玉麒麟出撃
今回の戦は、 多分ずっと神経を削られる。
……なのに。
「燃やせば早いんじゃないか?」
孫二娘が平然と言い出した。
すると顧大嫂が即座に怒鳴る。
「アンタは何でも燃やそうとするんじゃないよ!」
「だって柵だろ?」
「だからって全部燃やしたら、こっちまで煙で死ぬだろうが!」
「じゃあババアが先に突っ込めよ」
「誰がババアだい!!」
うるさい。
本当にうるさい。
でも―― こんな空気でも、二人が騒いでいると、妙に兵達の顔が笑い出す。
怖くても、誰かが前で怒鳴っていると、人は少しだけ動ける。
多分、第四軍ってそういう集まりなのよね……
静かに殺されるくらいなら、騒がしく前へ出る。
だから今回の曾頭市戦も、多分、静かには終わらないわね――
曾頭市の外柵が見え始めた頃には、もう日が傾きかけていた。
林を抜けても、空気は重いままだ。
むしろ――
開けた分だけ、余計に見える。
柵に櫓、見張りと積まれた土嚢。
ただの集落じゃない。
最初から、戦になる前提で作られている。
時遷が木陰へ滑り込みながら戻ってくる。
「正面は閉じてる」
声は低い。
「左右にも柵。裏も見たけど、簡単には入れねぇな」
顧大嫂が嫌そうに顔を歪めた。
「村一つ落とすつもりで来たら、砦じゃないか」
孫二娘が笑う。
「しかも陰気だ」
アタシは柵を見る。
静かだ。
でも、 静か過ぎる。
見られている。
さっき林で感じた視線が、 今度は柵の向こう側から残っていた。
玉楼が小さく言う。
「弓がいます」
見ると、 櫓の影がわずかに動いた。
隠れているつもりらしい。
でも、 こちらも、もう分かっている。
その時――
後方から、低く銅鑼が鳴った。
梁山泊軍だ。
林冲隊が止まる。
白い披風が、ゆっくり前へ出た。
兵達が自然に道を開ける。
林冲は曾頭市の柵を見たまま、 静かに口を開く。
「急ぐな」
声は大きくない。
でも、全員に通る。
「ここは、焦った側から死ぬ」
空気が締まる。
第四軍まで静かになった。
顧大嫂が鼻を鳴らす。
「言われなくても分かるよ」
孫二娘は笑ったまま、 柵を眺めている。
「でも、壊したくなる顔してるねぇ」
アタシは息を吐く。
確かに、 曾頭市は嫌な場所だった。
史文恭だけじゃない。
地形も、 柵も、 林も、 全部まとめて“敵”になっている。
だからこそ――
簡単には終わらない。
曾頭市の外柵を前にして、梁山泊軍はすぐには動かなかった。
日が落ちかけている。
焦って突っ込めば、やられるだけだ。
それくらい、もう全員分かっている。
兵達が静かに陣を広げ始める。
盾が並び、 槍が立ち、 見張りが前へ出る。
曾頭市側も動いていた。
櫓の上で火が増える。
人影が行き来する。
閉じた門の向こうで、 金属音まで響いていた。
準備している。
向こうも、 “今夜来る”と思っている。
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「開ける気無しだねぇ」
孫二娘は笑ったまま、 柵を見上げている。
「燃やしたら怒られるか?」
「アンタは、何でもすぐ燃やすクセやめな!」
二人がまた騒ぎ始める。
玉楼が小さく息を吐いた。
「元気ですね……」
アタシは前を見る。
その時だった。
柵の中で、 人影が動く。
一人だけ、 櫓の前へ出てきた。
長槍。
風に揺れる黒い外套。
史文恭だ。
距離は遠い。
でも、 見間違えようがない。
史文恭は櫓の上から、 梁山泊軍を静かに見下ろしていた。
挑発もしない。
怒鳴りもしない。
ただ、 見ている。
その視線だけで、 空気が嫌に重くなる。
顧大嫂が低く呟いた。
「感じ悪いねぇ……」
孫二娘も笑みを消す。
「完全に待ってる顔だ」
その瞬間――
曾頭市側の銅鑼が鳴った。
重い音。
続いて、 柵の内側から弓兵が並び始める。
アタシは即座に声を飛ばした。
「盾を上げて!」
梁山泊軍が一斉に動く。
そして――
曾頭市の外柵戦が、 静かに始まった。
敵兵が、一斉に弦を引いた。
音が揃う。
嫌な音だった。
「来るよ!」
顧大嫂が叫ぶ。
次の瞬間―― 矢が落ちてきた。
雨みたいだった。
盾へ突き刺さる。 土が跳ねる。 後ろの兵まで巻き込まれる。
「前に出ないで!」
アタシは声を飛ばす。
梁山泊側も、すぐには突っ込まない。
盾を立て、 列を崩さない。 無理に駆けない。
曾頭市側は、それを見ていた。
試している。
どこで崩れるか。
どこまで焦れるか。
玉楼が低く言う。
「誘っていますね」
「でしょうね」
アタシは柵を見る。
弓だけじゃない。
櫓の下、柵の影。
槍兵まで並び始めていた。
攻撃させる気がない。
顧大嫂が舌打ちする。
「陰気な戦だねぇ!」
孫二娘は盾へ刺さった矢を抜きながら笑う。
「でも、嫌いじゃないよォ!」
直ぐに顧大嫂がツッコミを入れる。
「アンタは黙ってな!」
その時――
柵の奥で火が動いた。
一つじゃない。
横へ流れていく。
玉楼が目を細める。
「……油です」
見ると、 柵の前へ大きな桶が運ばれていた。
火矢を使う気だ。
顧大嫂が嫌そうに顔を歪める。
「本気で焼くつもりかい」
林冲は柵を見たまま、 静かに命じた。
「前列、下がるな」
白い披風が揺れる。
「盾を重ねろ」
梁山泊軍の列が、 ゆっくり形を変え始める。
真正面から壊しに行く戦じゃない。
潰れるまで、 互いに削る戦が始まろうとしていた。
曾頭市の外柵前は、暗くなるほど嫌な戦場になっていった。
火が増える。
櫓の上、柵の影、林の奥。
あちこちで灯りが揺れ、 逆に“見えない場所”まで浮かび上がってくる。
矢は止まらない。
断続的に飛んでくる。
休ませない為だ。
盾へ当たる音が、ずっと続いていた。
「チッ……」
顧大嫂が舌打ちする。
「いやらしいねェ」
孫二娘は矢を避けながら笑っていた。
「正面から来ない辺り、本気で嫌な奴らだ」
アタシは前を見る。
柵はまだ遠い。
いや―― 距離そのものは遠くない。
でも、 近付けない。
矢と火と地形で、 じわじわ止めてくる。
その時――
柵の奥で、火矢が上がった。
夜空へ赤い線が走る。
次の瞬間、 梁山泊側の前列で火が上がった。
「火だ!」
兵が崩れる。
盾へ油が飛び、 火が燃え移る。
「下がらないで!」
アタシの声が飛ぶ。
でも、 熱と煙で列が乱れ始める。
そこへ――
曾頭市側の銅鑼が鳴った。
重い音。
続いて、 柵の一部が開く。
顧大嫂が目を剥いた。
「出て来るよ!」
暗い柵の奥から、 槍兵が一気に前へ出てきた。
火の明かりを背負ったまま、 真っ直ぐ梁山泊軍へ突っ込んでくる。
そして―― その後ろに、黒い槍が見えた。
槍兵が、一気に間合いを詰めてくる。
ただ突っ込んでいるだけじゃない。
火の向こうで、足並みが揃っていた。
「合わせて!」
玉楼が声を飛ばす。
次の瞬間―― 曾頭市側の槍が、一斉に突き出された。
鈍く重い音が響く。
前列の盾が弾かれる。
火で乱れた場所を、真正面から押し潰しに来た。
「ッ……!」
梁山泊側の前列が揺れる。
顧大嫂が前へ出た。
「押し返せ!」
敵兵へ体当たりする。
だが、 曾頭市側も止まらない。
押し寄せても、崩さない。
深追いもしない。
ただ、 乱れた場所へ圧を掛け続けてくる。
孫二娘が横へ滑り込んだ。
「固いねェ!」
槍の間へ無理やり入り込み、
刃が走る。
一人倒れても、後ろがすぐ埋まる。
止まらない。
玉楼が低く言った。
「中央、立て直しが早いです」
分かる。
火矢で崩し、 槍兵で押さえ、 その後ろで史文恭が見ている。
全部噛み合っていた。
その時――
黒い槍が動く。
史文恭だ。
火の向こうから、 静かに前へ出てくる。
速くなく、慌てもしていない。
でも、 出てきただけで空気が変わった。
顧大嫂が顔をしかめる。
「来るよ……!」
史文恭が槍を上げる。
それを見た瞬間、 曾頭市側の槍兵が、一斉に半歩開いた。
道が出来る。
一直線に。
玉楼が息を呑む。
「来ます!」
次の瞬間――
史文恭が、 火の中を真っ直ぐ突っ込んできた。
史文恭が、火の中を一直線に突っ込んでくる。
速い。
でも――
さっき林で見た時と違う。
今度は、 後ろに敵兵が付いていた。
槍兵が道を開ける。
崩れた場所へ、 黒い槍だけが真っ直ぐ入ってくる。
「止めて!」
アタシは叫びながら前へ出た。
玉楼も同時に動く。
槍が走る。
だが――
史文恭は止まらない。
穂先が、火の向こうで揺れた。
そう見えた瞬間、 前列の兵が吹き飛ぶ。
「なッ……!」
速過ぎて、突きが見えない。
しかも、 止まらないまま次へ入っている。
顧大嫂が怒鳴った。
「真正面に立つんじゃないよ!」
孫二娘が横へ回る。
「行け行け!」
でも、 史文恭の槍は乱れない。
火、煙、盾、人。
全部の隙間を抜くみたいに、 槍だけが迫ってくる。
玉楼が真正面から槍を合わせた。
重い音が響く。
でも次の瞬間、 玉楼の槍が弾かれる。
「ッ!」
半歩下がる。
そこへ、 史文恭の穂先が追ってきた。
アタシは反射で割り込む。
双刀を交差させて粘る。
火花が散り、重い衝撃が腕を抜けた。
「ぐっ……!」
止まらない。
押される。
史文恭は、 力任せに押している訳じゃない。
崩れた場所へ、 崩れる角度で槍を入れてくる。
嫌な槍だった。
その時――
後ろから、 低い声が響く。
「開けろ」
盧俊義だ。
火の向こうから前へ出る。
その瞬間、 史文恭の目が初めて動いた。
曾頭市へ着いてからも、顧大嫂殿と孫二娘殿は、最後まで騒がしいままでした。
「だから燃やせば早いって言ってんだろ」
孫二娘殿が平然と言えば、
「アンタは脳みそまで火薬かい!」
顧大嫂殿が即座に怒鳴り返す。
「じゃあババアが柵壊して来いよ」
「誰がババアだい!!」
そのまま二人で押し合いを始め、周囲の兵達まで笑っていました。
ですが――
多分、ああいう声があるから、第四軍は止まりません。
矢が飛んで来ても、火が上がっても、誰かが前で怒鳴っていると、人は少しだけ前へ出られる。
顧大嫂殿は、押し込む空気を作る方です。
孫二娘殿は、崩れた場所へ飛び込むのを怖がらない。
ですが、今回の曾頭市は、それでも嫌な場所でした。
火、林、外柵、そして史文恭……
戦場そのものが、こちらを崩そうとして来る。
だからこそ――
扈三娘様も、ずっと周囲を見ておられたのでしょう。
敵ではなく、“崩れ始める流れ”そのものを。




