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大刀と豹子頭

「……あれは無理よ」

思わず、最初にそう言ってしまった。

孫二娘が鍋を混ぜながら、こちらを見る。

「何がだい?」

「関勝と林冲」

顧大嫂が酒を煽った。

「ああ、あの一騎討ちかい」

「一騎討ちって言うのかしら、あれ……」

思い出しただけで、手綱を握っていた指が痛くなる気がした。

青龍偃月刀と蛇矛。

大刀と豹子頭。

あの二人が向かい合った瞬間、戦場の空気が変わった。

アタシ達が押していたはずなのに……

第四軍も、林冲隊も前へ出ていたはずなのに……

全部、止まって見えた。

「出たねェ」

孫二娘が笑う。

「三娘が素直に引いたよォ」

「引いたんじゃないわよ!!」

即座に返した。

「見てただけよ!!」

顧大嫂が肩を揺らす。

「見てて、どうだったんだい?」

「……凄かった」

言ってから、自分でも少し悔しくなった。

でも、それ以外に言いようが無かった。

関勝の大刀は一撃が重い。

でも重いだけじゃない。

振った後の流れが切れない。

林冲の蛇矛は受けただけで終わらない。

受けた瞬間には、もう次の突きへ繋がっている。

見えているのに、追いつけない。

見えているのに、身体が動かない気がする。

あそこに入ったら、多分死ぬ。

そう思った。

「珍しいねぇ」

顧大嫂が言った。

「三娘がそこまで言うなんて」

「言いたくないわよ」

「でも言ったねェ」

孫二娘が鍋杓子を振る。

「言わないと嘘になるでしょ!!」

そう返すと、二人は顔を見合わせて笑った。

腹が立つ――

でも、否定は出来ない。

実際、あの勝負はおかしかった。

敵も味方も、誰も声を出さなかった。

孫二娘でさえ笑わなかった。

それだけで十分だと思う。

その時――

顧大嫂が酒を置いた。

「で、決着は?」

沈黙。

鍋の煮える音だけが続いた。

「……つかなかったわ」

孫二娘が少しだけ目を細める。

「銅鑼が鳴ったんだろォ?」

「鳴ったわね」

梁山泊側から、一度だけ。

それで林冲は馬首を返した。

関勝も追わなかった。

あれ以上続ければ、どちらかが死ぬ。

そういう勝負だった。

でも――

そこで終わりじゃなかった。

「嫌な顔してるねぇ」

顧大嫂が言った。

「するわよ」

孫二娘がにやりと笑う。

「また何か始まるんだろォ?」

「始まるわよ」

即答だった。

考えなくても分かる。

真正面から関勝軍は崩せない。

林冲が出ても決着がつかない。

なら次は何か。

軍議。

そして、多分――

ろくでもない策。

「梁山泊だねェ」

「梁山泊だねぇ」

二人が同時に言った。

否定出来なかった。

郝思文を捕らえた。

関勝と林冲がぶつかった。

それでも終わらない。

大刀と豹子頭が戦場を黙らせた後に残ったのは、また別の嫌な予感だった。

アタシは小さく息を吐く。

「本当に、休ませてくれないわね」

鍋の湯気が、湿った風に揺れた。

踏み込もうとした、その時だった。

前方で官軍の隊列が動く。

逃げてる訳じゃなく、崩れた訳でもない。

左右へ綺麗に開く。

モーセの十戒の様に。

「……?」

思わず足が止まる。

第四軍の兵達も同じだった。

官軍兵達は下がらない。

怯えない。

ただ中央だけを空ける。

その奥――

青龍旗が揺れた。

風ではない。

前へ出ている。

馬の姿が見える。

長い髯。

青龍偃月刀。

関勝だった。

静かだった。

それでも空気が張り詰める。

敵兵達の背筋が伸び、槍が揃う。

さっきまで押されていたはずなのに……

「……嫌な相手ね」

思わず呟いた。

玉楼も前を見る。

「はい」

短い返事だった。

その時――

後ろから、白馬が前へ出る。

白い披風に蛇矛。

見慣れた背中だった。

林冲だ。

第四軍の前を通り、止まらず突き進む。

そのまま空いた道の中央へ――

官軍も、梁山泊も、自然と道を開く。

誰も止めない。

誰も声を掛けない。

関勝と林冲。

二人の距離が少しずつ縮まる。

風が吹き、旗が鳴る。

やがて林冲が馬を止めた。

蛇矛を立てる。

関勝も止まる。

互いに視線を向ける。

長い沈黙だった。

先に口を開いたのは関勝だった。


陽光が刃を滑り、鈍く光る。

派手さは無かった。

でも――

アタシは、目が離せなかった。

林冲が蛇矛を下ろすと、穂先がゆっくりと前を向く。

風が吹き、白い披風が揺れる。

誰も喋らない。

官軍も――

梁山泊も――

ただ二人を見ていた。

その沈黙を破ったのは関勝だった。

「聞いているぞ」

低い声が響く。

「八十万禁軍教頭」

林冲は答えない。

表情も変わらない。

だが蛇矛は微かに下がった。

構えが変わる。

関勝の目も細くなった。

「名は偽りでは無い様だ」

林冲が小さく息を吐く。

「試してみるか?」

それだけだった。

次の瞬間――

両馬が地を蹴る。

思わず息を呑む。

一直線で、迷いが無い。

お互いが一気に間合いを潰す。

十歩、五歩、三歩と近寄っていく。

青龍偃月刀が唸り、蛇矛が走る。

ぶつかる――

お互いの刃が当たり、金属音が戦場へ響いた。

火花が散り、両軍の兵達がどよめく。

遠くから見ていても分かる。

力任せでも、技量だけでもない。

互いに全身で押し込んでいる。

どちらも譲らない。

馬がすれ違う度、土が舞う。

関勝が振り返ると、林冲も振り返る。

二人とも構えはそのままだった。

「……」

思わずアタシは、言葉を失う。

“凄い“

それしか出て来ない。

玉楼も黙っている。

顧大嫂も。

孫二娘でさえ笑わなかった。

戦場全体が息を呑んでいた。

関勝が青龍偃月刀を回す。

林冲が蛇矛を構え直す。

再びお互いに馬首が向く。

一瞬、風が吹いた。

そして――

二度目の激突が始まる。

「豹子頭・林冲か」

低い声が響く。

林冲は小さく頷く。

「大刀・関勝だな?」

それだけだった。

名だけで通じる。

周囲が静まり返る。

戦場なのに、誰も動かない。

郝思文の捕縛。

第四軍の突撃。

林冲隊の前進。

全部が止まって見えた。

今、戦場の中心は――

アタシでもなく、第四軍でもない。

関勝と林冲――

この二人だ。

そして――

関勝が静かに青龍偃月刀を構えた。


二度目の激突が始まる。

今度は、関勝が先に動いた。

青龍偃月刀が横へ流れる。

大きくて重そうなのに、速い……

遠くから見ているだけでも分かる。

受ければ、そのまま馬ごと押し潰される様な一撃だった。

でも林冲は下がらず、蛇矛が低く走る。

受けるというより、押し返している……

刃と刃が噛み合い、金属音が弾けた。

火花が散り、馬が嘶く。

土が跳ねる。

関勝の腕が沈む。

林冲の蛇矛がわずかに流れる。

でも、どちらも互角だった。

次の瞬間、関勝の青龍偃月刀が振り下ろされる。

あの大きさで、信じられないくらい速い。

上から落ちる。

林冲は、蛇矛で弾き返す。

思わず息が止まる……

蛇矛の穂先が跳ね上がり、関勝の大刀が弾かれ、陽光を受けて鈍く光る。

「……何なのよ」

声が漏れた。

誰に言った訳でもない。

玉楼も答えない。

顧大嫂も黙っている。

孫二娘でさえ、笑わない。

戦場にいる全員が、二人の勝負だけを見ていた。

関勝が薙ぎ払い、林冲が受ける。

林冲が突くと、関勝が薙ぎ払う。

一合。

二合。

三合。

数える事に意味が無くなっていく。

速いだけじゃない。

重いだけじゃない。

関勝の大刀は、振り下ろした後も、流れが途切れない。

林冲の蛇矛も受けた次の瞬間には、もう次の突きへ繋がっている。

一つ一つが見えるのに、追いつけない。

見えているのに、身体が動かない気がする。

あそこに入ったら、たぶん死ぬ。

そう思った。

悔しいけど、そう思った。

関勝の青龍偃月刀が、低い所から唸る。

林冲の蛇矛が、その刃の下へ滑り込む。

次の瞬間、二人の武器が跳ね上がり、馬が交差する。

白い披風が風に翻り、関勝の長い髯が揺れる。

間合いを取り直し、また振り返る。

どちらも息が乱れていない。

どちらも、退く気が無い。

敵兵も声を出さない。

味方の兵も同じだ。

声を出せば、この場の何かが壊れそうだった。

関勝が、ほんの少しだけ目を細めた。

林冲も蛇矛を握り直す。

次で変わる。

そう感じた。

理由は分からない。

でも、空気が変わった。

さっきまでの探り合いじゃない。

次は、本当に取りに来る。

アタシは無意識に手綱を握り締めていた。

指が痛い。

それでも目を逸らせなかった。

関勝が馬腹を蹴る。

林冲も同時に動く。

二騎が、また一直線に走った。


関勝の青龍偃月刀が低くところから、唸る。

林冲の蛇矛が、その刃へ向かって伸びる。

今度は、さっきまでと違った。

探っていない。

測っていない。

互いに、取りに行っている。

そう分かった瞬間、背筋が冷えた。

「……来る」

誰に言ったのか、自分でも分からない。

青龍偃月刀が横から薙ぎ払う。

でも、林冲の蛇矛が、その勢いを下から受け流す。

受けたのではなく、逃がしたのだ。

関勝の刃がわずかに流れる。 その隙へ、林冲の穂先が素早く伸びる。

今度は関勝が身体を捻った。 馬上であれだけ大きな得物を持ちながら……

蛇矛の穂先が鎧を掠め、金属が擦れる音が聞こえた。

敵兵が息を呑み、味方も声を失ったままだ。

でも、関勝は止まらなかった。

流れた青龍偃月刀が、そのまま返ってくる。

大きく振り直さず、身体ごと回して、刃を戻している。

林冲も下がらない。

蛇矛を自由自在に操る。

一瞬、二人の武器が絡んだ。

青龍偃月刀と蛇矛が噛み合い、どちらも引かない。

馬が地を掻き、土が跳ねる。

互いの馬まで力を入れている様だった。

関勝の腕が沈み、林冲の肩もわずかに下がる。

それでも――

どちらも折れない。

「……化け物ね」

思わず声に漏れた。

孫二娘も顧大嫂も笑わない。 玉楼も黙っている。

次の瞬間、二人は同時に武器を引いた。

互いに離れ、馬がすれ違う。

白い披風が大きく翻り、関勝の髯が風に揺れる。

二人は振り返った。

どちらも傷らしい傷は無い。 でも、空気だけが変わっていた。

勝ったのか。

負けたのか。

そんな事はどうでも良い。

あの二人は、互いを確かめた。

それだけで、戦場全部が黙ったのだ。

関勝が青龍偃月刀を下ろす。 林冲も蛇矛を少し引いた。

まだ終わっていない。

そう思った時だった――

梁山泊側から、一度だけ銅鑼が鳴った。


夜は静かでした。

戦場の怒号もありません。

銅鑼の音もありません。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、今日も鍋を囲んでおられました。

郝思文殿を捕らえた後でも鍋。

関勝殿と林冲殿の一騎討ちの後でも鍋。

軍議の前でも鍋。

もはや、このお二人にとって鍋とは、戦場から心を戻す為の儀式なのかもしれません。

――閑話休題

「で?」

孫二娘殿が鍋を混ぜながら笑います。

「三娘、何て言ってたんだい?」

顧大嫂殿が酒を煽りました。

「あれは無理、だろう?」

幕舎の外から、即座に声が飛びます。

「言ったわよ!!」

孫二娘殿が吹き出しました。

「出たよォ!!」

「本人が認めた!!」

「だって無理なものは無理でしょ!!」

外から返ってくる声は、いつもより少し強めでした。

ですが――

無理もありません。

関勝殿と林冲殿の一騎討ちは、そういうものでした。

勝った――

負けた――

そういう話ではありません。

あの二人が向かい合った瞬間、戦場そのものが止まった様に見えました。

郝思文殿の捕縛も、第四軍の突撃も、林冲隊の前進も、その一瞬だけ、すべてが後ろへ下がったのです。

孫二娘殿が鍋杓子を止めました。

「そんなに凄かったのかい?」

幕舎の外から、少し間を置いて返事がありました。

「凄かったわよ」

顧大嫂殿が目を細めます。

「三娘が素直に言うくらいだからねぇ」

「うるさいわね!!」

外から抗議が飛びます。

ですが、否定はなさいませんでした。

私は静かに頷きます。

実際、凄まじい勝負でした。

関勝殿の大刀の一撃は、ただ重いだけではありません。

振った後に流れが切れない。

大きな刃が戻るまでに隙が出来ない。

林冲殿の蛇矛も、受けて終わりではありません。

受けた瞬間には、もう次の突きへ繋がっている。

下がらず、崩れず、流れを返す。

あれは、ただの力比べではありませんでした。

孫二娘殿がぽつりと言います。

「アタイでも入れないかねェ」

外から即答が返りました。

「入ったら死ぬわよ」

沈黙。

鍋の煮える音だけが続きました。

顧大嫂殿が小さく息を吐きます。

「三娘がそこまで言うなら、本物だねぇ」

「本物よ」

外から返ってきた声は、珍しく茶化していませんでした。

その時――

孫二娘殿が、にやりと笑いました。

「でもさァ」

嫌な予感しかしません。

「何でしょう」

「決着はつかなかったんだろォ?」

幕舎の外が、少し静かになりました。

「……つかなかったわね」

「それで銅鑼が鳴った」

「鳴ったわね」

顧大嫂殿が酒を置きます。

「つまり、また軍議だねぇ」

外から、深いため息が聞こえました。

「そうなのよ……」

孫二娘殿が机を叩きます。

「出たよォ!!」

「嫌な予感の顔だ!!」

「顔は見えてないでしょ!!」

「声で分かるよォ」

「分かるねぇ」

「何で分かるのよ!!」

笑い声が広がりました。

ですが――

笑っていても、分かっております。

関勝殿の軍は、正面からでは容易に崩せません。

郝思文殿を捕らえても、関勝殿が出れば立て直される。

林冲殿と一騎討ちをしても、決着はつかない。

ならば次は、武ではありません。

策です。

扈三娘様が嫌な顔をされるのも、当然でしょう。

夜は、何も答えません。

呼延灼殿が何を命じられるのかも……

関勝殿がその策に乗るのかも……

この戦が、どこへ転がっていくのかも……

まだ何一つ分かりません。

ただ静かなまま――

鍋を混ぜながらも少しだけ真面目な顔をしていた孫二娘殿と、 酒を飲みながら戦場の空気を思い返していた顧大嫂殿と、

「あれは無理」

と言いながらも、ずっと戦場から目を逸らさなかった扈三娘様だけを――

湿った風の中へ、静かに残している様でした。

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