帰り道で、一人拾った
東京開封府での用事も終わったし、あとは梁山泊へ帰るだけ。
「嬉しそうだねェ?」
孫二娘が笑う。
「何がよ?」
「帰れば李俊がいるからねェ?」
「そこに結びつけるな!」
「期待してる時ほど、帰り道は短く感じるもんだよォ?」
「心理学で恋愛認定するな!」
孫二娘は全然聞いていない。
「まあ、帰るだけなら楽でいいじゃないか」
「そうね。今度こそ何も起きないでしょ」
「それ、物語で一番言っちゃ駄目なやつじゃないかい?」
「メタで不吉なこと言うな!!」
……結論から言うと。
帰り道で、アタシ達は一人拾いました。
店を出る頃には、東京の空はもう夜へ傾いていた。
昼の喧騒が消えた訳ではなく、むしろ軒先に灯りが増えた分だけ、人の声まで柔らかく膨らんでいる。
屋台から立つ湯気に酒と香の残り香、行き交う馬の臭いまで混ざり合い、戦場とはまるで違う熱が通りを満たしていた。
「……人が減らないのね」
思わず口にすると、孫二娘が食べかけの串を片手に笑った。
「都だからねェ。夜になったくらいで寝る連中ばかりじゃないんだろ」
半歩後ろを歩く玉楼は、賑やかな店先より通りの奥へ目を配っていた。
東京へ入ってからずっとそうで、顔はいつも通り静かなのに、目だけは一度も休んでいない。
「宿へ戻りますか?」
「そうね」
答えたものの、アタシの足はすぐには動かなかった。
李師師の屋敷が、まだ頭に残っている。
綺麗過ぎる場所で、柔らか過ぎる声を使いながら、あの女はアタシ達を最初から最後まで見ていた。
呉用が整えた手紙を読み、その言葉だけでは足りないと言い、刀では開けられない門が東京にはあると教えた。
何というか、全部がまだ胸の中で片づいていない。
孫二娘が横から顔を覗き込んだ。
「三娘、面倒臭い顔してるよォ」
「してない」
「してるねェ。考え事が顔に出るタイプだ」
「林冲にも同じようなこと言われたんだけど?」
「じゃあ専門家二人の所見が一致したってことだねェ」
「師匠を心理学者にするな!」
孫二娘が楽しそうに笑い、玉楼まで口元をわずかに緩めた。
その顔を見たところで、今度は別のものが頭へ浮かぶ。
梁山泊へ戻ったら李俊に会う。
それだけなら普通なのに、脳内で勝手に距離まで再現された。
あと指一本……
「……何で今なのよ?」
「何がだい?」
「何でもない!」
「質問しただけなのに、ずいぶん必死だねェ」
しまった……
孫二娘がにやりと笑ったので、アタシは何も聞こえなかったことにして宿へ向かった。
部屋へ入ると、外の騒がしさが扉一枚向こうへ遠ざかる。
低い灯りが壁へ揺れる中、孫二娘はさっそく腰を下ろして肩を回したが、玉楼だけは扉に近いところへ立ったままだった。
壁にも背を預けていない。
「玉楼、座れば?」
「このままで結構でございます」
「ほんと固いねェ。寝る時まで立ってたら尊敬するよォ」
「寝る時は横になります」
孫二娘が一瞬黙った。
アタシも耐えきれず吹き出す。
「玉楼、それ真面目に返すところじゃないから」
「そうなのでございますか?」
本人にはまったく悪気がない。
それどころか本当に分かっていない顔をしているので、孫二娘まで肩を揺らし始めた。
東京へ来て一日しか経っていないのに、こうして三人でいる時間は思っていたより楽だった。
人は多いし、仕組みは回りくどい。
笑顔の裏に何があるのか分からない相手もいる。
それでも、この都を嫌いになったかと聞かれれば、少し違う気がする。
「……明日、帰るのよね?」
孫二娘が横になったまま片目を開けた。
「帰りたくないのかい?」
「そういう訳じゃないけど、もう少し見ても良かったかなって」
「へえ……じゃあ李俊には、もう一日待ってもらう?」
「何でそこに行くのよ!」
「帰る理由の中で一番分かりやすいからねェ?」
「違う!」
「三娘様」
玉楼まで口を挟んだので、反射的に振り向く。
「何!?」
「お声が少々大きゅうございます」
「……ごめん」
玉楼は正しい。
正しいから腹が立つ。
孫二娘は声を殺して笑っていたが、しばらくすると天井へ目を向けたまま言った。
「また来ればいいさ」
「簡単に言うわね」
「生きてりゃ来られるよォ」
その言葉で、笑いが止まった。
梁山泊にいると、何度も聞く言葉だ。
生きていれば――
簡単に聞こえるのに、アタシ達にとっては一番難しい。
翌朝、東京は昨日と変わらない顔で動き始めていた。
店が次々と戸を開け、荷車が通りを埋め、城門にはもう兵が立っている。
宿元景は都に残るため、帰りは本当にアタシ、玉楼、孫二娘の三人だけだった。
預かった通行の証を確かめ、馬を引いて城門へ向かう。
孫二娘が欠伸をした。
「女三人旅、帰り道だねェ」
「今度こそ本当に三人ね」
「寂しい?」
「何が?」
「宿元景が」
「全然」
「李俊なら?」
「朝からやめろ!!」
玉楼が前を向いたまま、かすかに息を漏らした。
「玉楼、笑った?」
「朝の空気が心地よいだけでございます」
「その逃げ方、絶対覚えたでしょ!」
「成長したねェ」
「アンタが育てたみたいに言うな!」
城門を抜けると、都の匂いが背後へ薄れていき、代わりに土と草の匂いが戻ってきた。
馬へ跨ると身体まで少し楽になる。
東京ではずっと誰かの視線の中を歩いている気がしたけれど、街道まで出れば相手がいるなら見えるし、来るなら来るで分かりやすい。
「帰るわよ」
「はい」
「早く戻って、三娘を李俊に返してやらないとねェ?」
「アタシは預かり物じゃない!」
三騎で街道を進みながら、そんな馬鹿話をしていた。
行きは宿元景の一行と、宋江から持たされた銀や絹まで抱えていたせいで、四六時中周囲を見ていた。
帰りは荷もなく、三人だけ。
それも騎馬で武器を持った女が並んでいる。
わざわざ襲おうとする奴もいないだろう。
そう思っていたところで、先頭にいた玉楼が片手を上げた。
「止まってくださいませ」
アタシと孫二娘はほとんど同時に手綱を引いた。
道の先に人影がある。
木立へ紛れるように何人かが動いていたが、こちらを待ち構えていたにしては様子がおかしい。
武器を構えるより先に、何度も後ろを振り返っている。
「帰り道まで歓迎されるとは、人気者だねェ?」
「違うわ」
道端の草が不自然に倒れていた。
馬の蹄だけじゃない。
土の上には何か重いものを引きずった跡が続き、途中で消えたかと思えば、少し先でまた現れている。
玉楼も馬から身を傾けて跡を見た。
「何かを運んでおりますね」
孫二娘の笑みが消えた。
「荷なら、こんな跡にはならないねェ」
人だ。
そう気づいた瞬間、胸の奥が冷えた。
男達も、こちらが立ち止まったことに気づいたらしい。
逃げるか、そのまま押し通るかを迷っている。
なら、迷っているうちに終わらせる。
アタシは馬を一歩前へ出した。
「――梁山泊。一丈青、扈三娘」
男達の動きが止まった。
その隣へ孫二娘が馬を進める。
「同じく梁山泊、母夜叉、孫二娘だよォ」
今度は露骨だった。
一人が息を呑み、別の男は半歩下がった。
行きの街道でも感じたことだけれど、梁山泊という名前はもう山の中だけのものじゃない。
名乗るだけで相手の判断を変えられる程度には、外へ広がっている。
気持ち悪いと思った力が、今は使える。
「そこに隠してるものを出しなさい」
誰も動かなかった。
玉楼はアタシを見ることもなく右へ回り、男達の退路へ馬を入れる。
孫二娘は反対側へ流れた。
アタシが正面を押さえれば、二人が横を閉じる。
いつからこうなったのか分からない。
でも、もう指示する必要すらなくなっていた。
一人が焦ったのか、剣へ手をかける。
「やめときな」
孫二娘の声から、さっきまでの軽さが消えた。
「今なら、痛い目だけで済むよォ?」
男は聞かなかった。
剣が鞘を離れる前に馬を寄せ、柄頭で手首を叩く。
呻いて手を離したところへ、アタシは切先を喉元へ置いた。
「動くな」
今度は逆らわなかった。
一人が武器を捨てると、周囲でも次々に刃が地面へ落ちていく。
「何を運んでたの?」
男は黙っている。
「荷じゃないわね」
玉楼は返事を待たず、木立の奥へ入っていった。
すぐに枝が揺れる。
「三娘様」
呼ばれた声が、いつもより硬かった。
アタシは男から剣を外さないまま、そちらを見る。
玉楼が抱えていたのは、布にくるまれた少女だった。
十六、七くらいだろうか?
身体は細く、顔色も悪い。
衣服は乱れていたが、目立った血はなく、玉楼の腕の中で胸がかすかに上下している。
「生きております」
「よかった……」
孫二娘も馬を降り、少女のそばへしゃがんだ。
首元へ指を当ててから呼吸を確かめ、表情を険しくする。
「意識はないけど、今すぐ危ない感じじゃない。かなり弱ってるけどねェ」
それから男達を振り返った。
「さらったのかい?」
誰も答えない。
アタシは剣先をほんの少し男の喉へ寄せた。
「誰に渡すつもりだった?」
「……女衒だ」
孫二娘が小さく舌打ちする。
「東京の近くで、よくやるねェ。相手は?」
「知らねぇ」
「嘘だねェ」
即答だった。
男の目が泳ぐ。
「知らない相手のために、わざわざ娘一人さらって運ぶほど親切な連中には見えないけど?」
返事はなかった。
今ここで全部吐かせなくてもいい。
この子を先に安全な場所へ運ぶ。
「縛って。続きは梁山泊で聞くわ」
玉楼が少女を支える間に、孫二娘が男達へ縄を投げた。
「ほら、手を出しな。抵抗して状況が改善する可能性は、ほぼないよォ」
「それ心理学?」
「現実」
「今日はそっちなのね!」
男達は観念したらしく、もう抵抗しなかった。
少女をアタシの馬へ乗せ、身体が落ちないよう腕で支える。
驚くほど軽かった。
「この子、ちゃんと食べてたのかな……」
玉楼が顔を覗き込む。
「しばらく満足に食べられていなかったのかもしれません」
「とにかく戻ろう。話は起きてからだねェ」
「うん、梁山泊へ戻るわよ」
帰り道、アタシは何度も腕の中を確かめた。
少女は一度も目を覚まさなかったが、馬が揺れるたびに細い指がわずかに動く。
名前も、どこの誰なのかも分からないのに、その小さな動きが妙に気になった。
梁山泊へ着くと、孫二娘が捕らえた男達を引き渡し、玉楼は少女を抱えて部屋へ急いだ。
布を敷いて寝かせると、玉楼が乱れた衣服を整え、顔へかかった髪を払う。
孫二娘も改めて呼吸を確かめた。
「大丈夫。ひとまず休ませよう」
アタシは少女を眺めた。
顔色は悪いままだ。
それでも、不思議と目を離しにくい。
「妙に目に残る子ね」
「アタイもそう思ったよォ」
「心理学的に?」
「何でも心理学に押しつけるんじゃないよ。今回はただの勘」
珍しく孫二娘まで決めつけなかった。
忠義堂には、宿元景を無事に送り届けたこと、李師師へ文を渡したこと、それから帰路で人攫いを捕らえ、少女を一人保護したことだけを報告した。
その足で林冲の部屋へ向かう。
「入れ」
扉を開けると、林冲はすぐこちらを見た。
「戻ったか」
「ただいま」
口にしてから、自分で少し驚いた。
梁山泊を帰る場所みたいに言っている。
林冲はそこには触れず、アタシの顔を見た。
「何があった?」
「帰り道で女の子を拾ったわ」
眉が動く。
「拾った?」
「正確には、人攫いから助けた。生きてるけど、まだ目を覚まさない」
林冲はすぐに立った。
「案内しろ」
部屋へ戻ると、玉楼は少女の傍に座り、孫二娘は扉口で腕を組んでいた。
林冲は少女を見てから玉楼へ尋ねる。
「傷は?」
「目立った外傷はございません。ただ、かなり衰弱しております」
「そうか」
それ以上、余計なことは聞かなかった。
「目を覚ましたら知らせろ」
「分かった」
林冲は扉へ向かったが、出る直前に一度だけ足を止めた。
「守れ」
短い言葉だった。
それで十分だった。
扉が閉じ、部屋にはまた少女の浅い呼吸だけが残った。
東京で見た華やかな通りも、李師師の屋敷も、言葉でしか開かない門も、もう遠い。
都の綺麗なものを見た帰り道で、アタシ達はまるで反対側に隠れていたものを拾ってきた。
「……名前、聞かないとね」
玉楼が頷く。
「はい」
孫二娘も少女へ目を向けた。
「まずは起きてもらわないとねェ」
いつものように茶化す声ではなかった。
アタシは少女の手を見る。
細い――
冷たい――
でも、確かに生きている。
妙に目に残る子だった。
孫二娘の言葉が、やたらと耳に残った。
この子が誰なのか……
なぜさらわれたのか……
どこへ売られるはずだったのか……
まだ何も分からない。
でも、一つだけ決まった。
ここまで来た以上、もう見なかった事には出来ない。
東京より戻りましたところ、顧大嫂様が真っ先にいらっしゃいました。
「で、土産は?」
「女の子一人だねェ」
「孫二娘様、言い方!」
三娘様まで頭を抱えます。
「拾っただけだから! いや、それも違うけど!」
顧大嫂様は眠る少女を覗き込み、眉を寄せました。
「ずいぶん痩せてるねぇ。起きたら腹いっぱい食わせな」
「久々に出てきて最初が飯なんだねェ?」
「腹減ってる奴に飯食わせて何が悪い」
正論でございます。
「ところで三娘、李俊にはもう会ったのかい?」
「何でそっちまで知ってるの!?」
どうやら梁山泊では、秘密の方が足が速いようでございます。
ですが今は、それよりも――
この少女は、いったい何者なのでございましょうか?




