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月下の伏兵

「待つだけって、こんなに嫌なのね」

思わず、そう言ってしまった。

孫二娘が鍋を混ぜながら笑う。

「三娘は戦ってる方が楽なんだろォ?」

「楽じゃないわよ」

「でも分かりやすい」

少し黙った。

否定出来なかった。

刃が来れば避けるし、槍が来れば払う。

敵が前に出れば斬る。

それなら身体が動く。

でも今は違う。

呼延灼達は関勝の陣の中。

こちらは退いたふり。

アタシ達は林の陰で、関勝が追って来るのを待つ。

何もかも芝居だ。

「本当に性格悪いわよね」

顧大嫂が酒を煽った。

「策だねぇ」

「綺麗に言わないで」

孫二娘がにやりと笑う。

「でも、やるんだろォ?」

「やるわよ」

即答した。

嫌でも、やる。

呼延灼達が危ない所へ行った。

なら、こちらも役目を果たすしかない。

関勝軍が追って来たら、退路を塞ぐ。

ここで逃せば、三人の芝居も、命懸けの覚悟も、全部台無しになる。

孫二娘が鍋を混ぜ直した。

「大将らしくなったねェ」

「うるさい」

顧大嫂が笑う。

「嫌がりながらやる辺りが、三娘らしいねぇ」

否定出来なかった。

月の光が、林の中へ静かに落ちている。

アタシ達は待つ。

ただ待つ。

関勝が動く、その時まで――

梁山泊の隊は、既に退き始めていた。

関勝軍へ背を向ける形で、少しずつ距離を取っていく。

本当に逃げる訳ではない。

呼延灼達が、梁山泊を離れた様に見せる為だ。

こちらが近くに残っていては、芝居にならない。

だから退く。

だから距離を空ける。

分かっている……

分かっているのに、嫌だった。

呼延灼達の背は、少しずつ小さくなっていった。

旗は折れ、隊列も乱れている。

兵達の足取りも、わざと重く見せている。

敗れた者の様に……

梁山泊を見限った者の様に……

官軍へ降る者の様に……

でも――

見ているこちらには分かる。

あれは敗走じゃない。

芝居だ。

分かっているのに、胸の奥が重かった。

「……嫌な絵ね」

思わず呟く。

玉楼が隣で頷いた。

「はい」

短い返事だった。

多分、同じ様に感じている。

呼延灼は先頭に立ち、堂々としている。

でも、いつもの様な背中でもない。

勝ちに向かう背中ではない。 負けたふりをする背中だ。

韓滔は少し後ろで、無言のまま馬を進めている。

彭玘は時折、官軍の陣を見ている様だった。

距離が開いていく。

表情までは、もう分からない。

声も届かない。

それでも、慌てていない事だけは分かった。

あの三人は、自分達が何をしに行くのか分かっている。

嘘を持って行く。

でも、命は本物だ。

本当に嫌な話だった。

こちらの隊は、ゆっくり下がっていく。

兵達も事情を聞いているのだろう。

騒がない。

振り返り過ぎない様にしている。

だが、皆が気にしているのは分かった。

呼延灼達の方を、見ないふりで見ている。

「通すと思う?」

孫二娘が小さく言った。 さっきまでの軽口とは違う声だった。

「分からないわよ」

本当に分からない。

関勝が信じるのか。

疑うのか。

それとも、信じたふりをするのか。

どれもあり得る。

顧大嫂が腕を組んだ。

「疑うだろうねぇ」

「でしょうね」

アタシは頷く。

あの関勝の事だ。

簡単に信じるとは思えない。

でも――

呼延灼達を無視するとも思えなかった。

元官軍の将。

しかも一人じゃない。

韓滔と彭玘まで連れている。

梁山泊の中で何かあった。

そう見せるには、十分過ぎる形だった。

それが嫌だった。

形が整い過ぎている。

呉用が作った形だ。

宋江が欲しがった形だ。

呼延灼達が命懸けで本物に見せる形だ。

「……本当に嫌ね」

「嫌でも、形は通っております」

玉楼が静かに言った。

「だから嫌なのよ」

間違っているなら怒れる。

雑な策なら止められる。

危ういだけなら文句も言える。

でも、これは形になっている。

嫌になるくらい、形になっている。

梁山泊の隊はさらに下がった。

もう呼延灼達の細かい動きは見えにくい。

官軍の前衛が動いたらしい事だけが、遠くの槍の揺れで分かる。

盾の列も、少し前へ出た様に見えた。

止められたのだろう。

当然だ。

いきなり来た者を、すぐに信じる訳がない。

アタシは目を細める。

遠い……

遠過ぎる。

呼延灼が何を言っているのか分からない。

韓滔がどんな顔をしているのかも分からない。

彭玘が何を見ているのかも分からない。

ただ、待つしかない。

待つのが、こんなに嫌な事だとは思わなかった。

戦っている方がまだ分かりやすい。

刃が来れば避ける。

槍が来れば払う。

敵が前に出れば斬る。

でも今は違った。

遠くで誰かが話している。

その結果で、呼延灼達の命も、関勝軍の動きも、次の戦も変わる。

それを、こちらは退きながら待つしかない。

「……落ち着かないねェ」

孫二娘が言った。

「アンタでも?」

「アタイでもだよォ」

珍しく茶化さなかった。

顧大嫂も息を吐く。

「戻ってくるまで、腹が落ち着かないねぇ」

「鍋食べてるのに?」

「鍋と腹の落ち着きは別だよ」

そこは分からない。

でも、少しだけ笑いそうになった。 ほんの少しだけ。

その時だった。

後方から馬の音が近付いて来る。

斥候だった。

泥を跳ね上げながら、こちらへ走って来る。

馬を止めるなり、頭を下げた。

「報告!」

周囲の空気が変わる。

アタシは手綱を握り直した。

「呼延灼殿、韓滔殿、彭玘殿――」

斥候は息を整える暇も惜しむ様に続けた。

「関勝の陣内へ通されました!」

一瞬、誰も喋らなかった。

成功したのか。

それとも、罠の中へ入っただけなのか。

まだ分からない。

関勝が本当に信じたのか。

それとも、話を聞く為に通しただけなのか。

それすら分からない。

でも――

偽りの投降は、もう関勝の陣の中へ入ってしまった。

アタシは小さく息を吐く。

胸の奥が、さらに重くなった。

遠くで、青龍旗が静かに揺れている。

その下に、呼延灼達がいる。

もう、こちらからは手が届かない。

戦場は、真正面だけでは終わらない。

分かっている。

分かっているけれど――

アタシは、その青龍旗から目を離せなかった。

「通された」

その報告を聞いても、何かが終わった訳ではなかった。

むしろ、そこからが嫌だった。

呼延灼達は、もう関勝の陣の中にいる。

こちらからは見えない。

声も届かない。

何を言っているのかも分からない。

関勝が信じているのか。

疑っているのか。

それとも、信じたふりをしているのか。

何一つ分からない。

分かるのは一つだけだった。 もう、こちらの手が届かない場所で策が動いているという事だけだ。

梁山泊の隊は、さらに退いた。

寨へ戻る様に見せる為だ。

本当に戻るんじゃない。

戻るふりをする。

背を向け、乱れた様に見せ、追わせる。

そういう話だった。

「……本当に性格悪いわね」

思わず呟くと、玉楼が隣で静かに言った。

「策です」

「綺麗に言わないでよ」

「はい」

玉楼は素直に頷いた。

否定しない辺りが余計に嫌だった。

孫二娘が肩を回しながら笑う。

「で、アタイ達は隠れるのかい?」

顧大嫂が答えた。

「そうなるねぇ」

「嫌ね」

「さっきから嫌って言いっぱなしだねェ」

「嫌なんだから仕方ないでしょ」

実際、嫌だった。

真正面からぶつかる方が、まだ分かりやすい。

敵が来たら斬る。

槍が来たら避ける。

敵兵とぶつかったら押す。

敵わないと見たら退く。

それなら身体が勝手に動く。

でも今は違う。

見えない場所で呼延灼達が嘘を吐き、 こちらは退いたふりをし、 関勝が追って来るのを待つ。

何もかも芝居だ。

それなのに、失敗すれば人が死ぬ。

梁山泊の隊は、ゆっくり寨へ戻る様に動いた。

荷車も下がる。

兵達も下がる。

旗も下げる。

でも、全部が本当じゃない。

一部の隊は道を外れ、林の陰へ入る。

別の隊は丘の裏へ回る。

伏兵だ。

第四軍も、その一部に入っていた。

「ここで待つの?」

「はい」

玉楼が地形を見ながら答えた。

「関勝軍が追って来れば、この道を通ります。そこを塞ぎます」

「退路を?」

「はい」

分かっている。

それが役目だ。

関勝を正面から倒すのではない。

追わせて、深入りさせる。

後ろを塞ぎ、逃げ場を無くす。

それで降らせる。

言葉にすると簡単だ。

でも、やっている事は重い。

アタシ達は林の陰へ入った。 馬の口を押さえ、兵達にも音を立てない様に命じる。

盾を低く伏せ、槍先を下げる。

数刻が経った――

月の光が木々の隙間から落ちていた。

遠くでは、梁山泊の本隊が退いている。

もっと遠くには、青龍旗がある。

関勝軍は、まだ動かない。

「追うと思う?」

孫二娘が小さく言った。

「分からない」

そう答えるしか無かった。

でも、追う理由はある。

呼延灼達が中で何を言ったのかは分からない。

だが、梁山泊が内側から割れた様に見せた。

官軍出身の将が三人も離れた。

そして本隊が寨へ戻っている。

追うには十分な形だ。

だからこそ嫌だった。

しばらく、何も起きなかった。

風だけが木々を揺らす。

兵達の息が浅くなる。

誰かが唾を飲み込む音まで聞こえる気がした。

待つ――

ただ待つ。

その時間が、やけに長かった。

夜は静かでした。

戦場の怒号もありません。

銅鑼の音も、まだ遠くで眠っている様でした。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、やはり鍋を囲んでおられました。

呼延灼殿達が関勝殿の陣へ入っても鍋。

梁山泊本隊が退いたふりをしても鍋。

第四軍が林の陰で伏せていても鍋。

もはや、伏兵にも鍋は必要なのかもしれません。

――閑話休題

「で?」

孫二娘殿が鍋を混ぜながら言いました。

「三娘、まだ嫌そうな顔してるのかい?」

顧大嫂殿が酒を煽ります。

「してるだろうねぇ」

幕舎の外から、即座に声が飛びました。

「してるわよ!!」

孫二娘殿が吹き出します。

「また本人が認めたよォ」

「嫌なものは嫌なのよ!!」

声は強めでした。

ですが、無理もありません。

呼延灼殿、韓滔殿、彭玘殿。

三名は、もう関勝殿の陣内へ入られました。

こちらからは見えません。

声も届きません。

何を話しているのかも分かりません。

関勝殿が信じているのか。

疑っているのか。

それとも、信じたふりをしているのか。

まだ何一つ分かりません。

顧大嫂殿が椀を置きます。

「待つしかないってのは、嫌なもんだねぇ」

外から、少し間を置いて返事がありました。

「嫌よ」

珍しく短い返事でした。

孫二娘殿が鍋杓子を止めます。

「三娘は、戦ってる方が楽なんだろォ?」

「楽じゃないわよ」

即答でした。

ですが、その後に少し沈黙がありました。

「でも、分かりやすいのよ」

扈三娘様の声は、少し低くなっておりました。

刃が来れば避ける。

槍が来れば払う。

敵が前に出れば斬る。

それなら身体が動く。

ですが、今は違います。

呼延灼殿達は、見えない場所で言葉を使っている。

梁山泊本隊は、寨へ戻るふりをしている。

第四軍は、林の陰で息を殺して待っている。

全てが芝居です。

ですが、失敗すれば人が死にます。

「本当に性格悪い策だねェ」

孫二娘殿がぽつりと言いました。

外からすぐに声が返ります。

「でしょう!?」

顧大嫂殿が肩を揺らしました。

「そこは食いつくんだねぇ」

「食いつくわよ!!」

少しだけ笑い声が広がりました。

ですが、すぐに静かになります。

今は、笑って終われる段階ではありません。

関勝殿はまだ動いておられません。

呼延灼殿達も戻って来ておりません。

伏兵も、まだ伏せたままです。

月の光だけが、林の中へ落ちている。

ただ待つ――

ただ息を潜める。

それだけの時間が、どれほど重いものなのか。

扈三娘様は、今回初めて強く感じておられたのかもしれません。

その時――

孫二娘殿が、少しだけ笑いました。

「でもさァ」

嫌な予感がしました。

「何でしょう」

「関勝軍が来たら、出るんだろォ?」

外から、即座に声が返ります。

「出るわよ」

迷いの無い声でした。

「嫌でも?」

「嫌でも」

顧大嫂殿が静かに頷きました。

「大将だねぇ」

「うるさいわね」

扈三娘様はそう返されましたが、否定はなさいませんでした。

そうです。

嫌でも、やる。

納得しきれなくても、役目は果たす。

呼延灼殿達が命懸けで作った芝居を、無駄にはしない。

それが、扈三娘様です。

夜は、何も答えません。

関勝殿が追って来るのか……

呼延灼殿達の言葉が届いたのか……

この伏兵が、本当に退路を塞ぐ事になるのか……

まだ何一つ分かりません。

ただ静かなまま――

鍋を混ぜながらも、耳だけは外へ向けていた孫二娘殿……

酒を飲みながら、林の奥の気配を測っていた顧大嫂殿……

「嫌だ」

と言いながらも、関勝軍が動く時を待っていた扈三娘様だけを――

月の光の中へ、静かに残している様でした。

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