水際の帰結編
夜は重い。
梁山泊にいても、それは変わらない。
ただ、少しだけ違う。
この場が、どこかでずれている。
理由は分からない。
でも、目を離せない。
アタシ達が前に出た。討伐軍が受ける。ぶつかる。隊列は保たれたまま、押し返し、押し込まれる。一進一退。
アタシは馬を進める。流れに沿う。避けない。迷わない。前に一つだけ動きの違う影がある。長い。三つに分かれた刃。一兵卒ではない。視線が合った。
間合いの手前で声が来る。
「――我は天目将、彭玘!」
返さず、そのまま踏み込んだ。振り下ろされる刃を受け、弾き返す。
一合、二合。重いが崩れない。
三合、四合。貫ける所はある。でも貫かない。合わせた。
五合。間を合わせる。
刃が触れるたび、位置がずれる。
そのずれ方が、妙に馴染む。
初めてではない。でも思い出せない。
引く。一歩、二歩。間合いを外し、背を向ける。
追ってくる。距離が詰まる。
振り返り、からめ縄を手に取り、そのまま投げる。
狙いは腕。三尖両刃刀を握るその腕に縄が走り、絡み、締まる。
引く。武器が止まる。体勢が崩れる。
踏み直せない。馬上から落ちる。三尖両刃刀が手を離れた。
馬を寄せ、喉元に切先を突きつけ、動きを封じる。
背後に気配が立つ。玉楼がいた。
「引け!」
声が走る。前を見る。
隊列は形を保ったまま下がっていく。互角のまま、両軍引き下がる。
周囲がわずかに緩む。でも流れは残っている。
アタシは止まる。呼吸は変わらない。手もそのまま。軽い。置いたままの感触。
終わっていない。途切れた。
間が空く。
その間に、何かが入る。
さっきまで合っていた間が、合わない。
アタシは動かない。
――来る。
隊列が元に戻る。
討伐軍の奥から、人馬ともに鉄で覆われ、胴を鎖で繋いだ隊列が出る。
こちらに、蹄の音を轟かせて突撃してくる。
アタシ達の前にいた騎兵も歩兵も、蹴散らされていく。
長身の優男の言葉がよぎる。
「水際まで……」
隣の玉楼に、
「兵を退け」
一度、立て直す。
味方は、もう退いている。
間に合わせる。
退く。
林冲の姿を捉える。
寄せる。
「水際までお引きください。誘い込みます」
返事は待たない。馬首を返し、そのまま退く。玉楼も後ろに続く。押し込まれ、蹴散らされ、崩れた兵も、流れに乗るようにこちらへ退いてくる。止めない。今は退かせる。
梁山泊の水辺が見える。
その手前に、長身の優男が立っていた。
背筋だけが、やけに静かだった。
連環馬は止まらない。黒い塊のまま、こちらへ真っ直ぐ突っ込んでくる。騎兵も馬も鉄に覆われ、胴を鎖で繋いだまま、勢いを殺さない。
水際まで来る。
それでも止まらない。
そのまま入る。
蹄の音が変わる。重く、鈍く、沈む音になる。
一頭の前脚が深く沈んだ。
踏み直せない。
隣の馬が鎖に引かれる。
鎖が張る。
もう一頭の体勢が崩れる。
鉄が傾く。
水が跳ねる。
列の端から、沈む。
立て直そうとしても、隣が離れない。離れられない。鎖が胴を繋いだまま、沈んだ一頭が隣を引きずる。隣が沈めば、そのまた隣も沈む。
一つの塊のまま、崩れていく。
蹄が空を掻く。鉄がぶつかる。騎兵の声が上がる。だが、列はほどけない。ほどけないまま、水の中へ傾いていく。
さっきまで押してきた重みが、今度は自分達の足を奪っていた。
アタシは馬を止める。
呼吸はまだ荒い。喉は焼けている。だが、目の前で起きていることははっきり見えた。
沈む。
連環馬が、沈む。
長身の優男は、水際に立ったまま動かない。
ただ、その場にいる。
それで足りている。
背後で兵の息が戻る。誰かが声を上げる。だが、アタシはまだ拾わない。
終わったわけではない。
ただ、今は、沈んでいる。
水は、まだ濁っている。沈んだ鉄がところどころで鈍く光り、動かない。ときどき泡が上がっては、すぐに消える。水際に近いところだけが、静かだ。
少し離れたところで音が戻る。蹄と人の声。短い指示だけが行き交い、続かない。整わないまま引いていく影がある。振り返らない。
その流れから外れて、敵が一人取り残される。膝まで水に浸かる。重い鎧に引かれて足が取られ、踏み直せない。寄った兵が間を詰め、槍を向ける。押さえられる。長くは続かない。
「生け捕りにしろ」
短く言う。声に応じて縄が掛かり、結ばれる。動きが止まり、そのまま引き上げられる。名はまだ拾わない。
アタシは馬を寄せる。玉楼が半歩後ろにつく。
水際に、長身の優男が立っている。動かない。視線だけが水面をなぞる。
水はまだ濁っていた……
戦が終わり、主だった者は聚義庁に集合していた。
人の動きが戻っている。声が交わされる。
彭玘がいる。もう縛られていない。緊張している様子だ。
その前に、縛られた男が立たされている。韓滔。まだ目が折れていない。
アタシは歩みを止める。玉楼が半歩後ろにつく。
横に、長身の優男がいる。動かない。視線だけが、場をなぞる。
そこに、宋江が現れる。韓滔の前で足を止める。短く言葉を交わす。声は拾わない。
やがて縄が解かれる。韓滔が膝を折る。宋江に向かって、頭を垂れる。
新たな仲間を得たのだと、宴が開かれることで分かる。
酒が回り始める。声が増える。だが、どこかで線は残っている。
彭玘は席に収まっている。肩がわずかに固い。
韓滔はまだ馴染まない。盃を持つ手が迷う。
アタシは座る。玉楼が横につく。
少し離れた所で、長身の優男が盃を受け取る。
誰かが笑って声をあげる。
「おい李俊、今日はやりすぎだろ」
場に軽い笑いが広がる。
長身の優男が、肩だけで笑う。
「止まらねえなら、沈めるしかねえだろ」
それだけ言って、杯を口に運ぶ。
アタシは、その顔を見る。
李俊……
盃が回る。声が少しずつ上がる。
アタシは席にいる。玉楼も隣にいる。
少し離れたところで、李俊が笑っている。輪の中にいるが、馴染みきってはいない。
視線が合う。
李俊が盃を持ったまま、こちらへ寄ってきた。
「さっきの、あんたの判断だろ」
アタシはすぐに返さない。
一拍置く。
「水際まで、ね」
李俊が笑う。
「止まらねえなら、沈めるしかねえ」
少し間を置く。
「怖くなかったのか」
アタシは盃に手を伸ばす。
「怖いかどうかは、後でいい」
「それしか、無かった」
李俊が頷く。
「そうか」
それだけ言って、盃を軽く上げる。
アタシも少しだけ上げる。
玉楼が隣で黙っている。
盃の音が、重なる。
笑い声は、まだ続いている。
宴は、まだ続く……
しばらく経ったある日、青州二龍山から救援要請の使者が到着した。
聚義庁に呼ばれる。
使者は疲れていた。土にまみれ、立ったまま崩れそうだ。
膝をつく。
言葉を絞る。
「青州より討伐軍が出ました。二龍山、保ちません」
息を継ぐ。
「総大将は、呼延灼」
場が静まる。
誰もすぐには口を開かない。
アタシは座ったまま聞いている。
玉楼が横にいる。
視線を動かす。
李俊がいる。
笑っていない。
少しだけ、前に出る。
「数は」
使者が顔を上げる。
「数えきれません……押し切られます」
それ以上は続かない。
宋江が立つ。
「二龍山を見捨てるわけにはいかぬ」
場の空気が動く。
また、戦なのね……
聚義庁を出て廊下を進む。
足音が続く。
玉楼が隣にいる。
後ろから声が来る。
「死ぬなよ」
振り返ると、李俊がいた。
笑っていない。
アタシは少しだけ間を置く。
「死なないわよ」
それだけ言う。
振り返らない。
そのまま進む。
いつも通り、玉楼は隣にいる。すでに隊列は組まれている。前は開いていて、動きは止まっていない。
横に、梁山湖が見える。岸に並んだ舟に人が乗り、押し出され、離れ、水を切っていく。
その流れから少し外れて、一隻だけ遅れて出る。
その上に、李俊がいる。立ったまま、こちらを見ている。
手を振るわけでもなく、前を見た。
あの男は、舟に乗る。
アタシは、地を行く。
距離だけが開いていく。舟が遠ざかる。
同じ戦だ。
今は、交わらない。
青州三山の方角には、最初から煙が見えていた。
近づくほどに、匂いが濃くなる。
焼けた木と、油と、血の混じった匂い。
山の輪郭がはっきりしてくる。
砦はまだ落ちていなかった。
だが、削られている。
旗が乱れている。
押されている。
前に、官軍の隊列が見える。
切れ目がなく整っている。
崩れない。
あの陣形だ。
「呼延灼……しつこいわね」
玉楼が隣で息を整える。
「予定通りで?」
アタシは視線を外さない。
「そうよ」
それだけで通じる。
玉楼が小さく頷く。
「左から切り崩します」
「わかったわ」
短く重ねる。
距離を測る。
間合いを取る。
「行くわよ」
ここからだ。
水は、まだ濁っている。〜まだ、終わっていない。




