勝てる場所で戦う
史文恭、強い。
槍が速いだけじゃない。
こっちが追いたくなる場所まで出てきて、危なくなったらさっさと引く。
「勝てる場所でしか戦わないんだねェ」
孫二娘が嫌そうに笑う。
「それ、ものすごく正しいから腹立つ!」
顧大嫂は朴刀を握ったまま、林を睨んでいた。
「あたしなら、もう少し殴り合いたいけどねぇ」
「だからアンタを林へ入れたくないの!」
「三娘も入ろうとしてたじゃないか」
「それは……大将だから!」
「便利な言葉だねェ」
孫二娘まで言うな!
しかも史文恭、林冲とまともに打ち合って、それでも無理をしない。
晁蓋を討った男。
強いだけなら、まだ良かった。
でも――
ちゃんと頭まで冷えてる。
これ、絶対面倒なやつでしょ!?
弓が飛ぶ。
空気を裂く音が、一斉に重なった。
「伏せろ!」
玉楼の声が走った。
兵たちが身を沈めるのと、盾が持ち上がるのはほとんど同時だった。
次の瞬間には矢が木へ刺さり、土を抉り、盾を叩く。
馬がいななき、避け切れなかった兵の悲鳴まで混ざった。
「林だ! 右にもいる!」
誰かが叫ぶ。
アタシは日月双刀を抜きながら目を凝らしたけれど、敵の姿はほとんど見えない。
木の陰から射て、こちらが向けばもう隠れている。
腹立つ。
ものすごく腹立つ。
「陰気な真似しやがる!」
顧大嫂が盾に刺さった矢を引き抜いた。
「左も動いてるよォ!」
孫二娘はもう反対側を見ていた。
前から射ているだけじゃない。
こちらが林へ踏み込めば、左右から包むつもりだ。
その中央――
道の向こうに、一人だけ隠れようとしない男がいた。
馬上で槍を持ち、こちらを見ている。
さっき道へ黒い矢を立てて歓迎してくれた連中の一人……どころじゃない。
「あいつ、動かないわね」
「動く必要がないのでしょう」
玉楼も男から目を離さない。
「こちらが向かえば弓兵の射程へ入ります。止まれば、あの方が動く」
「つまり、足止め?」
「はい」
嫌になるくらい分かりやすい。
分かりやすいのに、こちらから崩しに行けない。
前へ出れば射られる。
林へ入れば囲まれる。
なら――
「第四軍、盾を前へ! 勝手に林へ入らない!」
命じた直後、顧大嫂がこちらを見た。
「あたしを見て言ったかい?」
「半分は!」
「残り半分は?」
孫二娘が笑う。
「三娘自身じゃないかねェ?」
「うるさい!」
図星だった。
前へ出たい。
敵が見えているなら、斬りに行った方が早い。
でも、それをやったら駄目だと今は分かる。
だから余計に腹が立つ。
その時、後方から林冲の声が飛んだ。
「前へ出るな!」
白い披風が兵の間を抜けてくる。
それだけで、矢を浴びて揺れかけていた列が少し落ち着いた。
林冲は道の先を見ると、林の左右へ一度ずつ目を走らせた。
「追えば包まれる。盾を切らすな」
「やっぱり入らないの?」
顧大嫂が聞く。
「入りたいか?」
「少し」
「やめろ」
即答だった。
孫二娘が吹き出す。
「林冲殿、顧大嫂の扱い上手くなったねェ」
「何であたしまで三娘と同じ扱いなんだい?」
「待って。そこアタシも納得してない!」
「静かにしてくださいませ」
また玉楼にまとめて止められた。
その瞬間だった。
道の中央にいた男が動いた。
速い。
そう思った時には、もう前列との距離が消えていた。
槍が閃き、盾の脇を抜ける。
一人が馬上から叩き落とされ、その穂先が戻ったと思った時には、もう二人目の武器を弾いていた。
「速ッ!」
顧大嫂まで声を上げる。
男は深く入りすぎない。
一人倒せば半歩引き、こちらが追おうとすると林から矢が飛ぶ。
矢がこちらを止めれば再び踏み込み、槍だけを置いていくように兵を崩す。
孫二娘の表情から笑いが消えた。
「嫌なやり方だねェ。追いたくなる距離をずっと保ってる」
「わざと?」
「追えば取れると思わせる方が、人間は動きやすいんだよォ」
「心理学?」
「今回は使えるだろォ?」
「悔しいけど使える!」
玉楼が槍を構えた。
「三娘様、右をご覧くださいませ」
言われる前に見えていた。
男へ気を取られた兵を狙って、林の右側が動いている。
「孫二娘、左! 顧大嫂は右を押さえて!」
「はいよォ!」
「あたしに任せな!」
二人が散る。
アタシも前へ出かけた。
同時に、玉楼の馬が隣へ並んだ。
止めない。
ただ並ぶ。
それで分かった。
アタシが槍の男を見るなら、玉楼はその外を見る。
玉楼が林を見るなら、アタシは正面を見る。
どっちか一人じゃ足りない。
その時――
白い披風がアタシたちの前を横切った。
林冲だった。
「ここは俺が行く」
その声に、身体が勝手に止まる。
槍の男も林冲を見た。
初めて、こちらの兵ではなく一人の相手へ視線を定める。
林冲は蛇矛を下げたまま馬を進めた。
「良い槍だ」
男は答えない。
ただ、槍の穂先がわずかに持ち上がった。
玉楼が息を詰める。
「来ます」
次の瞬間、男が地面を蹴った。
速い。
今までより明らかに速い。
真っ直ぐ林冲の喉を狙った槍へ、蛇矛が真正面からぶつかる。
金属音が林へ弾けた。
馬まで踏ん張る。
さっきまで梁山泊兵を好きに崩していた槍が、初めて止まった。
「……止めた」
思わず声が出た。
いや、違う。
止めただけじゃない。
槍の男はそのまま押している。
林冲も引かない。
武器と武器が噛み合ったまま、互いに相手の力を探っている。
顧大嫂が右を押さえながら笑った。
「いいねぇ。速いだけじゃない」
「嬉しそうに言わないで!」
「強い奴を見たら気になるだろ!」
「アンタの場合は殴りたいだけでしょ!」
孫二娘まで声を飛ばしてくる。
「三娘も人のこと言えないよォ!」
「アタシは大将だから見てるの!」
「便利な言葉だねェ、大将!」
反論する前に、槍が動いた。
一度離れた穂先が、目で追えないほど速く林冲の喉元へ戻る。
林冲は大きく避けなかった。
半歩だけ身体をずらす。
穂先が白い披風を裂いた。
その瞬間には蛇矛が返っている。
横から叩き込まれた一撃を、男は槍の柄で受けた。
今度は向こうが下がる。
一歩。
二歩。
そこから先には来ない。
「……互角でしょうか」
玉楼が呟く。
「まだ分からない」
二人とも本気で仕留めに行っていない。
探ってる。
どこまでなら踏み込めるか。
どこから先なら自分が死ぬか。
さっきの林冲と関勝の時にも感じた、あの嫌な空気だった。
「また入れないやつ?」
孫二娘が戻ってきた。
「入らない!」
「学習したねェ」
「それ最近みんな言う!」
林の奥で弦が鳴った。
今度はこちらも反応した。
盾兵が前へ出て矢を受ける。
後ろの槍兵は崩れず、林冲の背後へ間を空けたまま陣を作る。
林冲隊も、もう最初の奇襲を受けた時とは違う。
敵もそれに気づいたらしい。
槍の男が初めて口を開いた。
「豹子頭……林冲か」
その名前だけで、周囲の空気が変わった。
林冲は蛇矛を構えたまま答える。
「なら、お前は史文恭だな」
史文恭――
晁蓋を討った男。
その名が出た途端、背後の兵たちの気配が変わるのが分かった。
怒りだ。
一歩出ようとする者までいた。
「動くな!」
アタシが声を張った。
何人かがこちらを見る。
「仇討ちだからって勝手に前へ出ない! 向こうはそれを待ってる!」
言いながら、昨夜の李俊の言葉が頭をよぎった。
怒っていれば前へ進める。
問題は、どこで止まるか。
孫二娘が周囲を見た。
「今の三娘、ちょっと大将っぽかったねェ」
「ちょっと!?」
顧大嫂まで頷く。
「あたしも今のは大将に見えたよ」
「普段は何に見えてるの!?」
玉楼だけは史文恭を見たままだった。
「弓兵が止まりました」
アタシも前を見る。
確かに矢が来ない。
史文恭が槍を少し下げていた。
撃たせれば、林冲も入る。
下手に続ければ、こちらの怒りより先に自分の仕掛けが崩れる。
だから止めた。
「……あいつも熱くならないのね」
「それが一番厄介でございます」
嫌な答えだ。
史文恭は林冲を見ながら言った。
「梁山泊は、思ったより甘くないらしい」
挑発しているようには聞こえなかった。
本当に測った結果を口にしているだけ。
林冲も余計なことは言わない。
蛇矛を向けたまま、史文恭を見る。
しばらくして史文恭が半歩下がった。
それだけで林の奥も動いた。
弓兵が下がる。
別の場所に潜んでいた兵も消えていく。
退くと決めた瞬間の速さまで揃っていた。
「逃げるのかい?」
顧大嫂が前へ出かける。
「追うな」
林冲が止めた。
「でも――」
「追えば死ぬ」
顧大嫂が口を閉じた。
孫二娘も林を睨む。
「勝てないから逃げたんじゃない。ここで続ける意味がなくなったから引いたんだねェ」
「そういうことね」
アタシは日月双刀を握ったまま、消えていく気配を追った。
待ち伏せで削り、追わせる。
こちらが対応すれば無理をせず引く。
史文恭は勝てる場所で戦い、勝てない場所では戦わない。
だから強い。
林冲が突然、林へ向かって声を張った。
「今度は、晁蓋の時みたいにはいかんぞ!」
返事はない。
姿ももう見えない。
それでも、木々の向こうにあの槍先だけが残っているような気がした。
しばらく誰も動かなかった。
やがて林冲が蛇矛を下ろす。
その瞬間、アタシもようやく肩の力を抜いた。
「怪我は?」
聞き覚えのある声が横から飛んできた。
振り向くと、別隊から回ってきた李俊が馬を寄せている。
「ない」
「本当か?」
「見れば分かるでしょ」
「見ても聞く」
……前にも聞いた気がする。
孫二娘の顔を見る前に、アタシは釘を刺した。
「何も言わないで!」
「まだ何も言ってないよォ?」
またやった!
顧大嫂まで吹き出す。
李俊が眉を上げた。
「何の話だ?」
「アンタは知らなくていい!」
「そうか」
「そこで素直に引くのも腹立つ!」
「どうしろってんだ」
知らないわよ!
玉楼が隣で静かに林の奥を見たまま告げた。
「三娘様、まだ終わっておりません」
分かってる……
分かってるけど、一瞬くらい現実逃避させて。
そこへ前方から土煙が上がった。
時遷だった。
駆け戻ってくるなり、林冲隊の前で足を止める。
「前方に柵があるぜ。かなり固めてやがる」
顧大嫂が眉をしかめた。
「まだあるのかい?」
孫二娘はむしろ笑った。
「今のが出迎えだったってことだねェ」
アタシは道の先を見る。
林の待ち伏せに弓兵、黒い矢、それに史文恭まで出てきた。
これだけやられて、まだ入口。
「歓迎から飛ばしすぎでしょ……」
誰も否定してくれなかった。
林冲が短く命じる。
「隊列を崩すな」
白い披風が翻る。
兵達が、静かに動き始める。
今度は、 さっきみたいな奇襲じゃない。
曾頭市そのものを、 真正面から崩しに行く。
玉楼でございます。
史文恭様は、強いだけではございませんでした。
こちらが熱くなれば誘い、危うくなれば迷わず退く。
「嫌な相手だねェ」
孫二娘様が申します。
顧大嫂様は朴刀を肩へ乗せました。
「あたしはもう少し殴り合いたかったけどねぇ」
「だから追っちゃ駄目なの!」
三娘様が止める側になっておられます。
「成長したねェ」
「何で上からなの!?」
その後、李俊様が三娘様のお怪我を確認しに来られると、
「何も言わないで!」
「まだ何も言ってないよォ?」
……今度は三娘様ご自身が止まりませんでした。
ですが、前方には曾頭市の外柵。
史文恭様との戦いさえ、まだ入口だったのでございます。




