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知らない名前

「で、その女、三娘を知ってる顔してたんだろォ?」

孫二娘が鍋を混ぜる横で、顧大嫂が酒を含んだ。

「知らない女に心配されるってのも気味が悪いねぇ」

「そうなのよ! しかも普通に優しいの!」

「敵より怖がってるじゃないか」

「敵なら逃げればいいでしょ! 優しくされたら対応に困るのよ!」

孫二娘が吹き出した。

「三娘、“敵襲”より“お嬢様、お加減は?”に弱いんだねェ」

「比較がおかしい!!」

顧大嫂が笑いながら首を傾げる。

「でも言葉は通じたんだろ?」

「そこだけは運営さん仕事してたわ」

「誰だい、その運営ってのは?」

「説明すると長い!」

二人がまた笑う。

でも、アタシだけは覚えている。

知らない女が、アタシを見る目だけは――昔からアタシを知っている人のものだった。

そして、その人が口にした名前を、アタシだけが知らなかった。

気配は、もう灯りだけじゃなかった。

薄い幕の向こう、床に膝をついた人影がある。

アタシは寝具を握ったまま、その影を見つめた。

女だ。

長い袖の衣をまとい、両手を床について深く頭を下げている。

顔は見えないものの、背格好からすればそれほど年上ではなさそうだったが、問題は年齢じゃない。

なんでこの人、アタシに土下座してるの?

いや、土下座じゃないのかもしれない。

ここが昔の中国なら礼儀作法だって違う。

現代日本の物差しを持ち込んで「そこまで謝らなくても」なんて言ったら、開始早々に文化事故を起こす可能性がある。

結局、何ひとつ分からない。

こういう時こそ説明役が必要なんじゃないの?

さっきまで頭の中で要求していたチュートリアル担当が、本当に目の前へ現れた可能性もあるけれど、この人の頭上には名前も職業も表示されていない。

やっぱり運営が不親切だ。

女がゆっくり身を起こした。

衣の擦れる音がして、伏せていた顔が灯りの中へ現れる。

思っていたより若い。

整った顔立ちをしていて、目元には柔らかさがある。

少なくとも、目覚めたばかりの人間をそのまま殺しそうな顔には見えない。

殺しそうな顔って何だ?

寝起きから判断基準がおかしくなっている。

女はこちらを見ると、ほっとしたように微笑んだ。

その瞬間、少しだけ怖さが増した。

化け物なら分かりやすい。

叫べばいいし、逃げればいい。

刃物を持った知らない男でも分かりやすい。

全力で逃げる。

でも、目の前の女はあまりにも自然にアタシを見ている。

まるで、ここにアタシがいることが当然みたいに。

そこが一番おかしい。

「……」

声を掛けるべきか迷っているうちに、女が立ち上がった。

反射的に身体へ力が入る。

逃げ道はさっき確認した。

窓は遠く、履物もなければ、武器になりそうなものもない。

スマホは圏外どころか存在そのものが消滅している。

唯一あるのは寝具。

いざとなったら投げる?

布を?

何の役に立つのよ?

女はそんなアタシの脳内緊急会議を知るはずもなく、急がずこちらへ近づいてきた。

灯りも一緒に近くなる。

淡い橙色が、女の袖口と寝台の端を照らした。

逃げたい気持ちはある。

でも身体が動かない。

怖くて固まっているだけなのか、それともこの身体がまだ目覚め切っていないのか分からなかった。

女は寝台のそばで腰を落とすと、アタシと視線の高さを合わせた。

近い。

これ、敵だったら完全にアウトじゃない?

首を絞められる距離だ。

なのに不思議と、殺されるという感じはしない。

女の目には警戒より心配が浮かんでいる。

誰を心配してるの?

まさかアタシ?

だとしたら、どうして?

質問が増える一方で、答えは一個も増えない。

女は何かを確かめるようにアタシの顔を見たあと、手を伸ばした。

身体が強張る。

その手は途中で止まった。

アタシが嫌がっていないか確認するように、ほんの一瞬だけ待つ。

それから寝台の脇に置かれていた衣を取り、肩へそっと掛けてくれた。

肩へ掛かった衣は柔らかく、少しあたたかかった。

「……ありがとう」

反射的に口から出た。

言ってから固まった。

今、アタシ、日本語で言ったよね?

女は微笑んだ。

通じた?

いや、待って。

まだ向こうは何も喋っていない。

たまたま表情で意味を察しただけかもしれない。

安心するのは早い。

それにしても妙だった。

知らない場所で、知らない身体になり、知らない女に服を掛けてもらっている。

それなのに肩に残った温もりだけは、嫌になるほど本物だった。

夢ならもっと適当でいいでしょ。

夢のくせに布の手触りまで作り込まないでほしい。

女はアタシの顔色を確かめるように眺めてから、ようやく口を開いた。

「……お目覚めでございますか?」

意味が分かった。

普通に……

あまりにも普通に耳へ入ってきたので、危うくそのまま返事をするところだった。

「……え?」

女が少し首を傾げる。

「お加減は、いかがでしょうか?」

また分かった。

待って。

待って待って待って。

この人、日本語喋ってる?

そんなわけない。

耳に入る響きは、どう考えてもアタシの知っている日本語じゃない。

発音も音の繋がりも違う。

それなのに頭へ届いた瞬間には、意味だけが何の抵抗もなく理解できている。

何これ?

自動翻訳?

あった――

チュートリアル特典、あったわ。

「よかった……」

思わず漏れた。

女が目を丸くする。

マズい……

「い、いや、こっちの話」

そう答えると、それも通じたらしい。

女は少し戸惑いながらも頷いた。

すごい――

会話できる。

ありがとう、運営さん。

さっき不親切って言ってごめん……

でも説明書はまだ欲しい。

「……ここ、どこ?」

ようやく、一番聞きたかったことを口にした。

女の表情がほんの少し変わった。

驚いたというより、聞かれると思っていなかった顔だ。

「こちらは、いつもお休みになっておりますお部屋にございます」

「いや、それは見れば……いや、見ても分からないけど」

危ない。

今のツッコミ、絶対に変な人だと思われた。

聞き方を変える。

「ここって、何ていう場所?」

女の眉がわずかに寄った。

明らかにおかしい質問をされた顔になっている。

非常にヤバい……

いきなり記憶喪失判定が近づいてきた。

火刑への道が再び開通しそうになっている。

「お嬢様……?」

お嬢様――

アタシが?

生まれて初めて呼ばれた。

前世では独身の会社員で、ワンルーム暮らしだった。

誰かから「お嬢様」なんて呼ばれる要素は、どこを探してもなかった。

なのに今は、知らない女が当然のようにアタシをそう呼んでいる。

悪くない。

いや、喜んでる場合じゃない。

「ちょっと寝ぼけてるみたい。たぶん」

自分でも最低の言い訳だと思った。

女は真面目に頷いた。

通った。

これで通るの?

昔の人、優しいな。

女は少し身を寄せ、心配そうにアタシの顔を覗き込んだ。

「昨夜は早くにお休みになられましたゆえ、お疲れではないものと存じておりましたが……どこか、お痛みになりますか?」

昨夜は早くに寝たらしい。

つまり、この身体の持ち主にも昨日があった。

当たり前の事実なのに、急に胸の奥がざわつく。

アタシが昨日まで生きていたように、この身体の女にも昨日までの生活があったはずだ。

じゃあ、その女はどこへ行った?

アタシが入ったから消えた?

それともアタシ自身が――

考えるのをやめた。

今そこへ踏み込むと、頭が壊れそうだった。

まずは、ここがどこで、いつの時代なのか、この女が誰で、そして自分が何者なのかを確かめるしかない。

「アンタは……」

口にした途端、女が固まった。

やった。

言葉遣いだ。

お嬢様が使用人らしき女性へ「アンタ」。

絶対に普段と違う。

女の顔に、今度こそはっきり心配が浮かんだ。

「……わたくしでございますか?」

「そう……名前、何だっけ?」

完全に駄目な質問だった。

女の顔色が変わる。

ああ――

記憶喪失確定コースに自分から突っ込んだ。

もっと自然に聞けなかったの?

会社で何年働いてきたのよ。

会話力どこへ置いてきた。

「お嬢様……本当に、わたくしをお忘れに?」

「いや! 忘れたっていうか、今ちょっと記憶の読み込みが遅いというか!」

「よみ……?」

「忘れて」

自動翻訳にも限界があるらしい。

現代用語までは変換してくれない。

微妙に使えない。

女は困惑している。

こちらも困っている。

しばらく二人で見つめ合った。

先に折れたのはアタシだった。

「ごめん。ちょっと混乱してる。だから、少しだけ教えて」

なるべく穏やかに言った。

女はまだ不安そうだったが、拒まなかった。

「何を、お知りになりたいのでございますか?」

全部――

そう言いたかった。

でも全部と言ったら、本当に何も覚えていないと宣言するようなものだ。

何から聞けば怪しまれない?

自分の名前を聞くのは危険すぎる。

家族の名前も危ない。

国の名前?

ここはどこ?

今は何年?

全部危ないじゃない。

転生者向け会話選択肢、難易度高すぎない?

アタシが黙り込んでいると、女の方が気遣うように声を掛けてきた。

「お父上を、お呼びいたしましょうか?」

父――

いるんだ。

この身体には父親がいる。

「……父?」

またやった。

女の目が大きくなる。

もう駄目だ。

ここまで来たら誤魔化すより押し切った方がいい。

「寝起きだから! 今、本当に頭が回ってないだけ!」

「されど……」

「大丈夫! たぶん!」

たぶんを付けるな、アタシ……

女は明らかに大丈夫ではない人を見る目になっていた。

医者。

祈祷師。

火刑。

嫌な三段活用が頭をよぎる。

何とか流れを変えなければならない。

そう思った時、女がふと寝台の脇へ置かれた水差しに手を伸ばした。

器へ水を注ぎ、こちらへ差し出す。

「まずは、お水を」

ありがたい。

喉がからからだった。

両手で受け取る。

器も知らない形だが、この際どうでもいい。

一口飲むと、ちゃんと普通の水で、それだけで妙に安心した。

水が普通というだけで泣きそうになる日が来るとは思わなかった。

「ありがとう」

今度は自然に言えた。

女も少し安心したように微笑む。

悪い人じゃない。

少なくとも、今のところは。

だからこそ慎重に聞かなければならない。

「ねえ」

「はい」

「アタシのこと……何て呼んでた?」

これなら名前を直接聞くより少しは自然。

そう思った。

女の微笑みが止まった。

全然自然じゃなかったらしい。

また選択肢を間違えた。

「お嬢様……」

「いや、違う! その、お嬢様以外で!」

何を言ってるのアタシ。

墓穴を掘る速度だけは前世より上がっている。

女はますます心配そうにこちらを見つめた。

それから、何かを確かめるようにゆっくり息を整える。

「本当に、お分かりにならないのでございますか?」

逃げられない。

ここで嘘を重ねても仕方がない。

アタシは器を握ったまま、黙って女を見返した。

女の表情から笑みが消えた。

代わりに浮かんだのは、怯えではなく心配だった。

それが少し痛い。

この人はたぶん、本当にこの身体の女を知っている。

ずっと前から。

アタシの知らない誰かを。

女は寝台のそばへ膝をつき直すと、まっすぐこちらを見た。

灯りが、その顔を静かに照らしている。

アタシも目を逸らさなかった。

何を言われても受け止めるしかない。

自分が誰なのか。

少なくとも、その最初の答えだけは。

女性は、ほんのわずかに息を整えた。

「……扈三娘様」

その名前を聞いた瞬間、夢の中の声が現実になった――

玉楼でございます。

「で、三娘を怯えさせた女って、玉楼なんだろォ?」

孫二娘様が笑うと、顧大嫂様まで酒の椀を置きました。

「敵意もなく、衣まで掛けてやったのに怖がられたのかい?」

「甚だ遺憾でございます」

幕舎の外から、すぐ声が飛びます。

「だって玉楼、全部知ってる顔してたじゃない!!」

「扈三娘様のことは存じておりましたので」

「アタシは玉楼を知らなかったの!!」

孫二娘様が腹を抱えました。

「最悪のすれ違いだねェ!」

「しかも自分の名前まで玉楼に教わったんだろ?」

「そうよ! 本人より周りの方がアタシに詳しいのよ!」

顧大嫂様が笑います。

「それで三娘、お前さんが誰かは分かったわけだ」

外が静かになりました。

いいえ、あの時わかったのは、名前だけ。

扈三娘という女が、これから何に巻き込まれるのか――

貴女様は、まだ何ひとつ知らなかったのでございます。

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