何のために、斬るのか
何のために、斬るのか――
斬る理由なんて、戦場では考えている暇がない。
目の前に敵がいるから斬る。
来る前に潰すと決めたなら、潰す。
でも、終わった後に残るものはある。
「勝ったんだろ?」
顧大嫂が言った。
「勝ったわよ」
「なら、顔が勝った顔じゃないねェ」
孫二娘がこちらを見る。
「高俅には逃げられた」
「まあ、ああいう男は逃げ足だけは速そうだねぇ」
否定できない。
討伐軍は崩した。
こちらへ来る前に潰すことはできた。
でも、高俅は逃げた。
林冲の中にあるものも、終わっていない。
「何のために斬るのか、か」
顧大嫂が低い声で言った。
「難しいねェ」
孫二娘が肩をすくめる。
「でも、考えないで斬るよりはマシだよォ」
確かに、そうかもしれないと思った――
敵は、一気に崩れ始めた。
隊列が割れ、敵兵が散る。
声が乱れ、火が揺れる。
もう元には戻らない。
アタシは馬を進め、逃げる兵を追う。
深くは入るつもりはない。
押す場所だけ押し、割れる場所だけ割る。
敵兵を斬り、刃を抜く。
次も、また斬る。
火の匂いに、血の匂いが混じった。
「右、薄いです!」
玉楼の声が飛ぶ。
「押す!」
返すより先に、身体が動いた。
敵陣の脇腹へ入る。
こちらの兵がなだれ込む。
押された敵兵が、支えを失って崩れた。
孫二娘が、低く笑う。
「ほ〜ら、逃げるよォ」
「逃がすんじゃないよ!」
顧大嫂の声が後ろから飛ぶ。
逃げ道を塞ぐ。
でも、完全には囲まない。
詰めすぎれば、死に物狂いで噛み返してくる。
崩して、少しずつ削り、散らす。
それでいいと思った。
「止まれ」
号令を出すと、前が詰まった。
荒かった呼吸が、少し戻る。
「深追いしないで」
玉楼がすぐ後ろから続けた。
「止まれ!」
声が通り、崩れかけていたこちらの形が、少しずつ戻る。
孫二娘が舌打ちした。
「もう少し、やれただろうよォ」
顧大嫂が短く返す。
「十分だよ。追いすぎりゃ、別の連中に待ち伏せされるのかもしれないからねぇ」
アタシが前を見ると、敵は逃げ惑っている。
でも、もう列を成していない。
バラバラに散っていった。
今夜の目的は、ここで討ち尽くすことじゃない。
集まりかけた形を、形になる前に壊すことだ。
「退くわ」
夜のまま、その場を離れた。
とりあえず山寨に帰る。
静かに戻ると、梁山泊の門が開いた。
頭領達の迎えは少なかった。
灯りだけが、少し増えている。
中へ入ると、林冲はもうそこに待っていた。
「戻ったか」
アタシは頷いた。
縛られた兵が運ばれてくる。
数はそんなに多くない。
でも、選んである。
逃げ遅れた雑兵じゃない。
伝令。
小頭目。
荷の位置を知っていそうな者。
命令の通り道にいた者。
玉楼が順に並べ、顔を上げさせた。
アタシは一人ずつ見た。
「こいつは残す」
「あいつは外して」
玉楼が頷く。
「分けます」
孫二娘が肩を回した。
「で、どうする?」
顧大嫂は黙っている。
逃がさない目だった。
アタシは視線を落とす。
夜の湿りが、まだ衣に残っていた。
「情報を吐かせる」
玉楼がすぐに動く。
縛り直し、場所を分ける。
手際が早い。
でも、まだ終わっていない。
一隊を潰しただけじゃ、終わらない。
逃げた兵は別の部隊に混ざり、高俅はまた後ろから命令を出す。
「敵を休ませないで」
玉楼が返す。
「次に行きます」
孫二娘が笑った。
「いいねェ」
顧大嫂が一言だけ言う。
「逃がさない」
アタシは空を見る。
夜は、まだ終わっていない。
しばらくして、捕虜の一人が口を割った。
高俅は、この先の本陣にはいない。
今夜の襲撃を聞き、さらに北へ逃げたようだった。
残った兵をまとめ直し、明け方までに別の場所で合流するつもりらしい。
聞いた瞬間、腹の奥が冷えた。
やっぱり逃げる。
約束を踏み倒し、兵を集め、撃退されれば自分だけ後ろへ下がる。
分かりやすすぎて、怒るのも馬鹿らしい。
でも、怒りは消えなかった。
「もう一度出るわ」
玉楼は驚かなかった。
「用意は済んでいます」
孫二娘が笑う。
「もう一回かい」
顧大嫂が息を吐く。
「まあ、懲りる相手じゃないしねぇ」
四人が揃った。
全員、迷いはない。
まず、一つ潰した。
でも、まだ足りない。
こちらに来る前に、潰す。
「場所は」
玉楼が地図を開く。
「北へ動いております。合流地点は、まだ定まっておりません」
「つまり、途中で叩けるわね」
「はい」
「追いかけて、叩く」
孫二娘が肩を鳴らした。
アタシは手綱を取る。
夜は切れていない。
まだ続いている。
だから、終わらせる。
闇の中を進む。
速く――
でも、音は立てない。
遠くに火が見えた。
数は多い。
でも、広がり方が悪い。
まとまっていない。
急いで集めた兵だ。
空気だけは張っている。
こちらの夜襲を受けた後だから、警戒はしている。
でも、遅い。
「……感付いてるねェ」
孫二娘が小さな声で言った。
顧大嫂が鼻を鳴らす。
「感付いた頃には、もう遅いねぇ」
アタシは前を見る。
動きが揃っていない。
集まりきれていない。
守る場所が多すぎる。
「バラバラね」
玉楼が頷く。
「まだ整っていません」
「行くわよ」
一気に距離を詰めた。
敵が、こちらに気づく。
でも、もう遅い。
叫び声が上がる頃には、こちらは間合いへ入っている。
敵兵を斬り、隊列を割る。
間合いを断ち、流れを切る。
踏み直す暇を与えない。
「押し切れ!」
全員が前へ出た。
夜が裂ける。
崩れたまま、戻らない。
敵兵が踏み直せない。
叫び声だけが増えていく。
玉楼が後ろを締める。
孫二娘が横から裂く。
顧大嫂が逃げる先を塞ぎ、逃げ道が細くなる。
そこへ敵が詰まる。
その時、火の奥に、一つだけ厚い場所が見えた。
周りが叫ぶ中、そこだけ守りが固い。
「そこ」
玉楼が先に気づいた。
「分かってる」
アタシは一気に踏み込んだ。
邪魔な兵を払い、間へ入る。
でも、そこにいたのは高俅ではなかった。
青ざめた顔の将が、馬上で震えている。
鎧は上等だ。
でも、目が泳いでいる。
護衛の兵が前へ出ようとした。
アタシは剣を喉元へ突きつける。
「動くな」
空気が止まった。
「高俅はどこ」
男の喉が鳴る。
「……し、知らぬ」
刃を少し押す。
「もう一度」
男の顔が歪んだ。
「北へ……先に退かれた」
周囲の兵が、わずかに揺れた。
高俅は、ここにもいない。
兵を残し、自分だけ先へ逃げた。
「アンタの大将、薄情ね」
男は答えなかった。
答えられないのだろう。
アタシは息を吐いた。
「縛って。使える」
玉楼が頷く。
「承知しました」
残りの兵は散った。
でも、これ以上は追わない。
今夜は、これでいい。
二つ目の部隊も潰した。
高俅には逃げられた。
でも、もう整え直すには時間がかかる。
暗い夜のまま、梁山泊へ戻る。
門をくぐると、今度は人が起きていた。
忠義堂にも灯りがついている。
捕らえた将と兵が転がされる。
そこには、林冲が待っていた。
じっと捕虜を見ている。
高俅じゃない。
それでも、空気は重かった。
林冲が静かに言う。
「高俅は?」
アタシは首を振った。
「逃げられた」
林冲の目が、少しだけ細くなる。
「兵を置いてか」
「そうよ」
短い沈黙。
林冲は笑わなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、小さい声で言った。
「らしいな」
それだけだった。
その声が、ひどく重かった。
東が、わずかに白み始めていた。
夜はまだ残っている。
でも、朝が来る。
アタシは湖の畔へ出た。
玉楼が後ろにいる。
孫二娘と顧大嫂もいる。
誰も喋らない。
水が黒く揺れていた。
「……分かってる」
誰に向けた訳でもない。
「宋江の理屈は通る」
風が吹く。
「でも、納得できない」
水面が崩れる。
「アタシ達、何なの?」
玉楼が静かに返す。
「山賊です」
孫二娘が肩をすくめた。
「何様のおつもりかねェ」
顧大嫂が、ため息をつく。
「アタイらは、お上に文句があるから山賊なんだけどねぇ」
アタシは水を見る。
何も映らない。
「替天行道までは分かる」
でも――
「忠義双全って、意味分かんない」
誰も笑わなかった。
朝になって、林冲に呼ばれた。
部屋へ入ると、林冲は座ったまま言った。
「昨夜の話だ」
静かな部屋だった。
「俺は、あれに全てを奪われた」
林冲は前を見ていない。
「官も、名も、妻も」
しばらくの沈黙の後――
「自分に罪はない」
低い声だった。
「だが、罪にされた」
アタシは何も言わない。
「理由は一つだ」
林冲が続ける。
「妻を奪いたかった」
静かな声だった。
でも、重い。
「それで、人は落ちる」
林冲が息を吐く。
「恨みだと思うか」
間を置かない。
「違う」
自分で切る。
「戻らないものを、戻らないままにしておけないだけだ」
部屋が静かになる。
「理屈じゃない」
小さく息を吐く。
「でも、違う」
昨夜のアタシと同じ言葉だった。
視線が合う。
「……お前も、その顔だ」
逃がさない目だった。
「宋江の理屈で、納める気はない」
独り言みたいだった。
「なら、どうする」
アタシはすぐには答えなかった。
林冲が先に言う。
「ここにいるしかない」
現実だった。
「梁山泊だ。外に出れば、終わる」
否定できない。
「それでも……」
林冲の視線が刺さる。
「終わらせる気はない顔だ」
アタシは、少しだけ息を吐いた。
「まだ、終わらせる気はない」
玉楼は何も言わない。
林冲が、わずかに頷いた。
「なら、見失うな」
「何を」
「何のために斬るのかだ」
その言葉は、静かに胸に響いた。
林冲は続けない。
アタシも、何も返せなかった。
夜はようやく明けた。
高俅は逃げた。
討伐軍は撃退した。
来る前に潰す――
それはできたんだと思う。
けれど、終わった気はしなかった。
林冲の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
何のために斬るのか。
その問いだけが、朝の静けさの中で消えずにいた。
何のために、斬るのか――
林冲殿の問いは、静かでした。
ですが、軽いものではございませんでした。
敵を斬り、味方を守る。
先に潰す。
戦であれば、それだけで進める時もございます。
ですが、終わった後に残るものもあります。
「勝ったんだろう?」
顧大嫂殿が言いました。
「はい」
「でも、三娘の顔は晴れなかったんだねェ」
孫二娘殿が続けます。
「はい」
高俅は逃げました。
討伐軍は崩しました。
けれど、林冲殿の中にあるものは、終わっておりません。
「何のために斬るのか、ねぇ」
顧大嫂殿が腕を組みました。
「答えがすぐ出るもんじゃないねぇ」
「でも、考えないで斬るよりは怖くないよォ」
孫二娘殿が言いました。
私は、少しだけ頷きました。
扈三娘様は、怒りだけで斬られる方ではございません。
ですが、怒りをなかったことにもできない方です。
だからこそ、迷われる。
だからこそ、止まらずに考えられる。
「玉楼、珍しく褒めてるねェ」
「事実でございます」
何のために、斬るのか。
その問いを持ったまま進むことも、扈三娘様の強さなのだと思います。




