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偽りの投降

「また始まったわよ」

思わず、そう言ってしまった。

孫二娘が鍋を混ぜながら、にやりと笑う。

「何がだい?」

「悪巧み」

顧大嫂が酒を煽った。

「言い切ったねぇ」

「言い切るわよ」

だって、どう見てもそうだった。

関勝軍は崩れない。

郝思文は捕らえた。

第四軍も押した。

林冲も出た。

それでも崩れなかった。

なら、次は策。

そこまでは分かる。

分かるのだけれど……

でも――

だからといって、気分が良い訳じゃない。

「呼延灼だけかと思ったらさ」

孫二娘が鍋杓子を振る。

「韓滔と彭玘も一緒だったねェ」

「そうなのよ!!」

思わず声が強くなる。

「本格的に騙す気じゃない!!」

顧大嫂が肩を揺らした。

「まあ、その方が形にはなるからねぇ」

「分かってるわよ」

分かっている。

呼延灼だけが降るより、官軍出身の将が揃って離反した方が、それらしく見える。

関勝も話を聞くしかない。

韓滔も彭玘も、一緒にいる方が信じやすい。

全部、分かる。

だから嫌だった。

孫二娘が笑う。

「分かるのに嫌なんだねェ」

「そうよ」

「面倒だねェ」

「うるさい」

顧大嫂が椀を置いた。

「でも、呼延灼達も腹を括ってたじゃないか」

少し黙る。

それも分かっている。

呼延灼は嫌そうな顔をしなかった。

韓滔も黙っていた。

彭玘も反対しなかった。

怖くない訳じゃない。

失敗すれば、捕まる。

下手をすれば斬られる。

それでも行く。

その背中は、敗走した者の背中じゃなかった。

「……だから余計に嫌なのよ」

孫二娘が少しだけ目を細める。

「何がだい?」

「嘘を吐く準備なのに、覚悟だけは本物だったから」

鍋の煮える音だけが続いた。

しばらく誰も笑わなかった。

やがて、顧大嫂が小さく息を吐く。

「戦だからねぇ」

「それ、玉楼にも言われた」

「なら正しいねぇ」

「正しいから嫌なのよ」

間違っているなら怒れる。

止められる。

文句も言える。

でも、今回は違う。

正面からやれば、もっと人が死ぬ。

関勝軍は強い。

林冲でも決着はつかなかった。

だから、策を使う。

嘘を使う。

それだけの話だ。

それだけの話なのに――

胸の奥が重い。

孫二娘が鍋を混ぜながら笑った。

「まあ、戻って来たら文句言えばいいさ」

「誰に?」

「呼延灼達に」

「何て言うのよ」

「無事で良かったねェ、って」

顧大嫂も頷く。

「それなら文句じゃないねぇ」

「アンタ達ね……」

呆れた。

でも、少しだけ息が抜けた。

呼延灼――

韓滔――

彭玘――

三人の背中は、もう関勝の陣へ向かっている。

関勝が信じるか。

疑うか。

それとも、最初から見抜くか。

まだ分からない。

でも、もう動き出してしまった。

「本当に、真正面だけじゃ終わらないわね」

そう呟くと、孫二娘が笑った。

「梁山泊だからねェ」

顧大嫂も笑う。

「梁山泊だからねぇ」

否定出来なかった。

鍋の湯気が、湿った風に揺れる。

偽りの投降。

そう呼ぶには、あまりにも重い背中を――

アタシは、まだ見送っている気がしていた。

林冲がわずかに目を動かす。

関勝も、こちらの本陣を見る。

宋江と呉用だ。

遠くからでも分かった。

あの二人が、もう次を見ている。

嫌な予感がした。

こういう時の嫌な予感は、本当に当たる。

林冲は何も言わず、馬首を返した。

関勝も追わず、敵兵も退いていく。

味方も深撃はしない。

二人の一騎討ちは、決着がつかなかった。

でも、誰も不満を言わなかった。

言える訳がない……

あれ以上続けば、どちらかが死ぬ。

そういう勝負だった。

アタシは息を吐く。

気付けば、手綱を握る指が痛かった。

「……終わり?」

孫二娘が小さく言った。

「一旦ね」

顧大嫂が答える。

珍しく声が低い。

玉楼が前を見たまま言った。

「真正面から崩すは難しいかと」

「分かってる」

分かっていた。

郝思文は捕らえた。

第四軍も押した。

林冲も出た。

それでも官軍は崩れない。

あの男がいる限り、官軍は折れない。

なら、次に何が始まるか。

考えたくなかった。

でも、考えなくても分かる。

軍議だ。

そして――

多分、ろくでもない策だ。

梁山泊側の本陣へ戻ると、空気は重かった。

負けた訳ではない。

でも、勝ったとも言えない。

誰もはしゃがない。

誰も大声を出さない。

宋江は静かに座っていた。

呉用は地図を見ている。

林冲は無言で立っている。

呼延灼も、少し離れた所にいた。

アタシが入ると、何人かがこちらを見た。

宋江が口を開く。

「郝思文殿を捕らえた事、大きな手柄です」

「どうも」

短く返した。

褒められているのに、やっぱり嬉しくない。

その直後に関勝が出て来たせいだ。

呉用が静かに言った。

「ですが、関勝軍は容易には崩せませぬ」

その通りだった。

「正面から押せば、こちらの損耗が増えます」

誰も反論しない。

アタシも言えなかった。

実際、押しても崩せなかったのだ。

宋江が小さく息を吐く。

「関勝殿ほどの人物、出来る事ならば傷つけたくはありませぬ」

出た……

アタシは思わず目を細めた。

玉楼が隣で、ほんの少しだけ動く。

多分、同じ事を思ったのだろう。

呉用の視線が、ゆっくり呼延灼へ向いた。

ああ……やっぱり……

また始まった――

アタシは小さく呟く。

「……悪巧みね」

玉楼が低く返す。

「策です」

「綺麗に言わないで」

宋江と呉用は、もう呼延灼を見ている。

呼延灼も気付いていた。

嫌そうな顔はしない。

怒りもしない。

ただ、静かに目を伏せた。

呉用が言う。

「呼延灼殿」

「分かっております」

呼延灼の返事は早かった。

「私が参りましょう」

その一言で、場の空気が決まった。

アタシは眉を寄せる。

「何する気?」

答えは分かっていた。

でも、聞かずにはいられなかった。

呉用が静かに笑う。

「関勝殿は、官軍の将です」

「でしょうね」

「ならば、官軍より降る者の言葉には耳を貸すでしょう」

呼延灼は元官軍。

それも、かつて梁山泊討伐に来た将だ。

その呼延灼が、偽って関勝へ降る。

そういう話だ。

アタシは額を押さえた。

「またそういうの……」

孫二娘が後ろで小さく笑う。

「出たねェ」

顧大嫂も息を吐いた。

「始まったねぇ」

宋江は柔らかく言う。

「無用な血を流さぬ為です」

その言い方が、余計に引っ掛かった。

無用な血。

確かにそうだ。 真正面からやれば、もっと人が死ぬ。

でも、だからといって気分が良くなる訳じゃない。

呼延灼は何も言わない。

ただ静かに立っている。

林冲も黙っていた。

関勝と戦ったばかりなのに、表情は変わらない。

でも、アタシには分かった。 多分、林冲も分かっている。

関勝は強い。

正面から倒す相手ではない。

だから策を使う。

それだけの話だ。

それだけなのに――

胸の奥が少し重かった。

呉用が地図へ指を置く。

「呼延灼殿には、関勝陣へ向かって頂きます」

軍議が進む。

声は静かだ。

でも決まるのは早い。

こういう時の梁山泊は、本当に速い。

アタシは黙って聞いていた。

関勝と林冲の一騎討ち。

郝思文の捕縛。

第四軍の突撃。

全部が終わった後に残ったのは、これだ。

偽りの投降――

また、そういう話になる。

アタシは小さく息を吐いた。

「真正面だけじゃ、終わらないのね」

玉楼が隣で答える。

「戦ですから」

それも分かっている。

分かっているから、余計に嫌だった。


軍議が終わる頃には、空気はもう決まっていた。

正面から関勝軍を崩すのは難しい。

林冲でも決着はつかない。

郝思文を捕らえても、官軍は折れない。

ならば、策を使う。

言葉にすれば、それだけだ。

でも、その“それだけ”が、やっぱり胸に重かった。

呼延灼は静かに立っていた。

その横に、韓滔と彭玘も呼ばれている。

「呼延灼だけじゃないの?」

思わず声が出た。

呉用がこちらを見る。

「はい。韓滔殿、彭玘殿にも同行して頂きます」

「……本格的に騙す気じゃない」

孫二娘が後ろで小さく笑った。

「言っちまったねェ」

顧大嫂も腕を組む。

「でも、その方が形にはなるねぇ」

玉楼が静かに頷いた。

「呼延灼殿お一人よりも、官軍出身の将が揃って投降した形になります。関勝殿も、話を聞かざるを得ないでしょう」

「嫌な説得力ね」

「はい」

玉楼は否定しなかった。

韓滔は黙っていた。

表情も変わらない。

ただ、もう決まった事として受け止めている様だった。

彭玘は少しだけ眉を寄せていた。

でも、反対はしない。

この男も分かっているのだろう。

嫌でも、必要ならやる。

そういう空気だった。

呼延灼が宋江へ向き直る。

「偽って降り、関勝の陣へ入りましょう」

宋江は静かに頷いた。

「危うい役目を、お願い致します」

言い方は丁寧だった。

本当に丁寧だった。

だから余計に嫌だった。

危うい役目だと分かっている。

嘘を吐かせると分かっている。

それでも、柔らかく頼む。

呼延灼はそれに頭を下げた。

「元より、戦場に身を置く者です」

短い言葉だった。

韓滔も続く。

「我らも参ります」

彭玘も頷いた。

「呼延灼殿一人では、疑われましょう」

もう話は終わっていた。

誰が何をするか。

どこへ向かうか。

どう装うか。

いつ出るか。

呉用が地図の上に指を滑らせる。

「関勝陣の前衛は、こちらから見てこの位置。呼延灼殿達には、やや西側より近付いて頂きます」

「敗走に見せるの?」

アタシが聞くと、呉用は静かに頷いた。

「はい。梁山泊内で意見が割れ、官軍出身の将が離反した。そう見せます」

「よくそんな話がすぐ出てくるわね」

「必要ですので」

さらっと言った。

本当に嫌になる。

必要なら、嘘も形になる。

必要なら、人の過去も使う。 必要なら、官軍だった呼延灼達をもう一度“官軍だった者”として扱う。

それが戦だと言われれば、反論出来ない。

でも、気分は悪かった。

孫二娘が小さく呟く。

「気に食わない顔だねェ」

「気に食わないもの」

「正直だねェ」

顧大嫂が息を吐く。

「でも、正面からやれば死人が増える」

「分かってるわよ」

分かっている。

それが一番嫌だった。

分からなければ怒れる。

間違っていると思えれば止められる。

でも、分かってしまう。

関勝軍は強い。

正面から崩せない。

無理に押せば、第四軍の兵も、林冲隊の兵も、もっと倒れる。

だから、嘘を使う。

それだけだ。

それだけなのに、胸の奥が重い。

軍議が解かれると、呼延灼達はすぐに準備へ入った。

派手な支度ではなく、むしろ、少し乱す。

鎧の紐を緩め、旗を下ろし、敗走した様に見せる。

馬にも疲れを作る。

少数の兵だけを連れ、あえて整え過ぎない。

それを見ていると、妙な気分になった。

戦う準備ではない。

騙す準備だ。

呼延灼は馬の前で手綱を確かめていた。

韓滔は無言で武器を確認している。

彭玘は遠くの官軍陣を見ていた。

アタシは少し離れた場所から、その三人を見る。

「行くのね」

呼延灼が振り返った。

「行くぞ」

「怖くないの?」

聞いてから、少しだけ後悔した。

余計な事だったかもしれない。

でも呼延灼は、静かに答えた。

「怖くない訳では無いな」

その返事は意外だった。

「だが、関勝を正面から討つよりは、まだ兵を残せるからな」

言葉に詰まった。

そう言われると、何も返せない。

韓滔が短く言う。

「我らが疑われれば、それまでです」

彭玘も続いた。

「ですが、疑わせぬ形を作る為に、我らが行く」

三人とも、分かっている。

これは危ない。

失敗すれば捕まる。

最悪、その場で斬られる。

それでも行く……

アタシは小さく息を吐いた。

「……無事に戻りなさいよ」

孫二娘が後ろで笑った。

「命令みたいだねェ」

「命令よ」

顧大嫂が肩を揺らす。

「大将らしくなってきたじゃないか」

「うるさい」

呼延灼が少しだけ目を伏せた。

「承知した」

韓滔も彭玘も、静かに頭を下げる。

やがて、三騎が動いた。

呼延灼を先頭に、韓滔と彭玘が続く。

その後ろに、選ばれた少数の兵。

旗は低く、隊列はわざと乱している。

敗れた者の様に……

梁山泊を捨てた者の様に……

でも、背中は乱れていなかった。

アタシはその背を見送る。

朝の光はもう高くなっている。

遠くには、まだ青龍旗が見えた。

官軍は動いていない。

あの陣へ、呼延灼達は嘘を持って行く。

それが成功すれば、こちらの損耗は減る。

失敗すれば、三人は危ない。

単純な話だ。

単純だから、余計に嫌だった。

玉楼が隣で静かに言う。

「始まりましたね」

「ええ」

「策が」

「悪巧みが、でしょ」

玉楼は少しだけ黙った。

それから、

「……それは、否定しません」

と答えた。

アタシは前を見る。

呼延灼達の背が、少しずつ小さくなっていく。

関勝が信じるか。

疑うか。

それとも、最初から見抜くか。

まだ分からない。

でも、もう動き出してしまった。

戦場は、真正面だけでは終わらない。

分かっている。

分かっているからこそ――

アタシは、その背中から目を離せなかった。

夜は静かでした。

戦場の怒号もありません。

銅鑼の音もありません。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、今日も鍋を囲んでおられました。

関勝軍が崩れなくても鍋。

林冲殿の一騎討ちが終わっても鍋。

呼延灼殿達が偽りの投降へ向かっても鍋。

もはや、このお二人にとって鍋とは、精神安定剤なのかもしれません。

――閑話休題

「で?」

孫二娘殿が鍋を混ぜながら言いました。

「三娘、まだ嫌そうな顔してるのかい?」

顧大嫂殿が酒を煽ります。

「してるだろうねぇ」

幕舎の外から、即座に声が飛びました。

「してるわよ!!」

孫二娘殿が吹き出します。

「出たよォ!!」

「本人が認めた!!」

「だって嫌なものは嫌でしょ!!」

外から返ってくる声は、いつも通り強めでした。

ですが――

無理もありません。

呼延灼殿――

韓滔殿――

彭玘殿――

三名は、偽って関勝殿の陣へ向かわれました。

敗走した様に……

梁山泊を捨てた様に……

官軍へ戻る様に……

ですが、その背中は何か大事な物を背負っておられる様でした。

孫二娘殿が鍋杓子を止めます。

「偽りの投降、か……」

顧大嫂殿も少しだけ目を細めました。

「言葉にすると軽いけどねぇ」

外から低い声が返ります。

「軽くないわよ」

はい、軽くありません。

策としては、理に適っております。

関勝軍は正面からでは崩し難い。

林冲殿との一騎討ちでも、勝敗はつかなかった。

無理に押せば、兵が多く倒れる。

ならば、策を用いる。

呼延灼殿達が官軍出身である事を使い、関勝殿の警戒を緩め、こちらの策へ誘う。

それは、間違いではありません。

ですが――

間違いではないからこそ、扈三娘様は嫌だったのでしょう。

孫二娘殿がぽつりと言いました。

「強いヤツ見ると、ホント、宋江って欲しがるよねェ?」

幕舎の外が、少し静かになりました。

「……そうなのよ」

扈三娘様の声は、珍しく小さめでした。

顧大嫂殿が椀を置きます。

「そこが引っかかるんだろうねぇ」

「引っかかるわよ」

即答でした。

「だって、宋江が関勝を欲しがってるだけじゃない」

「でも、その為に呼延灼達は命懸けなのよ」

「そんなの、気分良い訳ないじゃない」

孫二娘殿も顧大嫂殿も笑いませんでした。

私も、笑えませんでした。

戦場では、正しい事だけでは勝てません。

真っ直ぐ進むだけでは、兵を失う事もあります。

敵を討つより、取り込んだ方が良い時もあるのでしょう。

ですが、それを当然の様に飲み込めるかと言えば、別の話です。

宋江殿は、関勝殿を得たい。

呉用殿は、その為の形を作る。

呼延灼殿達は、その形を本物に見せる為に命を懸ける。

扈三娘様は、そこを嫌がっておられるのでしょう。

その時――

孫二娘殿が、少しだけ笑いました。

「でもさァ」

嫌な予感がしました。

「何でしょう」

「三娘、最後に心配してたじゃないか」

外から声が飛びます。

「何よ」

「無事に戻りなさいよ、って」

顧大嫂殿が肩を揺らしました。

「あれは大将の顔だったねぇ」

「うるさいわね!!」

即座に返ります。

「言わなきゃ駄目でしょ!!」

「三人とも危ない所へ行くのよ!!」

孫二娘殿が楽しそうに頷きます。

「だから言ったんだろォ?」

少し間が空きました。

外から、小さく返事がありました。

「……そうよ」

私は少しだけ微笑みました。

そうです。

嫌だと言いながらも、見送る。

悪巧みだと言いながらも、無事を命じる。

策が嫌いでも、行く者の背中から目を逸らさない。

それが扈三娘様です。

夜は、何も答えません。

呼延灼殿達が関勝殿に信じられるのか……

それとも疑われるのか……

この偽りの投降が、どこまで戦場を動かすのか……

まだ何一つ分かりません。

ただ静かなまま――

鍋を混ぜながらも、呼延灼殿達の背を思い返していた孫二娘殿……

酒を飲みながら、策の重さを黙って受け止めていた顧大嫂殿……

「悪巧み」と言いながらも、三人の無事を案じた扈三娘様だけを――

湿った風の中へ、静かに残している様でした。

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