薄灯の部屋
「始まったねェ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら笑った。
「とうとう始まったじゃないか」
顧大嫂が、酒を一口飲んでから目を細める。
「何がだい」
「知らない場所で目を覚ます奴さ」
「ああ、嫌な始まりだねぇ」
「しかも夜だよォ」
「余計に嫌だねぇ」
幕舎の外から、すぐ声が飛んだ。
「アタシだって嫌だったわよ!!」
孫二娘が吹き出す。
「出たよォ!!」
顧大嫂も肩を揺らした。
「本人が一番嫌がってるねぇ」
「だって、いつも通りだったのよ!!」
また外から返ってくる。
「仕事終わって!」
「帰宅して!」
「寝ただけなの!!」
孫二娘が鍋を混ぜる手を止めずに笑う。
「それで知らない部屋かい」
「嫌だねェ」
「嫌に決まってるでしょ!!」
顧大嫂が酒の椀を置いた。
「しかも、起きたら知らない服だったんだろう?」
「そうなのよ!!」
即答だった。
「灯りも違う!」
「匂いも違う!」
「部屋も違う!」
「服まで違うの!!」
孫二娘が腹を抱える。
「状況説明が全部不穏だねェ」
顧大嫂が深く頷いた。
「知らない場所、知らない服、知らない匂い」
「転生初日の三点盛りだよォ」
「盛らないで!!」
アタシは思わず声を荒げる。
「こっちは本当に分からなかったの!!」
「まあ、それはそうだろうねぇ」
顧大嫂が少しだけ真面目に言う。
「昨日までの部屋が消えてるんだ。笑い事じゃない」
「そうよ」
「でも笑うけどねェ」
「笑うな!!」
孫二娘が、今度はわざとらしく首を傾げた。
「で?」
「何よ」
「起きて最初に何したんだい」
アタシは少し黙った。
嫌な沈黙だった。
孫二娘はニヤニヤしている。
顧大嫂も、もう笑う準備をしている。
「……灯りを見てた」
一瞬だけ、幕舎の中が静かになった。
それから――
二人が同時に吹き出した。
「長いよォ!!」
「まず逃げな!!」
「違うのよ!!」
思わず声が大きくなる。
「頭が追い付かなかったの!!」
「知らない灯りを眺めて、現実を受け入れてた訳だねェ」
「そうよ!!」
「素直だねぇ」
顧大嫂が笑う。
「まあ、知らない部屋でいきなり動ける方がおかしいか」
「そうでしょ!?」
「でも灯りは長いねェ」
「まだ言う!?」
鍋の湯気が揺れる。
湿った風が、幕舎の隙間を静かに通った。
少しして、孫二娘がまた笑う。
「そういやアンタ、元の顔には自信あったんだろォ?」
「あるわよ!!」
即答したら、顧大嫂が酒を噴きかけた。
「そこは即答なんだねぇ」
「事実だから仕方ないでしょ!!」
アタシは腕を組む。
「顔もスタイルも、そこそこどころじゃなかったのよ!!」
孫二娘が、にやにやと鍋を混ぜる。
「なのに恋人はいなかったと」
「うるさい!!」
顧大嫂が深く頷いた。
「顔と縁は別物だねぇ」
「納得しないで!!」
「美人でも、縁がなきゃ独り寝だねェ」
「言い方!!」
孫二娘が肩を揺らす。
「しかも、その独り寝から目ぇ覚ましたら、知らない部屋」
顧大嫂がしみじみ言った。
「救いがないねぇ」
「始まりからひどすぎるのよ!!」
笑い声が広がる。
でも、その笑いの奥で、アタシは少しだけ息を吐いた。
あの時、本当に夢だと思いたかった。
見知らぬ灯り。
見知らぬ匂い。
見知らぬ部屋。
見知らぬ服。
全部が、アタシの知っている夜から外れていた。
「で、鏡は見たんだろォ?」
孫二娘が言う。
アタシは黙った。
顧大嫂が肩を揺らす。
「見たねぇ」
「見たわよ!!」
「やっぱりだァ!!」
孫二娘が腹を抱える。
「まず自分の顔を確認する奴だよォ!!」
「だって気になるでしょ!!」
「まあ、そこは女だねぇ」
顧大嫂が笑った。
「知らない部屋でも、まず顔かい」
「顔は大事なの!!」
「命も大事だよォ」
「分かってるわよ!!」
また笑いが起きる。
鍋の煮える音だけが、小さく続いた。
でも――
あの夜だけは違った。
眠る前まで確かにあったはずの世界が、静かに遠ざかっていく。
冷たい鍵。
白いシーツ。
青灰色のスーツ。
硬いヒールの音。
全部、そこにあったはずなのに。
目を覚ました時には、何ひとつ同じではなかった。
孫二娘が、ふっと笑いを引っ込める。
「まあ、嫌な目覚めだねェ」
顧大嫂も静かに頷いた。
「ああ。知らない朝ってのは、怖いもんだ」
アタシは、何も言わなかった。
夜は、何も答えない。
ただ静かなまま――
行灯の灯りに照らされた見知らぬ部屋と、
そこで目を覚ましたアタシだけを、
湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。
夜は、少し湿っていた。
階段に足をかけるたび、硬いヒールの音だけが小さく返ってくる。
見上げると、外廊下の灯りが白くにじみ、古びたアパートの壁をぼんやり照らしていた。
人の気配は全くない。
聞こえるのは、遠くで揺れる電線の音だけ……
アタシは歩いて、自分の部屋に向かう。
青灰色のスーツの裾を揺らしながら、慣れた足取りで他の部屋の前を横切る。
急いでいるわけでもなく、立ち止まる理由もない。
夜の帰宅なんて、いつもこんなものだ。
自分の部屋の前で、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
指先に触れた鍵は、外気に当たって冷たかった。
鍵穴に差し込み、ひねると金属の擦れる小さい音とともに、乾いた手応えが返ってくる。
それでやっと、ここがアタシの帰る場所なんだとわかる。
扉を開けると、当たり前の様に室内は、静まり返っていた。
年齢=恋人もいない独身女だから、当然なんだけど――
自分の顔とスタイルには自信があるのに……
電気を点けると、淡い光に照らされたベッドだけが、きちんとそこにある。
白いシーツは、朝起きたままのシワがある。
閉じたカーテンは、夜を室内に入れまいとしているみたいだった。
アタシはリビングへ入る。
片手に持っていた上着を、まだ下ろさないまま……
誰もいないはず……
何も起きていないと思う。
ただ、静かだった。
静かすぎるくらいに――
扉を閉めると、小さく何かの音がした。
それだけで、部屋の中の静けさが少しだけ形を持った。
アタシはその場でしばらく動かなかった。
耳を澄ましてみる。
でも何も聞こえない。
冷蔵庫の低い駆動音も、外を走る車のエンジン音も、隣部屋の生活音も、今夜は妙に遠く感じた。
さっきと同じはずなのに、さっきより静かだ。
視線だけを動かし、周りを確認してみる。
ベッド、机、カーテン、壁際に積まれた本。
途中まで飲んだペットボトル。
無造作に置いたままのカバン。
どれも、変わっていない。
整いすぎているくらいに。
アタシは、ようやく一歩踏み出す。 床がわずかに軋んだ。
その音が、やけに大きく感じた。
喉の奥が、少しだけ乾く。
――こんな部屋だったか?……
一瞬思っただけで、言葉にはしない。
覚えていないわけじゃない。
ここで暮らしている。
毎日帰ってきて、眠って、朝を迎えていた。
それなのに――
「そうだった」
と言い切るには、何かが足りない。
空気の馴染み方が、少しだけ違う。
アタシはゆっくりと息を漏らす。
ネクタイを緩め、上着を椅子へ掛けた。
その動作さえ、どこかぎこちなかった。
浴室へ行き、洗面台の前へ立つと、鏡の中には、疲れた女がいる。
短い髪、淡い化粧、灰色がかった目……
見慣れているはずの顔なのに、その輪郭が少しだけぼやける。
まるで、水面へ映った自分を見ているみたいだった。
アタシが蛇口をひねると、水が流れる音だけが、妙にはっきり耳へ残った。
冷たい水で化粧を落とし、そのまま額へ触れる。
熱はない。
いつも通りだ。
なのに、胸の奥だけが静かに落ち着かない。
疲れているだけ――
そう思う事にした。
考えるのをやめて、アタシは灯りを落とす。
部屋はすぐ薄暗くなり、カーテンの隙間から入る街灯だけが、白く床へ伸びた。
アタシは、ベッドへ腰を下ろす。
スプリングが小さく沈み、その感覚だけが、妙に現実的だった。
身体を横たえると、白いシーツは少し冷えていた。
その冷たさが、火照った思考をゆっくり押し下げていく。
アタシは眠っている。
眠っているはずなのに、意識のどこかだけが、まだ夜に触れたままだった。
頬に当たる枕はやわらかい。
指先は、無意識のまま小さく握られている。
身体は休んでいるのに、奥の方だけが完全にはほどけていない。
静かな夜だった。
何も聞こえない。
何も動かない。
それなのに、ただの安らかな眠りとは少し違っていた。
閉じたまぶたの裏に、淡い灰色の気配が沈んでいる。
夢を見ているのかどうかも、よくわからない。
その奥で、声がした。
――「扈三娘様」
知らない名前だった。
なのに――
その声は、アタシを呼んでいるように近かった。
耳元じゃなく、部屋の外でもない。
もっと深いところから、真っ直ぐこちらへ届いてくる。
違う――
アタシは、そんな名前じゃない。
そう思った瞬間、乾いた音がした。
小さな木が触れ合うみたいな音。
遠くで、誰かが戸を開けるような音。
意識の底で、何かが揺れる。
夜は、まだ終わらない……
閉じたまぶたの裏に、やわらかな明るさが滲んでくる。
朝にはまだ早い。
そう思うより先に、アタシは目を開けていた。
枕に頬をつけたまま、ぼんやりと前を見る。
暗いはずの部屋の中に、ひとつだけ灯りがあった。
小さな火――
いや、火というより、行灯のような、古い灯り。
アタシはしばらく動けなかった。
見覚えのない灯りが、見覚えのないやわらかさで、静かにそこに立っている。
白い寝具の端を、金とも橙ともつかない色で、淡く照らしていた。
喉の奥が、ひどく詰まる。
なんで――
声にならない。
アタシはようやく、ゆっくりと息を吸った。
体を起こしかけて、その途中で止まる。
何かがおかしい……
視線を落とすと、白い布が胸元で重なっている。
見覚えのない合わせだった。
眠る前に着ていたはずのシャツじゃない。
指先でそっとつまむと、薄く、やわらかく、ゆるく身体に沿って落ちる。
寝ぼけているの?
そう思いたいのに、そう言い切るには、灯りの色も、空気の重さも、あまりに現実だった。
アタシは身体を起こす。
肩口から胸元へ、白い合わせの布が重なっている。
寝間着でも無いし、病衣とも違う。
もっと古いような、全然知らない形だった。
思わず指先が止まる。
自分のものじゃない服を、自分の身体が着ている。
それだけで、ぞっとした。
アタシは顔を上げる。
あの灯りは、まだそこにある。
揺れてはいないのに、影だけが微かにやわらぐ。
部屋の輪郭も、昨夜まで知っていたものと違って見えた。
壁、布、床、空気……
どれも静かなまま、なのにアタシの知っている夜じゃない。
鼻先へ、微かな匂いが届く。
筵、乾いた木、それから、どこか薬草みたいな青臭い香り。
アタシの部屋には、こんな匂いはなかった。
自分でもわからないほど、ゆっくりと振り向いてみる。
視線の先で、灯りが小さく燃えている。
その向こうには、薄い布が垂れていた。
自分の部屋なら壁なのに、壁じゃなかった。
さらに奥には、木枠の影が見える。
窓の形まで違う。
アタシはそれを見つめたまま、しばらく瞬きもできなかった。
心臓だけが、少しずつ速くなる。
夢ならいい。
まだ醒めていないと信じたい。
でも――
夢にしては、指先へ触れる布の感触が、あまりにもリアルだった。
爪の先に引っかかる織り目。
肌へ触れる空気の冷たさ。
喉の乾き。
全部、妙に現実だった。
まだ、何が起きたのかはわからない。
ただひとつだけ確かなのは、 アタシが眠る前にいた場所には、もう戻れていないということだった。
その時、薄い布の向こうで何かが動いた。
灯りの影が、ほんの少し揺れる。
アタシは息を止めた。
この部屋に誰かがいる……
この、アタシの知らない場所に……
声を出そうとしても、声が出なかった。
誰?と聞けばいいのか。
ここはどこ?と聞けばいいのか。
それとも、まだ眠っているだけだと自分に言い聞かせればいいのか。
薄い布の向こうの影が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
夢なら、ここで醒めてほしい。
そう思った。
けれど、影は消えなかった。
行灯の灯りも。
薬草の匂いも。
白い合わせの布も。
何ひとつ、消えてくれなかった。
そして、静かな足音が、 アタシの知らない朝を連れて、 すぐそこまで来ていた――
「で、足音だねェ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら笑った。
顧大嫂が酒の椀を置く。
「嫌な終わり方だねぇ」
「知らない部屋」
「知らない服」
「知らない灯り」
「そこへ誰かが近づいてくる」
孫二娘が肩を揺らした。
「逃げ場がないねェ」
幕舎の外から、すぐ声が飛ぶ。
「逃げたかったわよ!!」
顧大嫂が笑う。
「でも動けなかったんだろう?」
「動けるわけないでしょ!!」
「灯り見てたしねェ」
「まだ言う!?」
孫二娘が、にやにやしながら鍋を混ぜる。
「いやァ、あそこは長かったねェ」
「長くない!!」
「知らない灯りを見て、知らない服を見て、知らない部屋を見て」
顧大嫂が指を折る。
「その上、誰かが近づいて来る」
「最悪じゃない!!」
「最悪だねぇ」
顧大嫂があっさり頷いた。
「だから嫌な始まりだって言ってるんだよ」
孫二娘も頷く。
「寝て起きただけで、人生が変わってるんだからねェ」
「こっちは変わったなんて思いたくなかったのよ」
外から返る声が、少しだけ小さくなる。
「夢だと思いたかったの」
鍋の煮える音だけが、小さく続いた。
顧大嫂が椀を見つめる。
「夢なら醒めるからねぇ」
「そうよ」
「でも醒めなかった」
「……そうよ」
少しだけ、空気が静かになる。
孫二娘が、わざと軽く笑った。
「しかも夢の中で変な名前まで呼ばれてたねェ」
「変な名前って言わないでよ」
「だって、その時は知らない名前だったんだろォ?」
「知らないわよ」
アタシは少しだけ間を置く。
「アタシは、そんな名前じゃなかったもの」
顧大嫂が静かに頷いた。
「なのに呼ばれた」
「そう」
「嫌だねぇ」
「嫌だったわよ」
孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。
「扈三娘様、か」
その名前が出た瞬間、幕舎の外の風まで少し静かになった気がした。
顧大嫂が小さく息を吐く。
「本人より先に、名前だけが来たんだねぇ」
「そうなのよ」
アタシは腕を組む。
「だから余計に気持ち悪かったの」
「知らない名前」
孫二娘が言う。
「知らない部屋」
顧大嫂が続ける。
「知らない服」
「知らない匂い」
「知らない足音」
二人が言い終えると、また沈黙が落ちた。
それから、孫二娘がにやりと笑う。
「で、次に来るのは誰だろうねェ」
「知ってるくせに」
「アタイは知らないねェ」
「嘘つき!!」
顧大嫂が肩を揺らす。
「まあ、あの時の三娘は知らなかったんだ。そこが大事だねぇ」
「そうよ」
アタシは小さく息を吐く。
「誰が来るのかも、ここがどこなのかも、自分が何て呼ばれるのかも」
「何も知らない」
顧大嫂が言う。
「何も分からないまま、朝だけが来た」
孫二娘が、少しだけ笑みを薄めた。
「嫌な朝だねェ」
「ああ」
顧大嫂も頷いた。
「知らない朝ってのは、怖いもんだ」
幕舎の外から、もうツッコミは返らなかった。
あの時のアタシには、何も分からなかった。
行灯の灯り。
薬草の匂い。
白い合わせの布。
夢の中で聞いた、知らない名前。
そして――
薄い布の向こうから、静かに近づいてくる足音。
それが誰なのかを、あの時のアタシは、まだ知らなかった――




