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曾頭市戦前夜

曾頭市へ向かう前から、空気は重かった。

晁蓋の仇討ち――

その言葉だけで、皆が止まれなくなっている。

だから今回の行軍は、北京大名府の時と少し違った。

誰も浮かれていない。

でも、静かな訳でもない。

張っている。

前へ出る理由が強すぎる時、人は逆に引けなくなる。

顧大嫂と孫二娘も、珍しく静かだった。

……と思ったら、途中で普通に喧嘩を始めた。

「押し込みならアタシの方が上だろ」

「力任せのババアなだけじゃないか」

うるさい。

でも―― こういう時でも、いつも通りで居られる人が前にいると、少しだけ空気が軽くなる。

多分、第四軍はそういう集まりよね。

静かに止まれない奴らが、 騒がしく前へ出る。

だから今回の曾頭市戦も、きっと簡単には終わらない。

北京大名府が落ちてから、数日は騒がしかった。

兵が動く。

物が運ばれる。

捕虜が並べられる。

勝った後っていうのは、意外と静かにならない。

むしろ―― 勝った後の方が、人は浮つく。

アタシは、その空気が好きじゃなかった。

だから、出来るだけ忠義堂へ近づかない様にしていた。

けれど――

呼ばれれば行かなきゃならない。

その日も、灯りの残る堂内へ入る。

中には、頭領達が揃っていた。

宋江に呉用、林冲と李俊もいる。

いつも通りの顔ぶれだった。

ただ、一人だけいなかったはずの顔がいる。

盧俊義だ。

アタシは少しだけ目を細める。

その時、呉用が静かに口を開いた。

「これで、ようやく形になりますな」

誰も驚かない。

宋江も、笑ったままだ。

「ああ。長かった」

長かった――

その言葉だけが、妙に残った。

アタシは黙ったまま聞いている。

呉用が続けた。

「大名府を落とさねば、盧俊義殿も決断出来なかったでしょう」

その瞬間――

頭の中で、何かが繋がった。

夜の忠義堂。

囲われた盧俊義。

逃がさない空気。

“もう逃げられないわ”

自分で言った言葉まで、戻ってくる。

宋江が穏やかに頷く。

「結果として、梁山泊へ必要なお方でした」

必要――

その言葉に、少しだけ息が止まる。

北京大名府攻略戦。

あれだけ人が死んだ。

火が上がった。

索超まで捕まった。

でも――

最初から、“盧俊義を迎えるため”でもあった。

アタシは、黙ったまま立っている。

玉楼も動かない。

誰も間違った事は言っていない。

実際、盧俊義ほどの男が入れば、梁山泊は強くなる。

戦も有利になる。

それは分かる。

分かるけど――

「……随分、大掛かりね」

気付くと、口から漏れていた。

堂内が少し静まる。

宋江がこちらを見る。

笑っている。

でも、目だけが笑っていない。

「戦とは、そういうものでしょう」

柔らかい声だった。

アタシは返さない。

多分、これ以上言っても変わらない。

ここでは、これが“正しい”。

だから回っている。

李俊が、横で小さく息を吐いた。

「だから嫌なんだよねぇ」

軽い声だった。

でも、誰に向けた言葉かは分かる。

呉用は何も言わない。

林冲も黙ったままだ。

ただ――

少しだけ、目を伏せていた。

アタシは、その空気を見回す。

勝った。

城も落とした。

でも――

全部が、自分達の戦だった訳じゃない。

もっと前から、 流されていたものがある。

その感覚だけが、 妙に残った。


北京大名府が落ちてから、梁山泊の空気は少し変わった。

人が増える。

名前が増える。

動く金も、兵も増えていく。

盧俊義が加わった事で、皆どこか浮ついていた。

強い。

名がある。

金もある。

梁山泊が、また大きくなった。

でも―― その分だけ、流れも大きくなる。

アタシは、その空気があまり好きじゃなかった。

だから、曾頭市の名が出た時も、 最初に浮かんだのは“仇討ち”じゃない。

「……また動くんだ」

それだった。

忠義堂には、人が集まっている。

晁蓋の名が出る。

史文恭の名も出る。

空気が少し変わる。

今までより、重い。

梁山泊に居る者なら、 誰だって知っている。

晁蓋が死んだ場所。

曾頭市――

宋江が静かに言う。

「このままにはしておけません」

誰も反対しない。

当然だ。

ここで退けば、 梁山泊そのものが弱く見える。

仇討ちでもある。

面子でもある。

だから止まらない。

アタシは黙って聞いている。

その時、視線が動いた。

盧俊義だ。

まだ完全に馴染んではいない。

でも――

もう、外の人でもない。

皆が自然に見ている。

呉用が口を開く。

「史文恭は強敵です」

静かな声だった。

「ですが、討たねばなりません」

討たねばならない。

その言葉だけが、妙に残る。

アタシは少しだけ目を伏せる。

北京大名府の時と、似ていた。

流れが出来ている。

止まらない。

そして――

その先に居るのが、盧俊義だ。

李俊が横で小さく息を吐いた。

「また面倒な流れだな」

軽く言っている。

でも、本気でそう思っている声だった。

アタシは小さく返す。

「今度は仇討ちよ」

李俊は笑わない。

「仇討ちだけで終われば良いけどな」

玉楼が隣で黙っている。

何も言わない。

でも、多分、 同じものを見ている。

曾頭市戦は、 まだ始まってもいない。

それなのに―― もう、何かが始まっていた。


夜の梁山泊は、妙に静かだった。

兵は動いている。

荷も運ばれている。

なのに、人の声だけが低い。

皆、分かっている。

今度の戦は、 ただ城を落とす戦じゃない。

晁蓋の仇討ち――

その言葉が、重かった。

アタシは水辺を歩くと湿った風が吹いた。

後ろを、玉楼が静かについて来る。

灯りが水面へ揺れていた。

その時、前に人影が見える。

李俊だ。

舟の横へ立ったまま、水を見ている。

アタシが近付いても、振り返らない。

「眠れないのか?」

軽い声だった。

アタシは鼻を鳴らす。

「そっちこそ」

李俊が少しだけ笑う。

「今回は、嫌な感じがしてね」

玉楼は黙ったまま止まる。

アタシは水面を見る。

「史文恭?」

李俊は首を横へ振った。

「それだけじゃない」

沈黙が流れる。

風の音だけが残る。

やがて、李俊が静かに言った。

「仇討ちってのはさ」

「始まる時点で、もう止まりにくいんだよ」

アタシは返さない。

分かるからだ。

怒りは、前へ出る理由になる。

でも――

前へ出た後、 どこで止まるかは別になる。

李俊が続ける。

「しかも今回は、晁蓋絡みだ」

「皆、引けない」

水面へ視線を落としたまま、 小さく息を吐く。

「そういう時の梁山泊は、強いけど危ない」

玉楼が初めて口を開く。

「流れ過ぎる、と」

「そう」

李俊は短く頷いた。

「止まる奴が居なくなる」

アタシは空を見る。

雲が流れている。

曾頭市は、まだ遠い。

でも――

もう、戦の空気だけは始まっていた。

その時、遠くで銅鑼が鳴る。

出陣準備だ。

梁山泊の夜が、また動き始める。

李俊がようやく振り返った。

「行くか」

軽い口調だった。

でも、目は笑っていない。

アタシは頷く。

玉楼が半歩、後ろへ下がる。

水辺を離れる。

背中の方で、 風の音だけが静かに残っていた。


曾頭市へ向かう道は、思っていたより静かだった。

兵は多く、旗も立っている。

でも―― 誰も浮かれていない。

北京大名府の後とは違う。

勝ち戦へ向かう空気じゃない。

晁蓋の名が、ずっと後ろに残っている。

道は乾き、馬の足音だけが続く。

アタシは列の前寄りを進む。 玉楼が横につく。

少し後ろでは、顧大嫂と孫二娘が珍しく静かだった。

「……喋らないのね」

思わず言うと、 顧大嫂が鼻をほじる。

「仇討ちの行軍で騒ぐほど、若くないんだよ」

孫二娘も肩をすくめた。

「浮かれてる奴の方が危ないさ」

その言葉だけで十分だった。

前を見る。

曾頭市は、まだ遠い。

でも―― 近付くほど、空気が変わる。

見張りが増えている。

林の奥に、人の気配がある。

完全に待っている。

玉楼が小さく言った。

「こちらが来る前提で動いています」

「当然でしょ」

アタシは短く返す。

晁蓋を討った相手だ。

梁山泊が来る事くらい、最初から分かっている。

だから―― 向こうも準備している。

その時、 前方で小さく合図が上がった。

隊列が止まる。

林冲隊だ。

白い披風が止まっている。

何かあった。

空気が変わる。

兵達が、自然に口を閉じていく。

アタシは馬を進めた。

前へ出る。

そこには――

一本の矢が刺さっていた。

道の真ん中。

地面へ深く突き立っている。

ただの矢じゃない。

矢羽が黒い。

玉楼が目を細める。

「……示威ですね」

誰も触らない。

林冲が静かに矢を見下ろしていた。

その横で、 孫二娘が低く呟く。

「歓迎されてるねェ」

軽口だった。

でも、 笑っている奴は居ない。

曾頭市戦は、 もう始まっていた。

曾頭市へ向かう道中、顧大嫂殿と孫二娘殿は、珍しく静かでした。

ですが、少し空気が重くなると、すぐ口喧嘩を始められる。

「押し込みならアタシの方が上さね」

顧大嫂殿が鼻を鳴らせば、

「力任せなババアなだけだろ」

孫二娘殿が返す。

すると顧大嫂殿は、すぐ笑われました。

「細い道へ入ると、すぐ詰まるバカ女がよく言うよ」

孫二娘殿が睨み返し、周囲の兵達が苦笑する。

それでも―― あのお二人が前に居ると、第四軍は止まりません。

ですが今回は、ただ騒がしいだけではありませんでした。

晁蓋様の仇討ち。

その言葉が、梁山泊全体を強くし、同時に止まりにくくしている。

扈三娘様も、戦場より“流れ”を見ておられたのだと思います。

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