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薄灯の部屋

夜の帰り道なんて、いつも同じだった。 静かな部屋に戻って、眠って、また朝が来る。

少なくとも、アタシはそう思っていた。

あの夜までは。

見覚えのない灯り、知らない部屋、知らない服。

それなのに、周りだけが、最初からアタシを知っている。

何が起きたのかなんて、まだ分からない。

ただ―― もう元の場所には戻れない事だけは、 嫌になるくらい、はっきりしていた。

夜は、少し湿っていた。 階段に足をかけるたび、硬いヒールの音だけが小さく返ってくる。

見上げると、外廊下の灯りが白くにじんで、古びたアパートの壁をぼんやり照らしていた。

人の気配はない。

聞こえるのは、遠くで揺れる電線の音だけ。

アタシは歩く。

青灰色のスーツの裾を揺らしながら、慣れた足取りで建物の前を横切る。

急いでいるわけでもない。

立ち止まる理由もない。

夜の帰宅なんて、いつもこんなものだ。

部屋の前で、ほんの一瞬だけ視線を落とす。

指先に触れた鍵は、外気を吸って冷たかった。

金属が小さく擦れる。

鍵穴に差し込み、ひねる。

乾いた手応えが返ってきて、 それでやっと、ここがアタシの帰る場所なんだとわかる。

扉を開ける。

室内は、静まり返っていた。

先に待っている声も、物音もない。

淡い灯りに照らされたベッドだけが、きちんとそこにある。

白いシーツは乱れていない。 閉じたカーテンは、夜を室内に入れまいとしているみたいだった。

アタシは部屋へ入る。

片手に持っていた上着を、まだ下ろさないまま。

誰もいない。

何も起きていない。

ただ、静かだった。

静かすぎるくらいに。

扉を閉めると、小さく、何かの音がした。

それだけで、部屋の中の静けさが少しだけ形を持つ。

アタシはその場でしばらく動かなかった。

耳を澄ましてみる。

でも何も聞こえない。

さっきと同じはずなのに、 さっきより、静かに感じた。

視線だけを動かした。

ベッド、机、カーテン。

どれも、変わっていない。

整いすぎているくらいに……

アタシは、ようやく一歩踏み出す。

床がわずかに軋む。

その音が、やけに大きく感じる。

喉の奥が、少しだけ乾く。

——こんな部屋だったか。

思っただけで、言葉にはしない。

覚えていないわけじゃない。

ただ――

「そうだった。」

と言い切るには、何かが足りない。

アタシは、ゆっくりと息を漏らす。

空気は、いつも通りのはずなのに、 ほんの少しだけ、重い気がした。

白いシーツが、薄い闇の中で静かに波打って見えた。

アタシは眠っている。

眠っているはずなのに、 意識のどこかだけが、まだ夜に触れたままだった。

頬に当たる枕はやわらかい。 指先は、無意識のまま小さく握られている。

身体は休んでいるのに、 奥の方だけが、まだ完全にはほどけていない。

静かな夜だった。

何も聞こえない。

何も動かない。

それなのに、 ただの安らかな眠りとは少し違っていた。

閉じたまぶたの裏に、 淡い灰色の気配が沈んでいる。

夢を見ているのかどうかも、よくわからない。

ただ、深く沈みきれないまま、 アタシは白い寝具の中に沈んでいた。

窓の向こうは、まだ夜だった。

カーテンの隙間からのぞく空は暗く、 遠い景色も、輪郭を失ったまま滲んでいる。

外の世界はそこにあるはずなのに、 まるで薄い膜を一枚隔てた向こう側みたいに、ひどく遠かった。

部屋の中は動かない。

アタシも動かない。

ただ、眠りだけが浅く揺れている。

夜は、まだ終わらない。

閉じたまぶたの裏に、やわらかな明るさが滲んでくる。

朝にはまだ早い。

そう思うより先に、アタシは目を開けていた。

枕に頬をつけたまま、ぼんやりと前を見る。

暗いはずの部屋の中に、 ひとつだけ灯りがあった。

小さな火。

いや、火というより、行灯のような、古い灯り。

アタシはしばらく動けなかった。

見覚えのない明かりが、 見覚えのないやわらかさで、静かにそこに立っている。

白い寝具の端を、 金とも橙ともつかない色で、淡く照らしていた。

喉の奥が、ひどく静かに詰まる。

なんで――

声にはならない。

アタシはようやく、ゆっくりと息を吸った。

体を起こしかけて、その途中で止まる。

何かがおかしい。

視線を落とす。

白い布。

眠る前に着ていたはずのシャツではない。

指先でそっとつまむと、 薄く、やわらかく、ゆるく身体に沿って落ちる。

「寝ぼけているんじゃない?」

そう思いたいのに、 そう言い切るには、灯りの色も、空気の重さも、あまりに現実だった。

アタシは身を起こす。

肩口から胸元へ、 白い合わせの布が重なっている。

寝間着とも違う。 病衣とも違う。

もっと古い、 もっと知らない形だった。

指先が止まる。

自分のものじゃない服を、 自分の身体が着ている。

それだけで、ぞっとした。

アタシは顔を上げる。

あの灯りは、まだそこにある。

揺れてはいないのに、 影だけがかすかにやわらぐ。

部屋の輪郭も、 昨夜まで知っていたはずのものと少し違って見えた。

壁、布、空気……

どれも静かなまま、 なのにアタシの知っている夜じゃない。

振り向く。

自分でもわからないほどゆっくりと。

視線の先で、灯りが小さく燃えている。

アタシはそれを見つめたまま、 しばらく瞬きもできなかった。

まだ、何が起きたのかはわからない。

ただひとつだけ確かなのは、 アタシが眠る前にいた場所には、もう戻れていないということだった。

何も分からない。

知らない灯り、知らない服、知らない部屋。

それなのに、 周りだけが、最初からアタシを知っているみたいだった。

夢だと言われた方が、まだ楽だった気がする。

でも、 あの灯りの色も、 布の感触も、 息の重さも、 全部、嫌になるくらい現実だった。

ただ―― もう元の場所には戻れない。

それだけは、 最初から、はっきりしていた。

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