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来る前に、潰す

来る前に、潰す――

相手が準備を整えてから待ち受ける。

それも、ひとつの戦い方だと思う。

でも、今回は待ちたくなかった。

高俅は返された。

約束もした。

でも、帰ったらすぐ兵を集め始めた。

「まあ、そうなるよねェ」

孫二娘が鼻で笑った。

「高俅が約束なんか守る訳ないだろうよォ」

「分かってたなら、腹も立たないんじゃないかい?」

顧大嫂が言う。

「立つわよ」

「だろうねぇ」

宋江の理屈は分かる。

高俅を使いたかったのも分かる。

でも、分かったからって納得できる訳じゃない。

「で、待たないことにしたんだねェ」

「待たない」

「三娘らしいねぇ」

顧大嫂が腕を組む。

「向こうが形を作る前に叩く。そりゃ筋だ」

林冲を、高俅の前に出したくなかった。

だから、先に動く。

戦いが終わり、忠義堂へ戻ると、中は静かだった。

灯りだけが揺れている。

勝った後の熱は、もう残っていない。

誰も大きな声を出さない。

誰も笑わない。

その中央に、一人の男が転がされていた。

縄で縛られている。

衣服は乱れ、顔には土がついている。

それでも、名前は知っていた。

高俅――

梁山泊を苦しめてきた男。

そして、林冲から全てを奪った男。

アタシは足を止めた。

横にいる林冲は、何も言わない。

ただ、高俅を見ていた。

睨んでいる、という言葉では足りない。

目を逸らさず、瞬きもしない。

そこだけ空気が張り詰めている。

触れれば切れる。

そんな感じだった。

高俅が顔を上げた。

目が合った訳じゃない。

けれど、怯えた視線がこちらへ流れた。

その瞬間、林冲が動いた。

速かった。

迷いがない。

怒鳴りもしない。

踏み込んだ足音だけが、床を打ち、蛇矛が走る。

刃は、高俅の喉元で止まった。

薄く皮を裂き、赤い筋が一つ落ちる。

誰も動けなかった。

高俅の顔から血の気が引く。

口を開く。

声は出ていない。

林冲は何も言わない。

ただ、刃を当てたまま見下ろしている。

「待て!」

宋江の声が響いた。

林冲の腕は止まっている。

でも、刃は離れない。

少し押せば、それで終わる距離だった。

宋江が前へ出た。

「ここで斬れば、終わる」

誰も口を挟まない。

「我らがな」

空気が重く沈んだ。

宋江の言っている意味は分かる。

分かってしまう。

高俅を捕らえた。

だからこそ、使い道がある。

ここで殺せば、梁山泊は朝廷と完全に切れる。

でも、分かることと、納得することは違う。

林冲の腕が、わずかに震えた。

刃はまだ高俅の喉にある。

宋江は続けた。

「高俅は生かして返す。帰れば、朝廷へ取り次がせる。招安の道も開ける」

林冲は動かない。

アタシは一歩前へ出た。

蛇矛を持つ腕に手を添える。

重い――

押せば、そのまま行く。

少しでも力が緩めば、刃は喉を裂く。

それでも離さなかった。

「……ダメ」

林冲の目が、少しだけ揺れた。

「逃がすのも違う。でも、ここで殺すのも違う」

自分で言っていて、嫌になる。

正しいことなんて、たぶんない。

林冲が斬りたい理由は、誰よりも分かる。

宋江が止める理由も、分かる。

だから、余計に苦しい。

その時、高俅が震えた声を出した。

「わ、分かった……」

喉に刃を当てられたまま、目が泳いでいる。

「帰れば、すぐ取り次ぐ。悪いようにはしない。朝廷へも、きちんと……」

軽い……

軽すぎる。

命乞いの言葉だ。

信用なんてできない。

けれど、口だけはよく回る。

「今ここで殺せば、損だぞ。貴様らも分かっているはずだ」

玉楼が、後ろで小さく息を止めた。

分かる。

その言い方が、ひどく癪に障った。

林冲は動かなかった。

ただ、高俅を見下ろしている。

やがて、蛇矛がわずかに下がった。

その瞬間、宋江が言った。

「縄を解け」

忠義堂の空気が凍った。

誰もすぐには動けない。

やがて、宋江配下の兵が、ためらいながら、前へ出た。

高俅の縄が解かれる。

縄が床に落ちる音だけが、やけに大きく聞こえた。

高俅は崩れるように座り込んだ。

肩で息をし、怯えている。

でも、その顔には、助かったという色が浮かんでいた。

それが、余計に腹立たしかった。

その夜、林冲の部屋は静かだった。

灯りが低い。

扉は閉められ、外の音は遠い。

中にいるのは、林冲とアタシと玉楼。

それから、李俊だった。

林冲は立ったまま、動かない。

しばらく、誰も口を開かなかった。

やがて、林冲が言った。

「……殺せた」

誰も返せない。

「今なら」

その声は低かった。

怒鳴っている訳じゃない。

泣いている訳でもない。

だから、余計に重かった。

「手を伸ばせば、届くところにいた」

玉楼が小さく息を飲んだ。

アタシは林冲を見る。

分かる、なんて軽く言えない。

でも、分からない訳でもない。

梁山泊へ来る前から、ずっとそこにあったものだ。

奪われたもの。

失ったもの。

取り戻せなかったもの。

その相手が、目の前に転がされていた。

アタシはゆっくり息を吸った。

「……でも、今じゃない」

林冲は黙っている。

「ここでやったら、終わるわ」

言いながら、自分でも嫌になる。

そんなこと、林冲だって分かっている。

分かった上で、刃を止めた。

横から、軽く息を吐く音がした。

「湖まで来て、首一つで全部台無しはな」

李俊だった。

壁に寄りかかり、腕を組んでいる。

いつものように軽く聞こえる声だった。

でも、芯は外していない。

「ここまで積んだものがある。感情一つで崩すには、ちと大きすぎる」

林冲は黙ったまま、何も言わない。

李俊も、それ以上押さなかった。

ただ、静かに続ける。

「だから厄介なんだろうけどな」

部屋が静かになる。

林冲が、ゆっくり息を吐いた。

その息で、ようやく刃の音が遠くなった気がした。

翌朝、高俅は梁山泊を出た。

宋江は見送りに立った。

高俅は何度も頷き、もっともらしい顔で礼を言った。

誰も信じていなかった。

少なくとも、アタシは信じていない。

林冲は動かなかった。

ただ、見ていた。

高俅の背が遠くなる。

門を出る。

さらに小さくなる。

やがて見えなくなる。

それでも、林冲はしばらくその場に立っていた。

これで終わりだなんて、誰も思っていなかった。

数日後――

梁山泊へ伝令が駆け込んできた。

「報告します!」

息が荒く、顔色も悪い。

忠義堂の中にいた者達が、一斉に振り向く。

「高俅、帰還!」

やっぱり……

そう思った。

「討伐軍、再編中! 兵を集めております!」

忠義堂の空気が変わった。

宋江の顔が強ばり、呉用が目を伏せる。

頭領達の間に、小さいざわめきが走った。

アタシは、驚かなかった。

帰した。

そして、裏切られた。

それだけだ。

高俅は約束を守らなかった。

取り次ぎもしない。

恩にも感じない。

ただ戻り、また梁山泊を潰す準備を始めた。

分かりやすすぎて、腹も立つ。

忠義堂を出ると、いつものように、玉楼が後ろにつく。

今回は李俊も、そのままついて来た。

部屋へ入り、扉を閉める。

そこで、ようやく息を吐いた。

「……気に入らない」

玉楼は黙っている。

「こうなるって、分かってた」

卓へ指を置く。

叩きたくなったが、やめた。

「宋江の理屈も、意味も分かる。高俅を使いたかったのも分かる。でも、結局迷惑を被るのはこっちよ」

玉楼が短く頷いた。

「はい」

それだけでよかった。

李俊が壁に寄りかかったまま言う。

「貸しってのは、返してもらえる時だけ意味がある」

アタシは笑わなかった。

「踏み倒されたわね」

「綺麗にな」

短い沈黙が落ちる。

怒りは消えない。

でも、怒りの置き場所は決まっていく。

待つ気はない。

高俅が兵を整えるのを待って、正面から受ける必要なんてない。

相手が約束を破ったのなら、こちらも綺麗な形に付き合う必要はない。

「整う前を叩く」

玉楼が顔を上げる。

「討伐軍が集まり切る前に潰す」

「可能です」

即答だった。

「場所は」

「北側に兵が集まっております。まだ隊列は整っておりません」

「なら、今夜」

玉楼の目が静かに細くなる。

「夜襲でございますね」

「うん」

もう迷わない。

「同じ土俵で受ける理由はない。向こうが準備できる前に、こっちから行く」

李俊が小さく笑った。

「らしくなってきたな」

「褒めてる?」

「かなりな」

「じゃあ、素直に受け取る」

李俊は肩をすくめた。

玉楼が、いつもの位置へ戻る。

「孫二娘殿と顧大嫂殿にも声を」

「お願い」

「承知しました」

夜は深かった。

梁山泊は静かに見える。

でも、止まってはいない。

孫二娘と顧大嫂は、すぐに来た。

話を聞くと、二人とも驚かなかった。

「高俅が約束なんか守る訳ないだろうねェ」

孫二娘が鼻で笑う。

顧大嫂も腕を組む。

「待ってりゃ、向こうが形を作る。なら、形になる前に叩くのが筋だねぇ」

「そういうこと」

アタシは手綱を握った。

林冲には、まだ言っていない。

言えば止めないだろう。

止めないどころか、前に出るかもしれない。

今の林冲を、高俅の前に出したくなかった。

だからこそ、先に動く。

これは林冲の仇討ちじゃない。

高俅への怒りだけでもない。

向こうが来る前に、潰す。

梁山泊を守るために動く。

ただ、それだけだ。

「行くよ」

玉楼が頷き、孫二娘が口元を上げ、顧大嫂が肩を回す。

李俊が、静かに外を見る。

四人が動く。

音は立てず、馬の息だけが白く落ちる。

夜の中へ出る。

高俅が準備を整える前に。

またこちらが振り回される前に。

来る前に、潰してやる。

来る前に、潰す――

扈三娘様は、そう決められました。

高俅が兵を整えるのを待たない。

向こうが形を作る前に、こちらから崩す。

「まあ、正しいねぇ」

顧大嫂殿が言いました。

「待ってたら、相手の都合で戦うことになる」

「高俅の都合に付き合う義理はないねェ」

孫二娘殿も鼻で笑います。

「約束を踏み倒した相手だよォ」

「はい」

宋江殿の理屈は、分からなくはありません。

高俅を生かして返すことで、道が開けると思われたのでしょう。

ですが、開いたのは道ではなく、次の討伐でした。

「玉楼、言うねぇ」

顧大嫂殿が少し笑いました。

「事実でございます」

扈三娘様は、怒っておられました。

ですが、怒りだけで動かれた訳ではございません。

林冲殿を、高俅の前へ出したくなかった。

梁山泊を、相手の準備が整うまで待たせたくなかった。

だから、先に動かれた。

「三娘らしいねェ」

孫二娘殿が言いました。

「腹が立ったら、ちゃんと戦にするんだよォ」

「はい。そこが、あの方の強さです」

怒りを、そのまま刃にしない。

けれど、飲み込んで終わりにもしない。

来る前に、潰す。

私は、その判断を間違いだと思ってはおりません。

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