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水際の分岐編

戦は、もう始まっている。

誰もがそれを知っている。

それでも、まだ引き返せると思っている者がいる。

扉を閉めた音が、やけに重く残った。

外の気配がそこで途切れる。

さっきまで確かにあったはずのものが、一瞬で遠ざかる。

静かだ。

静かなはずなのに、落ち着かない。

アタシはその場から動かなかった。

戻ってきた、という感覚がない。

ただ場所を移しただけで、何も切り替わっていない。

背後で足音が止まる。

玉楼はそれ以上近づいてこない。

戸の傍に一歩引いた位置で止まり、間合いを保ったまま控えている。

分かっている間合いだ。

それが、玉楼のいつもの居場所だ。

「……変だと思わなかったの?」

ぽつりと小さな声で問い掛けてみた。

振り返らないまま。

少し間があって、

「違和感は扈家荘の頃からございました」

即答だった。

濁さず迷いもない答え。

アタシは小さく笑う。

「でしょうね……」

それで終わるはずだった。

でも、アタシの口が止まらなかった。

「元からこうじゃないわ……」

自分でも驚くくらい、軽く出る。

振り返って、玉楼を見る。

一歩引いたまま、まっすぐ立っている。

視線は逸らさない。

驚きもせず、ただ待っている。

アタシは少しだけ目を細める。

「身体は扈三娘よ」

自分の腕に視線を落とす。

見慣れているはずなのに、どこか他人みたいだ。

「でも中身は違う」

「気が付いたら、この世界にいた」

沈黙。

玉楼は静かに聞いていた。

「……やはり」

小さく頷いた。

アタシは眉を寄せる。

「……それだけ?」

少し刺してみた。

玉楼は真顔のままだった。

「完全には理解できておりません」

「ですが、説明のつかない差異は確認しておりました」

淡々としている。作っていない言葉だ。

アタシは少しだけ息を抜いた。

妙に自分で納得する。

「まあ、そうよね……」

視線を外す。

そこで終わるはずだった。

でも、どこかが緩んでいた。

「……夜ってさ」

気付いたら、口に出ていた。

玉楼は短く応じる。

「はい」

それだけで……続けてしまう。

「こんなに暗くなかったんだよ」

ぽつりと呟く。

灯りが揺れる。

その光とは違うものが、頭の奥に浮かぶ。

白くて、揺れない光。

「もっと明るくてさ。外でも灯りがついてて、一人で歩いてても平気なの」

少しだけ笑う。

「変でしょ」

誰に向けたのか分からない。

「こっちでそんなことしたら、何も起きない方がおかしい」

玉楼は何も言わない。

止めない。

アタシは続ける。

「部屋も違った。ちゃんと閉まってて、風も入ってこなくて、変な音もしない」

視線が宙に浮く。

思い出しているはずなのに、どこか掴めない。

「冷たい箱みたいなのがあってさ」

自分で言って、少しだけ苦くなる。

「中に食べ物を入れておけるのよ。飲み物も冷えてて、開けて飲むだけでいい」

指先に、何も触れていない感覚だけが残る。

「火もいらないし、誰かに頼む必要もない」

「……楽だったわ」

それが一番、本音に近い。

少し間があって、息を吐く。

「でも、もう思い出せない」

指先を軽く握る。

「匂いとか、空気とか、覚えてるはずなのに、触れようとすると逃げる」

少しだけ目を細める。

「夢みたいに遠い」

もう、こっちの方が、はっきりしている。

血の匂いを、刀の重さを。

「……だから分かんなくなる」

「アタシがどっちなのか」

沈黙。

そのまま続けた。

「前にいた世界じゃさ、人を斬るのは駄目だったの」

「傷つけるのも駄目で、殺すなんて論外で、そんなの当たり前だった」

少しだけ笑う。

「でもこっちは違う」

「斬らなきゃ死ぬ」

それだけで終わる話だった。

「だからやるしかない」

視線を手に落とす。

「戦うし、奪うし、切り捨てもする。やらなきゃやられる」

一拍。

「でも引っかかる」

小さく笑う。

「毎回、どっかで文句言ってる。こんなの駄目でしょって」

息を吐く。

「うるさいのよ。分かってる」

自分に向けた言葉だった。

少しだけ顔を上げる。

「怖いのはさ」

一瞬の間。

「それが無くなることなのよ」

玉楼を見る。

「何も思わなくなったら終わりよ」

はっきり言う。

「でも、いちいち傷ついてたら生きていけない」

どうしようもない。

「鈍くならなきゃ死ぬ。でも鈍くなりきったら、アタシじゃなくなる」

静かに呟く。

「だから中途半端なんだ」

沈黙。

玉楼が、そこで初めて言葉を置く。

「……残っているのですね」

短い。

観察の言葉。

アタシは顔を上げる。

「何が?」

「止めるものが」

それだけ。

アタシは少し黙る。

それから、小さく笑う。

「消えたら終わりよ」

玉楼は頷かない。

ただ受け取る。

「では、それは持つべきです」

静かに、しかし力強く言った。

アタシは眉を寄せる。

「簡単に言わないでよ……」

少し刺す。

玉楼は変わらない。

「簡単ではございません」

一拍置く。

「ですが、それがあるからこそ、あなたは壊れておりません」

言葉が止まる。

アタシは何も返せない。

否定できない。

少しだけ顔を背ける。

「……ずるいわ」

小さく吐く。

玉楼は答えない。ただそこにいる。

間合いを崩さないまま。

でも、離れもしない。

部屋は静かだった。

最初とは違う静けさ。

何かが揃ったあとの、落ち着かない静けさ。

アタシはゆっくり息を吐く。

遠い記憶と、ここにある現実と、その間にいる自分と。

全部を抱えたまま、夜が深くなっていく。


目を開けたときには、もう朝だった。

光がまっすぐ差し込んでいる。

やわらかさのない明るさが、部屋の隅まで満ちている。

しばらく、そのまま横になっていた。

身体はもう起きている。

でも、頭の方がまだ昨夜に引っかかっている。

昨夜の言葉が、胸の奥に沈んだまま残っていった。

消えていない。まとまってもいない。

ただ、そこにある。

ゆっくり起き上がる。

床に足を下ろすと、現実が先に来る。

そういう朝だ。

背後では、玉楼がすでに起きていた。

「……早いのね」

軽く言うと、

「いつも通りでございます」

変わらない声。

昨夜のことには触れなかった。

それでいい。

アタシは小さく息を吐く。

「今日は、あれね」

独り言のように落とす。

「はい。捕らえた者の処置が行われております」

言い終わりが静かに沈む。

アタシはすぐには返さない。

一拍だけ、間が空く。

そのまま、また息を吐いた。

「……行くわ」

玉楼は一歩後ろにつく。

外に出ると、朝の光が強い。

人の動きがある。

もう日常が動いている。

歩くと足音が二つ、揃う。

やがて囲いが見えてくる。

声がある。

低いざわめき。

中に人がいた。

縛られている。

立たされている者、座り込んでいる者。

アタシは少し手前で足を止めた。

近づきすぎない位置。

視線だけを向ける。

目が上がる。

いくつかの視線がこちらを向く。

人の目だ。

逸らせば楽になる。

でも――逸らさない。

一人が引き出される。

腕を掴まれ、立たされる。

声が上がる。

次の瞬間――音がした。

乾いた音が一つだけ。

アタシは目を閉じない。逸らさない。

胸の奥がざらついた。

消えない。消さない。

そのまま、息を吐く。

もう一度囲いの中を見る。

まだまだ、終わりそうにない。

そのとき、すぐ隣で声がした。

「……見物?」

軽くもなく、重くもない。でも落ち着く声。

アタシは視線を前に向けたまま答える。

「そう見える?」

少しだけ間を置いて、返事が来た。

「そう見えました」

否定しない言い方。

余計なことは足さない。

アタシはわずかに横目をやると、

長身。

細身。

場に似合わないほど整った顔立ち。

優男、という言葉が浮かぶ。

けれど、その目は揺れていない。

ただ、見ている。

測るように。

アタシは視線を戻す。

もう一度、音がする。

二つ目。

空気がわずかに動く。

周囲は淡々としている。

当たり前のように進む。

アタシは視線を逸らさない。

隣の気配も、同じように動かない。

ほんのわずか、時間が重なる。

同じものを見ている間合い。

「慣れているのね」

ぽつりと呟いた。

男は少しだけ間を置くと、

「いいえ」

短く否定する。

「慣れるものではありません」

アタシはわずかに目を細める。

「でも、見てる」

男は小さく息を吐く。

「目を逸らす理由がないので」

静かな声。

感情は乗らない。

アタシは小さく笑う。

「アタシと同じね」

ほんの少しだけ皮肉を混ぜる。

男は否定しない。

肯定もしない。

黙ったまま。

更にもう一つ、音がする。

周囲は変わらない。

また当たり前のように進む。

アタシは視線を逸らさない。

男も逸らさない。

同じものを見ている。

でも、同じではない。

「……面倒ね」

小さく呟く。

ほんの一瞬。

男の視線がこちらへ動く。

「面倒で済むうちは、まだいい」

低く、短く。

それだけ。

言い切って、すぐに視線を前へ戻す。

その一言が、わずかに引っかかる。

胸の奥で、何かが止まる。

息が、半拍だけ遅れる。

アタシは何も言わない。

返す言葉がないわけじゃない。

選ばないだけだ。

また音がする。

乾いた音。

もう一つ。

視線は逸らさない。

逸らさないまま、息を整える。

やがて男が一歩下がる。

「……失礼」

それだけ言って離れていった。

アタシは追わない。

振り返りもしない。

ただ、前を見ていた。

囲いの中。

朝の光。

すべてがはっきりしている。

曖昧なものは何もない。

その中で、アタシは立っていた。

逸らさずに。


昼の光は、朝とは違う。

高くなって、逃げ場が少なくなる。影が短い。

どこに立っても、はっきり見える。

アタシは廊下を歩いていた。

足音だけが、一定に返ってくる。

考えようとすれば、いくらでも浮かぶ。

でも、今は考えない。

今は、まだそのままでいい。

頭の奥に残っているものを、無理に形にしない。

玉楼の気配が、一歩後ろにある。

間合いは変わらない。何も言わない。

アタシも話さない。

言葉にしたところで、軽くなるものじゃない。

角を一つ曲がると日差しが差し込む。

明るすぎるくらいだ。

ふと、立ち止まる。

理由はない。

ただ、足が止まった。

息を一つ吐く。

胸の奥に、朝のざらつきが残っていた。

消えていない。

薄くもなっていない。

そのままだ。

「……まだ、なのね」

玉楼が応じる。

「はい」

それ以上は言わない。

アタシは少しだけ目を細める。

「面倒で済むうちは、まだいい、か……」

言葉に出すと、少しだけ輪郭が出る。

それでも、はっきりとはしない。

一拍。

ふと、思い出すように口を開く。

「……さっきの」

言葉を選ぶほどでもない。

「背が高いの、いたでしょ」

振り返らないまま。

玉楼が少しだけ間を置く。

「はい」

短く返す。

「誰か知ってる?」

深く聞く気はない。ただの確認だ。

玉楼はすぐには答えない。

ほんの一拍だけ考える。

「名前までは存じ上げません」

事実だけを置く。

「ただ、あの場で浮いておりました」

選んだ言い方。

アタシは小さく笑う。

「そうね」

それだけ返す。

それ以上は聞かない。

興味がないわけじゃない。

でも、今じゃない。

歩き出す。

足音が戻る。

廊下の先に、人の気配がある。

呼びに来る側か、呼ばれる側か。

どちらでもいい。

もう分かっている。

「……行きましょう」

玉楼が一歩後ろで応じる。

アタシは前を見る。

昼の光の中で、すべてがはっきりしている。

朝よりも、隠れ場所がない。

それでも――歩いていく。

抱えたまま。

そのままで。


刀が当たる。

乾いた音が短く弾けた。

玉楼の刃が外へ流れ、そこにアタシは踏み込む。半歩ほど間合いを詰め、さらに刀を振る。

玉楼が引き、わずかに外す。

浅い。決めきれない。

止めずに押し、もう一度懐に入る。

速さで詰める。

玉楼の刃が上がるが、受け止められる。

手元に重さが残り、押し切る形になった。

そこで止める。

構えを残したまま、間が一拍だけ空く。

玉楼が言う。

「速うございます」

息は乱れていない。

「押しておられます」

アタシは握りを見る。

指に力が残っている。

抜けない。

「……そう」

構えを崩す。

そのとき、入口の方で足音が近づいてくる。

速い。一直線だ。脇に逸れない。

玉楼も、そちらを見る。

ただの呼び出しじゃない。

アタシは号令を掛ける。

「止めろ」

周りの動きが止まる。

何本かの刀が下りる音が続く。

全員の視線が入口に集まる。

伝令が一人、走り込んでくる。

息が上がっていた。

それでも動きは止めずに、アタシの前で膝をつく。

「扈三娘殿」

「何」

間を置かず返す。

「出陣の準備を」

一拍。

「討伐軍が、こちらに向かって来ている模様です」

場の空気が変わる。

何人かがすぐに動く。馬の方へ走る。装具を取りに向かう。

玉楼が一歩近づき、刀を納める。

「支度を整えます」

「頼む」

短く返す。

玉楼はすぐに手を伸ばし、帯の位置を直す。

留め具を締める。無駄がない。

アタシはそのまま立っていた。

刀を握る。

さっきの重さが消えている。

力が入る。

「わかったわ」

伝令は立ち上がって走る。

アタシも動く。周りと同じ方向へ。

訓練は終わりだ。

戦の準備に入る。

刀を納める。

足を速める。

討伐軍が来る。

……戦になる。


訓練場を抜けると、空気が変わる。

土を踏む音が増える。布が擦れる。金具が触れる。さっきまでとは違う速さで、人が動いている。

前から馬が引かれてくる。鼻先が上下し、短く息を吐く。落ち着いている。

手綱を持つ兵が足を止めた。

「こちらへ」

アタシは頷き、手を伸ばし手綱を取る。前へ出ようとするのを軽く引いて止める。反応が早い。

後ろから玉楼が近づく。帯に手を入れ、わずかなずれを直す。留め具を締める。すぐに手を離れる。

「……よろしゅうございます」

「ええ」

短く返す。

足を上げ、鐙にかける。鞍に手を置き、体を引き上げる。跨った瞬間、鞍がわずかに鳴る。腰を落とす。

馬が一歩出た。すぐに引いて止める。

周りを見る。すでに何騎かが並び始めている。隊列が形になりかけている。

前を向く。手綱で向きを合わせる。足で軽く合図を送り、半歩だけ前へ出す。位置が揃う。

息を一つ吐く。

視線を上げる。

一瞬だけ、手が止まる……

手綱を送る。

馬が踏み出す。土を蹴る音が重なる。隊列が前へ動き出す。

その流れに乗る。

逆らわない。

逆らえない。

望まない戦いに入っていく。


隊列が進む。

前の馬の蹄が土を砕く。砂が跳ねて、頬に当たる。

前の隊が速度を上げる。

それに合わせて、手綱を締める。馬の首が前へ出る。

道の脇に、人が立っている。

水際へ下る分かれ道の手前。

長身の男が片手を上げる。

「また会ったな」

アタシは前を見たまま答える。

「ええ」

男は視線を前に向けたまま言う。

「正面で受けるな」

「水際まで誘い込めれば、こっちで受ける」

アタシは手綱を少し引く。馬の口がわずかに上がる。

「その前に片が付くかもしれないわ」

言い終わる前に、前の隊がさらに詰める。

馬の腹を軽く蹴る。

前へ出る。

男はそのまま続ける。

「そうかもしれん」

間を置いて、

「だが、そうならんことも多い」

隊列の間が狭くなる。

左右の馬体が触れる。

男が一歩、道の外へ退く。

「またな」

手綱を送る。

馬が踏み出す。

前の馬との間を詰める。

道が二つに分かれる。

男は水際へ下る。

アタシはそのまま直進する。

振り返らない。

前の隊列の背中だけを見て、そのまま進む。



道は分かれた。

同じ戦に向かいながら、進む先は違う。

ここで交わした言葉は短い。

それでも、戦のあとまで残る。

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