帰路の拾得
「都帰りで、女の子を連れて帰って来たんだって?」
顧大嫂が、鍋の横で腕を組んで言った。
「連れて帰って来たって言い方、やめて」
アタシは少し顔をしかめる。
「さらわれてたのを助けたのよ」
孫二娘が鍋を混ぜながら笑った。
「まあ、連れて帰って来たのは本当だねェ」
「二娘まで」
「アタイは見てたからねェ。あれは放っておけないよ」
その声は、いつもの軽さだけではなかった。
東京の帰り道。
都の匂いが薄れて、土の匂いが戻ってきた頃だった。
草が乱れていた。
土に深い跡があった。
急いで来た跡。
何かを引きずった跡。
その奥に、男達がいた。
布にくるまれた、細い体があった。
女の子だった。
十五、六くらいだろうか。
大人と言うには細く、子供と言うにはもう背が伸びていた。
軽かった……
軽過ぎた……
顧大嫂が低く言う。
「女衒かい」
「そう吐いたわ」
孫二娘が鼻を鳴らした。
「都の近くで、よくやるよォ」
「本当にね」
アタシは短く返した。
東京は、不思議な場所だった。
人が多くて、声が多くて、匂いも多い。
李師師の屋敷は綺麗で、柔らかくて、でもどこか怖かった。
刀では開かない門がある。
言葉でしか通らない場所がある。
そんなものを見た帰り道で、さらわれていた女の子を見つけた。
偶然とは、思えなかった。
顧大嫂が酒の椀を置いた。
「その子は?」
「玉楼が見てる」
「目は覚ましたのかい?」
「まだ」
「怪我は?」
「大きな傷はないって。衣服は乱れてたけど、血は見えなかった」
言葉にすると、胸の奥が少し重くなる。
生きている。
それだけで十分なはずなのに、十分ではなかった。
孫二娘が鍋杓子を止めた。
「名前は?」
「分からない」
「聞けなかったのかい?」
「意識がないのよ」
「そりゃそうだねェ」
少しだけ沈黙が落ちる。
鍋の湯気だけが上がっていた。
顧大嫂が静かに言う。
「林冲には話したのかい?」
「話した」
「何て?」
「守れ、って」
顧大嫂が頷いた。
孫二娘も、少しだけ口元を緩めた。
「林冲らしいねェ」
「そうね」
長い言葉はいらなかった。
守れ。
それだけで、この子をどう扱うべきかは決まった気がした。
顧大嫂が腕を組み直す。
「なら、まずは起きるまで待つしかないねぇ」
「分かってる」
「三娘」
「何よ」
「起きた瞬間に質問攻めにするんじゃないよ」
「しないわよ!」
孫二娘がすぐに笑った。
「でも、顔には書いてあるよォ」
「何がよ」
「名前は? どこから来たの? 誰にさらわれたの? どこへ売られるはずだったの? ってねェ」
「……書いてない」
「書いてるねェ」
言い返そうとして、やめた。
多分、書いている。
知りたい。
何があったのか。
誰がやったのか。
どこに繋がっているのか。
でも、今は違う。
あの子は、まだ眠っている。
聞くより先に、息を保たせる方が大事だ。
「玉楼が見てるなら、そこは安心だねぇ」
顧大嫂が言った。
「ええ」
玉楼は、あの子の傍に残った。
乱れた服を直して、息を見て、髪を払っていた。
いつもの半歩後ろではなく、今はあの子の横にいる。
それも、少し不思議だった。
孫二娘が、ふと思い出した様に言う。
「妙に目に残る子だったねェ」
「またそれ?」
「見たまんまだよ。細いのに、妙に目立つ」
顧大嫂が、孫二娘を見る。
「二娘にしちゃ、綺麗な言い方だねぇ」
「アタイだって、たまには綺麗な事くらい言うさァ」
「鍋を混ぜながら?」
「鍋は関係ないだろォ」
「だいたい関係あるよ」
二人のやり取りに、少しだけ息が抜けた。
でも、胸の奥に残ったものは消えない。
まだ名前も知らない。
どこの誰かも分からない。
でも、見つけた。
見つけてしまった。
「三娘」
顧大嫂が、少しだけ声を柔らかくした。
「抱え込み過ぎるんじゃないよ」
「分かってる」
「分かってない顔だねぇ」
孫二娘が笑う。
「三娘は、放っておけないものを見つけると面倒だからねェ」
「面倒って何よ」
「そのままの意味だよォ」
「失礼ね」
「褒めてるんだよ」
「褒めてないでしょ」
顧大嫂が肩を揺らした。
「まあ、そういう所が三娘なんだろうさ」
鍋の湯気が上がる。
東京の香とは違う。
李師師の屋敷の香とも違う。
梁山泊の、本陣の匂いだった。
孫二娘が椀を差し出す。
「まあ、食いな」
「また?」
「まただよォ」
顧大嫂も頷く。
「守るにしても、調べるにしても、まず腹が減ってちゃ始まらないからねぇ」
「何でも食べる話にするわね」
「大事だよォ」
玉楼がいれば、きっと同じ事を言ったかもしれない。
備えは必要です、と。
そう思ったら、少しだけ笑いそうになった。
アタシは椀を受け取る。
湯気の向こうに、あの子の顔が浮かんだ。
細くて、軽くて、まだ名前も知らない娘。
でも、もう梁山泊の中にいる。
「……いただくわ」
鍋を一口すする。
熱い。
それで、少しだけ腹が決まった。
東京の花の影から帰って来たはずなのに。
今度は、名前も知らない一人の娘を抱えてしまった。
本当に、面倒な事ばかりだ。
でも――
見つけてしまった以上、もう見なかった事には出来ない。
店を出る頃には、東京の空はもう夜へ傾いていた。
昼の喧騒が消えた訳ではない。
むしろ、灯りが増えた分だけ、人の声は柔らかく膨らんでいる。
屋台の湯気、酒の匂い、香の残り、馬の臭い。
全部が混ざって、戦場とは違う熱を持っていた。
「……人が減らないのね」
思わず言うと、孫二娘が串を片手に笑った。
「都だからねェ。夜になったくらいで寝る連中ばかりじゃないんだろ」
玉楼は半歩後ろで、通りの奥を見ている。
顔は静かだが、目だけは休んでいない。
「宿へ戻りますか」
「そうね」
そう答えたのに、少しだけ足が止まった。
綺麗過ぎる屋敷。
柔らか過ぎる声。
李師師という女。
呉用の整った手紙。
刀では開かない門。
全部が、胸の中でまだ片付いていなかった。
孫二娘がこちらを見る。
「三娘」
「何よ」
「面倒臭い顔してるよォ」
「してない」
「してるねェ」
言い返そうとして、やめた。
多分、している。
アタシ達は宿へ向かった。
宿に入ると、外の音が扉で少し遠くなった。
低い灯りが壁に揺れている。
部屋に入ると、孫二娘が腰を下ろして肩を回した。
「さすがに歩いたねぇ」
玉楼は扉に近い位置に立つ。
背を預けない。
いつもの位置だ。
「玉楼、座れば?」
「このままで」
「ほんと固いねぇ」
孫二娘が笑うと、玉楼は静かに返した。
「癖です」
「癖で済むの?」
アタシが言うと、玉楼はこちらを見て、少しだけ目を伏せた。
「すみません」
「謝るところじゃないでしょ」
孫二娘が吹き出した。
「アンタら、たまに噛み合ってんのか噛み合ってないのか分からないねェ」
少しだけ笑いそうになった。
その夜は、変に静かだった。
外には人の声がある。
馬の音も、店の呼び声もある。
でも、部屋の中は落ち着いていた。
楽しかったのかもしれない。
そう思って、自分で少し驚いた。
東京は落ち着かない。
なのに、悪くなかった。
「……明日、帰るのよね」
孫二娘が片目を開けた。
「帰りたくないのかい?」
「そういう訳じゃないけど」
玉楼がこちらを見る。
「都は、長く留まる場所ではないかと」
「分かってる」
分かっている。
けれど、もう少し見ても良かったのかもしれない。
そう思うくらいには、今日の東京は妙だった。
孫二娘が笑った。
「また来ればいいさ」
「簡単に言うわね」
「生きてりゃ来られるよォ」
その言い方に、少しだけ黙った。
生きていれば……
本当に、それだけの話だった。
朝になると、東京は昨日と同じ様に動き始めていた。
人の声が早い。
荷車が通り、店が開き、兵が門へ立つ。
アタシ達は馬を引き、宿元景の使いから預かった通行の証を見せて、城門へ向かった。
「もう帰るのかい」
孫二娘が少し惜しそうに言う。
「十分よ」
そう言いながら、アタシは振り返らなかった。
振り返ると、余計なものまで見そうだった。
城門を抜けると、空気が変わる。
都の匂いが薄れ、土の匂いが戻ってくる。
馬に乗ると、体が少しだけ楽になった。
「帰るわよ」
玉楼が頷く。
孫二娘も笑う。
三騎で道を進む。
最初は何もなかった。
ただ、東京の音が少しずつ遠くなっていく。
代わりに、草の擦れる音と、馬の蹄の音が戻ってくる。
それで、気が緩んだのかもしれない。
玉楼が先に気付いた。
「止まってください」
その声に、すぐ手綱を引いた。
孫二娘も馬を止める。
道の先に、影があった。
一つではない。
木の陰に紛れて、いくつか動いている。
孫二娘が目を細めた。
「帰り道で待ち伏せかい。芸がないねェ」
「違う」
アタシは道の端を見る。
草が乱れている。
土に深い跡がある。
急いで来た跡。
そして、何かを引きずった跡。
胸の中の何かが冷えた。
「誰かを連れてる」
玉楼の目が鋭くなる。
「荷ではありませんね」
「人だねェ」
孫二娘の声が低くなった。
道の奥で、男達がこちらを見る。
逃げるか、押し通るか。
迷っている顔だった。
迷わせない方がいい。
アタシは馬を前へ出した。
「――梁山泊」
男達の動きが止まる。
「一丈青、扈三娘」
間を置かず、孫二娘が横へ出た。
「同じく梁山泊、母夜叉、孫二娘だよォ」
その名が出た瞬間、空気が変わった。
一人の男が息を飲む。 別の男が、半歩下がる。
やっぱり、通る。
梁山泊の名は、こういう場所でも通る。
でも、今回はそれで済ませる気はなかった。
「そこに隠しているものを、出しなさい」
男達は動かない。
玉楼が馬を横へ回す。
退路を塞ぐ位置だ。
孫二娘も反対側へ流れる。
囲んでいるのは、今度はこちらだ。
男の一人が剣を上げかけたが、遅い。
アタシは馬を寄せ、一気に間合いを潰した。
刃を抜くまでもない。
剣の柄で手首を叩き、体勢を崩したところへ切先を喉元へ置く。
「動くな」
男の喉が鳴った。
後ろで、孫二娘が笑う。
「そっちもやめときな。今なら手だけで済むよォ」
刃が一つ、落ちた。
それに続いて、他の男達も武器を下げる。
「何を運んでた」
誰も答えない。
「荷じゃないわね」
玉楼が木陰へ入る。
すぐに声が返った。
「三娘様」
その声で分かった。
人だ――
アタシは男の喉元から切先を外さず、視線だけを向ける。
玉楼が布にくるまれた小さな体を抱えていた。
女の子だった。
十五、六くらいだろうか。
まだ若い。
大人と言うには細く、子供と言うにはもう背が伸びている。
顔色は悪いが、息はある。
衣服は乱れている。
でも、血は見えない。
胸の奥で、嫌なものが鳴った。
「生きています」
玉楼の声は静かだった。
でも、いつもより少し硬い。
孫二娘の顔から笑みが消えた。
「さらったのかい」
男は答えない。
アタシは切先を少しだけ押した。
「誰に渡すつもりだった」
沈黙。
「言わないなら、梁山泊で聞くわ」
男の目が揺れる。
「……女衒だ」
孫二娘が低く息を吐いた。
「都の近くで、よくやるねェ」
「名前は?」
「知らねぇ」
「嘘ね」
男の喉が引きつる。
でも、今ここで全部吐かせる必要はない。
この子を先に運ぶ方が大事だ。
「縛って」
玉楼が片手で少女を支えたまま頷く。
孫二娘が縄を投げる。
「ほら、手を出しな。手間かけさせるんじゃないよォ」
男達は抵抗しなかった。
抵抗出来なかったのだと思う。
少女をアタシの馬へ乗せる。
軽い……
軽過ぎる。
「名前は分かる?」
玉楼が首を振る。
「意識がありません」
アタシは頷いた。
「戻るわよ」
東京へではない。
梁山泊へだ。
来た道を戻る。
都の匂いは、もう残っていない。
代わりに、土と汗と、少女の浅い息だけが近くにあった。
梁山泊へ入ると、見慣れた空気が戻った。
でも、安心はしなかった。
玉楼が少女を抱え、アタシ達の部屋へ向かう。
孫二娘が扉口に立ち、外を切った。
「寝かせます」
玉楼が布を敷き、少女を横たえる。
顔を横に向け、呼吸を見た。
乱れた服を直し、髪を払う。
まだ目は覚まさない。
それでも、生きている。
「妙に目に残る子だねェ」
孫二娘がぽつりと言った。
「何よ、それ」
「見たまんまだよ。細いのに、妙に目立つ」
アタシは少女を見る。
確かに、顔色は悪いのに、不思議とそこだけ消えないものがあった。
まだ名前も知らない。
どこの誰かも分からない。
でも、見つけた。
見つけてしまった。
「報告してくる」
玉楼が頷く。
「こちらは見ております」
忠義堂へ向かい、最低限だけ報告した。
宿元景の件は済んだ。
帰路でさらわれた少女を保護した。
賊は捕らえた。
それだけを通し、アタシはすぐに林冲の部屋へ向かった。
扉を叩く。
「入れ」
中に入ると、林冲はすぐにこちらを見た。
「何があった」
「帰り道で、さらわれてた女の子を助けたわ」
林冲の目がわずかに細くなる。
「生きてるわ。部屋に寝かせてあるの」
少しの沈黙。
「案内しろ」
部屋へ戻ると、玉楼はまだ少女の傍にいた。
孫二娘は扉口で腕を組んでいる。
林冲が中へ入り、少女を見る。
しばらく、誰も喋らなかった。
「……生きているな」
「はい」
玉楼が答える。
「衣服は乱れておりますが、大きな傷はありません」
林冲は頷いた。
「目を覚ましたら呼べ」
「分かったわ」
林冲は部屋を出る前に、一度だけ足を止めた。
「守れ」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
扉が閉まる。
部屋の中に、少女の浅い息だけが残る。
アタシはその顔を見る。
東京で見た花の影。
言葉でしか開かない門。
都の綺麗なものの奥に隠れていたもの。
その帰り道で、この子を見つけた。
偶然とは思えなかった。
「……名前、聞かないとね」
玉楼が頷く。
「はい」
孫二娘が小さく笑った。
でも、いつもの様には茶化さなかった。
「まずは起きてからだねェ」
アタシは少女の手を見る。
細い――
冷たい――
でも、確かに生きている。
妙に目に残る子だった。
孫二娘の言葉が、やたらと耳に残った。
この子が誰なのか……
なぜさらわれたのか……
どこへ売られるはずだったのか……
まだ何も分からない。
でも、一つだけ決まった。
ここまで来た以上、もう見なかった事には出来ない。
東京から戻って来ても、都の匂いはすぐには消えませんでした。
香の残り、人の多さ、柔らかな声。 李師師殿の屋敷で見た、刀では開かない場所。
それらは、戦場の血や土とは違う形で、しばらく胸の奥に残っておりました。
ですが――
梁山泊へ戻れば、そこにはいつもの匂いがあります。
鍋の湯気、酒の匂い、兵達の足音。 そして、孫二娘殿と顧大嫂殿の声。
「で、玉楼」
孫二娘殿が鍋を混ぜながら言いました。
「その子、本当にまだ目ぇ覚まさないのかい?」
「はい」
私は答えました。
「眠っておられます。息は安定しております」
顧大嫂殿が腕を組みます。
「十五、六くらいだったかい?」
「そのように見えます」
私は頷きました。
「子供というには育っておられます。ですが、体はかなり細い」
孫二娘殿が、少しだけ目を細めました。
「軽かったねェ」
その声に、私は少しだけ黙りました。
軽かった。
本当に、軽かったのです。
布にくるまれていたあの方を抱き上げた時、最初に思ったのはそれでした。
細い。
冷たい。
けれど、確かに息はある。
人ひとりを抱えているはずなのに、重さより先に、危うさの方が伝わって来る。
少し力を入れれば壊れてしまいそうな、そういう軽さでした。
扈三娘様も、それを感じておられたのだと思います。
表ではいつもの様に強い声を出しておられました。
男達を止め、縛らせ、梁山泊へ戻ると決められた。
ですが、あの方が少女を馬へ乗せた時の手は、いつもの戦場の手ではありませんでした。
刃を振るう手ではなく。
落とさない様に支える手でした。
顧大嫂殿が低く言いました。
「女衒絡みなら、面倒だねぇ」
「はい」
私は答えました。
「誰へ渡すつもりだったのか。どこから連れて来られたのか。まだ分かりません」
孫二娘殿が鼻を鳴らしました。
「起きたら聞くしかないねェ」
「はい。ただし、急がせるべきではありません」
「分かってるよォ」
孫二娘殿が笑います。
「三娘じゃあるまいし」
外から、すぐに声が飛びました。
「聞こえてるわよ!」
顧大嫂殿が肩を揺らします。
「ほら、聞いてる」
「聞こえる様に言ったんだよォ」
「二娘!」
少しだけ、空気が緩みました。
ですが、重さが消えた訳ではありません。
私は、少女の眠る部屋の方へ視線を向けました。
扈三娘様も、何度もそちらを見ておられました。
見ないふりをしても、見ておられる。
気にしていない様に歩いても、足がそちらへ向いている。
あの方は、見てしまったものを捨てられない方です。
それが強さでもあり、危うさでもあります。
孫二娘殿が、ふと思い出した様に言いました。
「紅い玉みたいな子だったねェ」
顧大嫂殿が横目で見ます。
「また言ってるのかい」
「だって、そう見えたんだから仕方ないだろォ」
扈三娘様が幕の外から言いました。
「名前も分からないのに、変な呼び方しないで」
孫二娘殿は笑います。
「じゃあ、起きたら本人に聞けばいいじゃないか」
「そうするわよ」
「質問攻めにするんじゃないよォ」
「しないって言ってるでしょ!」
顧大嫂殿が頷きました。
「今の返しだけ聞くと、する顔だねぇ」
「しない!」
孫二娘殿が楽しそうに鍋を混ぜました。
「名前は?どこから来たの?誰にさらわれたの?どこへ売られるはずだったの?って、三娘の顔に全部書いてあるよォ」
少しの沈黙。
それから、扈三娘様の声が低くなりました。
「……知りたいのは、本当よ」
誰も笑いませんでした。
「でも、起きたばかりで聞く事じゃないのも分かってる」
私は、少しだけ目を伏せました。
その通りでした。
三娘様は、分かっておられる。
分かっていて、それでも気になる。
見つけてしまった以上、なぜそうなったのかを知ろうとする。
それは、優しさだけではありません。
怒りでもあります。
そして、責任でもありました。
顧大嫂殿が静かに言います。
「なら、まず寝かせる。食わせる。体を戻す。それからだねぇ」
「分かってる」
孫二娘殿が椀を取ります。
「で、三娘も食う」
「またそれ?」
「またそれだよォ。守る奴が腹空かせてどうするんだい」
顧大嫂殿も頷きました。
「その子が起きた時、三娘の顔色が悪かったら、向こうが怯えるよ」
「そんな顔してないわよ」
「してるねぇ」
「してるよォ」
二人の声が重なりました。
扈三娘様は、しばらく黙っておられました。
やがて、幕の入口から手だけが伸びます。
「……いただくわ」
孫二娘殿が椀を渡しました。
顧大嫂殿が小さく笑います。
「素直でよろしい」
「うるさい」
そのやり取りを聞きながら、私は少女のいる部屋を思いました。
あの方は、まだ眠っておられます。 名前も分かりません。
どこの生まれかも分かりません。
なぜ東京の近くでさらわれていたのかも分かりません。
ですが、もう一つだけは決まっておりました。
林冲殿は、守れ、と仰いました。
扈三娘様は、見なかった事には出来ないと決めておられます。
孫二娘殿は軽口を叩きながら、扉口に立つ気でおります。
顧大嫂殿は、起きた後の水と食べ物と寝床を考えております。
そして私は、あの方の傍に戻るつもりでおりました。
東京の花の影から戻って来たはずなのに、梁山泊にはまた一つ、見過ごせないものが増えました。
それが良い事なのか、悪い事なのかは、まだ分かりません。
けれど――
眠っているあの細い手が、確かに息をしている限り……
私達は、もうその手を離せないのだと思います。




