沈むのは船だけじゃない
湖の向こうに、ものすごくでかい船が来た。
「……あれ、本気で梁山泊に入れるつもり?」
孫二娘が笑う。
「大きい方が強そうに見えるからねェ。視覚的な威圧って効くんだよォ」
顧大嫂が首を傾げた。
「でも、底に穴開けられたら終わりじゃないか?」
「そんな簡単に――」
言い終わる前に、李俊たちが水へ潜った。
嫌な予感がする。
しばらくして、向こうの船で兵が桶を持って走り始めた。
「……マジで穴開けたの!?」
「物理には心理学も勝てないねェ」
「アンタが言う!?」
顧大嫂が笑う。
「でかい船ほど、沈む時は派手そうだねぇ」
そして本当に沈み始めた。
……高俅。
アンタまで乗ってるなら、その豪華な登場演出、たぶん長く持たないわよ?
湖の向こうに、でかい船が浮かんでいた。
でかい、なんてもんじゃない。
梁山泊の舟を見慣れてきたアタシでも、思わず馬上から見上げたほどだった。
何層もの楼を載せ、兵をぎっしり詰め、旗までこれでもかというくらい立てている。
「あれ、船よね?」
孫二娘が目を細めた。
「建物が水に浮いてるようにも見えるねェ」
顧大嫂が腕を組む。
「あんなもん、本当に沈まないのかい?」
「沈まぬつもりで造られたのでございましょう」
玉楼だけは真顔だった。
「そりゃそうだけど!」
向こうで銅鑼が鳴る。
高俅の軍が動き始めた。
陸から押し切れないなら、水から梁山泊へ乗り込むつもりらしい。
巨大な船が何艘も横へ広がり、その後ろにも兵を載せた小舟が続いている。
遠目でも分かる。
金が掛かってる。
「すっごい威圧感」
「大きい物は、それだけで強く見えるからねェ」
孫二娘が妙に楽しそうだ。
「人間は視覚的な大きさを、そのまま安心感や強さに結びつけやすいんだよォ」
「また心理学?」
「アタイの専門だからねェ」
「でも、あれ実際強そうじゃない?」
「さてねェ」
孫二娘は湖の別の場所を見た。
そこでは梁山泊の水軍が動き始めていた。
李俊たちの舟は小さい。
高俅側の大型船と比べると、頼りなく見えるくらいだ。
思わず身を乗り出した。
「大丈夫なの?」
顧大嫂が横からこちらを見る。
「誰の心配だい?」
「水軍!」
「へえ」
「何よ、その顔!」
孫二娘まで口元を上げる。
「水軍ねェ?」
「だから水軍!」
玉楼が何も言わず前を向いている。
それが一番腹立つ。
湖面では、小舟が一斉に散った。
大型船へ真正面からぶつかる気はないらしい。
左右へ分かれ、相手の周囲を滑るように走る。
速い。
高俅側も弓を射るが、的が小さく、しかも動き続けている。
大型船が向きを変えようとする。
遅い。
「そりゃ曲がれないわよね」
その時、小舟の一艘が大型船のすぐ脇へ寄った。
「近くない?」
ぶつかると思った。
でも、ぶつからない。
代わりに人影が次々と舟から消えた。
「……え?」
一人。
二人。
三人。
水しぶきだけを残して、湖へ飛び込んでいく。
「何してんの?」
孫二娘が身を乗り出した。
「潜ったねェ」
「それは見れば分かる!」
でも、上がってこない。
小舟だけが大型船から離れていく。
高俅側の兵も、水へ矢を射ようとしているが、どこにいるのか分からないらしい。
しばらくして――
大型船の甲板が騒がしくなった。
兵が下を見ている。
何人かが慌てて船の奥へ駆け込んでいった。
「……何?」
さらに人が走る。
今度は桶を抱えている。
玉楼が静かに言った。
「水が入っております」
「どこから!?」
言った瞬間、分かった。
「まさか……」
孫二娘が笑った。
「船底だねェ」
「穴開けたの!?」
顧大嫂が大笑いした。
「あんなでかい船でも、底に穴が開きゃ沈むわな!」
「身も蓋もない!」
いや、底はある。
その底に穴を開けられてるんだけど。
考えたら負けだ。
高俅側も必死だった。
兵が桶で水を掻き出す。
別の兵が穴を塞ごうとしているらしい。
でも一か所じゃない。
別の場所からも水が上がった。
船底へ潜った水軍が、あちこちを破っている。
大型船がゆっくり傾いた。
甲板の兵が片側へ走る。
さらに傾く。
「待って待って! そっち全員で行ったら!」
遅かった。
重心が一気に片側へ寄った。
船体が大きく傾き、兵がまとめて湖へ落ちていく。
悲鳴。
水しぶき。
旗が倒れる。
さっきまであれほど威張っていた巨大な船が、水へ飲まれ始めた。
「もう沈むの!?」
孫二娘が肩を揺らす。
「安心できると思ってた物が急に危険になると、人間は判断を誤りやすいからねェ」
「あっちは心理学より先に物理で沈んでる!」
二艘目でも兵が騒ぎ始めた。
こっちもやられたらしい。
三艘目は逃げようとする。
けれど、大きすぎて急には向きを変えられない。
後ろの船とぶつかった。
「何やってんの!?」
「でかいって不便なんだねぇ」
顧大嫂が妙に感心している。
その隙間へ小舟が滑り込む。
先頭に李俊がいた。
立ったまま湖面を見ている。
どこが浅く、どこなら大型船が動けず、どこへ追い込めば互いに邪魔になるのか。
全部分かってるみたいだった。
大声で兵を煽ってるわけでもない。
派手に敵将を斬ってるわけでもない。
なのに、船が一艘、また一艘と動けなくなっていく。
「……すご」
口から出た。
孫二娘がこちらを見る。
しまった。
「何も言わないで」
「まだ何も言ってないよォ?」
「顔が言ってる!」
「三娘の顔もねェ」
「何がよ!」
玉楼の口元まで、わずかに緩んだ。
「玉楼まで!」
「何も申し上げておりません」
それが一番ずるい。
湖へ戻る。
勝負はもう決まりかけていた。
水へ落ちた兵は板へしがみつき、大型船の上では浸水を止めるために兵が走り回っている。
その外側を梁山泊の舟が回り、逃げようとする舟だけを確実に潰していく。
そして、ひときわ騒がしい船から男が一人、引きずり出された。
遠くて顔までは見えない。
でも周囲の慌て方で分かった。
「……高俅?」
「そのようでございます」
「もう!?」
孫二娘が吹き出す。
「登場演出に予算使い過ぎたんじゃない?」
「メタい!」
高俅は小舟へ移され、そのまま岸へ運ばれてきた。
少し遅れて李俊も降りる。
濡れた袖を払い、こちらを見る。
「何だ、その顔?」
「いや……」
沈みかけた巨大船を見る。
それから李俊を見る。
「アンタ、強いわね」
李俊が止まった。
「……急にどうした?」
「見たまま言っただけ」
「そうか」
顔を逸らした。
何でそっちが照れるのよ。
孫二娘が後ろで囁く。
「双方」
「聞こえてる!」
戦いが終わり、忠義堂へ戻ると、中は静かだった。
勝った後の熱は消えていた。
中央には、縄で縛られた高俅が座らされている。
衣は乱れ、髪からまだ水が滴っていた。
そして、その前に林冲がいた。
何も言わない。
高俅だけを見ている。
あれほど大きな船が沈み始めた時より、高俅の顔から血の気が引いた。
林冲が動く。
速かった。
怒鳴りもしない。
踏み込んだ足が床を打ち、蛇矛が走った。
刃は高俅の喉元で止まった。
皮が薄く裂け、赤い筋が一つ落ちる。
誰も動けない。
あと少し。
それだけで終わる。
「待て!」
宋江の声が響いた。
林冲は止まったままだ。
刃だけは離さない。
宋江が前へ出る。
「ここで斬れば、終わる」
林冲は見ない。
「我らがな」
意味は分かる。
高俅を生かして返し、朝廷への取り次ぎに使う。
招安の道を作る。
ここで殺せば、その道まで切れる。
理屈は分かる。
でも、納得できるかは別だった。
林冲の腕が、わずかに震えた。
アタシは前へ出る。
蛇矛を持つ腕へ手を添えた。
重い。
「……ダメ」
林冲の目が動く。
「逃がすのも違う。でも、ここで殺すのも違う」
言いたくない。
こんな役。
でも、林冲が止まれないなら、今は止める。
「わ、分かった!」
高俅が声を上げた。
「帰れば必ず取り次ぐ! 朝廷へ話を通す! 悪いようにはせぬ!」
軽い。
あまりに軽い。
「私をここで殺せば、貴様らにも得はない! 分かっているはずだ!」
林冲の蛇矛が、もう一度動きかけた。
……何で命乞いしながら偉そうなの、この人?
長い沈黙のあと、刃が下がった。
「縄を解け」
宋江が言う。
忠義堂の空気が固まった。
兵がためらいながら縄を外す。
床へ落ちる音だけが響いた。
その夜、林冲の部屋にはアタシと玉楼、それから李俊がいた。
しばらく誰も話さなかった。
やがて林冲が言う。
「……殺せた」
胸が詰まる。
「今なら、届いた」
簡単に「分かる」なんて言えなかった。
李俊が壁へ背を預ける。
「湖まで来て、首一つで全部台無しはな」
林冲は振り向かない。
「ここまで積んだものがある。感情一つで沈めるには、大きすぎる」
今日、大型船を何艘も沈めた男が言うと妙に説得力がある。
「だから厄介なんだろうけどな?」
それ以上は押さなかった。
李俊は、こういう時に踏み込まない。
相手が黙るなら、黙ったまま待つ。
アタシは横顔を見た。
「……何だ?」
「見てない」
「またそれか?」
玉楼がこちらを見た。
しまった……
今、この空気でやることじゃなかった。
翌朝、高俅は梁山泊を出た。
朝廷へ取り次ぐ。
必ず話を通す。
恩は忘れない。
よく喋る。
アタシは一つも信じなかった。
そして数日後――
伝令が忠義堂へ駆け込んできた。
「高俅、帰還! 討伐軍を再編しております! 各所より兵を集めているとのこと!」
……ほらね。
驚きもしなかった。
孫二娘が肩をすくめる。
「返報性の原理ってのがあってねェ。普通は恩を受けたら返したくなる傾向が――」
「高俅には搭載されてなかったのね!」
「そうみたいだねェ」
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「さっき沈めときゃよかったねぇ」
「本人を!?」
「船ごと」
怖い……
でも、一瞬だけ賛成しかけた。
忠義堂を出て部屋へ戻ると、玉楼と李俊もついてきた。
「……気に入らない」
玉楼が頷く。
「はい」
「宋江の考えは分かる。高俅を使いたかったのも。でも結局、また兵が来る」
李俊が壁に寄りかかった。
「貸しは返してもらえる時だけ価値がある」
「踏み倒されたわね……」
「綺麗にな」
腹は立つ。
でも、怒ったまま待っている理由はない。
高俅が兵を揃えて、陣を組んで、準備万端で来るまで待つ必要もない。
「整う前を叩く」
玉楼が顔を上げた。
「討伐軍が集まり切る前に?」
「そう。こっちから行く」
「場所を調べます」
即答だった。
李俊が小さく笑う。
「らしくなってきたな?」
「褒めてる?」
「かなりな」
「じゃあ受け取っとく」
玉楼が孫二娘と顧大嫂を呼びに行く。
二人は話を聞いても驚かなかった。
「高俅が約束を守るって考える方が、認知的不協和起こしそうだよォ」
「もうちょっと普通に喋って!」
顧大嫂が腕を組む。
「待ってりゃ向こうが形を作る。作る前に叩きゃいい」
「そういうこと」
林冲には、まだ言っていない。
言えば止めない。
むしろ自分が前へ出るかもしれない。
今の林冲を、高俅の前へ出したくなかった。
これは仇討ちじゃない。
梁山泊を守るために、次の攻撃を潰す。
それだけだ。
「行くよ」
玉楼が隣へ来る。
孫二娘が口元を上げ、顧大嫂が肩を回した。
李俊がこちらを見る。
「三娘」
「何?」
「戻ってこいよ」
一瞬だけ言葉に詰まった。
何で毎回、出る前にそれ言うのよ。
「……アンタも来るんでしょ」
「水路が使える所まではな」
「じゃあアンタも戻ってきなさいよ」
李俊が笑った。
「分かった」
後ろから孫二娘の声がする。
「もう誰も両思い否定しなくなってきたねェ?」
「してるから!」
「今、してなかったじゃないか」
顧大嫂まで乗ってくる。
「うるさい!」
玉楼は何も言わない。
ただ、少しだけ笑っていた。
夜の梁山泊を出る。
馬の息が白く落ちる。
高俅が兵を揃える前に。
またこちらが振り回される前に。
来る前に、潰してやる。
玉楼でございます。
高俅様は、生かして帰されました。
「恩は忘れないって言ってたねェ」
「で、数日後には討伐軍を集めてる」
顧大嫂様が鼻を鳴らされます。
「忘れるの早すぎないかい?」
「記憶じゃなくて性格の問題だと思うよォ」
「心理学でも治らない?」
「アタイは医者じゃないからねェ」
三娘様が深く息を吐かれました。
「だったら、揃う前にこっちから行く」
その時、李俊様が仰います。
「戻ってこいよ」
三娘様は少し黙ってから、
「アンタも戻ってきなさいよ」
と返されました。
孫二娘様が、にやりと笑われます。
「はい、相互確認完了」
「何の!?」
……三娘様。
高俅様への信用は沈みましたが、別のものは随分と浮かんでまいりましたね?




