横になったまま、目を開けている。
林冲が前で止まった。
視線を落とす。
「……話せるか」
紅玉の目が揺れ、アタシを見る。
それから、か細い声で答えた。
「少し」
林冲は、それ以上近付かない。
「どこへ運ばれそうになった」
紅玉は息を整えた。
「……分かりません」
「道は」
「……分かりません」
「ただ、水の音が、近くて」
玉楼の目がわずかに動いた。
声を拾っている。
孫二娘が小さく鼻を鳴らした。
「水辺かねェ」
林冲は黙って考えていた。
アタシは口を挟まない。
やがて、林冲が言った。
「もういい」
「休ませろ」
紅玉の肩から力が抜ける。
林冲は顔を上げ、アタシを見る。
「……お前の部屋でいい」
「お前に預ける」
アタシは頷いた。
「分かったわ」
孫二娘が笑う。
「面倒見がいいねェ」
林冲は何も言わず、背を向けた。
扉が閉まると、部屋の中に静けさが戻った。
アタシは紅玉を見る。
玉楼が傍にいる。
紅玉は横になったまま、こちらを見ている。
「決まったわね」
玉楼が頷く。
孫二娘が、扉口で腕を組んだ。
「で?」
アタシは紅玉から目を離さずに言う。
「ここに置くわ」
「しばらく、アタシのところで預かる」
紅玉の指がわずかに震えた。 聞こえている。
玉楼が水を手の届く位置に置き、布団をかけ直す。
「無理はさせません」
「まずは、眠ってください」
紅玉は小さく頷いた様に見えた。
孫二娘が、今度は茶化さずに言う。
「運が良かったねェ」
アタシは座って、息を吐いた。
それから、少しずつ時間が過ぎた。
紅玉は、すぐには動けなかった。
起き上がるだけで息が上がる。
水を飲むのにも時間がかかる。
粥を少し食べて、また眠る。
それでも、目だけは死んでいなかった。
数日後、玉楼が紅玉の前に立ち、優しく声を掛ける。
「座れますか」
紅玉は頷き、体を起こす。
それだけで肩が震える。
玉楼はすぐには支えない。
倒れそうになった所で、そっと手を添えていた。
「十分です」
「今日はここまで」
紅玉は首を振った。
「……立つ」
声は小さい。
けれど、はっきりしていた。
アタシは口を挟まない。
孫二娘も黙っている。
玉楼が少しだけ目を伏せる。
「では、立つだけです」
紅玉は足を下ろした。
力が入らず、すぐに崩れかけるところを、玉楼が支える。
「もう一度」
紅玉は息を整え、もう一度立つ。
今度は、わずかに立てた。
ほんの短い間だった。
それでも、立った。
玉楼が頷く。
「十分です」
孫二娘が壁にもたれながら言う。
「甘いねェ」
玉楼は振り向かない。
「今はこれでいいのですよ」
アタシは、紅玉から視線を外さなかった。
紅玉は壁に手をつき、息を整えている。
額に汗が浮いていた。
でも、目は伏せなかった。
数日が過ぎた。
紅玉は、ようやく一人で立てるようになった。
長く動けば、まだ息は乱れる。
足も細く、腕もか細い。
けれど、倒れなくなってきた。
さらに日を置いて、玉楼は木刀を一本持って来た。
「持てますか」
紅玉は、迷わず受け取った。
けれど、握り方が固い。
指に力が入り過ぎている。
「構えなくていいですよ」
玉楼が言う。
「今日は、持つだけで構いません」
紅玉は頷いた。
それでも、木刀を離そうとはしなかった。
孫二娘が笑う。
「地味だねェ」
「今はこれでいいのです」
玉楼は静かに返した。
しばらくして、玉楼が言う。
「一歩だけ」
紅玉が動く。
木刀を持ったまま、一歩出る。
身体が揺れる。
けれど、落とさない。
「戻ってください」
紅玉は戻る。
でも、息が乱れても目は前を向いている。
「もう一度」
一歩出て、戻る。
また一歩出て、戻る。
速くはない。
けれど、止まりもしない。
少しずつ動きが揃っていく。
孫二娘が壁にもたれたまま言った。
「倒れなくはなってきたねェ」
アタシは口を出さずに、ただ見ていた。
紅玉の握る手は、まだ弱い。
肩にも余計な力が入る。
それでも、木刀を離さない。
玉楼が一歩寄る。
「肩の力を抜いてください」
紅玉が息を吐き、肩が下がる。
「足は、同時に」
紅玉が頷く。
足、木刀、止まる、戻る。
それだけを繰り返す。
音だけが残った。
木刀の小さな音、紅玉の呼吸、外の兵達の足音。
その足音が、ふいに変わった。
孫二娘が顔を上げる。
「……騒がしくなってきたねェ」
玉楼も動きを止める。
紅玉も木刀を握ったまま、こちらを見る。
いつもの空気じゃない。
アタシは座ったまま、小さく呟いた。
「……何かあったわね」
部屋の外で、人の動きが慌ただしくなる。
声が走り、足音が増える。
朝廷からの使者が来た。
忠義堂へ頭領達が集まる。
動きは早い。
でも、声は少ない。
席が埋まり、宋江が前に立っている。
いつもと空気が違った。
扉が開き、使者が入る。
装いが違う――
歩き方も違う――
忠義堂の真ん中で止まり、頭を下げた。
「朝廷よりの使いにございます」
誰も動かない。
宋江が前へ出る。
「ようこそおいで下さいました」
視線が集まり、使者が顔を上げる。
「詔をお持ちいたしました」
場の空気が張った。
息が止まる。
それでも、誰も動かない。
宋江も動かない。
やがて、低く言った。
「……開けよ」
紅玉が目を覚ました時、私は少しだけ息を止めておりました。
息はありました。
熱も高過ぎる訳ではありません。
大きな傷も見えませんでした。
ですが、人は傷が見えない場所から壊れる事もあります。
だから、目が開いた時、最初に見たのは顔色ではなく、目でした。
恐れはありました。
混乱もありました。
けれど、完全に消えてはいない。
その事に、私は少しだけ安堵しました。
「で、玉楼」
孫二娘殿が鍋を混ぜながら言いました。
「アンタ、あの子の目を見てどう思ったんだい?」
「折れてはいないと思いました」
私が答えると、孫二娘殿は口の端を上げました。
「だろうねェ」
「アタイも、そう見たよ」
顧大嫂殿が酒の椀を置きます。
「けど、体はまだ戻ってないんだろう?」
「はい」
私は頷きました。
「座るだけでも息が上がります。立つだけでも体が揺れます」
「なら、無理は禁物だねぇ」
顧大嫂殿が言います。
「食わせて、寝かせて、水を飲ませる。まずはそこからだよ」
「分かっております」
孫二娘殿が笑いました。
「分かってる顔だねェ」
「三娘とは違う」
幕の外から、すぐに声が飛びました。
「聞こえてるわよ!」
孫二娘殿は楽しそうに鍋を混ぜます。
「聞こえる様に言ったんだよォ」
顧大嫂殿が肩を揺らしました。
「三娘はすぐ前へ出るからねぇ」
「助けたら、そのまま何とかしようとする」
「悪い事ではありません」
私は言いました。
本当に、悪い事ではありません。
扈三娘様は、見てしまったものを捨てられない方です。
見つけた命を、見なかった事には出来ない方です。
ですが、それは時に、あの方ご自身を削ります。
だからこそ、孫二娘殿と顧大嫂殿がいるのだと思います。
孫二娘殿は、現場で見たものを忘れません。
男達の目も、布に包まれていた紅玉の軽さも、扈三娘様が怒りを抑えていた事も見ておられました。
顧大嫂殿は、その後を見ます。
寝床、水、食事、起きた後の場所。
人が壊れない為の順番。
お二人とも、言葉は荒いのですが、見ている場所が違うだけで、見ていない訳ではありません。
「それにしても」
孫二娘殿が言いました。
「木刀を離さなかったねェ、あの子」
「はい」
紅玉の手は、まだ弱い。
指にも力が入り過ぎておりました。
肩も上がり、足も遅れる。
それでも、木刀を離そうとはしませんでした。
「大丈夫なのかい?」
顧大嫂殿が聞きます。
私は少し考えました。
「今は、大丈夫とは言えません」
「ですが、心は折れてはいません」
孫二娘殿が頷きました。
「それで十分だねェ」
「最初から強い子なんざ、そうそういないよォ」
「二娘が言うと、妙にまともに聞こえるねぇ」
顧大嫂殿が言いました。
「アタイはいつでもまともだよォ」
「鍋を混ぜながら人の心の話をする女がかい?」
「鍋は大事だろォ」
「腹が減ってりゃ、心も弱る」
顧大嫂殿は少し笑いました。
「そこは否定しないよ」
私は、紅玉のいる方へ視線を向けました。
紅玉は、まだ何者でもありません。
梁山泊の兵でもなく、扈三娘様の弟子でもなく、ただ助けられたばかりの娘です。
けれど、扈三娘様は言いました。
ここに置く。
しばらく、自分のところで預かる、と――
林冲殿も、守れと仰いました。
その言葉で、紅玉の居場所はひとまず決まりました。
ただ、それが安らかな場所かどうかは、まだ分かりません。
梁山泊は、優しい場所ではありません。
ここには武器があり、男達がいて、戦の匂いがあります。
救われる者もいれば、飲み込まれる者もいる。
だから、ただ置くだけでは足りません。
「玉楼」
孫二娘殿が言います。
「アンタ、あの子に木刀を持たせるの、早いと思ったかい?」
「少しだけ」
「でも、持たせた」
「はい」
「何でだい?」
私は、少しだけ目を伏せました。
「手を空にしておく方が、不安そうに見えました」
「何かを握っていた方が、呼吸が落ち着く様でしたので」
孫二娘殿は、しばらく黙りました。
それから、少しだけ笑いました。
「よく見てるねェ」
「それしか出来ません」
顧大嫂殿が静かに頷きます。
「今はそれでいいんだよ」
「治すんじゃない。戻すんだ」
「戻って来られる場所を作ってやるんだねぇ」
戻って来られる場所。
その言葉は、少しだけ胸に残りました。
紅玉がどこから来たのか。
誰にさらわれたのか。
どこへ売られるはずだったのか。
それは、まだ分かりません。
ですが、今はここにいます。
呼吸をしています。
水を飲み、粥を食べ、眠り、立ち上がろうとしています。
それだけでも、今は十分なのだと思います。
その時、外の足音が変わりました。
孫二娘殿が顔を上げます。
「……来たねェ」
顧大嫂殿も、鍋から視線を外しました。
「朝廷かい」
「おそらく」
私は答えました。
朝廷からの使者。
詔。
招安。
梁山泊全体が、また大きく動き出そうとしております。
孫二娘殿は鍋杓子を置きました。
顧大嫂殿も、酒の椀を脇へ下ろします。
「行かない訳にはいかないねェ」
孫二娘殿が言いました。
「一応、アタイらも頭領だからねェ」
顧大嫂殿も頷きます。
「使者が来たなら、顔を出さない訳にはいかないよ」
「それが梁山泊の場ってもんだ」
そう言ってから、顧大嫂殿は紅玉のいる部屋の方を見ました。
「玉楼」
「はい」
「水と粥は置いてある。目を覚ましても、無理に起こさなくていい」
「息が落ち着くまで、寝かせておきな」
「承知しております」
孫二娘殿も、少しだけ目を細めました。
「あの子は任せたよ」
「三娘は忠義堂へ行く。アタイらも行く」
「残るのはアンタだ」
「はい」
私は頷きました。
「お任せください」
孫二娘殿は、いつもの様に笑いました。
「頼もしいねェ」
顧大嫂殿が肩を揺らします。
「三娘より落ち着いてるしねぇ」
幕の外から、また声が飛びました。
「聞こえてるって言ってるでしょ!」
孫二娘殿は、今度こそ声を出して笑いました。
「ほら、あれだよ」
「朝廷の使者に会う前から、もう面倒な顔してる」
顧大嫂殿も笑いながら立ち上がりました。
「詔だの朝廷だのって話になると、三娘は余計に顔へ出るからねぇ」
「本人は出ていないと言われます」
「出てるよォ」
孫二娘殿が即答しました。
「眉間に全部書いてある」
私は少しだけ笑いそうになりました。
きっと、扈三娘様は今頃、忠義堂へ向かいながら同じ様に顔をしかめておられるのでしょう。
朝廷の使者を見て、宋江殿を見て、言葉の裏を読もうとして、でも最後には腹を立てる。
そういう方です。
けれど、その方だからこそ、紅玉を見つけたのだと思います。
見過ごせなかった。
放っておけなかった。
だから、ここまで連れて来た。
孫二娘殿も、顧大嫂殿も、それを分かっている。
だから茶化す。
だから食わせる。
だから、待てと言う。
そして、頭領として行くべき時には、ちゃんと忠義堂へ向かう。
お二人は、身支度を整えました。
先ほどまで笑っていた顔が、少しだけ変わります。
梁山泊の女達ではなく、梁山泊の頭領の顔になっていました。
「行ってくるよォ」
孫二娘殿が言います。
「紅玉のことは、私にお任せ下さい」
「頼んだよ」
顧大嫂殿も頷きました。
「何かあればすぐ呼びな」
「ただし、無理はさせるんじゃないよ」
「はい」
お二人は幕を出ていきました。
外では、朝廷の使者を迎える声が響いております。
梁山泊の空気が変わっていきます。
私は、紅玉のいる方へもう一度目を向けました。
細い手。
浅い呼吸。
まだ弱い足。
それでも、木刀を離さなかった指。
紅玉がこれからどうなるのかは、まだ分かりません。
ですが、少なくとも今は、扈三娘様の庇護の下におります。
孫二娘殿と顧大嫂殿は、頭領として忠義堂へ向かわれました。
私は、次に紅玉が目を覚ました時の支え方を考えております。
それで、今は十分なのかもしれません。
忠義堂では、詔が開かれようとしておりました。
部屋では、紅玉が眠っております。
大きな話と、小さな呼吸。
その二つが同じ梁山泊の中にある事を、私は忘れない様にしたいと思いました。




