名を呼ぶ灯り
「……で?」
孫二娘が、鍋を混ぜながら首を傾げる。
「今度は、いきなり“扈三娘様”って呼ばれたんだって?」
顧大嫂が酒を煽った。
「しかも、自分の事を知ってる顔してる女が出て来るんだろ?」
「嫌だねぇ」
外は静かな夜だった。
銅鑼も無い。
怒号も無い。
湿った風だけが、幕舎の布をゆっくり揺らしている。
孫二娘が、鍋の湯気を見つめた。
「で?」
「どんな女だったんだい」
アタシは少しだけ考える。
「……普通だった」
「それが一番怖いんじゃないか!」
顧大嫂が、すぐ吹き出した。
「化け物の方がまだ分かりやすいだろ!」
「そうなのよ!!」
思わず噛み付く。
「普通に優しそうで、普通に気遣って来るの!」
「だから余計に怖いのよ!!」
孫二娘が、腹を抱えて笑った。
「扈三娘、“敵襲!”より“丁寧な女”に警戒してるじゃん!」
「だって怖いでしょ!?」
「知らない場所で、知らない服着せられて、知らない女が“お目覚めですか?”よ!?」
「しかも“扈三娘様”だろ?」
顧大嫂が肩を揺らす。
「完全に逃げ場塞がれてるねぇ」
笑い声が広がる。
でも―― アタシは、そのまま黙った。
灯り、木の匂い、静かな声。
それから、 “最初から知っていたみたいな顔”。
思い出しただけで、背中が少し凍える。
孫二娘が、その顔を見て笑いを止めた。
「……そんなに嫌だったのかい」
アタシは、小さく息を吐く。
「嫌っていうか……」
「逃げていい空気じゃないのよ」
鍋の煮える音だけが、小さく続いた。
顧大嫂が、焚き火を見たまま呟く。
「“敵意が無い”ってのも、時々怖いからねぇ」
湿った風が、静かに吹き抜ける。
その時――
孫二娘が、急にニヤついた。
「で?」
「扈三娘、“誰なのアンタ!?”より先に、“なんでアタシ知ってるの?”ってなったんだろ?」
アタシは、少し黙る。
それから、小さく答えた。
「……なった」
「ほら来た!!」
顧大嫂が、酒を吹きかけた。
「もう完全に、“自分だけ知らない”怪談じゃないか!」
「しかも相手は、全部分かってる顔なんだろ?」
「そうなのよ……!」
思わず声が強くなる。
「アタシだけ、何も知らないの!!」
その瞬間だけ、 二人の笑い声が少し止まった。
夜風が、静かに幕舎を揺らす。
孫二娘が、鍋を混ぜる手をゆっくり止めた。
「……それ、一番怖いやつだねぇ」
顧大嫂も、静かに頷く。
「知らない場所より、“自分だけ置いてかれてる”感じ」
アタシは、行灯の灯りを思い出す。
優しかった……
穏やかだった……
だからこそ、 少しも安心出来なかった。
夜だけが、 静かなまま、 アタシより先に、 全部を知っているみたいだった。
気配は、もう灯りだけじゃなかった。
明かりの向こう、 床に膝をついた人影があった。
アタシは息を止めたまま、それを見つめる。
女性だった。
長い袖の衣をまとって、両手を床についたまま、深く頭を下げている。
顔は見えない。
けれど、その姿だけで、知らない相手のはずなのに、完全に知らないとは思えなかった。
知らないはずなのに……
その女性は、しばらくそのまま動かなかった。
灯りだけが静かに立っていて、 部屋とも幕の奥ともつかない薄い空間を、やわらかく照らしている。
やがて、女性がゆっくりと身を起こす。
布が擦れる、小さな音。
立ち上がった姿は、思っていたよりも若い。
伏せていた顔が上がる。
その目が、まっすぐアタシを見る。
逃げたい、とは思わなかった。
その代わり、胸の奥に、妙な緊張だけが溜まっていく。
女性は、少し困ったような、 けれど安心させるみたいに、やわらかく笑った。
その表情が、かえって現実味を奪う。
化け物じみたものなら、まだよかった。
怖がれば済む。
目を逸らせば済む。
でも、その女性はあまりにも普通の顔で、 あまりにも自然に、そこに立っていた。
だから余計にわからない。
誰なの……
喉まで上がった言葉は、声にならない。
アタシは黙ったまま、その女性を見る。
女性もまた、急かさない。
ただ、そこに立っている。
灯りの色が、頬の輪郭を淡く撫でる。
知らない衣、知らない場所、知らない女性。
なのに、その微笑みだけが、とても穏やかだった。
アタシはようやく、自分が強くシーツを掴んでいることに気づく。
指先に力が入っている。
肩も、少しだけ強張っている。
女性はまだ、アタシを見ている。
敵意はない。
たぶん、害意もない。
それでも、信じていい理由はどこにもなかった。
アタシは視線を逸らさないまま、浅く息を吸う。
何かを言わなければならない。
そう思うのに、最初のひと言が見つからない。
この場所では、何を聞くのが正しいのか。
この女性に、何から確かめればいいのか。
そんなことを考えている間も、女性の微笑みは静かなままだった。
その穏やかさに包まれるほど、 アタシの中の警戒だけが、逆に細く鋭くなっていく。
ここはどこなのか。
アンタは誰なのか。 どうしてアタシは、こんな場所で目を覚ましたのか。
聞きたいことは山ほどあるのに、 いちばん先に浮かんだのは、それよりずっと単純な違和感だった。
この女性は、 どうしてアタシが起きるのを、最初から知っていたみたいな顔をしているんだろう。
何かを言う前に、その女性が動いた。
ごく自然な仕草だった。
まるで、アタシがそこにいることも、 目を覚ましたことも、 全部ずっと前から決まっていたみたいに。
アタシは思わず肩に力を入れる。
けれど女性は、急がない。
怯えさせないようにするみたいに、静かに近づいてくる。
灯りが近くなる。
淡い橙の光が、シーツの皺と、女性の袖口をやわらかく照らした。
アタシはその顔を見る。
やっぱり知らない。
知らないはずなのに、その物腰だけが妙に馴染む。
女性は寝台のそばに腰を落とし、少しだけ身をかがめた。
視線の高さが近くなる。
それだけで、逃げ場がなくなるような気がした。
アタシは何も言えない。
喉の奥に引っかかったままの言葉が、まだ形にならない。
女性はアタシの様子を確かめるみたいに、じっと目を向ける。
その視線は静かで、押しつけがましくない。
だからこそ、余計に落ち着かない。
ふと、視界の端に別のものが入った。
灯りの向こう、薄い幕の奥……
小卓の上に置かれた箱。
背の低い壺、見たことのない器。
どれも古く、どれも控えめで、 部屋の空気に溶け込んでいる。
アタシの部屋にはなかったものばかりだ。
ここは本当に、どこなんだろう。
そう思った瞬間、女性の手がそっと伸びてきた。
反射的に身を強ばらせる。
けれど、その手はアタシに触れる前にいったん止まり、 拒まれないことを確かめるみたいに、ほんの少しだけ間を置いた。
それから、肩へ。
布の感触が落ちてくる。
上着だった。
いや、上着というより、羽織るための衣に近い。
軽いのに、体温を閉じ込めるみたいなやわらかさがある。
女性はアタシの肩にその布をかける。
乱れたところを直すみたいに、静かに整える。
その仕草があまりにも自然で、 アタシは一瞬だけ、自分が警戒していたことすら忘れそうになる。
でも、忘れてはいけない。
知らない場所で、 知らない服を着て、 知らない女性に世話をされている。
異常なのは、何ひとつ変わらない。
アタシは視線を落とす。
肩にかかった布はあたたかい。
そのぬくもりだけが現実みたいで、かえって気味が悪かった。
女性はまだ近くにいる。
何か言うつもりなのか、 それともアタシが口を開くのを待っているのか、 その静かな横顔からは読み取れない。
ただ、ひとつだけわかる。
この女性は、アタシを怖がらせるつもりではない。
けれど、 安心させようとしていること自体が、 今のアタシにはいちばん信用できなかった。
沈黙が、少しだけ長く続いた。
女性はまだ、アタシのそばにいる。
距離は近いのに、触れてはこない。
その静けさに押されるみたいに、 アタシの方が先に口を開きかけて――
その前に、声を掛けてくる。
「……お目覚めに、ございますか?」
低くも高くもない、やわらかな声だった。
耳に届いた瞬間、なぜか少しだけ背筋が冷える。
丁寧すぎる言い方。
知らない響き。
アタシはすぐには返せない。
言葉の意味はわかるのに、 その言い方が、アタシの知っている世界のものじゃない気がした。
女性は、こちらの反応を急かさない。
ただ、確かめるように、もう一度だけ視線を向ける。
「お加減は……いかがでしょうか?」
今度は、少しだけ言葉が近くなる。
けれど、距離は縮まらない。
アタシは息を整える。
喉が乾いている。
声を出そうとすると、少し引っかかる。
「……ここ、どこ?」
やっと出たのは、それだけだった。
女性の表情が、ほんのわずかに揺れる。
驚いたわけではない。
困ったわけでもない。
ただ、想定していた答えと違った―― そんな、ごく小さなズレ。
そのまま、女性は視線を伏せる。
一度、言葉を選ぶように間を置いてから、静かに口を開いた。
「こちらは……いつもお休みいただいております、お部屋にございます」
曖昧な答えだった。
場所を言っていない。
名前も出さない。
けれど、その言い方はあまりにも自然で、 ごまかしているようには聞こえない。
だから余計に、引っかかる。
アタシはそのまま、女性を見る。
灯りの色が、二人のあいだに柔らかく落ちている。
静かすぎる。
会話が始まったのに、 何もわかっていないままなのは、さっきと変わらない。
女性は、もう少しだけ身を寄せる。
今度は、ためらいなく。
「……お体に、お変わりはございませんか?」
その言い方に、わずかに引っかかる。
まるで、アタシのことを“知っている側”の言い方だった。
アタシは答えない。
答えられない。
代わりに、ひとつだけ確かなことに気づく。
この女性は――
アタシのことを、よく知っている人物なのだと。
アタシは、何も答えないまま、その女性を見る。
女性もまた、アタシから視線を外さない。
静かな時間が、ひとつだけ落ちる。
それから――
女性は、ほんのわずかに息を整えた。
「……扈三娘様」
その名前を聞いた瞬間、夢の中の声が現実になった――
夜は、相変わらず静かでした。
風の音も、銅鑼も、馬の息もありません。
あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿は、いつもの様に鍋を囲んでおられました。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「扈三娘、“知らない女が怖い!”って騒いでたんだって?」
顧大嫂殿が、酒を煽りました。
「しかも、普通に優しくして来る女だろ?」
「そりゃ逆に怖いねぇ」
幕舎の外から、すぐ声が返って来ます。
「だって怖いでしょ!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「“敵襲!”より、“丁寧な女”に警戒してるじゃないか!」
「知らない場所で、“お目覚めですか?”よ!?」
「怖いわよ!!」
顧大嫂殿まで肩を揺らします。
「しかも、“扈三娘様”だろ?」
「完全に、周りだけ話進んでるヤツじゃないか」
笑い声が広がる。
ですが――
私は、その鍋の湯気を見ながら、小さく息を吐きました。
行灯、木の匂い、静かな部屋……
そして、 “最初から知っている側”の女。
私は、静かに口を開きます。
「……ですが、その女性には、恐らく悪意は無かったのでしょう」
孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めました。
「それが逆に怖かったんだろ?」
幕舎の外が、一瞬静かになります。
それから、
「……そうなのよ」
小さく返事が返って来ました。
顧大嫂殿が、焚き火を見たまま呟きます。
「嫌だねぇ」
「“自分だけ知らない”状態で、優しくされるのは」
湿った風が、静かに吹き抜ける。
その時――
孫二娘殿が、急にニヤつきました。
「で?」
「扈三娘、その女が玉楼だったんだろ?」
外が、ぴたりと静かになります。
少し間が空く。
それから――
「…………そうだったのよ」
ぼそっと返事が返って来ました。
顧大嫂殿が、酒を吹きかけます。
「駄目じゃないか!!」
「信頼してる相手なのに!?」
「だって!!」
外から、すぐ怒鳴り返って来ました。
「玉楼、“全部知ってる側”の顔が上手過ぎるのよ!!」
「しかも静かなのよ!!」
「逃げろとも言わないし、急かさないし、余計怖いの!!」
孫二娘殿が、腹を抱えて笑います。
「ほら!」
「玉楼、“静かな圧”って言われてるよ!」
私は、少しだけ目を伏せました。
……否定し切れなかったからです。
笑い声が、少しずつ静かになっていく。
夜風だけが、幕舎を揺らしていました。
私は、鍋の湯気を見つめながら、小さく呟きます。
「……ですが」
「本当に知らない誰かより、“知っている誰か”の方が、人は依ろうとしてしまうのかもしれません」
孫二娘殿も、顧大嫂殿も、すぐには何も返しませんでした。
夜は、何も答えません。
ただ静かなまま、 少しずつ、 扈三娘様の知っている世界と、 知らない世界の境界を、 曖昧に溶かしていく様でした。




