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ここは入れない

前へ出るのが仕事だと思ってた。

でも、今回は無理。

「珍しいねェ。三娘が自分で止まった」

孫二娘が感心した顔をする。

「アンタまで李俊と同じこと言うな!」

顧大嫂も青龍偃月刀を見ながら頷いた。

「あたしでも、あそこは入らないねぇ」

「顧大嫂まで!?」

それくらい、関勝と林冲が凄かった。

なのに李俊は後ろから、

「止まれ!」

って叫んでくる。

「もう止まってる!」

「珍しいな」

「だから何でみんな同じ反応なの!?」

孫二娘が笑った。

「学習の成果だねェ」

「何の!?」

……でも本当に、今回は入れない。

林冲と関勝。

二人の間だけ、戦場の空気が違っていた。

踏み込もうとした、その時だった。

前方で官軍の隊列が動いた。

さっきまで林冲隊に押されていた前衛が、左右へ綺麗に割れていく。

崩れたわけでも、逃げ始めたわけでもない。

誰かに押し退けられた様子すらなく、中央だけが一本の道みたいに開いていった。

「……何これ?」

思わず馬を止める。

第四軍の兵たちも戸惑っていた。

追えばいいのか、それとも罠なのか。

敵が勝手に道を空けてくれたからといって、喜んで飛び込めるほど、アタシたちだって素直じゃない。

「モーセの十戒みたいなんだけど……」

孫二娘が横から顔を向けた。

「そこ知ってるんだねェ?」

「有名でしょ!」

「アタイ、海が割れる方は知ってるけど、今割れてるの人間だからねェ」

「見れば分かる!」

こんな時まで突っ込ませないでほしい。

顧大嫂は笑っていなかった。

開いた官軍の中央、その奥へ視線を向けている。

「あれを通すためだねぇ」

「誰を?」

聞く必要はなかった。

青龍の旗が前へ動いた。

旗の下から馬が現れ、その上には長い髯の男がいる。

朝の光を受けた青龍偃月刀が、馬の歩みに合わせて鈍く揺れていた。

関勝だ。

さっきまで一歩も退かなかった男が、今度は自分から前へ出てくる。

官軍の兵たちは歓声を上げない。

それでも、槍の並びが揃い、背筋まで伸びたように見えた。

たった一人が動いただけなのに、軍全体が息を吹き返す。

「……嫌な相手ね」

「はい」

玉楼の返事は短かった。

その声が近い。

見なくても、もう隣にいると分かる。

さっきまでアタシが前へ出れば、玉楼がその先を見ていた。

今は二人とも同じものを見ている。

関勝――

あそこへ突っ込むのは、さすがにまずい。

そう考えたところで、後ろから聞き覚えのある声が飛んできた。

「三娘!」

反射的に振り返る。

李俊だった。

こんな状況なのに、誰より先に声を拾ってしまった自分がちょっと嫌だ。

「今度は何!?」

「止まれ!」

「止まってる!」

「珍しいな」

「どういう意味よ!」

孫二娘が吹き出した。

「李俊、三娘の取扱説明書が出来上がってきたねェ」

「本人の前で共有するな!」

「前へ出る、止められる、怒る。行動パターンは安定してるよォ?」

「アタシを観察対象にするな!」

顧大嫂が顎で前を示した。

「その夫婦漫才、あとにした方がいいよ」

「夫婦じゃない!」

「誰も夫婦とは言ってないねェ?」

「顧大嫂が今言った!」

騙されないわよ!

その時、第四軍の前を白馬が抜けていった。

白い披風。

手には蛇矛。

林冲だった。

アタシたちの会話など聞こえていないみたいに、そのまま官軍が開けた中央へ進んでいく。

「林冲殿……」

玉楼の声が変わった。

尊敬とも警戒とも違う。

ただ、本気で見ている感じだった。

関勝も林冲に気づいている。

どちらも急がない。

官軍が道を開け、梁山泊側も自然に兵を止めていった。

命令されたわけでもないのに、二人の間へ入ろうとする者はいない。

林冲が街道の中央で馬を止めた。

関勝との距離は、もう声が届くほどしかない。

風が二人の間を抜け、林冲の白い披風と関勝の長い髯を揺らした。

先に口を開いたのは関勝だった。

「豹子頭・林冲か」

林冲がわずかに頷く。

「大刀・関勝だな」

それだけ。

名を聞き返す必要すらないらしい。

関勝が林冲の蛇矛へ目を向けた。

「八十万禁軍教頭……その名は聞いている」

「昔の話だ」

「腕まで昔になったとは聞いておらぬ」

林冲の口元がほんの少し動いた。

「なら、試すか?」

ぞくっとした。

喧嘩を売っているわけじゃない。

威張っているわけでもない。

なのに、二人とも完全にやる気だ。

「三娘ァ」

孫二娘が珍しく声を落とした。

「これは入らない方がいいねェ」

「言われなくても分かる」

顧大嫂も青龍偃月刀を見ながら、今回は前へ出ようとしなかった。

「あたしでも、今は邪魔になるねぇ」

その一言で余計に怖くなった。

玉楼は黙っている。

視線だけが林冲を追っていた。

関勝が青龍偃月刀を構える。

林冲の蛇矛も、ゆっくり前へ下がった。

次の瞬間、二頭の馬が同時に地面を蹴った。

速い。

大きな得物を持っているのに、関勝の馬は迷いなく間合いを潰していく。

林冲も真正面から向かい、避けようともしない。

青龍偃月刀が唸った。

横から薙ぐ一撃を、林冲は蛇矛で受け止める。

金属音が戦場全体へ響いた。

火花が散り、二頭の馬が互いに押し合うように踏ん張る。

腕だけで打ち合っているんじゃない。

馬の勢いも身体の重さも、そのまま武器へ乗せている。

「……何なのよ、あれ?」

声が漏れた。

玉楼も答えない。

答える必要がなかった。

林冲の蛇矛が刃を押し上げ、関勝の青龍偃月刀が流れる。

その隙へ穂先が伸びたが、関勝は馬上で身体をずらし、蛇矛をかわしながら大刀を返した。

林冲も追わない。

二騎はすれ違い、そのまま距離を取って馬首を返した。

歓声は起きなかった。

敵も味方も、次を待っている。

孫二娘まで黙っていた。

「アンタが静かだと怖いんだけど?」

思わず言うと、孫二娘は二人から目を離さないまま、

「今、茶々入れたらアタイまで怒られそうだからねェ」

と答えた。

「誰に?」

「戦場そのものに」

珍しく分かる気がした。

関勝が再び動く。

今度は先に仕掛けた。

青龍偃月刀が高く上がったかと思えば、その重さから想像できない速さで落ちてくる。

林冲は下がらなかった。

蛇矛を斜めに立て、正面から受けるのではなく刃を滑らせる。

関勝の一撃が地面へ流れた瞬間には、もう蛇矛の穂先が関勝の胸元を狙っていた。

関勝が大刀の柄を返す。

穂先と柄がぶつかり、また火花が飛んだ。

一合ごとに攻める側が変わる。

林冲が突けば関勝が払う。

関勝が薙げば林冲が流し、そのまま次の突きへ繋げていく。

どちらも止まらない。

見えてはいる。

でも、自分があそこへ入れるかと聞かれたら、答えは簡単だった。

無理……

少なくとも今のアタシが、正面から混ざったら死ぬ。

悔しいけど、それくらい分かるようにはなった。

「三娘様」

玉楼が初めて口を開いた。

「はい?」

「手綱が」

言われて気づいた。

握り締めすぎていた。

「……見てたら力入っちゃった」

「わたくしもでございます」

見ると、玉楼の槍を持つ手も少し強く締まっている。

なんだ。

アタシだけじゃなかった。

その向こうで、関勝の青龍偃月刀と林冲の蛇矛がまた交差した。

今度は武器同士が絡んだまま止まる。

関勝が押す。

林冲も退かない。

馬の蹄が土を掻き、二人の腕に力が籠もる。

それでも互いに無理押しはせず、ほとんど同時に武器を引いた。

離れた瞬間、林冲の蛇矛が走る。

関勝の肩口。

速い。

だが関勝は身体を捻ってかわし、流れた青龍偃月刀をそのまま回して林冲の脇腹へ返した。

「危なっ!」

思わず声が出た。

林冲の身体が馬上で沈む。

刃が白い披風を掠めた。

ほんの少し遅ければ、まともに入っていた。

林冲はそのまま蛇矛を跳ね上げる。

今度は関勝の鎧へ穂先が触れ、甲の表面を擦って離れた。

互いに届いた。

互いに届かなかった。

それだけなのに、空気が変わった。

関勝が目を細める。

林冲も構えを直した。

さっきまでより静かだった。

だからこそ分かる。

次は、探らない。

「……次、本気で来る」

誰に言ったのか自分でも分からなかった。

孫二娘も笑わない。

顧大嫂は腕を組む余裕すらなくなり、玉楼も林冲から目を離さない。

後ろにいる李俊まで黙っている。

今だけは、アタシを止める声も飛んでこなかった。

関勝が馬腹を蹴った。

林冲も同時に動く。

二騎が真正面から走り出す。

今度の青龍偃月刀は低い。

地面すれすれから、馬の脚ごと薙ぐように上がってくる。

林冲の蛇矛がその刃へ伸びた。

ぶつかる――と思った瞬間、蛇矛の穂先がわずかに角度を変えた。

受けない。

流す。

青龍偃月刀が外へ逸れ、その一瞬に林冲の蛇矛が関勝へ飛び込む。

関勝が身体を捻った。

穂先が鎧を擦る。

それでも関勝は止まらず、流された大刀を身体ごと回し、その勢いのまま返してくる。

林冲も下がらない。

蛇矛を引き戻し、迫る刃の下へ差し込んだ。

金属が噛み合う。

二頭の馬がほとんど触れ合うところまで近づき、関勝と林冲が互いの得物を押し合った。

どちらも退かない。

どちらも崩れない。

時間にすれば、ほんの一瞬だったのかもしれない。

でも、ずっと続いているように感じた。

やがて二人は同時に武器を引き、馬を離す。

関勝が振り返る。

林冲も振り返った。

傷らしい傷はない。

勝ったとも、負けたとも言えない。

それなのに、戦場全体が静まり返っていた。

二人が互いの力を確かめた。

それだけで十分だったのだと思う。

関勝が青龍偃月刀をゆっくり下ろす。

林冲も蛇矛を少し引いた。

まだ終わっていない。

そう思った時だった――

梁山泊側から、一度だけ銅鑼が鳴った。

玉楼でございます。

三娘様が、ご自分から足を止められました。

「成長したねェ」

孫二娘様が感心すると、顧大嫂様まで頷きます。

「あたしも今回は入らないよ。あの二人の間は邪魔だねぇ」

「何でみんなアタシが突っ込む前提なの!?」

三娘様は不満そうでしたが、林冲殿と関勝様の打ち合いが始まると、すぐに黙られました。

わたくしも同じでございます。

「玉楼まで手に力入ってない?」

「三娘様もでございます」

すると孫二娘様が笑います。

「珍しく二人揃って見学だねェ」

「見学って言うな!」

ですが、あそこへ入らないと判断できるのも、戦う力の一つなのでしょう。

そして最後に鳴った銅鑼。

さて――

あれは、誰を止める音なのでしょうか?

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