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止まる方が難しい

林冲殿の下へ戻ったら、職場の顔ぶれが増えた。

「扈三娘殿、深追いにはお気をつけください」

黄信は紳士。

「お前は勝手に前へ出るな!」

顧大嫂が絡んだ瞬間、孫立は別人。

「義兄貴、あたしだけ扱い酷くないかい!?」

「今までの自分に聞け!」

孫二娘が楽しそうに笑った。

「身内になると抑制が外れる典型例だねェ」

「義兄貴を症例にするな!」

……何、この職場?

「ところで三娘も前へ出すぎるよねェ?」

「アタシは止まれる!」

「へえ?」

「何、その顔!」

顧大嫂まで笑う。

「あたしより先に飛び出すんじゃないか?」

「飛び出さない!」

絶対に止まる。

今日は止まってみせる。

――たとえ、その先に李俊がいても。

馬を前へ出した瞬間、風が変わった。

隊列が後ろへ流れていく。

人の声も、槍の鳴る音も遠ざかり、代わりに馬の蹄が地面を叩く音だけが身体へ響いてくる。

胸の奥に残っていた重さまで、少しずつ後ろへ置いていける気がした。

「飛ばすよ!」

玉楼は答えない。

ただ、半歩後ろの位置を崩さずについてくる。

第四軍を解いて林冲麾下へ戻り、また二人で斥候に出るようになった。

懐かしい。

でも、昔と同じじゃない。

今は後ろに誰がいて、どのくらいの速さで本隊が動けるかまで考えてしまう。

大将癖、抜けてないなあ。

そんなことを思った次の瞬間、遠くの土煙が目に入った。

細い。

でも、一本じゃない。

人と馬の動きが、こちらへ向かって伸びている。

「……来てる」

胸の熱が一気に冷えた。

玉楼が目を細める。

「多うございますね」

「近付き過ぎない」

馬の速度を落とし、斜めに距離を取る。

敵の先鋒だけを見る。奥まで確かめようとして寄りすぎたら、斥候じゃなくて突撃になる。

……アタシの場合、特に。

「戻るわ!」

玉楼が頷いた。

林冲のもとへ駆け戻り、馬を並べる。

「前方、歩騎混成。先鋒だけで三百強」

「隊列に乱れはございません。後方にさらに本隊が続いております」

玉楼が続けてくれた。

「距離」

林冲が聞く。

「十里ほどでございます」

また玉楼が先に答えた。

助かった。

危うく「けっこう近い」とか「何メートル」とか言うところだった。

林冲は蛇矛を立てる。

「陣形を取れ」

声は荒くない。

それでも、林冲の声が通った瞬間、ばらばらだった音が一つの形へ変わった。

歩兵が中央を固める。

騎馬が左右へ分かれる。

その中に見覚えのある顔が二人いた。

孫立と黄信。

林冲麾下へ戻ったことで、戦場でも顔を合わせる機会が増えている。

黄信が馬を寄せた。

「扈三娘殿、左翼をお願いできますか? 私は中央寄りを支えます」

「分かった」

「深追いにはお気をつけください」

何でみんなアタシにだけそれ言うの?

顔に出たらしい。

黄信が少し困ったように笑った。

「念のためです」

紳士だ……

言ってる内容は林冲や李俊と同じなのに、何故か腹が立たない。

その横を孫立が通る。

「顧大嫂たちは歩兵の後列だ。崩れた場所へ入れる」

「義兄貴! 聞こえてるよ!」

後ろから顧大嫂の声が飛んだ。

孫立の眉が動く。

「お前は呼ばれるまで出てくるな!」

急に口調変わった。

「誰が勝手に出るって言った!」

「お前だ!」

「まだ出てないだろ!」

「今まで何回出た!」

完全に身内だ。

孫二娘が顧大嫂の横から顔を出す。

「へえ、孫立ってアンタ相手だとずいぶん口悪くなるんだねェ?」

「義兄貴だからねぇ」

「お前まで煽るな!」

孫立が怒鳴る。

孫二娘が楽しそうに笑った。

「いいねェ、家族システム。外では抑制できる行動が身内相手だと解除される」

「戦場で義兄貴を症例にするんじゃないよ!」

「誰が症例だ!」

……林冲麾下、前よりうるさくなってない?

その時、弓弦が鳴った。

空気が切り替わる。

矢が降り、盾へ当たる音が一斉に弾けた。

「来るぞ!」

林冲の号令。

中央で槍が立つ。

敵の先鋒がぶつかった。

アタシは左へ馬を入れる。

「玉楼!」

「はい!」

左から斜めに切り込む。

最初の手応えは悪くない。

敵兵の槍を払い、日月双刀の片方で馬首を逸らす。

一騎が倒れ、後ろが詰まったところへさらに入る。

「そこ!」

敵の線が揺れた。

でも――崩れない。

後ろからすぐに次の槍が出てくる。

押した分だけこちらが前へ伸び、その伸びた脇腹へ別の兵が噛みついてきた。

「扈三娘殿、半歩お下がりください!」

黄信の声が飛ぶ。

「分かってる!」

「でしたら、今です!」

正しい。

何でこういう時だけ正論が刺さるの?

馬を引こうとした時、敵の前列が静かに割れた。

一騎が出てくる。

白髪の混じった髭。

年老いた顔。

けれど、槍を持つ腕には少しも緩みがない。

「老風流、王煥」

来た――

名前より先に槍が来る。

速い――というより、早い。

こっちが動き始める前に、そこへ穂先が置かれている。

刃で受けた瞬間、腕に重さが走った。

「ッ……!」

強引に押してこない。

追ってもこない。

ただ、アタシが入ろうとした場所を潰す。

もう一度右から回ろうとすると、その前に王煥の馬が半歩だけ動いた。

入れない。

「何、この人……」

玉楼がすぐ横へつく。

「三娘様の進まれる先を塞いでおります」

「分かってる。だから腹立つの!」

王煥の槍がまた来る。

アタシが受ける。

その外側から玉楼が突く。

王煥は無理に二人を相手にせず、馬を引いて自軍の槍列へ戻った。

追えない。

追えばこっちが伸びる。

「老風流って、もっとふわっとした渾名じゃないの!?」

後ろから孫二娘の声が飛んだ。

「三娘ァ! 年齢で油断するのはステレオタイプだよォ!」

「今そこ分析する!?」

「教授として見過ごせなくてねェ!」

「授業は帰ってからにして!」

顧大嫂が笑う。

「余裕あるじゃないか!」

「ない!」

その間にも王煥の隊は崩れない。

左翼だけが少しずつ膨らみ、前へ伸びていく。

まずい……

王煥は多分、それを待っている。

「左、引く!」

声を上げた。

ところが敵は、こちらが退くより半歩早く押してきた。

前列が詰まる。

馬が横へ逃げられない。

「扈三娘殿、私が受けます!」

黄信が中央寄りから入った。

槍兵を整え、こちらが下がる幅を作ってくれる。

「助かる!」

「礼は後ほど。今は隊列を!」

本当に武官だ、この人……

そこへ孫立の隊も動いた。

「左の後ろを支える! 黄信殿、中央はお願いします!」

「承知しました!」

まともだ……

孫立、まともじゃん。

「義兄貴! 右が空いてるよ!」

顧大嫂が叫ぶ。

「分かっている! お前は勝手に前へ出るなと言っただろうが!」

やっぱり身内だけおかしい。

「まだ出てない!」

「出ようとしてるだろ!」

「何で分かるんだい!」

「何年親類やってると思ってる!」

孫二娘が吹き出した。

「予測精度高いねェ!」

「笑ってないで右を詰めろ!」

「はいはい、お義兄さん怖いねェ?」

「お前の義兄ではない!」

戦場なのに何やってんの、この人たち……

でも、足は止まっていない。

黄信がこちらの伸びた列を整え、孫立がその後ろを支える。

そこへ孫二娘と顧大嫂の歩兵が横から入った。

「三娘、今だよォ!」

「分かってる!」

アタシが左から入る。

玉楼が中央寄りを塞ぐ。

孫二娘は歩兵を細く入れて敵の視線を散らし、顧大嫂がその外側から押した。

三方向から圧を受け、王煥の隊が初めて歪んだ。

「押す!」

敵が下がる。

前が開く。

気持ちいい。

もっと行ける。

馬へ踵を――

「三娘、行き過ぎィ!」

孫二娘の声。

「分かってる!」

「今、行こうとしたよねェ?」

「行ってない!」

「馬に聞こうか?」

「馬は喋らない!」

顧大嫂まで笑う。

「あたしより酷いじゃないか」

「アンタにだけは言われたくない!」

でも止まった。

王煥は、退きながらまだこちらを見ている。

追えば来る。

さっきと同じ罠へ、今度はアタシが入りかけていた。

「……危な」

玉楼が小さく頷いた。

「止まられましたね」

「褒めて」

「当然のことでございます」

厳しい……

その時、奥の土煙が一気に広がった。

先鋒じゃない。

本隊。

蹄の音が地面を震わせ、正面が暗くなる。

林冲の声が飛ぶ。

「保たせろ!」

中央が沈む。

黄信が槍兵へ指示を出す。

「間隔を詰めてください! 前列は無理に押し返さず、受けてください!」

孫立も横から合わせる。

「左後方を支える。顧大嫂!」

「何だい!」

「今度こそ勝手に出るな!」

「しつこいね!」

「お前だから言ってる!」

孫二娘がアタシの近くまで来た。

「愛されてるねェ」

「誰が?」

「顧大嫂。身内から」

「そっち!?」

「誰だと思ったのォ?」

「何でもない!」

にやっと笑った。

しまった……

また自分から踏んだ。

「李俊だと思った?」

「戦場でダル絡みすんな!」

「教授として反応を観察してるだけだよォ?」

「絶対趣味でしょ!」

でも、敵の圧は笑っていられるほど軽くない。

押しても返される。

削っても後ろから埋まる。

王煥は先頭で無理をせず、こちらが崩れる場所だけを狙っている。

このままだと終わらない。

中央を見る。

林冲はまだ動いていない。

戦況を見ている。

だったら――

馬を寄せた。

「このまま削り合うより、引いた方がいい」

林冲がこちらを見る。

「どこまでだ」

「梁山湖」

玉楼がすぐ続ける。

「水軍と挟めます」

林冲は一拍だけ前を見る。

「出来るか?」

「やるに決まってるじゃない!」

孫二娘が後ろから叫んだ。

「また李俊の所へ連れてくのォ?」

「水軍の所!」

「同じじゃないかねェ!」

「違う!」

顧大嫂が笑う。

「元気だねぇ」

「誰のせいよ!」

命令が通る。

左翼から少しずつ下がる。

一斉に退けば罠だと分かる。

だから崩れたように見せる。

黄信がこちらの意図を察し、中央寄りを少し遅らせた。

「扈三娘殿、こちらで間を持たせます。先にお下がりください」

「ありがとう!」

孫立も歩兵へ下がる道を作る。

そして顧大嫂へ怒鳴った。

「お前は最後まで残るなよ!」

「分かってるって!」

「信用できん!」

「義兄貴ぃ!」

孫二娘が笑いながら顧大嫂の肩を引く。

「ほら、愛されてるうちに下がるよォ?」

「アンタまで言うな!」

全体が退き始める。

敵が食いついた。

王煥の隊も前へ来る。

怖い。

わざとだと分かっていても、押されながら退く感覚は嫌いだ。

「崩れるな!」

馬首を返す。

今度は本当に走る。

敵が追う。

湖が近づくにつれて空気が湿り、草が低くなった。

地面も柔らかくなる。

馬脚が沈む。

敵の速度が落ちる。

前が詰まり、後ろが押す。

伸びた。

「ここね」

その瞬間、水の音が変わった。

横から波が割れる。

舟が一斉に出た。

敵の横腹へ突っ込んでいく。

先頭の舟に立つ男がこちらを見る。

「三娘、遅いぞ」

李俊だ。

その声を聞いただけで、胸の奥に張っていたものが少し緩んだ。

後ろから、こんな時でも孫二娘の声が飛ぶ。

「来たねェ、二十六位!」

「戦場で順位ネタ持ち出すな!!」

李俊が怪訝そうにこちらを見る。

「何の話だ?」

「アンタは知らなくていい!」

「また俺だけ置いていかれてないか?」

「今は戦って!」

李俊が笑った。

「分かったよ」

何で楽しそうなのよ。

「頼むわ!」

「任せろ!」

舟が敵の横腹へ食い込み、アタシたちは正面から馬首を返す。

黄信が崩れた線を整え、孫立が逃げ道を塞ぐ。

孫二娘と顧大嫂の歩兵も泥へ足を取られた敵へ噛みついた。

前と横。

そして水際。

敵の長く伸びた隊列が、ついに切れた。

一度崩れれば早い。

「行け!」

声が上がる。

味方が前へ出る。

アタシも行きかけて――止めた。

「追い過ぎない!」

孫二娘が笑う。

「成長したねェ!」

「アンタに褒められると腹立つ!」

顧大嫂まで叫ぶ。

「あたしにも言っといておくれ!」

「アンタは自分で止まって!」

王煥の隊は退いていく。

追わない。

十分だ。

玉楼が隣へ馬を寄せた。

「止まれましたね」

「だから褒めてって」

「当然のことでございます」

やっぱり厳しい。

横で波が鳴っている。

舟が並ぶ中、その上で李俊がこちらを見た。

アタシが軽く顎を引く。

それだけで、意味は通じた。

玉楼でございます。

本日の三娘様は、きちんと止まられました。

「だから褒めてって!」

「当然のことでございます」

孫二娘様が笑われます。

「でも李俊が出てきた瞬間、顔は止まらなかったねェ」

「何が!?」

顧大嫂様まで頷きます。

「ああ、分かりやすかったねぇ」

「アンタ達、戦のどこ見てたのよ!」

「敵と三娘を半々くらい?」

「敵を見て!」

三娘様は憤慨されておりますが、確かに本日は深追いをなさいませんでした。

成長されたのでございます。

ただし――

舟の上の李俊様を目で追うことだけは、まだ止められないようでございました。

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