戦線の反転
「水際まで引っ張ったわよ」
そう言った時、孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。
「また無茶したねェ」
「無茶じゃないわよ」
「梁山湖まで敵を引っ張るのが無茶じゃないなら、何が無茶なんだい?」
顧大嫂が酒の椀を置きながら言う。
「しかも、わざと崩れたふりをしたんだろう?」
「そうよ」
「それを無茶って言うんだよ」
「言わないわよ」
言い返したけど、少しだけ目を逸らした。
実際、危なかった。
王煥は崩れなかった。
老人だった。
でも、弱くなかった。
こちらが押せると思った場所で受ける。
無理をしない。
深く来ない。
こちらの刃が届いても、浅く終わる。
ああいう相手は嫌だ。
強いだけなら、まだ分かりやすい。
勢いだけなら、崩せる。
でも、崩れない相手は厄介だ。
「老風流、王煥ねぇ」
孫二娘が口の中で転がす様に言った。
「名前からして面倒そうだねェ」
「実際、面倒だったわよ」
「三娘が一気に抜けなかったんだろう?」
「抜けなかったわよ」
認めるしかなかった。
左から崩しに入った。
当たった。
押した。
でも、そこだけ硬かった。
押せば押すほど、こちらが伸びる。
伸びれば、そこを突かれる。
左が前へ出過ぎて、戦線が歪んだ。
あのまま行けば、こっちが崩れていた。
顧大嫂が低く笑う。
「で、そこへアタイらが突っ込んだ訳だ」
「助かったわよ」
そう言うと、孫二娘がにやりと笑った。
「おや、素直だねェ」
「助かったものは助かったのよ」
「もう一回言ってみな」
「言わない」
「けちだねェ」
顧大嫂が肩を揺らす。
「まあ、あそこは危なかったねぇ」
「分かってる」
あの一瞬、孫二娘隊が入らなければ、左は押し返されていた。
アタシが止めようとしても、数が違った。
玉楼が斬り開いても、穴はすぐに埋まった。
あれは、一人二人でどうにかする場面じゃなかった。
横からぶつけて、流れそのものを変えるしかなかった。
「でも、押し返した後も止まらなかったじゃないか」
孫二娘が鍋を混ぜながら言う。
「止まったわよ」
「止まれって言われたからねェ」
「止まったんだからいいでしょ!」
「言われなきゃ止まらなかった顔してたよォ」
顧大嫂が頷く。
「出過ぎてたねぇ」
「……少しね」
「少し?」
「少しよ」
二人が同時に笑った。
うるさい。
でも、否定しきれなかった。
押し返した時、流れが変わった。
敵が退いた。
こっちの勢いが乗った、その瞬間は気持ちいい。
風が前へ抜ける。
敵の隊列が割れる。
刃が入る。
馬が走る。
身体が勝手に前へ出る。
でも、そこで止まれなければ、今度はこちらが伸びる。
伸びれば切られる。
切られれば崩れる。
王煥の隊は、それを狙える相手だった。
「林冲は?」
顧大嫂が聞く。
「動かなかった」
「見てたんだねぇ」
「そうよ」
中央で保っていた。
崩れない。
焦らない。
アタシ達が押しても、押し過ぎても、まだ動かない。
だから分かった。
このままじゃ、ただ削り合いになる。
こっちも敵も、簡単には崩れない。 なら、場所を変えるしかない。
「それで梁山湖かい」
孫二娘が言った。
「そうよ」
「水際へ引っ張って、水軍と挟む」
「そう」
「性格悪いねェ」
「策よ」
「綺麗に言うじゃないか」
「アンタ達、前にも同じ事言ってたわよ」
顧大嫂が笑う。
「だって同じ事してるからねぇ」
たしかに、そうかもしれない。
押して、引く。
崩れたふりをする。
敵を乗せる。
前に出させる。
隊列を伸ばす。
足場の悪い場所へ誘う。
そして、水際で挟む。
真正面から勝つだけが戦じゃない。 嫌というほど分かっている。
「でも、乗って来たんだろォ?」
「乗ったわ」
敵は来た。
押せると思ったのだろう。
こちらが崩れたと思ったのだろう。
追ってきた。
速く。
止まらず。
前へ前へ。
でも、水際へ入った瞬間、馬の脚が鈍った。
地面が柔らかい。
草が低い。
湿った空気が重い。
隊列が伸びて、足が取られて、そこへ――
「李俊が来た」
アタシが言うと、孫二娘が鍋杓子を止めた。
「良い所で来るねェ」
「本当にね」
水が割れて、船が来た。
敵の横腹へ食い込んだ。
水軍が入った瞬間、流れが完全に変わった。
あれは助かった。
いや、助かったというより、そこで決まった。
顧大嫂が少しだけ目を細める。
「三娘、李俊の事になると顔が少し違うねぇ」
「は?」
孫二娘がすぐに乗る。
「違うねェ」
「違わないわよ」
「いや、今ちょっと柔らかかったよォ」
「柔らかくない!」
「船が来た時、嬉しかったんだろう?」
「そりゃ嬉しいわよ!勝ち筋が来たんだから!」
「勝ち筋ねェ」
「何よ!」
顧大嫂が笑う。
「まあ、そういう事にしておこうかねぇ」
「そういう事って何よ!」
二人は笑っている。
玉楼は、少し後ろで何も言わない。 でも、多分、聞いている。
絶対に聞いている。
「玉楼、何か言いなさいよ」
そう振ると、玉楼は静かに答えた。
「李俊殿の到着は、最良の時機でした」
「ほら!」
「ただし、三娘様のお顔については、私からは控えます」
「控えないで否定しなさいよ!」
孫二娘が吹き出した。
「玉楼まで分かってるじゃないかァ」
「違う!」
違う。
多分、違う。
……多分。
顧大嫂が椀を持ったまま言う。
「まあ、勝ったんだ。いいじゃないか」
「まだよ」
アタシは首を振った。
敵は崩れた。
水際で潰した。
王煥の隊も退いた。
でも、これで終わりじゃない。
本隊はまだある。
次も来る。
こちらも消耗している。
追い過ぎれば、こっちが切れる。
止まり過ぎれば、押される。
戦はまだ続く。
孫二娘が、少しだけ笑みを引っ込めた。
「分かってるよ」
顧大嫂も頷く。
「だから食うんだよ」
「またそれ?」
「またそれだねぇ」
孫二娘が鍋をよそう。
「走って、斬って、引っ張って、水際まで誘って、まだ腹が減ってないなんて言わせないよォ」
「減ってるわよ」
「なら食え」
「はいはい」
椀を受け取る。
湯気が上がる。
水際の湿った空気とは違う、熱い匂いだった。
王煥は崩れなかった。
敵は厚かった。
でも、こちらも崩れなかった。
林冲が正面を保ち、アタシ達が左を押し、孫二娘と顧大嫂が流れを変え、李俊が水から来た。
一人ではない。
それが、今日の勝ちだった。
「……次も来るわね」
小さく言うと、玉楼が頷いた。
「はい」
孫二娘が笑う。
「なら、次も叩くんだろォ?」
「当然よ」
顧大嫂が酒を煽る。
「その前に食いな」
「分かってるわよ」
アタシは熱い鍋を一口すすった。
水際の戦は終わった。
でも、戦はまだ終わっていない。
それでも、今は少しだけ息を入れる。
次に走る為に――
馬を前へ出した瞬間、風が変わった。
隊列が後ろへ流れていく。
人の声も、槍の鳴る音も、遠くなる。
馬の脚が地面を叩く。
胸の奥へ残っていた重さが少しだけ削れていった。
「飛ばすよ!」
玉楼は答えない。
ただ、半歩後ろの位置を崩さずについてくる。
地面が流れる。
風が顔に当たり、気持ちいい。
そう思った次の瞬間、遠くの土煙が目に入った。
細い――
でも、一本じゃない。
人と馬の動きが、こちらへ向かって伸びている。
「……来てる」
胸の熱が、一気に冷えた。
玉楼が視線を寄せる。
「多うございますね」
「近付き過ぎない」
手綱を少し引く。
馬の速度を落とし、斜めに距離を取る。
敵の先鋒だけを見て、奥は見過ぎない。
見過ぎれば、寄りたくなる。
「戻るわ!」
玉楼が頷いた。
林冲の下へ駆け戻る。
馬を寄せ、正面に並ぶ。
「前方、騎兵含む先鋒」
「数、三百強」
「歩騎混成」
「隊列、崩れなし」
「進軍速し」
「後続、さらに控えてる模様」
玉楼が続けた。
「本隊と推測されます」
林冲は前を向いたまま、短く聞く。
「距離」
「十里」
玉楼が先に答えた。
……助かった。
危うく、別の言い方をするところだった。
林冲は、それだけで十分だという様に蛇矛を立てた。
「陣形を取れ」
声は荒くない。
でも、よく通った声だった。
前列が割れ、左右に開く。
中央が残り、後列が押し上がる。
槍が前へ出る。
弓が上がる。
ざわついていた音が、一つの形へ変わっていく。
アタシは左翼へ入った。
玉楼が半歩後ろに入る。
土煙は、もう近い。
線だったものが、面になって迫って来る。
「……おいでなすったわね」
玉楼は黙っていた。
弓が鳴り、空が裂けた。
矢が降り、盾が上がる。
木と鉄に当たる音が、一斉に弾けた。
「前列、押せ!」
槍が出る。
ぶつかる。
音が潰れる。
中央も右も耐えている。
左は、まだ空いている。
なら――
「左翼、入る!」
馬を入れ、刃を抜く。
左から斜めに切り込む。
最初の手応えは悪くなかった。
敵兵の槍を払い、馬首を崩す。
一人が倒れ、後ろが詰まる。
そこへさらに押し込む。
「そこよ!」
隊列が揺れ、割れる。
でも、そこで止まった。
崩したはずの場所が、崩れ切らない。
後ろからすぐに槍が出る。
押した分だけ、こちらの列が前へ伸びる。
伸びた所を、横から突かれる。
「……嫌な相手」
前が静かに割れた。
一騎が出てくる。
白髪の混じった髭に年老いた顔……
でも、目は鋭かった。
「老風流、王煥」
名乗りは低かった。
槍が来る。
速い……
とは少し違う。
無駄の無い動き。
こちらが入ろうとする場所へ、先回りされている。
刃で受けた瞬間、腕が重くなった。
「ッ……!」
押し返されるほどではない。
でも、入れない。
こちらが斬り込んでも、深く入らない。
王煥は無理に追わない。
崩しに来ない。
ただ、こちらが伸びた分だけ受け、こちらが焦れた所を突く。
「……やるわね」
玉楼が半歩後ろで槍を構えた。
「深く入らせてくれません」
「分かってる」
分かっている……
だから腹が立つ。
勢いで押せる相手なら、まだいい。
強く押し返してくる相手なら、噛み合う。
でも、これは違う。
押しているのに、進んでいない。
勝っている様で、こちらだけが伸びている。
左が膨らみ、後ろが詰まる。
王煥の隊が、そこを逃さず噛んでくる。
「左、引け!」
激を飛ばす。
でも、一歩遅く押し返される。
前列が揺れ、後ろの馬が詰まり、隊列が歪む。
「まずいわね」
玉楼が前に出た。
槍が走り、詰まった場所を斬り開く。
でも、穴はすぐに埋まった。
数が違う。
相手の形が崩れない。
アタシは馬を横へ振り、割れ目へ入った。
「耐えて!」
刃で槍を振り払い、押し戻す。
それでも、押される。
その時、横から別の音が来た。
「ほら、突っ立ってないで行くよォ!」
孫二娘の声だった。
孫二娘隊が横からぶつかる。
顧大嫂の隊も、少し遅れて出口を塞ぐ様に入った。
流れが変わった。
一瞬だけ、王煥の隊の形が歪む。
「今よ!」
馬を前に出し、アタシは左から押す。
玉楼が中央へ入り、孫二娘が右を裂く。
三つに裂かれ、敵の足が浮いた。
「押し返すよ!」
さっきまでの圧が消えた。
敵が下がり、こちらの前が開く。
気持ちいい。
風が抜け、刃が入る。
馬が更に前へ出る。
でも――
「止まれ!」
声を張った。
前列が詰まり、息が戻る。
危ない。
今のは、行けた。
でも行き過ぎれば、また伸びる。
王煥なら、そこを突く。
土煙の向こうで、さらに厚い影が動いた。
さっきより広い土煙だ。
数が違う。
「……本隊ね」
玉楼が頷く。
孫二娘が横に来た。
「やるじゃないか」
「まだ来るわ」
前を見ると、蹄の音が重くなる。
幅が広がり、正面が暗くなる。
林冲の声が飛んだ。
「保たせろ」
中央が沈み、槍が立つ。
押されながらも、隊列は崩れない。
アタシは左で構える。
今度は深く行かない。
浅く入り、同じ所を叩き、削る。
玉楼が隣につく。
少しずつ、敵の線が歪む。
「今よ!」
押し込み、前列が噛み合い、割れる。
でも、また返してくる。
しつこいし、崩れない。
このままじゃ、削り合いになり、終わらない。
中央を見ると、林冲は動いていない。
動けないんじゃない。
戦況を見ている。
なら、アタシが動く。
馬を寄せる。
「このままじゃ埒があかない」
「退くわよ」
「梁山湖まで引き寄せる」
「水際で潰すわ」
玉楼が後ろで言う。
「水軍と挟みますか」
「そう」
林冲がこちらを見た。
「出来るか」
アタシは頷いた。
「やるに決まってるじゃない!」
前を見る。
敵はまだ押している。
こちらが弱ったと思っている。
左が揺れたと思っている。
なら、それを使う。
「左翼、退け!」
一瞬だけ遅らせる。
全体を揃えない。
ズレを作る。
そこへ敵が食いついた。
「いいわ。来なさい」
中央も少し緩め、右も落とす。
形が崩れ始める。
わざとだ――
でも、わざとでも怖い。
押される感覚は本物だ。
背筋が凍る感じがした。
「崩れるな!」
声を飛ばし、踏みとどまらせる。
でも、保たないふりをするため、退き始める。
敵が乗った――
前へさらに寄せてきて、敵の隊列が伸びる。
「……乗ったわね」
玉楼が言う。
「来ます」
「退くよ!」
今度は本当に退く。
馬を返し、一気に下がる。
味方が後ろへ流れ、逃げる形になる。
後ろを振り返ると、敵兵は追ってきている。
それでいい。
前を見回すと、遠くに、湖の気配がある。
空気が湿り、草が低くなる。
地面が泥濘む。
馬の脚が沈み、 敵の速度が鈍る。
先頭が乱れ、後ろが詰まる。
勢いで追ってきた分だけ、隊列が長く伸びる。
「……ここね」
その時、水の音が変わった。
横から波が割れる。
舟が突っ込み、一直線に敵の横腹へ食い込んでいく。
「来たわね」
船上の影がこちらを見る。
「扈三娘、遅いぞ」
李俊だ――
その声を聞いた瞬間、張っていたものが少しだけ緩んだ。
「頼むわ!」
馬首を返す。
次はこっちの番だ。
押し込み、噛み合っている所へ水軍が横から裂く。
正面から押し戻す。
他の部隊が後ろを塞ぎ、逃げ場が消える。
敵の隊列が割れた。
伸び切った線が、そこで切れる。
馬が泥に取られ、兵が水際へ押し込まれる。
流れが変わった。
もう止まらない。
「行け!」
声が通り、前の列が伸びる。
また同じだ。
「……止まれ」
今度は早く言えた。
前列が止まり、息が戻る。
周りを見ると、敵兵は逃げている。
もう列を成していない。
「十分ね」
玉楼が頷く。
横で波が鳴っている。
舟が並ぶ中、その上で李俊がこちらを見た。
アタシが軽く顎を引く。
それだけで、意味は通じた。
水際の戦が終わっても、空気はまだ湿ったままでした。
梁山湖の近くまで敵を引き込み、足場を重くし、隊列を伸ばす。
そこへ李俊殿の水軍が横から入る。
敵は崩れました。
勝ちです。
間違いなく、勝ちでした。
ですが――
楽な勝ちではありませんでした。
王煥殿は、崩れない方でした。
強く押し返すのではなく、無理に前へ出るのでもなく、こちらが押せる場所で静かに受ける。
扈三娘様の刃が届いても、深くは入らせない。
左翼が伸びた所を、確実に突く。
ああいう相手は、本当に厄介です。
そして――
いつもの様に、孫二娘殿と顧大嫂殿は鍋の前におられました。
水際で敵を挟んでも鍋。
王煥殿が崩れなくても鍋。
李俊殿が良い所で現れても鍋。
もはや、お二人にとって鍋とは、戦の後始末まで含めた軍議の一部なのかもしれません。
――閑話休題
「で?」
孫二娘殿が鍋を混ぜながら言いました。
「三娘、水際まで引っ張ったんだって?」
外から、すぐに声が返りました。
「引っ張ったわよ」
顧大嫂殿が酒の椀を置きます。
「また危ない事をしたねぇ」
「危なくないわよ」
「梁山湖まで敵を誘って、崩れたふりまでして、それで危なくないのかい?」
少しだけ間がありました。
「……危なくはあったわよ」
孫二娘殿が笑います。
「認めたねェ」
「認めたからって、無茶とは言ってない!」
「同じ様なもんだよォ」
「違う!」
扈三娘様の声は強めでした。
ですが、今回はいつもの勢いだけではなく、戦の疲れも混じっておりました。
無理もありません。
王煥殿は、簡単に崩れる相手ではありませんでした。
扈三娘様が左から押しても、受ける。
玉楼が斬り開いても、すぐに穴を埋める。
こちらが勢いに乗れば、その分だけ伸びた所を突いてくる。
孫二娘殿が、鍋杓子を止めました。
「老風流、王煥ねェ」
「面倒だったわよ」
外から、扈三娘様が低く返します。
「弱くない」
「派手でもない」
「でも、崩れない」
「こっちが押した分だけ、危なくなる」
顧大嫂殿が頷きました。
「嫌な相手だねぇ」
「本当にね」
「で、そこへこっちが突っ込んだ訳だねぇ」
「助かったわよ」
即答でした。
孫二娘殿が、にやりと笑います。
「おや、今日は素直だねェ」
「助かったものは助かったのよ」
「もう一回言ってみな」
「言わない」
「けちだねェ」
少しだけ、場が緩みました。
ですが、あの場面は本当に危なかったのです。
左翼は伸びていました。
押せている様で、実は押し返される寸前でした。
扈三娘様が止めようとしても、数が違う。
私が前を斬っても、穴はすぐに塞がる。
あれは、一人二人でどうにかする場面ではありませんでした。
横からぶつけて、流れそのものを変える必要がありました。
孫二娘殿と顧大嫂殿の隊が入った事で、左の流れは変わりました。
ですが――
それでも、王煥殿の隊は崩れ切りませんでした。
顧大嫂殿が言います。
「林冲は動かなかったんだろう?」
外から返事がありました。
「動かなかったわ」
「見てたんだねぇ」
「そうよ」
林冲殿は、中央を保っておられました。
焦らず、動かず、正面を崩さない。
扈三娘様達が押しても、押し過ぎても、まだ全体を見ておられた。
だからこそ、扈三娘様も判断されたのでしょう。
このままでは削り合いになる。
なら、場所を変えるしかない。
水際へ引く。
敵を乗せる。
足場の悪い場所へ誘う。
そこで、水軍と挟む。
孫二娘殿が鍋を混ぜ直しました。
「性格悪い策だねェ」
外から、即座に声が返ります。
「策よ」
「綺麗に言うじゃないか」
「前にも聞いたわよ、それ」
顧大嫂殿が笑いました。
「だって、やってる事は似てるからねぇ」
確かに、そうかもしれません。
押して、引く。
崩れたふりをする。
相手を乗せる。
前へ出させる。
隊列を伸ばす。
そして、こちらの得意な場所で挟む。
真正面から勝つだけが戦ではない。
扈三娘様は、その事を何度も見て来られました。
そして、今回はご自身でそれをなさいました。
その時、孫二娘殿が少し楽しそうに言いました。
「で、李俊が来たんだろォ?」
外の空気が、ほんの少し変わりました。
「来たわよ」
「良い所で?」
「良い所で」
「嬉しかったかい?」
「そりゃ嬉しいわよ。勝てる形が来たんだから」
孫二娘殿が笑いました。
「勝てる形ねェ」
「何よ」
顧大嫂殿も肩を揺らします。
「まあ、そういう事にしておこうかねぇ」
「そういう事って何よ!」
私は黙っておりました。
黙っておりましたが、分かってはおりました。
李俊殿の水軍が現れた時、扈三娘様の空気は、確かに少し変わりました。
それは甘いものではありません。
浮ついたものでもありません。
ただ、張っていた糸が一瞬だけ緩む様な……
「ああ、来た」と思える様な……
そういう変化でした。
孫二娘殿が私を見ます。
「玉楼」
「はい」
「アンタも見てただろォ?」
「はい」
外から、扈三娘様の声が飛びました。
「見てないで否定しなさいよ!」
私は静かに答えました。
「李俊殿の到着は、最良の時機でした」
「ほら!」
「ただし、三娘様のお顔については、私からは控えます」
「控えないで否定しなさいよ!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「玉楼まで分かってるじゃないかァ」
「違う!」
扈三娘様の声が、少しだけ慌てておられました。
……珍しい事です。
顧大嫂殿が椀を持ったまま言いました。
「まあ、勝ったんだ。いいじゃないか」
外から、すぐに返事がありました。
「まだよ」
その声は、もう茶化しておりませんでした。
「敵は崩れた」
「水際で潰した」
「王煥の隊も退いた」
「でも、これで終わりじゃない」
孫二娘殿も、笑みを少し引っ込めました。
「本隊があるねェ」
「そうよ」
「次も来る」
「来るわ」
顧大嫂殿が頷きます。
「こっちも消耗してるしねぇ」
「分かってる」
扈三娘様は、分かっておられました。
追い過ぎれば、こちらが伸びる。
止まり過ぎれば、押される。
勝ったからといって、終わりではありません。
一つの流れを取っただけです。
ですが、その一つを取れたのは、決して一人の力ではありませんでした。
林冲殿が正面を保つ。
扈三娘様が左を押す。
孫二娘殿と顧大嫂殿が流れを変える。
李俊殿が梁山湖から入る。
私は、半歩後ろで三娘様の崩れる場所を見ている。
それぞれが、それぞれの位置で動いたからこそ、水際の流れは変わったのです。
孫二娘殿が、鍋をよそいました。
「まあ、食いな」
外から返事が来ます。
「またそれ?」
「またそれだよォ」
顧大嫂殿も続けます。
「走って、斬って、引っ張って、水際まで誘って、まだ腹が減ってないなんて言わせないよ」
「減ってるわよ」
「なら食え」
「分かってるわよ」
幕舎の入口から、手だけが伸びました。
椀を受け取る手です。
孫二娘殿と顧大嫂殿が、顔を見合わせて笑いました。
水際の戦は終わりました。
ですが、戦そのものはまだ終わっておりません。
王煥殿は崩れませんでした。
敵は厚く、簡単には割れませんでした。
けれど、こちらも崩れませんでした。
一人ではない。
その事が、今日の勝ちだったのだと思います。
夜は、静かに湿っておりました。
ただ静かなまま――
鍋を混ぜながら、扈三娘様の出過ぎる足を笑っていた孫二娘殿。
酒を飲みながらも、戦の流れと後始末を見ていた顧大嫂殿。
「次も来る」
と分かっていながら、それでも当然の様に前を見る扈三娘様。
そして、その半歩後ろで、水際の勝ちが一人のものではなかった事を見ていた私を――
夜の湿った風の中へ、静かに残している様でした。




