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井木犴捕縛

「捕まえたわよ!!」

朝っぱらから叫んでしまった。

仕方ないと思う。

だって捕まえたのだ。

郝思文を、官軍の先鋒を、しかも真正面から一騎討ちで――

「自慢だねェ」

孫二娘が鍋を混ぜながら言う。

「自慢よ!!」

即答した。

顧大嫂が酒を煽る。

「まあ実際、捕まえたからねぇ」

「でしょ!?」

ようやく理解者がいた。

でも――

孫二娘は首を振る。

「でもその後、関勝が出て来たじゃないか!」

沈黙。

鍋の音だけが続く。

「……そうなのよねぇ」

「顔が曇ったねェ」

「曇るわよ!!」

思わず机を叩いた。

だって仕方ない。

やっと捕まえたのだ。

勝ったと思うじゃない。

普通……

なのに――

銅鑼が鳴って関勝が出て来ると、官軍が立て直されてしまう……

何なのあの人達……

顧大嫂が笑う。

「確かに早かったねぇ」

「早かったわよ」

「郝思文を取られた直後だろ?」

「そうよ」

「なのに誰も逃げない」

「そうなのよ!!」

そこが一番嫌だった。

普通なら崩せる。

少しは慌てる。

でも違った……

関勝が前へ出たら終わり。

皆落ち着てしまう。

皆、元に戻る。

本当に嫌だった。

孫二娘が鍋杓子を振る。

「でもさァ」

嫌な予感しかしない。

「何よ」

「郝思文、強かったんだろ?」

少し黙る。

認めたくない。

でも――

認めない訳にもいかない。

「強かったわよ」

顧大嫂が吹き出した。

「素直だねぇ」

「事実だもの」

速いし、重いし、巧い。

しかも最後まで冷静だった。

捕まった後ですら暴れなかった。

だから余計に強敵だったのだ。

孫二娘が頷く。

「でも捕まえたじゃないかよォ」

「捕まえたわよ」

「じゃあ勝ちだねェ」

「そうなんだけど……」

顧大嫂が笑う。

「何か納得してない顔だねぇ」

そりゃそうだ。

勝った。

捕まえた。

でも――

その直後に関勝が出て来た。

喜ぶ暇も無かった。

孫二娘と顧大嫂は顔を見合わせる。

そして同時に笑った。

「梁山泊だねェ」

「梁山泊だねぇ」

否定出来なかった。

勝ったと思ったら次。

終わったと思ったら次。

それが梁山泊だった。

だから――

郝思文を捕まえても、アタシに休みは来なかったのである……

郝思文の目付きが変わった。

槍を握る手に、わずかに力が入る。

今までよりも深く構えた。

次は力で押す気だ。

それは分かる。

アタシは双刀を構え直す。

そして、呼吸を整える。

速い。

重い。

巧い。

だけど――

見えない訳じゃない。

郝思文が馬腹を蹴る。

三度目の突進。

今度は真正面ではない。

右へ流れる。

そこから、槍が斜めに伸びてくる。

狙いは肩。

受ければ弾かれる。

避ければ追われる。

受けずに、アタシは馬首を半歩だけ、外へ切った。

穂先が流れる。

その瞬間、双刀を合わせて槍の柄を挟む。

金属が鳴る。

郝思文の腕が止まった。

ほんの一瞬――

それで十分だった。

「取ったわ」

小さく呟く。

郝思文の目が動く。

気付いた時には遅い。

左手の刀を離し、腰の紅綿套索へ指を掛ける。

馬が交差する、その一拍。

縄を走らせる。

赤い影が朝の光を切る。

郝思文が、素早く槍を引こうとする。

でも、こちらの方が半拍早い。

紅綿套索が腕へ絡み、次に肩へ回る。

引くと郝思文の身体が、馬上で大きく傾いた。

それでも耐えた。

さすがだった。

普通の将なら、そのまま落ちている。

だが、郝思文は膝で鞍を締め、片腕で槍を残した。

落ちない。

「粘るわね」

アタシは手綱を引き、馬を斜めに走らせる。

縄が張る。

郝思文の馬が流れ、体勢が崩れる。

もう一度、引く。

今度は耐え切れず、郝思文の身体が鞍から外れ、地面に叩き落ちる。

鈍い音が響いた。

官軍側がどよめく。

梁山泊側から歓声が上がる。

「取った!」

「郝思文を捕らえたぞ!」

「三娘様が取った!」

アタシは馬を止めずに、縄を引き締める。

郝思文は起き上がろうとした。

だが、絡んだ縄が動きを奪う。

槍は少し離れた地面に転がっていた。

玉楼が真っ先に動いた。

「確保!」

第四軍の兵が駆け寄る。

郝思文の腕を押さえ、縄を重ねる。

それでも郝思文は暴れない。

ただ、地面からこちらを見上げていた。

悔しそうではある。

だが、取り乱してはいない。

「……見事」

短く呟いた。

アタシは息を吐く。

「そっちもね」

本心だった。

強かった。

でも捕らえた――

官軍側のざわめきが広がる。

前衛の槍が揺れる。

士気が乱れかけている。

その奥――

青龍の旗の下。

関勝が、静かにこちらを見ていた。

今度は、気のせいではなかった。

青龍偃月刀が、朝日に鈍く光る。

風が吹き、旗が大きく鳴った。

次に動くのは、あの男だ。

そう思った瞬間――

官軍本陣から、低い銅鑼の音が響いた。


銅鑼の音が、一度だけ低く響いた。

でも――

それだけで官軍のざわめきが止まる。

郝思文を捕らえられた直後だというのに、統制が取れている。

前衛の槍が揺れかけていたのに、すぐに収まる。

兵達の視線が、一斉に本陣へ向いた。

青龍の旗。

その下で、関勝が動いていた。

ゆっくりと馬を進める。

急がない。

怒鳴らない。

取り乱さない。

ただ、前へ出て来る。

その動きだけで、官軍の空気が変わった。

「……来るわね」

アタシは双刀を握り直す。

玉楼が横へ来た。

「郝思文殿は後方へ」

「お願いね」

玉楼がすぐに兵へ指示を出す。

郝思文は縄を重ねられ、第四軍の後ろへ運ばれていく。

その間も、関勝は止まらない。

青龍偃月刀を片手に、馬上で静かに進んでくる。

距離が縮まる。

顔が見えた。

長い髯に落ち着いた目。

威圧する訳でもなく、誇示する訳でもない。

それなのに、重圧を感じる……

ただそこにいるだけで、前へ出たくなくなる。

嫌な相手だった。

孫二娘が小さく呟く。

「でかいねェ」

顧大嫂も目を細める。

「それだけじゃないねぇ」

同感だった。

関勝は郝思文が捕らえられた場所の少し手前で馬を止めた。

こちらに視線を向け、アタシと第四軍を見る。

そして、ゆっくり口を開いた。

「一丈青・扈三娘よ」

低いけど、良く通る声だ。

「郝思文を捕らえた腕前、見事だった」

褒められているみたいだけど、何か嬉しくない。

「どうも」

軽く会釈した。

関勝は表情を変えない。

分かっている。

むしろ、この後の為に出て来たのだろう。

アタシは馬を少し前へ出した。

「そっちも引く気は無いわよね」

「無い」

即答だった。

迷いの無さに、背筋が凍る。

郝思文を捕らえられても、揺れていない。

兵も怯えていない。

関勝がいるからだ。

この男がいる限り、官軍は折れない――

そういう空気だった。

後方から林冲隊が前へ詰める気配がある。

呼延灼の隊も動き始めている。

梁山泊側も、関勝が前へ出た意味を理解していた。

一騎討ちでは終わらない。

ここからは軍勢同士の戦だ。

関勝が青龍偃月刀を静かに掲げた。

官軍の銅鑼の音が轟く。

前衛の槍が一斉に揃う。

盾が並び、騎兵が左右へ広がる。

一度乱れかけた官軍が、あっという間に陣形を戻していく。

「速い……」

思わず声が漏れた。

玉楼が頷く。

「立て直しが速いです」

そう――

郝思文を捕らえたのに……

こちらが一つ取ったはずなのに、流れが来ない。

官軍はまだ生きている。

関勝は刀を振り下ろした。

その瞬間、官軍の前衛が一斉に前に出る。

地面が震えた。

顧大嫂が笑みを消す。

孫二娘も朴刀を構える。

アタシは息を吐く。

「第四軍、構えて」

玉楼が声を張る。

「第四軍、構え!」

槍が揃う。

盾が上がる。

兵達の呼吸が固まる。

関勝軍が迫る。

さっきまでの一騎討ちとは違う。

人が塊になって押し寄せて来る。

逃げ場も、間合いも、何もかも変わる。

青龍の旗が朝日に揺れた。

アタシは双刀を構える。

「来るわよ」

次の瞬間――

関勝軍の前衛が、第四軍へぶつかった。


轟音が鳴り響く。

盾と盾。

槍と槍。

人と人。

正面から激突した衝撃が、地面ごと揺らす。

「前へ!」

官軍の号令が響くとともに、こちらへ、一糸乱れず直進してくる。

郝思文を失った直後とは思えない。

止まらない。

関勝が前へ出ただけで、軍全体が硬い塊になったみたいだった。

「来たわよ!」

アタシは馬腹を蹴る。

第四軍の中央とともに飛び込む。

双刀が煌めきながら、槍を払う。

盾を弾き、前へ出る。

でも――

官軍も退かない。

「止めろ!」

「押し返せ!」

声が飛ぶ。

槍が伸びる。

一人じゃない。

二本。

三本。

四本。

隊列の槍だ。

個人の武勇じゃない。

軍として押してくる。

「面倒ね!」

刀で払う。

一本を弾く。

二本目を避ける。

三本目を叩く。

だが四本目が残る。

その瞬間――

隣から槍が鋭く横を貫いた。

玉楼だ。

「考え事をしてる暇ありませんよ!」

官軍兵が吹き飛ぶ。

顧大嫂も突っ込む。

「どいたどいた!」

盾ごと押し潰す。

第四軍の兵達が続く。

でも――

押し切れない。

官軍も踏み止まる。

アタシは気付く。

今までの敵と少し違う。

逃げないし、隊列が崩れない。

前が下がっても後ろが埋める。

隊列が切れない。

「玉楼!」

「はい!」

玉楼が即座に返した。

「右!」

「既に回しております!」

見る。

第四軍の一部が右翼へ流れている。

官軍の側面を探している。

でも相手も動く。

対応が早い。

まるで最初から予想していたみたいに。

「厄介ね……」

思わず漏れる。

その時だった。

後方から怒号が上がる。

「林冲隊前進!」

白い披風が見えた。

来たー!

林冲隊だ。

静かに速い。

第四軍の後ろを抜け、官軍に

突っ込んでいく。

「押すぞ!」

林冲の声が響く。

その瞬間――

戦場の空気が変わった。

第四軍が開けた隙間へ、林冲隊が食い込む。

官軍前衛が初めて押し返される。

「行け!」

アタシも前へ出る。

双刀が煌めき、敵兵が下がる度に押し込む。

――更にもう一歩とアタシは、突き進んでいく。

夜は静かでした。

戦場の怒号もありません。

銅鑼の音もありません。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、今日も鍋を囲んでおられました。

出陣前でも鍋。

郝思文殿捕縛の後でも鍋。

関勝軍との激突の後でも鍋。

もはや第四軍の兵糧庫は、鍋の具材しか無いのかもしれません。

――閑話休題

「で?」

孫二娘殿が鍋を混ぜながら笑います。

「捕まえたんだろォ?」

顧大嫂殿も酒を持ち上げました。

「郝思文さ」

幕舎の外から即座に声が飛びます。

「捕まえたわよ!!」

元気でした。

少なくとも怪我は無さそうです。

孫二娘殿が吹き出します。

「まだ嬉しいんだねェ」

「嬉しいわよ!!」

即答でした。

「真正面から捕まえたのよ!?」

「それはそうだねぇ」

顧大嫂殿が頷きます。

「立派な手柄だよ」

外から少しだけ得意そうな声が返りました。

「でしょ」

隠す気もありません。

その時――

孫二娘殿が鍋杓子を振ります。

「でもさァ」

嫌な予感しかしません。

「何よ」

「その後、関勝が出て来たじゃないかォ」

沈黙。

鍋の煮える音だけが続きました。

やがて――

「……そうなのよねぇ」

力の抜けた声が返ってきます。

顧大嫂殿が肩を揺らしました。

「急に元気が無くなったねぇ」

「だって仕方ないでしょ!!」

外から抗議が飛びます。

「せっかく捕まえたのに!」

「すぐ次よ!?」

「休む暇も無いのよ!?」

孫二娘殿が笑います。

「梁山泊だからねェ」

「それ言われると終わりなのよ!!」

また笑い声が広がりました。

私は小さく息を吐きます。

ですが――

実際その通りでした。

郝思文殿を捕らえた事は大きな戦果です。

官軍前衛の要を失わせました。

普通なら流れが変わります。

ですが関勝殿は違いました。

一度揺れた官軍を、ほんの僅かな時間で立て直したのです。

「嫌だったねぇ」

顧大嫂殿がぽつりと言います。

「嫌だったねェ」

孫二娘殿も頷きました。

外からも返事があります。

「嫌だったわよ」

三人とも同意見でした。

珍しい事です。

その時――

孫二娘殿が急に笑いました。

「でもさァ」

またです。

「何でしょう」

「結局、一番前にいたの三娘だろォ?」

沈黙。

外から小さな声が返ります。

「先鋒だもの」

顧大嫂殿が吹き出しました。

「出たねぇ」

「便利な言葉だねェ」

「事実でしょ!!」

即答です。

ですが――

私も少しだけ笑いました。

確かに先鋒です。

ですが、それだけではありません。

後ろに第四軍がいたから前へ出た。

そういう方なのです。

夜は何も答えません。

関勝殿が次にどう動くのかも……

官軍との戦がどこまで続くのかも……

第四軍が明日も先鋒なのかも……

まだ何一つ分かりません。

ただ静かなまま――

鍋を混ぜ続ける孫二娘殿と、酒を飲み続ける顧大嫂殿と、

「先鋒だから」

を便利な言い訳にしている扈三娘様だけを――

湿った風の中へ、静かに残している様でした。

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