止まったら死ぬ生き物
曾頭市へ向かう前から、空気は重かった。
晁蓋の仇討ち――
その言葉だけで、皆が止まれなくなっている。
だから今回の行軍は、北京大名府の時と少し違った。
誰も浮かれていない。
でも、静かな訳でもない。
張っている。
前へ出る理由が強すぎる時、人は逆に引けなくなる。
顧大嫂と孫二娘も、珍しく静かだった。
……と思ったら、途中で普通に喧嘩を始めた。
「押し込みならあたしの方が上だろ」
「力任せのババアなだけじゃないか」
うるさい。
でも―― こういう時でも、いつも通りで居られる人が前にいると、少しだけ空気が軽くなる。
多分、第四軍はそういう集まりよね。
静かに止まれない奴らが、 騒がしく前へ出る。
だから今回の曾頭市戦も、きっと簡単には終わらない。
勝った翌朝から、梁山泊はもう次の戦の話をしていた。
アタシは、それが少し怖かった。
昨日まで関勝と斬り合い、騙し、囲み、ようやく降らせたばかりなのに、兵は休む暇もなく動いている。
武器が集められ、捕虜だった者たちの扱いが決まり、食糧が運ばれ、新しく加わった兵の配置まで始まっていた。
勝てば静かになると思っていた頃もあった。
全然そんなことない。
勝つと人が増える。
人が増えれば食べる物も要る。
馬も増えるし、武器も要るし、その全員をどこへ置くのかまで決めなきゃならない。
そして梁山泊の場合――
「勝ったから宴だァ!」
「昨日やったでしょ!」
朝からどこかで聞こえた声に、思わず怒鳴ってしまった。
孫二娘が隣で笑う。
「元気だねェ」
「何でアタシが怒鳴る側なのよ!」
顧大嫂は平然としていた。
「あたしはもう食ったよ」
「宴の話じゃない!」
「朝飯の話だろ?」
「そこだけ会話を現実に戻さないで!」
玉楼が口元を押さえている。
笑ってる。
絶対笑ってる。
そんな四人で忠義堂へ入ると、昨日までとはまた顔ぶれが違っていた。
宋江、呉用、林冲、李俊。
そして関勝。
昨日まで青龍偃月刀を振り回していた男が、今日は梁山泊側に座っている。
切り替え早すぎない?
本人は少しも浮ついていなかった。
座っているだけなのに姿勢が崩れず、周囲を見ながら必要以上には喋らない。
やっぱり良い将なのよね。
嫌になるけど。
そして、その少し先には盧俊義もいた。
北京大名府から救い出され、梁山泊へ戻ってきた男。
以前ここへ連れて来られた時とは、表情が違う。
あの時は明らかに帰ることを考えていた。
宴が何度続いても、梁山泊の一員になるとは言わなかった。
でも今は違う。
呉用が静かに口を開いた。
「盧俊義殿と燕青殿にも、ようやく梁山泊へお力をお貸しいただけることとなりました」
周囲から声が上がる。
宋江は嬉しそうだった。
「長い道のりでございました」
長い。
本当に長かった。
アタシの頭に、あの頃の夜が戻ってくる。
宴が続き、盧俊義は帰ろうとして、それでも帰れず、やがて北京大名府で捕らえられた。
その後、アタシたちは城まで攻めた。
何人も傷ついた。
死んだ兵だっている。
全部が盧俊義一人のためだった、なんて言うつもりはない。
北京大名府との戦には、それだけじゃない理由がいくつもあった。
それでも――
結果として、盧俊義はいまここにいる。
梁山泊の一員として。
「……ずいぶん大掛かりになったわね」
口から出た。
宋江がこちらを見る。
「大事を成すには、人の力が必要でございます」
柔らかい答えだった。
間違ってはいない。
それが一番困る。
隣で孫二娘が小声を落とした。
「三娘、また難しい顔してるよォ」
「してない」
「してるねぇ」
今度は顧大嫂まで乗ってきた。
「二人とも黙って!」
「三娘様」
玉楼がそっとこちらを見る。
注意されるのかと思ったら違った。
「次のお話でございます」
「……もう?」
思わず声が出た。
呉用が地図を広げていた。
本当にもう次だった。
「曾頭市」
その名が出た途端、堂内の空気が変わった。
さっきまで盧俊義や関勝の加入を喜んでいた者たちから、笑いが消えていく。
晁蓋が死んだ場所。
史文恭の名も続いて出た。
アタシだって忘れていない。
青州へ向かう直前、梁山泊の中心が突然消えた。帰ってくると思っていた人間が、帰ってこなかった。
あの時から、宋江が頭領として前へ出た。
「このままにはしておけませぬ」
宋江が言った。
誰も反対しない。
仇討ち。
それだけで十分すぎる理由だった。
梁山泊の頭領を討たれて、そのままにしておけば外からも侮られる。何より、ここにいる人間の多くが晁蓋を知っていた。
林冲は黙っている。
いつもより表情が硬い。
関勝だけが、この場の感情を測るように皆を見ていた。
孫二娘も、もう笑っていなかった。
「史文恭は手強いと聞くねェ」
「はい」
玉楼が答える。
「晁蓋殿を討った相手でございます。こちらが来ることも承知しているでしょう」
顧大嫂が腕を組んだ。
「待ち構えてるところへ行くわけか」
「しかも仇討ちでね」
アタシが言うと、顧大嫂は少しだけ眉を動かした。
「熱くなりやすいってことかい?」
「そう」
答えたのは李俊だった。
アタシはそちらを見る。
李俊は地図を見たまま続けた。
「敵が強いだけなら、まだいい。こっちが熱くなる戦の方が面倒だ」
呉用が目を上げる。
「だからこそ、陣を乱さぬことが肝要となります」
「分かってるならいいけど」
思わず言ったら、宋江に見られた。
あ。
また口に出た。
「三娘様」
玉楼の声がした。
「何?」
「今回は、わたくしも同じことを考えておりました」
助かった。
孫二娘が笑いを堪えている。
「玉楼が援護に入ったねェ」
「何の援護よ!」
「三娘が忠義堂でまた敵を増やさないための?」
「増やしてない!」
「大将、結構言うからねぇ」
「顧大嫂まで!」
宋江が咳払いをした。
聞こえてた。
たぶん全部聞こえてた。
軍議が終わる頃には、出陣の方針がほとんど固まっていた。
数日前まで北京大名府。
昨日まで関勝。
そして次は曾頭市。
梁山泊って、止まったら死ぬ生き物なの?
堂を出ると、孫二娘が背伸びをした。
「今夜くらい寝たいねェ」
「同感」
「でも三娘は夜歩きするんじゃないかい?」
「何で?」
孫二娘の目が細くなる。
「李俊でも探しに」
「探さない!」
顧大嫂が笑った。
「あたしは飯食って寝るよ」
「アンタは一周回って正しい!」
玉楼と二人で部屋へ戻った。
……はずだった。
なのに夜になっても眠れない。
自分でも腹が立つ。
結局、外へ出た。
「やはり、お休みになれませんか?」
当然のように玉楼も後ろから来た。
「玉楼まで起きなくていいのよ?」
「三娘様がお一人で歩かれる方が、わたくしは眠れません」
それを言われると弱い。
二人で水辺まで歩く。
夜の梁山泊は昼間とは別の場所みたいだった。舟が岸へ繋がれ、水面には点々と灯りが揺れている。
その舟のそばに人がいた。
李俊だった。
……孫二娘。
予言するな。
「眠れないのか?」
こっちを見るなり言われた。
「散歩!」
「そうか」
「何よ、その顔」
「別に」
絶対信じてない。
玉楼が少し後ろに立つ。
帰らないのね。
いや、帰らなくていいけど。
李俊は水面へ目を戻した。
「曾頭市のこと考えてたのか?」
「……少しね」
「俺もだ」
その一言で、さっきまでの軽さが消えた。
「史文恭が強いから?」
「それだけじゃない」
李俊は岸に繋がれた舟の綱を足元で確かめるように見た。
「仇討ちは、出る時は簡単なんだ。怒ってりゃ前へ進める」
「でも、止まれない?」
「そういうことだ」
やっぱり同じところを見ていた。
李俊が続ける。
「舟なら岸が見えりゃ止められる。仇討ちは、どこを岸にするか決めないまま出ることがある」
「史文恭を討ったら終わり、じゃないの?」
「全員がそう思ってりゃな」
嫌な答えだった。
でも、分かる。
晁蓋の死を背負って出るなら、誰だって簡単には退けない。仲間が傷つけば、その怒りがまた次へ繋がる。
「そういう時の梁山泊は強い」
李俊が言う。
「だから危ない」
アタシは水面を見た。
「アンタ、こういう時だけ妙に真面目ね」
「こういう時だけ?」
「普段はアタシに前へ出るなとか、珍しいとか」
「事実だろ」
「まだ言う!?」
李俊が笑った。
悔しい。
でも、その顔を見たら少しだけ胸が軽くなった。
「……何だよ」
「見てない」
「またそれか」
しまった。
完全に癖になってる。
背後で玉楼が小さく咳払いした。
絶対分かってる。
「何よ、玉楼」
「何も申し上げておりません」
その言い方が一番怪しい!
翌朝、曾頭市へ向けて軍が出た。
昨日までの浮ついた空気は消えていた。
第四軍も前寄りへ配置される。
アタシの横には玉楼。その少し後ろに孫二娘と顧大嫂がいる。
「今日は静かね」
振り返ると、孫二娘が肩をすくめた。
「仇討ちへ行くのに浮かれてたら、それこそ危ないよォ」
顧大嫂も前を見たまま答える。
「あたしは暴れるのは好きだけど、頭まで熱くする気はないよ」
「……二人とも、ちゃんとしてる」
「三娘ァ?」
「褒めたのに!」
行軍が続くにつれ、道の様子が変わった。
見張りが増えている。
遠くの林に人影が消える。
こちらの動きを最初から見ている。
玉楼が視線を巡らせた。
「待たれておりますね」
「でしょうね」
晁蓋を討った相手だ。
梁山泊が来ないと思う方がおかしい。
前方で合図が上がった。
林冲隊が止まる。
第四軍も速度を落とした。
アタシと玉楼が並んで前へ出る。
道の真ん中に――一本の矢が刺さっていた。
誰も触れていない。
深々と地面へ食い込み、黒い矢羽だけが風に揺れている。
玉楼が目を細めた。
「示威でございますね」
孫二娘も後ろから覗く。
「ずいぶん丁寧な歓迎だねェ」
顧大嫂が笑った。
「あたしなら看板でも立てとくけどねぇ。『梁山泊御一行様、こちら』って」
「観光地にするな!」
誰も笑わなかった。
……いや、アタシだけツッコんだ。
林の奥で、何かが動いた。
アタシは日月双刀へ手をかける。
玉楼も槍を立て直した。
曾頭市戦は、もう始まっていた。
曾頭市へ向かう道中、顧大嫂殿と孫二娘殿は、珍しく静かでした。
ですが、少し空気が重くなると、すぐ口喧嘩を始められる。
「押し込みならアタシの方が上さね」
顧大嫂殿が鼻を鳴らせば、
「力任せなババアなだけだろ」
孫二娘殿が返す。
すると顧大嫂殿は、すぐ笑われました。
「細い道へ入ると、すぐ詰まるバカ女がよく言うよ」
孫二娘殿が睨み返し、周囲の兵達が苦笑する。
それでも―― あのお二人が前に居ると、第四軍は止まりません。
ですが今回は、ただ騒がしいだけではありませんでした。
晁蓋様の仇討ち。
その言葉が、梁山泊全体を強くし、同時に止まりにくくしている。
扈三娘様も、戦場より“流れ”を見ておられたのだと思います。




