青龍、降る
「青龍が降ったわよ」
思わず、そう言ってしまった。
孫二娘が鍋を混ぜながら、こちらを見る。
「青龍って、関勝の事かい?」
「そうよ」
顧大嫂が酒を煽った。
「随分大きな獲物だったねぇ」
「獲物って言わないでよ」
そう言いながら、否定しきれなかった。
宋江から見れば、きっとそうだったのだと思う。
強い将、兵を見られる将、青龍偃月刀を持ち、軍を崩さない男。
宋江が欲しがらない訳が無かった。
「で?」
孫二娘がにやりと笑う。
「三娘は納得したのかい?」
「してないわよ」
即答した。
「でも、関勝は認めたんだろォ?」
少し黙る。
それは否定出来なかった。
関勝は囲まれた。
退路を塞がれ、前にも後ろにも、左右にも梁山泊の兵がいた。
それでも崩れなかった。
騙されたと分かったはずなのに……
退路が無いと分かったはずなのに……
それでも、あの男は怒鳴らなかった。
周囲を見回し、退路を見た。
前方を見て、左右を見た。
最後に、自分の兵達を見た。
そして――
青龍偃月刀を下ろした。
「……良い将だったわよ」
そう言うと、顧大嫂が小さく笑った。
「だから余計に、宋江が欲しがる訳だねぇ」
「言わないでよ」
「でも事実だろ?」
「分かってるわよ」
分かっている。
そこが嫌だった。
関勝がただ強いだけなら、まだ良かった。
兵達を見ない男なら、まだ嫌いでいられた。
でも違った。
良い将だった。
兵を生かす為に、刃を下ろせる男だった。
だから宋江は欲しがった。
だから呉用は形を作った。
だから呼延灼達は危ない芝居をした。
そこまで分かってしまうのが、本当に嫌だった。
孫二娘が鍋杓子を止める。
「つまり、三娘は関勝が嫌なんじゃなくて――」
「違うわね」
「宋江が欲しがってるのが嫌なんだねェ」
黙った。
顧大嫂が肩を揺らす。
「図星だねぇ」
「……そうよ」
認めるしかなかった。
関勝が降った事自体は、悪くない。
死ななかった。
兵も無駄に死なずに済んだ。
呼延灼達も戻って来た。
梁山泊にとっては、大きな勝利だ。
でも――
宋江が満足そうに笑っているのを見ると、胸の奥が重くなる。
「関勝殿を得られた事、天の助けにございます……だって」
孫二娘が吹き出した。
「出たねェ」
顧大嫂も笑う。
「欲しかったんだねぇ」
「本当に、欲しがりよ」
そう呟くと、二人はまた笑った。
でも、アタシは笑えなかった。
関勝は良い将だ。
それは認める。
でも、良い将だからこそ、宋江が欲しがる。
欲しがるから、策が動く。
策が動くから、誰かが命を懸ける。
それが嫌だった。
宴の灯りはまだ揺れている。
盃の音も、笑い声も続いている。
関勝は降った。
梁山泊は、また一人強い将を得た。
めでたいはずなのに――
宋江の嬉しそうな顔だけが、どうにも胸に引っかかっていた。
その時――
遠くで銅鑼が鳴った。
官軍側だ。
アタシは顔を上げた。
林の隙間から、旗が動くのが見える。
青龍旗が前へ出た。
「来る」
小さく呟いた。
玉楼も頷く。
「関勝軍、動きます」
兵達の空気が変わる。
緊張が、一気に刃の様に尖った。
遠くの道で、官軍の前衛が動き出す。
槍が揃う。
騎兵が進む。
青龍旗が揺れる。
囮の本隊を追っている。
呼延灼達の言葉に乗ったのか。
信じたのか。
信じたふりなのか。
それは分からない。
でも、関勝軍は動いた。
梁山泊本隊は、さらに退く。 逃げる様に見せる。
隊列も少し乱している。
でも、本当に崩れている訳ではない。
関勝軍は、その後を追う。
速過ぎず、遅過ぎず、乱れず、押して来る。
やっぱり嫌な軍だった。
「追い方まで綺麗ね」
思わず漏れた。
顧大嫂が低く笑う。
「だから厄介なんだろうねぇ」
孫二娘も朴刀を握り直した。
「そろそろかい?」
「まだ」
玉楼が短く言う。
「もう少し引き付けます」
官軍が進み、梁山泊が退く。 その間が、少しずつ縮まる。
そして――
関勝軍の最後列が、アタシ達の前を通り過ぎようとした。
玉楼がこちらを見る。
アタシは頷いた。
「今」
玉楼が声を張った。
「第四軍、出ます!」
林の中から、一斉に兵達が動いた。
伏せていた槍が上がり、盾が並ぶ。
馬が地を蹴る。
アタシも前へ出た。
「退路を塞げ!」
声が響く。
第四軍が道へ飛び出す。
関勝軍の後方が、一瞬揺れた。
そこへ、別の伏兵も動く。
左右から梁山泊兵が現れ、山道を塞ぐ。
前では本隊が反転し始めている。
横からも兵が出る。
関勝軍の進路が、狭まった。
「囲め!」
怒号が上がる。
官軍の兵達が初めて乱れた。 前へ進むか、戻るか、横へ逃げるか……
一瞬、判断が遅れたのだ。
その一瞬で十分だった。
盾が並び、 槍が突き出る。 退路が塞がり、青龍旗が止まった。
関勝が気付いたのだろう。
遠くからでも分かった。
軍の動きが変わる。
前へ押す力が消え、全体が身を固める様に動いた。
それでも、完全には崩れない。
関勝がいるからだ。
「……まだ折れない」
思わず言った。
玉楼も前を見ていた。
「はい。ですが、退路は塞ぎました」
その通りだった。
関勝軍は囲まれている。
前には梁山泊本隊。
後ろにはアタシ達。
左右にも伏兵。
逃げ場は無い。
それでも青龍旗は倒れていなかった。
関勝が馬を進める。
青龍偃月刀を手に、静かに周囲を見ている。
慌てていない。
怒鳴らない。
ただ、状況を見ている。
その姿を見て、アタシは少しだけ息を呑んだ。
騙されたと分かったはずだ。 退路を塞がれたと分かったはずだ。
それでも、あの男は崩れない。
関勝が低く何かを言った。
声はここまでは届かない。
でも、敵兵達が少しずつ落ち着いていくのが分かった。
本当に嫌な相手だ。
宋江と呉用が欲しがる理由も、分かってしまう。
分かりたくないのに、分かってしまう。
やがて、梁山泊側から声が上がった。
「関勝殿! これ以上の抵抗は無益!」
宋江の声だった。
柔らかい。
でも、よく通る。
「兵を失わせる事は、本意ではございませぬ!」
出た……
またその言い方だ。
アタシは目を細める。
だが、今回は反論出来なかった。
実際、ここで戦えば敵兵が死ぬ。
梁山泊側も死ぬ。
関勝が暴れれば、もっと死ぬ。
関勝は周囲を見る。
退路、前方、左右、自分の兵。
全部を見ていた。
そして、ゆっくり青龍偃月刀を下ろした。
その瞬間、敵兵達がざわめく。
関勝は、静かに馬を進めた。
青龍旗の下から、梁山泊の方へ。
誰も動かない。
誰も攻めない。
ただ、見ている。
関勝が馬を止める。
宋江の方へ向き、静かに口を開いた。
声は遠くて、全部は聞こえなかった。
だが、意味は分かった。
降る。
そう言ったのだ。
関勝軍の槍が、少しずつ下がり、盾も下がる。
戦場の空気が、ゆっくりと緩んでいく。
アタシは息を吐いた。
終わった。
いや、終わらせたのだ。
刀ではなく、槍でもなく、嘘と伏兵と包囲で……
関勝は負けた。
兵を見て、刃を下ろした。
自分が斬り抜ける事よりも、兵を生かす方を選んだ。
それが、少し意外だった。
「……あの人、兵達の命を見てるのね」
思わず呟く。
玉楼が隣で頷いた。
「はい」
短い返事だった。
孫二娘が肩を竦める。
「だから宋江が欲しがるんだろォ」
「言わないで」
「言うさァ」
顧大嫂が小さく笑う。
「嫌でも、良い将だねぇ」
「分かってるわよ」
分かっている。
それもまた、嫌だった。
遠くで、青龍旗がゆっくりと下ろされる。
関勝は降った。
呼延灼達の偽りの投降。
梁山泊本隊の偽りの退却。
伏兵による退路封鎖。
全部が繋がって、あの男を降らせた。
戦場は、真正面だけでは終わらない。
分かっていた。
分かっていたけれど――
やっぱり、胸の奥は重かった。
遠くで、梁山泊の兵達が動き始めていた。
包囲は解かれた。
武器は下げられた。
でも、まだ誰も笑っていない。
関勝は宋江の前へ進み、静かに礼を取った。
宋江はすぐに馬を下り、両手で関勝を迎えた。
「関勝殿を得られた事、まことに天の助けにございます」
またその言い方だ。
本当に、よく口が回る。
でも、関勝は怒らなかった。
ただ静かに頭を下げている。
呼延灼達も戻って来た。
韓滔と彭玘も一緒だ。
無事だった。
それを見た瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ落ちた。
「……戻ったわね」
小さく言うと、孫二娘が笑った。
「文句言えるねェ」
「言わないわよ」
「言わないのかい?」
顧大嫂が面白そうに聞く。
「……今日は言わない」
そう答えると、二人は顔を見合わせて笑った。
その後、関勝を囲んだ宴が開かれた。
酒が並び、肉が置かれ、あちこちで声が上がる。
昼間まで敵だった男が、今は中央に座っている。
その周りを宋江達が囲んでいた。
梁山泊らしいと言えば、梁山泊らしかった。
宋江は何度も関勝を褒めた。
呉用は静かに笑っている。
呼延灼も、いつもより少し肩の力が抜けていた。
関勝は派手に笑う訳ではない。
大声で騒ぐ訳でもない。
ただ、盃を受け、礼を返し、静かに座っていた。
その姿を見て、また思う。
良い将だ。
嫌になるくらい、良い将だった。
「まだ嫌そうな顔してるねェ」
孫二娘が鍋ではなく、今度は酒の椀を持って笑った。
「してるわよ」
「宴なのに?」
「宴だからよ」
顧大嫂が喉を鳴らす。
「勝ったのに、めでたくないのかい?」
「めでたいわよ」
関勝は死ななかった。
兵も無駄に死なずに済んだ。
呼延灼達も戻って来た。
梁山泊にとっては、大きな勝ちだ。
分かっている。
でも――
「綺麗に決まり過ぎたのよ」
そう言うと、孫二娘がにやりと笑った。
「そこかい」
「そこよ」
嘘を重ねて、退いたふりをして、伏兵で囲んで、降らせる。
全部が繋がった。
そして、関勝は降った。
その結果が間違っているとは思わない。
でも、気分が良い訳でもない。
玉楼が隣で静かに言った。
「それでも、見届けられました」
「……そうね」
見届けた。
目を逸らさなかった。
嫌だと思いながら、それでも最後まで見た。
関勝が刃を下ろすところも……
青龍旗が下がるところも……
宋江が嬉しそうに迎えるところも……
全部、見た。
宴の灯りが揺れる。
盃の音が重なり、笑い声が夜に広がる。
その中で、関勝は静かに盃を置いた。
アタシは少しだけ息を吐く。
戦場は、真正面だけでは終わらない。
人も、勝ち負けだけでは測れない。
分かっていたつもりだった。
でも、今日は嫌というほど見せられた。
関勝は降った。
梁山泊は、また一人強い将を得た。
宋江は満足そうに笑っている。
それを見て、アタシは小さく呟いた。
「……本当に、欲しがりね」
玉楼が何も言わず、隣で盃を置いた。
孫二娘と顧大嫂だけが、少し離れた所でまた笑っている。
宴は続く――
夜も続く――
でも、胸の奥の重さだけは――
まだ、少し残っていた。
夜は静かでした。
宴の声は、まだ遠くで続いております。
盃の音も、笑い声も、完全には消えておりません。
ですが――
私達のいる場所には、いつもの様に鍋の煮える音がありました。
関勝殿が降っても鍋。
宋江殿が満足そうに笑っていても鍋。
扈三娘様が嫌そうな顔をしていても鍋。
もはや、孫二娘殿と顧大嫂殿にとって、鍋とは宴より遥かに大事な物なのかもしれません。
――閑話休題
「で?」
孫二娘殿が鍋を混ぜながら言いました。
「三娘、まだ宋江の顔が気に食わないのかい?」
幕舎の外から、即座に声が飛びました。
「気に食わないわよ!!」
顧大嫂殿が酒を煽ります。
「早いねぇ」
「返事が早い」
孫二娘殿が笑います。
「よっぽどだねェ」
「よっぽどよ!!」
扈三娘様の声は、いつも通り強めでした。
ですが、無理もありません。
関勝殿は降られました。
青龍偃月刀を下ろされました。
兵を見て、刃を下ろされたのです。
それは、確かに良い将の判断でした。
孫二娘殿が、ぽつりと言います。
「関勝は嫌いじゃないんだろォ?」
少しだけ間がありました。
「……嫌いじゃないわよ」
扈三娘様の声は、珍しく小さめでした。
顧大嫂殿が椀を置きます。
「良い将だったからねぇ」
「そうよ」
即答でした。
「良い将だったのよ」
「兵を見てた」
「自分が斬り抜ける事より、兵を生かす方を選んだ」
孫二娘殿も、顧大嫂殿も笑いませんでした。
私も、笑えませんでした。
扈三娘様は、関勝殿を認めておられます。
そこは間違いありません。
ですが――
だからこそ、嫌だったのでしょう。
良い将だから、宋江殿は欲しがる。
宋江殿が欲しがるから、呉用殿が形を作る。
形が作られるから、呼延灼殿達が命を懸ける。
扈三娘様は、その繋がりを見てしまわれたのです。
孫二娘殿が鍋杓子を止めました。
「つまりさァ」
「三娘が嫌なのは、関勝じゃなくて」
外から低い声が返ります。
「言わなくていいわよ」
「宋江が欲しがってる事だねェ」
沈黙。
鍋の煮える音だけが続きました。
やがて――
「……そうよ」
扈三娘様が、小さく答えました。
顧大嫂殿が肩を揺らします。
「図星だねぇ」
「うるさいわね」
弱い返事でした。
否定はなさいませんでした。
宋江殿は、関勝殿を得られた事を喜んでおられました。
それは梁山泊にとって、確かに大きな事です。
関勝殿は強い。
兵を見られる。
軍を崩さない。
青龍偃月刀を持ち、あの包囲の中でも崩れなかった。
欲しがる理由は、分かります。
ですが、分かる事と、気分良く受け入れる事は違います。
その時――
孫二娘殿が、にやりと笑いました。
「でもさァ」
嫌な予感がしました。
「何でしょう」
「三娘、関勝の事はちゃんと見てたじゃないか」
外から声が返ります。
「見てたわよ」
「嫌なのに?」
「嫌でも見るわよ」
迷いのない返事でした。
私は、少しだけ微笑みました。
そうです。
扈三娘様は、嫌だと言いながらも見ておられました。
関勝殿が刃を下ろすところも。
青龍が降るところも。
宋江殿が満足そうに迎えるところも。
目を逸らしませんでした。
納得していなくても見る。
嫌でも認める。
胸に引っかかっても、なかった事にはしない。
それが扈三娘様です。
夜は、何も答えません。
関勝殿が梁山泊へ加わる事で、何が変わるのか……
宋江殿が次に何を欲しがるのか……
扈三娘様が、この先それをどう見ていくのか……
まだ何一つ分かりません。
ただ静かなまま――
鍋を混ぜながらも、珍しく真面目な顔をしていた孫二娘殿……
酒を飲みながら、関勝殿の降伏を思い返していた顧大嫂殿……
「嫌だ」
と言いながらも、宋江殿の欲しがりから目を逸らさなかった扈三娘様だけを――
夜の湿った風の中へ、静かに残している様でした。




