女三人、東京開封府へ
あと指一本だったのに、孫二娘に全部ぶち壊されました。
「まだ言ってんのかい」
顧大嫂が呆れてるけど、言うわよ!
「三娘、未完了の行動ほど記憶に残りやすいんだよォ?」
「心理学で傷口に塩を塗ろうとするな!」
孫二娘がにやつく。
「じゃあ東京までに忘れる?」
「何で忘れる前提なの!?」
顧大嫂まで笑った。
「帰ってきたら続きやりゃいいだろ?」
「アンタまで何の続きか分かってるの!?」
しかも今度は玉楼と孫二娘と、宿元景を東京開封府まで送ることになった。
「女三人旅だねェ」
「護衛だから!」
「李俊と離れるの寂しい?」
「話を戻すな!!」
……東京へ着く前に、アタシの精神が持つかしら?
李俊との距離が、あと指一本まで縮まったのに……
そこへ孫二娘が現れて、全部ぶち壊した。
……その直後である。
「扈三娘殿、玉楼殿。林冲殿がお呼びです」
使いが来た。
何、この切り替え?
さっきまでアタシ、李俊と口づけする寸前だったんだけど……
しかも孫二娘に見られ、顧大嫂にまで知られ、玉楼には何も言われていないのに笑顔だけで全部見透かされた。
その状態から師匠の部屋へ呼び出されるとか、感情の置き場所が分からない。
「三娘様、参りましょう」
隣に立つ玉楼は、いつも通りの顔をしていた。
……いや、違う。
口元がほんの少しだけ緩んでいる。
「玉楼」
「はい」
「まだ笑ってない?」
「何のことでございましょう?」
「絶対分かってるでしょ!」
すると廊下の向こうから、追い打ちみたいに孫二娘の声が飛んできた。
「あと指一本だったねェ!」
「もう黙って!!」
最悪だ……
よりによって林冲の部屋へ向かう途中まで追撃された。
玉楼は何も言わなかったけれど、隣を見ると肩が少し揺れている。
「笑ってるじゃん!」
「申し訳ございません」
全然申し訳なさそうじゃない。
そんな状態で林冲の部屋へ入った瞬間、空気が変わった。
さっきまで頭の中を占領していた李俊の顔が、一度引っ込む。
林冲はアタシ達を座らせると、昨夜の夜襲について簡単に確認した。
討伐軍は崩したこと、高俅には逃げられたこと、すぐに軍を立て直すのは難しいことまで話すと、余計な評価を挟まず頷く。
それから少し黙り、今度は玉楼へ視線を向けた。
「……もう一つ」
朝の光は入っているのに、部屋の中には昨夜から続く重さが残っていた。
高俅は逃げたし、討伐軍は崩した。
それでも、何かが片づいた気はしていない。
アタシが林冲を見ると、その口から出たのは別の名前だった。
「扈家荘だ」
その瞬間、隣の空気が変わった。
玉楼は視線を落としただけだったが、膝の上へ置いた指がわずかに強く握られている。
呼吸も一度だけ引っかかった。
押し殺している。
でも、消えてはいない。
「焼け落ちたわね。何も残ってないわ」
平然と答えたつもりだった。
玉楼の唇が動く。
「……李逵」
出たのは名前だけだった。
それ以上を言えば、ずっと押し込めてきたものまで形になってしまう。
扈家荘を滅ぼしたのは梁山泊だ。李逵もそこにいた。
家も、人も、帰る場所も失った玉楼が、今ではその李逵と同じ山で暮らしている。
石碣に名前が刻まれようが、忠義堂に旗が掲げられようが、それで帳消しになる話じゃない。
林冲は李逵を庇わなかった。
「梁山泊にいる以上、避け続けることもできん」
玉楼の指先がまた動いた。
アタシはその手へ自分の手を重ねる。
「大丈夫。アタシがついてる」
玉楼が顔を上げた。
「三娘様……」
憎しみが消えるわけじゃないし、許せとも言えない。
アタシだって扈家荘のことを綺麗に飲み込めたわけじゃないけれど、だからこそ玉楼一人に全部背負わせる気はなかった。
林冲はしばらく黙ってから、短く言った。
「忘れろ」
玉楼の目が揺れる。
冷たく聞こえたけれど、林冲はすぐに続きを口にした。
「忘れたふりでいい。今は飲み込め。李逵を見て斬りたくなっても、ここでは斬るな」
……そっちか。
記憶まで捨てろと言っているんじゃない。
胸の中にある刃を、今ここでは抜くなということだ。
「分かったわ」
アタシが先に答えると、玉楼も時間をかけて息を整えた。
「……承知いたしました」
林冲は頷き、今度はアタシを見る。
「宋江に従え」
返事が止まった。
林冲の眉がわずかに動く。
「顔だけでいい」
「先にそれ言ってよ」
思わず口から出た。
玉楼まで小さく息を吐いている。
心まで差し出せとは言っていない。
納得しろとも、信じろとも言っていない。
梁山泊にいる以上、形だけは壊すなということだ。
「分かった。顔だけね?」
「お前は顔に出る」
「そこまで!?」
林冲は答えなかった。
否定してよ……
部屋を出ると、日はもう高くなっていた。
玉楼はいつもの半歩後ろを歩いている。
さっきの揺れは表から消えていたけれど、完全に戻ったわけではないのだろう。
「無理してない?」
「しております」
即答だった。
「そこは否定してよ」
「三娘様に嘘を申し上げても仕方ございませんので」
そう言われると何も返せない。
部屋へ戻って一息ついたところで、今度は忠義堂から使いが来た。
「お呼びです」
「今日多くない?」
使いが困った顔をする。
……この人に言っても仕方ないわね。
忠義堂へ入ると、主だった顔が揃っていた。
宋江、呉用、林冲、李俊――
そこまで見たところで、アタシの視線が止まる。
李俊もこちらを見た。
その瞬間、指一本を思い出してしまった……
反射的に顔を逸らすと、少し離れた場所にいた孫二娘が、ものすごく楽しそうな顔をしている。
やめろ……
何も言うな!
口だけでそう伝えると、孫二娘の笑みがさらに深くなった。
……通じたのが余計に腹立つ!
玉楼まで気づいたらしく、何も言わないまま口元だけが緩んでいる。
敵が多い。
いや、全員味方なんだけど……
上座に近い場所には、見慣れない一団が座っていた。
宿元景と、その供の者達だ。
縄を掛けられているわけでも、武器を突きつけられているわけでもない。
それなのに揃って顔色が悪い。
まあ、周囲全部が梁山泊だからね。
仕方ないね……
宋江が柔らかな笑みを浮かべた。
「驚かせてしまったようですな。ご安心ください。賓客としてお迎えしております」
賓客――便利な言葉だ。
宿元景は答えず、周囲へ視線を巡らせる。
宋江は構わず卓を用意させた。
「まずはお食事を。酒もございます。長旅でお疲れでしょう」
料理が並び、湯気と匂いが広がった。
それでも宿元景の一行は、すぐには箸へ手を伸ばさない。
いつの間にかアタシの隣へ寄っていた孫二娘が、小声で言った。
「選択肢があるように見えて、実際には一つしかないやつだねェ」
「心理学?」
「ただの観察」
「今日は普通なのね」
「専門用語が欲しいなら、あとでいくらでも付けてあげるよォ?」
「いらない」
宋江が盃を上げた。
「遠慮はいりません。我らは敵ではありません」
一拍置いて、穏やかな声のまま続ける。
「そう扱わせていただきます」
……怖っ。
敵ではないと言いながら、敵になる選択肢まで消している。
宿元景も察したらしく、ようやく盃へ手を伸ばした。
酒が一巡した頃、宋江が本題へ入る。
「お願いがございます。都へお戻りの際、我らのことをお伝えいただきたい。梁山泊は朝廷そのものへ逆らいたいのではない。ただ、道を正したいだけなのです」
替天行道――
あの旗の文字が頭に浮かぶ。
「その旨を、陛下へ」
徽宗皇帝――
名前を出さなくても分かる。
宿元景は酒へ口をつけ、答えまでの時間を稼いでいた。
宋江は急かさない。
急かさないから、余計に逃げにくい。
「無理を申すつもりはございません。ただ、この機を無駄にはしたくないのです。手土産も用意しております」
そこへ箱がいくつも運ばれてきた。
中には銀や絹、宝石まで入っている。
どう見ても手土産の量じゃない。
顧大嫂がここにいたら、絶対に何か言ってる。
宿元景は箱を見つめ、やがて小さく頭を下げた。
「……承る」
宋江の笑みが深くなる。
「良い縁になりそうです」
理屈は通る。
でも、やっぱり違う。
その感覚だけは消えなかった。
宴の途中、何となく向かいを見ると、また李俊と目が合った。
今度は逸らしてくれない。
やめて……
昨日の、
『続きは今度だな』
が頭の中で勝手に再生された。
孫二娘が耳元で囁く。
「顔、赤いよォ?」
「酒よ」
「一滴も飲んでないじゃないか」
「うるさい!」
宋江がこちらを見る。
「何か?」
「何でもありません!」
顔だけで従え。
林冲の教えが、もう危ない。
宴が終わる頃には話が決まり、宿元景は明朝に発つことになった。
梁山泊から護衛を付け、東京開封府まで送り届ける。
表向きは護衛。
どう考えても、それだけじゃない。
部屋へ戻った直後、また宋江から呼ばれた。
「今日、何回呼ばれるの!?」
玉楼が少し笑う。
「お忙しゅうございますね」
「嬉しくない!」
宋江の部屋には呉用もいた。
「宿元景殿の道中を、そなたに任せたい」
「アタシ?」
「孫二娘も同行させる」
アタシが玉楼を見るより先に、玉楼が一歩出た。
「わたくしも同行いたします」
宋江は少し考えたが、すぐ頷く。
「よかろう」
呉用から道筋を書いた紙を受け取る。
「東京開封府まで確実にお願いいたします。余計な争いは避けてください」
「……努力します」
呉用の羽扇が止まった。
「努力ではなく」
「分かってるわよ!」
部屋を出ると、廊下の壁へ孫二娘がもたれていた。
「行くわよ」
「東京だろォ?」
「もう知ってるの!?」
「情報は早い方が価値があるからねェ」
さっきまで宴で酒を飲んでいた女とは思えない。
「宿元景の護衛。玉楼も一緒」
「そうなるよねェ」
孫二娘の笑みが少し消える。
「護衛っていうより、無事に都まで連れてって、ちゃんと喋ってもらうための付き添いだろォ?」
核心だけは外さない。
「そういうこと」
「面倒だねェ」
「嫌?」
「まさか? 東京見物だと思えばいいじゃないか」
「そんな余裕ある?」
「作るんだよォ」
夜になり、玉楼が三頭の馬を確認していると、孫二娘がふらりと現れた。
「もう終わったのかい?」
「問題ございません」
「真面目だねェ?」
「旅で油断する理由にはなりませんので」
そこへ別の足音が近づいてきた。
李俊だった。
……何で来るの?
「明日、出るんだってな」
「うん……東京まで」
「そうか」
会話が妙にぎこちない。
孫二娘はこちらを見ているし、玉楼まで手綱を確認するふりをしながら絶対に聞いている。
李俊が少しだけ近づいた。
昨日ほどじゃない。
でも、近い。
「戻ってこいよ」
胸の奥が跳ねた。
「……分かってる。アンタも勝手にどっか行かないでよ?」
「行かねえよ」
「ならいいわ」
李俊が笑う。
その顔を見た瞬間、昨日の続きがまた頭へ浮かんだ。
孫二娘がわざとらしく咳払いする。
「今日は指三本くらい空いてるから安心だねェ」
「測るな!!」
李俊が顔を逸らした。
耳が赤い。
アンタもまだ引きずってるじゃん!
翌朝、まだ空が薄暗いうちに三頭の馬が門前へ並んだ。
宿元景達も少し先で支度を整えている。
玉楼が最後の確認を終え、孫二娘は欠伸をしながら馬へ跨った。
「早いねェ」
「昨日も言ってたわよ?」
「朝が早いのは何回でも早いんだよォ」
アタシも馬へ乗り、門を出る。
東京へ向かう道をしばらく進んだところで、ふと妙なことを思った。
宿元景を都へ送り、女三人で道中を固める。
揉め事があれば止め、場合によっては誰かを黙らせることになるかもしれない。
……何これ?
「水戸黄門とか、西遊記みたいね」
孫二娘が片眉を上げた。
「水戸黄門にしちゃ、女しかいないねェ?」
「そこ?」
「そこだよォ。助さんも格さんもいないじゃないか」
「まあ、いないわね」
「いるとしたら、お銀くらいかねェ」
「誰が?」
孫二娘が、にやりと笑った。
「さあねェ」
「アンタでしょ」
「否定はしないよォ」
「凄い自信……」
「自己評価は適切にねェ?」
「そこで心理学を盾にするな!」
孫二娘はまるで気にせず笑っている。
問題はもう一人だった。
玉楼が、さっきから静かに首を傾げている。
「三娘様」
「はい」
「みと、こうもん、とは何でございましょう?」
来た――
「そこは知らなくていい」
「では、お銀とは?」
「それも知らなくていい!」
孫二娘が横から楽しそうに口を挟む。
「アタイみたいなイイ女だよォ」
「自分で言う!?」
玉楼は冗談として流さず、孫二娘を一度じっと見た。
「なるほど……では、美しい女性なのでございますね?」
「玉楼!?」
「見る目あるねェ」
「そこで意気投合しないで!」
何でアタシが一番疲れてるのよ。
玉楼はしばらく考えたあと、今度は別の言葉へ引っかかったらしい。
「先ほど仰ったもう一つは、玄奘三蔵が天竺へ赴いた話でございましょうか?」
「あ、そっちは近い」
「大唐西域記なら存じております」
孫二娘が肩を揺らした。
「玉楼、そこから来るのかい?」
「違うのでございますか?」
「違わないけど、アタイらが知ってるのは、もうちょっと賑やかなやつなんだよォ」
「猿がいるのよ」
「猿、でございますか?」
しまった。
説明すればするほど遠ざかる。
孫二娘が楽しそうに続きを話そうとしたので、先に止めた。
「ここから先は長くなるから終了!」
「まだ何も説明してないよォ?」
「アンタが始めたら絶対長い!」
玉楼はしばらく考えた末、追及するのを諦めたらしい。
「承知しました。では、道中の警戒を優先いたします」
「真面目だねェ」
玉楼は前を向いたまま返す。
「孫二娘様が軽すぎるのでございます」
孫二娘が黙った。
一拍遅れて、アタシは堪えきれず吹き出す。
「玉楼が刺した!」
「この子、最近強くなってないかい?」
「何の成長よ!」
「三娘様と孫二娘様のおそばにおりますので」
「原因アタシ達なの!?」
玉楼は真面目な顔のままだった。
たぶん、本気で言っている。
それが余計に面白くて、孫二娘まで笑い出した。
笑い声の先にも、道は東京まで続いている。
宿元景を送り届ければ、それで本当に終わるのか、朝廷が宋江の言葉をどう受け取るのか、高俅が黙っているのか、梁山泊そのものがこれからどこへ向かうのかも、まだ何一つ見えない。
林冲に言われたばかりだ。
何のために斬るのか?
今のアタシには、その答えだってまだ出ていない。
それでも進むしかない。
水戸黄門でも、西遊記でもない。
黄門様も助さんも格さんもいないし、猿まで探し始めたら、もう何の旅だか分からなくなる。
この旅で並んで行くのは、アタシと玉楼と孫二娘。
「まあ、女三人旅ね」
孫二娘が笑った。
「物騒な女三人旅だねェ」
玉楼は真面目な顔のまま前を見る。
「道中、安全であるよう努めます」
「そういう意味じゃないのよ」
三人は止まらない。
朝の道を、東京開封府へ向かって進んでいく。
東京開封府へ向かうことになりました。
三娘様、孫二娘様、そしてわたくしの三人旅でございます。
「物騒な三人だねェ?」
「護衛だから!」
孫二娘様が笑います。
「でも三娘、東京より気になるものが梁山泊に残ってるんじゃないかい?」
「何の話!?」
「あと指一本」
「東京まで持ってくるな!!」
わたくしは何も申し上げておりません。
ただ、出立前の李俊様との距離が、前日より少し広かったことは確認しております。
「玉楼まで測ってたの!?」
「目測でございます」
「そこ真面目に答えないで!」
さて三娘様。
東京から戻った時、その指一本は――
今度こそ、なくなるのでございましょうか?




