黒槍、林に消ゆ
曾頭市へ入る前から、嫌な空気だった。
林は静かで、 道は狭い。
見えていない場所の方が多い。
こういう場所は、待ち構えいてる側が強い。
しかも今回は、史文恭まで居る。
真正面からぶつかるだけの戦にならない事くらい、最初から分かっていた。
そのくせ――
顧大嫂と孫二娘は、相変わらずだった。
「林に隠れてチマチマ撃つとか、陰気だねぇ」
顧大嫂が吐き捨てれば、
「アンタは隠れてたら、木ごと折るだろ」
孫二娘が即座に返す。
マジでうるさい――
でも、多分…… こういう時に、いつも通り騒げる人が前に居るから、兵も足を止めない。
第四軍は、そういう連中だ。
だから今回の曾頭市戦も、 静かには終わらない気がしていた。
弓が飛ぶ。
空気を裂く音が、一斉に重なった。
「伏せろ!」
玉楼の声が走る。
兵が崩れる様に身を落とす。 盾が上がる。
馬が暴れる。
矢が突き刺さる。
木、土、人――
悲鳴まで混ざった。
「林だ!」
「横にも居るぞ!」
叫び声が飛び交う。
でも―― 敵の姿は見えない。
林の奥だ。
撃って、 すぐ隠れている。
顧大嫂が舌打ちした。
「陰気な真似しやがる!」
孫二娘は、もう横を見ていた。
「前だけじゃないねェ!」
確かに、 左右からも気配が動いている。
囲う気だ。
アタシは前を見る。
あの槍の男は、まだ動いていない。
道の真ん中。
ただ立っている。
玉楼が低く言う。
「足止め役です」
「でしょうね」
分かっている。
止めて、 崩して、 林へ引き込む。
最初からその形だ。
その時、 後ろから重い声が響いた。
「慌てるな」
林冲だ。
白い披風が、列の後ろから前へ出る。
それだけで、 少し空気が戻る。
林冲は周囲を見た。
林、 矢、狭路。
全部を一度で見ている。
やがて、短く言う。
「前へ出るな」
第四軍が止まる。
顧大嫂が眉をしかめた。
「追わないのかい?」
「追えば、やられる」
即答だった。
孫二娘が小さく笑う。
「嫌な相手だねェ」
その瞬間――
前の槍の男が、初めて動いた。
速い。
踏み込みが見えない。
そのまま一直線に、前列へ突っ込んできた。
槍の男が、一気に距離を潰す。
速い。
本当に、一瞬だった。
前列の兵が反応する前に、槍が走る。
「ッ!」
一人が吹き飛ぶ。
そのまま二人目と止まらない。
ただ突いてるだけじゃない。 流れる様な動き……
槍が戻る前に、次へ入っている。
顧大嫂が目を剥いた。
「速ッ……!」
孫二娘も顔をしかめる。
「嫌な槍だねェ!」
男は止まらない。
突っ込み過ぎず、深く入りし過ぎない。
突いた瞬間、もう半歩下がっている。
林へ近付き過ぎない。
誘い込みの位置を崩さない。
玉楼が低く言った。
「統制されています」
分かる。
この男だけじゃない。
林の中の弓まで、動きが噛み合っている。
前へ出れば射られる。
止まれば、槍が来る。
最悪の形だ。
その時――
林冲が前へ出た。
白い披風が揺れる。
周囲の兵が、自然に道を開けた。
槍の男が、初めて視線を動かす。
林冲を見る。
ほんの少しだけ、空気が変わった。
林冲は蛇矛を下ろしたまま、静かに口を開く。
「良い槍だ」
男は答えない。
だが、穂先がわずかに上がる。
構えた。
玉楼が、小さく息を呑む。
「……来ます」
次の瞬間――
槍の男が地面を蹴った。
今度は、真っ直ぐ林冲へ向かう。
速い。
でも――
林冲は動かない。
引かない。
踏み込んできた槍へ、真正面から蛇矛がぶつかった。
重い音。
空気が震える。
さっきまで兵を薙いでいた槍が、初めて止まった。
そのまま、二人とも動かない。
槍と蛇矛が噛み合ったまま、止まっている。
だが―― 止まっているのに、押されていた。
周囲の兵が、思わず息を呑む。
槍の男が、初めて力を乗せた。
静かなまま、押してくる。
重い。
速いだけじゃない。
林冲の蛇矛が、わずかに軋んだ。
顧大嫂が低く笑う。
「ただの槍使いじゃないねぇ」
孫二娘も目を細める。
「林の中で待ってる理由があるって事か」
次の瞬間――
槍が消えた。
弾いた。
そう見えた時には、もう穂先が林冲の喉元へ走っている。
「ッ!」
周囲が息を呑む。
だが、林冲は半歩だけ動いた。
避けるんじゃない。
外している。
穂先が白い披風を裂く。
そのまま蛇矛が返った。
重い。
横薙ぎ。
槍の男が、今度は下がる。
初めて、大きく距離を取った。
玉楼が静かに呟く。
「……互角」
アタシは目を離さない。
違う。
互角じゃない。
二人とも、“まだ入っていない”。
探っている。
どこまで踏み込めば死ぬか。 それを測っている。
林の奥で、また弓が鳴る。
だが――
今度は林冲隊が動いた。
盾が上がる。
列が崩れない。
前へ出ず、下がりもしない。
白い披風の後ろで、兵達が静かに形を作っていく。
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「やっぱり、軍隊だねぇ」
その時――
槍の男が、初めて口を開いた。
「豹子頭……林冲か」
低い声だった。
林冲は蛇矛を下ろさない。
「なら、お前は史文恭だな」
空気が変わる。
周囲の兵が、一斉に息を止めた。
晁蓋を討った男。
曾頭市戦の中心。
その名が、ようやく目の前へ出てきた。
林の空気が、張り詰めたまま動かない。
誰も前へ出ない。
出られない。
史文恭の槍は、まだ下がっていなかった。
林冲も同じだ。
蛇矛を構えたまま、一歩も動かない。
風だけが吹く。
林の枝が揺れ、その奥で、また弓兵の気配が動いた。
だが―― 今度は放たれない。
史文恭が、わずかに槍を下げたからだ。
玉楼が小さく呟く。
「止めましたね」
分かる。
撃てば乱れる。
乱れれば、林冲が入る。
そう判断した。
つまり――
向こうも、林冲を危険視している。
顧大嫂が低く笑う。
「嫌な野郎だよ」
孫二娘も目を細めた。
「ちゃんと引き際を知ってる」
史文恭が、ゆっくり口を開く。
「梁山泊は、思ったより甘くないらしい」
静かな声だった。
挑発でもない。
本気で測っている声。
林冲は答えない。
その沈黙ごと、 真っ直ぐ返している。
しばらくして――
史文恭が、初めて半歩下がった。
それだけで、 林の奥の気配まで一緒に動く。
弓兵が下がる。
槍兵も引く。
最初から決められていたみたいに、 音もなく消えていく。
顧大嫂が眉をしかめた。
「……帰るのかい?」
追おうとした兵を、 林冲が即座に止める。
「追うな」
全員が止まった。
孫二娘が舌打ちする。
「逃がすのかよ」
林冲は林を見たまま答える。
「追えば死ぬ」
即答だった。
玉楼が静かに周囲を見る。
「退路まで作っています」
アタシは息を吐く。
最初から、全部準備されていた。
待ち伏せ、足止め、挑発。
そして撤退。
史文恭は、 “勝てる場所でしか戦わない”。
それが分かっただけでも、 十分嫌だった。
その時――
林冲が、珍しく叫んだ。
「今度は、晁蓋の時みたいにはいかんぞ」
姿は、もう見えない。
でも、 あの槍だけは、 まだ林のどこかに残っている気がした。
史文恭達が消えた後も、誰もしばらく動かなかった。
林の奥は静かだ。
さっきまで矢が飛んでいたとは思えないくらいに。
でも――
気を抜けば、また来る。
そんな空気だけは残っている。
林冲がようやく蛇矛を下ろした。
それだけで、周囲の兵達も少しだけ息を吐く。
顧大嫂が肩を回した。
「ったく、嫌な出迎えだよ」
孫二娘も林を睨んだまま笑う。
「歓迎され過ぎだろ」
アタシは前を見る。
道はそのまま続いている。
でも、さっきまでとは違った。
“曾頭市の中へ入った”
そんな感覚がある。
玉楼が静かに言った。
「こちらを見ています」
「でしょうね」
隠れている。
でも消えてはいない。
林の奥に、 ずっと視線だけが残っている。
その時――
前方で、小さく土煙が上がった。
時遷だ。
林冲隊の前へ、急いで戻ってくる。
足を止めるなり、声を張る。
「前方に柵があるぜ」
空気が変わる。
「曾頭市の外柵だな」
顧大嫂が舌打ちした。
「まだあんのかい」
孫二娘が笑う。
「むしろ、ここからだろ」
アタシは目を細める。
林、待ち伏せ、弓、史文恭……
それでもまだ、 “入口”だった。
林冲が短く命じる。
「隊列を崩すな」
白い披風が翻る。
兵達が、静かに動き始める。
今度は、 さっきみたいな奇襲じゃない。
曾頭市そのものを、 真正面から崩しに行く。
曾頭市へ入ってからも、顧大嫂殿と孫二娘殿は、最後まで騒がしいままでした。
「チマチマ隠れて撃って来るんじゃないよ!」
顧大嫂殿が怒鳴れば、
「アンタは前に出たら出たで、壁みたいに邪魔なんだよ!」
孫二娘殿が即座に返す。
「細い道で先に詰まる女が何言ってんだい!」
「アンタが押し過ぎなんだろ!」
そのまま睨み合いになり、 周囲の兵達まで苦笑していました。
ですが―― あのお二人が前で騒いでいる間、第四軍は止まりません。
怖くても、 矢が飛んで来ても、 誰かが怒鳴っていると、人は少しだけ前へ出られる。
多分、顧大嫂殿と孫二娘殿は、無意識にそれをやっておられるのでしょう。
ですが今回は、それだけでは済みませんでした。
史文恭に伏兵――
引き込む様な戦い方。
曾頭市は、“戦場そのものが敵”みたいな場所でした。
だからこそ―― 扈三娘様も、いつも以上に周囲を見ておられたのだと思います。
敵ではなく、 流れそのものを。




