鏡の中の顔
「……で?」
孫二娘が、鍋を混ぜながら首を傾げる。
「今度は、自分の顔が“自分っぽくない”ってなったんだって?」
顧大嫂が酒を煽った。
「嫌だねぇ」
「逃げ場が無いヤツじゃないか」
外は静かな夜だった。
銅鑼も無い。
馬の嘶きも無い。
湿った風だけが、幕舎の帷幕をゆっくり揺らしている。
孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。
「で?」
「どんな顔だったんだい」
アタシは少し黙る。
「……アタシの顔だった」
「うわ、一番嫌な答えだ!」
顧大嫂が、すぐ吹き出した。
「知らない美人とかならまだ整理出来るのにねぇ!」 「“自分っぽいのに、自分じゃない”は怖いさ!」
「そうなのよ!!」
思わず声が大きくなる。
「違うって言い切れないの!」
「でも、“これがアタシです”って、ちゃんと繋がらないのよ!」
孫二娘が、腹を抱えて笑った。
「ほら!」
「扈三娘、“化け物だ!”より、“微妙に本人”に弱いんだよ!」
「だって気持ち悪いでしょ!?」
鍋の煮える音だけが、小さく続く。
アタシは、あの鏡を思い出す。
細い枠、静かな灯り。
真正面から、こっちを見る顔。
違和感なんて、小さい。
目の位置が違う訳じゃない。 別人みたいな顔でもない。
でも――
“アタシ”として、身体の奥へ落ちてこない。
顧大嫂が、焚き火を見たまま呟いた。
「嫌だねぇ」
「“間違ってる”なら、人は怒れるんだ」
「でも、“ほぼ合ってる”は、逆に逃げられない」
湿った風が、静かに吹き抜ける。
その時――
孫二娘が、急にニヤついた。
「で?」
「鏡見ながら、“アタシこんな顔だったっけ……”って固まってたんだろ?」
アタシは、少しだけ黙る。
それから、小さく答えた。
「……固まった」
「認めた!!」
顧大嫂が、酒を吹きかけた。
「しかも、後ろから玉楼が“はい”って即答するんだろ!?」
「逃げ道ゼロじゃないか!」
「そうなのよ!!」
思わず噛み付く。
「玉楼、全然迷わないの!!」
「“はい、扈三娘様です”みたいな顔してるの!!」
孫二娘が、笑いながら肩を揺らす。
「そりゃ怖いねェ」
「自分だけ、“自分”に追いついてないんだ」
笑い声が、少しずつ静かになっていく。
鍋の湯気が、夜へ溶ける。
湿った風が、幕舎を揺らす。
アタシは、あの鏡を思い出していた。
鏡の中の顔は、ちゃんと瞬きを返した。
ちゃんと、アタシと同じように動いた。
なのに――
あの顔だけが、アタシより先に、“扈三娘”になっているみたいだった。
その呼び方は、やわらかかった。
押しつけるでもなく、 確かめるでもなく。
ただ、そこにある名前を差し出すみたいに。
アタシの中で、何かが止まる。
知らないはずの名前。
なのに、どこかに引っかかる。
アタシは眉を寄せる。
「……なに、それ?」
言葉にしても、うまく否定できない。
女性は、わずかに目を伏せる。
「……ご気分が優れぬようでございますね……」
答えになっていない。
けれど、その言い方には迷いがない。
まるで、こういう反応になることも知っているみたいに……
アタシは息を吐く。
「……ここは、どこ?」
今度は、はっきりと言う。
女性は、ほんの少しだけ首を傾ける。
それから、やわらかく言う。
「……ご自分のお部屋にございます……」
その言葉は、静かに落ちた。
アタシは止まる。
部屋。
そう言われれば、そう見える。
寝台、灯り、整った空間。
けれど――
「……違うでしょ……」
小さく呟く。
女性は否定しなかった。
ただ、やわらかく微笑んでいる。
「ご安心くださいませ。」
その声だけが、やけに近い。
「……悪い夢でも、ご覧になられましたか?」
やわらかな言い方だった。
責める声ではなかった。
ただ、そうであってほしいと願うみたいな言い方だった……
アタシは何も言わない。
夢――
そう言われれば、そうかもしれない。
けれど、 目の前の灯りも、 この部屋の空気も、 あまりにも現実だった。
アタシは、その女性を見る。
優しそうな顔に落ち着いた声……
逃げ場のない静けさ。
ここが自分の部屋だと言われているのに、 アタシの中には、帰ってきた感覚がどこにもなかった。
女性の言葉を受けたまま、アタシは視線を外す。
部屋を、もう一度だけ見る。
整っている。
何もかもが、きちんと収まっている。
でも、アタシのものだとは思えなかった。
アタシはゆっくりと足を下ろす。
床に触れた瞬間、冷たさがまっすぐ伝わってくる。
その感触だけが、やけに確かだった。
立ち上がる。
身体は動く。
問題はない。
ただ、どこか軽い。
一歩、前へ出る。
背後で、女性は何も言わない。
止めもしない。
アタシは、そのまま灯りのある奥まで歩く。
部屋の隅に、縦に細い影が立っている。
近づいて、形がわかる。
鏡だった。
古い細い枠の鏡。
見覚えはない。
けれど、“鏡”であることに違いはない。
アタシは、その前で止まる。
少しだけ間を置く。
見なきゃいけない……
でも、見たくない……
背中に、視線を感じる。
逃げ場はない。
アタシは、息をひとつ整える。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
鏡の中に顔がある。
目が合う。
同じ速さで瞬きが返る。
同じ角度で、わずかに首が傾く。
自分の動きと全部一致している。
違和感は、そこじゃない。
輪郭、目元、口元。
どれも自然に整っている。
知らない顔ではない。
――でも、
自分だと、うまく結びつかない。
アタシが動かないと、鏡の中の顔も、動かない。
ただ、こちらを見ている。
見慣れているはずの配置なのに、 ほんの少しだけ噛み合っていない。
記憶と目の前の形が……
ずれている。
アタシはゆっくりと瞬きをする。
すると、同じように瞬きを返す。
それで余計に、逃げ場がなくなる。
違う、とは言い切れない。
でも、自分だとも思えない。
喉の奥が静かに乾く。
アタシはようやく気づく。
名前だけじゃない。
顔の方も、何かが――
合っていない。
でも、自分の顔をなぜか思い出せない……
鏡から目を逸らす。
それ以上見ていると何かが決まってしまいそうで、アタシは先に顔を背けた。
背後の気配は変わらない。
静かに……
そこにいる。
アタシは振り向く。
女性は、少し離れた位置に立ったまま、こちらを見ていた。
視線が合う。
一瞬だけ、間が空いた。
そのあと、女性はわずかに表情を緩めた。
安心したような、それでいて、最初からそうなると知っていたみたいな顔。
「……お寒うはございませんか?」
自然な声だった。
気遣いの言葉。
そこに、疑いは一切ない。
アタシは答えない。
代わりに、その顔を見る。
さっきまでと同じ女性。
同じ距離、同じ空気。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
この女性は、 さっき鏡に映っていた“顔”を見ても、 何もおかしいと思っていない。
アタシは、ゆっくりと口を開く。
「……アタシの顔……」
言いかけて、止まる。
どう言えばいいのかわからない。
女性は黙って待っていた。
「……鏡……」
アタシは呟く。
それだけで通じるかどうか、確信はない。
けれど、女性は小さくうなずいた。
「はい。」
それだけだった。
驚きもしない。
当然のことみたいに、返事をした。
アタシはその反応を見る。
そこに、迷いはない。
“今の顔”を、そのまま受け入れている。
アタシは、もう一度だけ聞く。
「……アタシ、これ?」
指で、自分の顔のあたりをなぞる。
女性は、わずかに目を細める。
その表情は、困っている顔じゃなかった。
むしろ、最初から知っているようだった。
「はい。」
迷いのない返事。
それだけで十分だった。
否定する余地がない。
アタシは黙る。
逃げ場がなくなる。
鏡の中の顔は、この女性にとって、ずっと同じものなんだ……
同じものを見ているはずなのに、感じ方だけが噛み合っていない。
女性は、ほんの少しだけ首を傾ける。
「……いかがなさいましたか?」
やわらかな声……
本当に不思議そうだった。
アタシが何に引っかかっているのか、それがわからない顔だった。
アタシは答えない。
答えられない。
ただ、はっきりしていることが、ひとつだけある。
この人の中では、アタシは最初から、この顔なんだ。
この顔も美人ではあると思うけど……
でも――
そういう問題じゃないのよね。
夜は、相変わらず静かでした。
銅鑼もありません。
馬の嘶きも、怒号もありません。
あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿は、いつもの様に鍋を囲んでおられました。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「扈三娘、“自分の顔”に負けたんだって?」
顧大嫂殿が、酒を煽りました。
「しかも、“知らない顔”じゃないんだろ?」
「嫌だねぇ」
幕舎の外から、すぐ声が返って来ます。
「負けてないわよ!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「いや、“アタシこんな顔だったっけ……”って固まってたじゃないか!」
「だって変だったのよ!!」
また外から返って来ます。
「ちゃんとアタシなの!」
「でも、“アタシです”って感覚だけズレてるの!!」
顧大嫂殿も、肩を揺らしました。
「うわ、一番逃げられないヤツだ」
「別人なら、“違う!”って言えるからねぇ」
鍋の煮える音だけが、小さく続きます。
私は、その湯気を見ながら、小さく息を吐きました。
鏡、静かな灯り……
それから、“世界の方が先に知っている顔”。
私は静かに口を開きます。
「……恐らく、“間違い”が無かったからこそ、怖かったのでしょうね」
孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めました。
「違ってりゃ、人は拒絶出来る」
「でも、“ほぼ合ってる”は、逆に逃げ場が無いんだろ?」
幕舎の外が、一瞬だけ静かになります。
それから、
「……そうなのよ」
小さく返事が返って来ました。
顧大嫂殿が、焚き火を見たまま呟きます。
「嫌だねぇ」
「自分だけ、“自分”へ追いついてない感じ」
湿った風が、静かに吹き抜ける。
その時――
孫二娘殿が、急にニヤつきました。
「で?」
「後ろから玉楼が、“はい、扈三娘様です”って即答したんだろ?」
外が、ぴたりと静かになります。
少し間が空く。
それから――
「……迷いが無いのよ」
ぼそっと返事が返って来ました。
顧大嫂殿が、酒を吹きかけます。
「駄目じゃないか!!」
「鏡より、そっちの方が怖いよ!」
「だって玉楼、“当たり前です”みたいな顔してるんだもの!!」
孫二娘殿が、腹を抱えて笑いました。
「ほら!」
「玉楼、“世界側の人間”になってるじゃないか!」
私は、少しだけ目を伏せます。
……否定は、難しかったからです。
笑い声が、少しずつ静かになっていく。
鍋の湯気が、夜へ溶ける。
湿った風が、幕舎を揺らしました。
私は、小さく呟きます。
「……ですが」
「人は時々、“知らない顔”より、“知っているはずの顔”の方が、恐ろしくなるのかもしれません」
誰も、すぐには返しませんでした。
夜は、何も答えません。
ただ静かなまま、 少しずつ――
扈三娘様の中にある“自分”と、 世界の中にある“扈三娘”を、 ゆっくり重ね合わせていく様でした。




