↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/210

勝ったのに流れが来ない

郝思文を捕らえた。

よし、これで流れはこっち――と思うじゃない?

「思うねェ。普通なら動揺が広がるところだよォ」

孫二娘もそう言った。

ところが銅鑼が一発鳴っただけで、官軍が元通り。

「関勝って男、面倒だねぇ」

顧大嫂が青龍偃月刀を見ながら笑う。

「でも、あれは一度受けてみたいねぇ」

「アンタは何でそこだけ嬉しそうなの!?」

孫二娘まで横から覗き込んできた。

「三娘は李俊の方が気になるみたいだけどねェ?」

「今その話する!?」

しかも戦場の真ん中から「前へ出すぎるな!」って叫んでくるし!

「聞き分けの悪い恋人同士みたいだねェ」

「恋人じゃない!」

……って言ったら、李俊まで食いついた。

何でよ!?

郝思文を捕らえたのに流れは来ない。

その上、アタシの恋愛まで流れがおかしいんだけど!?

郝思文の目付きが変わった。

一合目でこちらの速さを測ったのだろう。

さっきより槍を深く構え、穂先をわずかに下げている。

今度は突きの速さだけではなく、馬の勢いごと押し込んでくるつもりらしい。

アタシも日月双刀を構え直した。

速いし、重い。

おまけに槍の扱いも巧いけれど、まったく見えない相手じゃない。

一合交えたことで、逆に分かったこともある。

「来るわよ」

誰に言うでもなく呟いた直後、郝思文の黒馬が地面を蹴った。

今度は真正面からではない。

わずかに右へ流れながら間合いを詰め、こちらの進路を塞ぐ角度から槍を伸ばしてくる。

肩を狙っている。

受ければ馬上で押し負けるし、大きく避ければそのまま追われる。

だったら、どっちもしなければいい。

アタシは手綱を引き、馬首をほんの少しだけ外へ向けた。

身体の横を槍の穂先が抜けた瞬間、右の刀で柄を下から跳ね上げ、左の刀を重ねる。

二枚の刃に挟まれ、槍が止まった。

完全に止められたわけじゃない。

郝思文が力を込めれば、すぐに振りほどかれる。

でも、一瞬あれば十分だった。

「取ったわ」

郝思文の目が動く。

その時には左の刀を引き、腰の紅綿套索へ手を掛けていた。

二騎がすれ違う一拍に縄を走らせると、赤い影が朝日に翻り、槍を引こうとした郝思文の腕へ絡みつく。

そのまま肩まで回ったところで、一気に引いた。

郝思文の身体が鞍の上で傾いた。

普通なら、そこで終わる。

けれど郝思文は膝で馬腹を締め、片腕になっても槍を捨てなかった。

崩れた姿勢のまま鞍へ残り、こちらの縄を逆に引き返そうとする。

「粘るわね!」

敵ながら大したものだ。

だからこそ、正面から引き合う気はなかった。

アタシは馬を斜めへ走らせた。

紅綿套索が横へ張り、郝思文の身体だけでなく黒馬の進路まで引きずられる。

馬がたたらを踏んだところへ、さらに角度を変えてもう一度引く。

今度こそ耐え切れなかった。

郝思文が鞍から外れ、土煙を上げて地面へ落ちる。

槍も手を離れ、少し離れた街道へ転がった。

官軍からどよめきが起こり、その倍ほどの歓声が後ろから飛んできた。

「取ったぞ!」

「郝思文を捕らえた!」

「三娘様!」

喜ぶのはまだ早い。

アタシは馬を止めながら縄を締め、立ち上がろうとする郝思文の動きを封じる。

「玉楼!」

呼んだ時には、もう動いていた。

「確保してくださいませ!」

玉楼の号令で第四軍の兵が駆け出し、郝思文を囲んで腕を押さえる。

さらに縄を重ねられても、郝思文は無駄に暴れようとはしなかった。

ただ、地面からこちらを見る。

悔しさはあるだろう。

それでも取り乱していない。

「……見事だった」

「そっちもね」

本心だった。

できればもう一度は戦いたくない程度には強かった。

左から孫二娘が馬を寄せてくる。

「やるじゃないか、三娘ォ」

「もっと褒めてもいいわよ」

「じゃあ今ので満足したねェ?」

「追加料金制なの!?」

顧大嫂までやってきて、捕らえられた郝思文を見る。

「あたしが殴る前に終わったねぇ」

「何で残念そうなのよ!」

「強そうだったからさ」

郝思文が初めて微妙な顔をした。

分かる。

アタシもその反応になる。

「顧大嫂、捕虜に追加攻撃しない!」

「しないよ。そこまで見境ないと思われちゃ困る」

「ちょっとだけ思ってた!」

「三娘ォ、大将が部下への信頼を失ってるよォ」

「アンタ達が削ってるの!」

笑いが起きた。

けれど、それは一瞬で消えた。

官軍の前衛が揺れている。

当然だ。

目の前で先鋒を捕らえられたのだから、動揺しない方がおかしい。

ここで押せば崩せる。

そう思った。

――その時だった。

腹に響く銅鑼が、一度鳴った。

それだけで、ざわめいていた官軍の兵が黙った。

乱れかけた槍が揃い、前へ出かけた者は止まり、郝思文を見ていた視線まで本陣へ戻っていく。

「……何よ、これ?」

勝ったはずなのに、流れが来ない。

孫二娘も笑っていなかった。

「感情で取り返しに来ないねェ。まず兵の動揺を止めた」

「嫌な相手?」

「ものすごく」

それはアタシにも分かった。

青龍の旗が動いた。

その下から、一騎がゆっくり前へ出てくる。

急がない。

郝思文を捕らえられたからといって、怒りに任せて駆けてくるわけでもない。

長い髯に、堂々とした身体。

手にしているのは、朝日を受けて鈍く光る青龍偃月刀だった。

関勝――関羽なら知っている。

赤い顔に長い髯、青龍偃月刀。

横浜の関帝廟で見た像だって、だいたいそんな姿だった。

その子孫を名乗る男が、今はアタシの正面にいる。

……観光と実物では緊張感が違いすぎる。

「三娘様」

玉楼がアタシの隣へ並んだ。

「郝思文殿は後方へお送りいたします」

「お願い」

「三娘様は?」

「ここにいる」

玉楼は何も言わなかった。

ただ槍を構え、当然のように隣に残った。

一人で出た一騎討ちは終わった。

ここからは二人で見る。

関勝は郝思文が落馬した場所より少し手前で馬を止め、こちらへ視線を向けた。

「一丈青・扈三娘」

よく通る声だった。

「郝思文を捕らえた腕、見事である」

「どうも」

敵に褒められても、やっぱり嬉しくない。

「でも、返してって言われても返さないわよ」

後ろで孫二娘が吹き出した。

関勝は怒らなかった。

「戦で捕らえた将だ。返せとは言わぬ」

「話が早くて助かるわ」

「奪い返すまでだ」

全然助からなかった。

「そういう意味!?」

孫二娘が堪え切れず笑い出す。

「三娘ォ、交渉失敗だねェ!」

「交渉してない!」

顧大嫂が青龍偃月刀を見ながら肩を鳴らした。

「あれ、重そうだねぇ」

「そこを見るの!?」

「あたしには大事だよ」

嫌な予感しかしないので、できれば関勝本人へ突っ込まないでほしい。

関勝はそんなこちらの会話にも表情を変えず、青龍偃月刀をゆっくり掲げた。

再び銅鑼が鳴る。

今度は一度ではない。

官軍の前衛が動いた。

槍が揃い、盾が並び、その後ろから騎兵が左右へ広がっていく。

郝思文を失って乱れかけていた軍が、まるで最初から何も起きていなかったように形を戻していく。

「速い……」

玉楼が陣を見ながら答える。

「立て直しが早うございます。こちらが得た勢いを、そのまま消されました」

そういうことだ。

郝思文を捕らえ、こちらが一つ取ったはずなのに、官軍は折れていない。

孫二娘が朴刀を構え直した。

「厄介だねェ。普通なら先鋒を取られた直後は、誰かが勝手に取り返そうとする。それを関勝一人で止めてる」

「心理学的には?」

「嫌な上司」

「急に雑!」

「でも部下からしたら頼れる上司だよォ」

もっと嫌だった。

青龍偃月刀が振り下ろされた。

官軍が前へ出る。

今度は一騎じゃない。

街道いっぱいに広がった人の塊が、槍と盾を揃えたままこちらへ迫ってくる。

「第四軍、構えて!」

アタシの声を受け、玉楼がすぐに号令を飛ばした。

「第四軍、構え!」

盾が上がり、槍が揃う。

右翼では顧大嫂が馬首を前へ向け、左翼では孫二娘が兵の列を見ながら位置を変えていた。

ぶつかった。

盾と盾が噛み合い、槍の穂先がその隙間を走る。

さっきまでの一騎討ちとは、まるで違う。

アタシも中央へ飛び込み、突き出された槍を双刀で払いながら前へ進む。

一人を退かせても、すぐ後ろから別の兵が穴を埋めてくる。

崩れない。

「面倒ね!」

右から来た槍を弾き、次をかわす。

三本目を刀で逸らしたところへ、さらに一本が伸びてきた。

多いって!

その穂先を横から叩き落としたのは玉楼だった。

「三娘様、前だけをご覧にならないでくださいませ!」

「見てるわよ!」

「今のは見えておりませんでした!」

「細かい!」

「命に関わります!」

言い返せない。

玉楼が一歩出れば、アタシが空いた側を埋める。

アタシが敵の槍を引きつければ、玉楼がその外から崩す。

どちらが前かなんて、もう考えない。

必要な方が出る。

もう一人が、その先を見る。

右では顧大嫂が敵の盾へぶつかっていた。

「そこ、邪魔だよ!」

「顧大嫂、盾はだいたい邪魔するためにあるの!」

「じゃあ壊していいんだね!」

「何でそうなるの!?」

本当に盾ごと押した。

左では孫二娘が、少しだけ兵を下げている。

「孫二娘、下がるの!?」

「下がってるように見せてるだけだよォ! 追いたい奴が出てくるか見てる!」

「実験するな!」

「戦場は行動観察の宝庫だねェ!」

「研究室に帰れ!」

「帰れるならねェ!」

それはアタシにも刺さるからやめて。

だが、関勝軍は乗ってこなかった。

孫二娘が作った隙を見ても、前衛が勝手に追い出してこない。

顧大嫂が右を押しても、後ろから兵が回って穴を塞ぐ。

第四軍の得意な「相手を動かす」が、思うように刺さらない。

「厄介どころじゃないわね……」

玉楼もすぐに気づいていた。

「三娘様、このまま中央だけで押し合えば、こちらの消耗が増えます」

「分かってる。左右をもう少し――」

その時、後方から別の号令が響いた。

「林冲隊、前進!」

白い披風が見えた。

林冲隊だ。

第四軍の後ろから静かに速度を上げ、こちらが作ったわずかな綻びへ迷いなく入ってくる。

「開けろ!」

林冲の声が飛んだ。

「玉楼!」

「承知しております!」

二人で中央をわずかに開く。

そこへ林冲隊が食い込んだ。

第四軍が乱しても崩れなかった官軍の前衛が、初めて目に見えて押し戻される。

林冲隊は無理に広げず、一点を深く穿つように進んでいた。

「やっぱり綺麗ね、あの軍!」

「感心している場合ではございません!」

「分かってる!」

後ろのどこかから、聞き覚えのある声が飛んできた。

「三娘!」

李俊だ。

こんな騒音の中でも分かった自分が、ちょっと嫌だ。

「前へ出すぎるな!」

またそれ!?

「先鋒なんだから前にいるのが仕事でしょ!」

「限度がある!」

孫二娘の声まで飛んでくる。

「聞き分けの悪い恋人同士みたいになってるよォ!」

「恋人じゃない!」

「今そこ否定するのか!」

李俊まで何で参加するのよ!?

一瞬だけ顔が熱くなった。

最悪。

今は戦場だ。

前を見る。

林冲隊が押し開いた場所から、官軍の列がわずかに割れている。

そこだ。

「第四軍、続くわよ!」

玉楼が槍を振る。

孫二娘が左から敵を内へ寄せ、顧大嫂が右の盾列へ身体ごとぶつかっていく。

ようやく、関勝軍の前衛が下がった。

一歩。

アタシも馬を進める。

もう一歩。

青龍の旗はまだ遠い。

関勝は退いていない。

だったら、ここで止まる理由もない。

――更にもう一歩とアタシは、突き進んでいく。

玉楼でございます。

郝思文様を捕らえた時には、このまま押せると思いました。

ところが関勝様は、銅鑼ひとつで軍を立て直されます。

「嫌な上司だねェ」

孫二娘様が申しました。

「でも、あたしはあの青龍偃月刀と一度やってみたいねぇ」

「顧大嫂様、それはお控えくださいませ」

三娘様も頷きます。

「玉楼、もっと強く止めて!」

そこへ李俊様の、

「前へ出すぎるな!」

という声。

孫二娘様が笑いました。

「聞き分けの悪い恋人同士みたいだねェ」

「恋人じゃない!」

すると李俊様まで、

「今そこ否定するのか!」

……三娘様。

戦場でお顔を赤くなさるのは、お控えになった方がよろしいかと……

関勝軍はまだ崩れておりません。

三娘様も、別の意味で崩れかけております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。