こういう時だけ大将扱い
帰ったら寝る予定だった。
本当に、それだけだったのよ?
「期待するから失望するんだよォ」
孫二娘が朝からうるさい。
「心理学で睡眠不足まで処理するな!」
顧大嫂は馬に乗りながら笑った。
「あたしは先鋒、嫌いじゃないけどねぇ」
「アンタは少し嫌がって!」
そして敵の前まで来たら、今度は一騎討ち。
孫二娘が言う。
「先鋒だねェ」
顧大嫂も頷く。
「大将だねぇ」
「こういう時だけ大将扱いするな!」
……昨日、自分で「大将はアタシ!」って言ったの、忘れてないわよ。
忘れてないけど。
郝思文、普通に強いんだけど!?
軍議が終わり、張り詰めていた空気が少しだけ動いた。
頭領たちが卓を離れると、広げられていた地図は巻かれ、伝令たちは決められた配置を各隊へ伝えるため、松明の間を縫うように走っていった。
北京大名府から戻る途中に設けた野営地は、ほんの少し前まで休息の場所だったはずなのに、もう次の戦へ向けた陣へ姿を変えつつある。
アタシも卓から離れた。
玉楼が隣へ並び、孫二娘と顧大嫂も当然のようについてくる。
軍議へ四人で呼ばれ、そのまま四人で戻ることにも、もう違和感がなくなっていた。
「……帰ったら寝る予定だったのになぁ」
思わず漏らすと、玉楼がこちらを見た。
「三娘様は先ほどから、そればかり仰っております」
「だって寝たかったのよ。身体を洗って、ご飯食べて、できれば三日くらい誰にも起こされずに」
「そちらも何度か伺いました」
「そんなに言ってた?」
「はい」
疲れてるわ、アタシ……
孫二娘が後ろから笑った。
「帰れると思ってた三娘が悪いねェ」
「何でアタシが悪いのよ!」
「期待するから失望するんだよォ」
「昨日も聞いた! 心理学っぽい顔して人生訓を押しつけるな!」
顧大嫂が肩を回しながら、
「あたしも寝るつもりだったんだけどねぇ。先鋒なら仕方ないさ」
と、妙にさっぱり言う。
「何でそんなに切り替え早いの?」
「前に敵がいるんだろ? だったら行くしかないじゃないか」
「そうだけど!」
正論なのが腹立つ。
夜風は冷たかったが、北京大名府で戦った熱がまだ身体の奥に残っている。
周囲を見れば、包帯を巻いた兵や腕を吊った兵も少なくない。
それでも誰も声高に不満を訴えず、馬の世話をし、武具を確かめ、明日の配置を聞いていた。
関勝軍が近い。
その一点だけで、勝った後の空気は完全に消えていた。
「関勝ねェ」
孫二娘が闇の向こうを見る。
「アンタ、会ったことあるの?」
「ないよォ」
「ないの!?」
「名前は知ってるってだけさ」
顧大嫂まで、
「あたしも会ったことはないねぇ」
と平然としている。
「二人ともアタシと大差ないじゃない!」
「関勝って名前を知ってただけ、アタイの勝ちだねェ」
「何の勝負よ!」
つい声を上げたら、近くにいた第四軍の兵が笑った。
疲れているはずなのに、笑えるらしい。
それなら、まあいい。
玉楼は一人だけ前方を見たままだった。
「ただ、林冲殿と呼延灼様のお顔を見る限り、油断はできません」
「それはアタシにも分かる」
むしろ、あの二人が騒がないから怖い。
強い相手の名前を聞いて、「大変だ」と騒ぐならまだいい。
林冲は一言で迎撃地点を決め、呼延灼も関勝の戦い方を淡々と説明しただけだった。
知っている人間ほど、余計なことを言わない。
そこへ別方向から足音が近づく。
「まだ起きてたのか?」
李俊だった。
「今から寝るところ」
「なら寝ろ」
「分かってるわよ」
「本当に?」
「何その信用のなさ!」
李俊は肩をすくめた。
「三娘は放っておくと、何か見つけて前へ出る」
「アタシを野良猫みたいに言わないで!」
孫二娘が笑いを堪えながら口を挟む。
「だいぶ学習されてるねェ?」
「誰が何を学習してるのよ!」
「李俊が三娘の行動パターンを」
「分析するな!」
顧大嫂まで、
「明日は先鋒なんだから、放っておいても前にいるけどねぇ」
と言う。
李俊の眉がぴくりと動いた。
「先鋒なのは聞いた」
嫌な予感。
「前へ出すぎるな」
ほら来た。
「もう覚えたってば!」
「なら守れ」
「そこまでセットなの!?」
玉楼が静かに頷く。
「わたくしも賛成でございます」
「玉楼まで!」
「三娘様は大将でございますので」
そう言われると弱い。
李俊も、それ以上は言わなかった。
ただ一度こちらを見て、
「戻ってこいよ」
とだけ言う。
昨日も聞いたはずなのに、胸の奥が妙に騒いだ。
「……分かってる。アンタも無茶しないでよ」
李俊は一瞬だけ目を見開き、それから頷いた。
「分かった」
後ろから何か聞こえた。
「双方だねェ」
「孫二娘!」
笑い声が上がる。
もう知らない。
アタシは逃げるように寝床へ向かった。
朝は、思ったより早く来た。
眠ったというより、目を閉じたら東の空が白くなっていた、という方が近い。
身体にはまだ昨日までの疲れが残り、鎧を着けるだけでも肩が重かった。
外へ出ると、玉楼はすでに支度を終えている。
「おはようございます、三娘様」
「……おはよう。いつ寝たの?」
「三娘様より少し後でございます」
「なのに何でそんなにしゃきっとしてるの?」
「習慣でしょうか」
ずるい。
少し離れたところでは孫二娘が髪をまとめていた。
寝起きだというのに妙に色っぽい。
思わず見ていたら、こちらへ顔を向ける。
「何だい?」
「寝起きでも綺麗ね」
「三娘も十分綺麗だよォ」
「そうやって普通に返されると困る!」
顧大嫂が馬へ鞍を載せながら笑った。
「朝から何やってるんだい」
「アタシには関係ないって顔しないで!」
「実際ないだろ?」
強い。
こういうところでは顧大嫂が一番強い。
やがて長い角笛が鳴った。
野営地の空気が一変し、兵たちが一斉に動き出す。
第四軍も左右と中央へ分かれながら集まり、昨夜の軍議で決めた形へ素早く整っていった。
玉楼が前へ出る。
「第四軍、整列してくださいませ!」
その声で兵の動きが揃う。
顧大嫂は右翼、孫二娘は左翼へ向かい、アタシと玉楼は中央に残った。
大将になったばかりの頃なら、ここで何を見ればいいのか分からなかったと思う。
今は違う。
兵の顔だけでなく、馬の様子や隊列まで自然と目に入る。
疲労は隠せていないが、それでも第四軍の形は崩れていなかった。
北京大名府を戦い抜いたことで、第四軍には第四軍なりの形ができ始めていた。
「三娘様」
玉楼がこちらを見る。
「うん」
「参りましょう」
「第四軍、出るわよ!」
号令を掛けると隊列が動いた。
街道へ出た第四軍は、梁山泊軍の最前へ進む。
先鋒という役目を改めて実感すると、昨夜以上に嫌になった。
一番最初に敵を見る。
つまり一番最初に敵から見える。
「三娘ァ、また顔に出てるよォ!」
左から孫二娘の声が飛ぶ。
「何が!」
「帰りたいって」
「帰れるなら帰りたいわよ!」
顧大嫂が右から笑った。
「あたしは楽しみだけどねぇ」
「アンタはもう少し嫌がりなさい!」
第四軍の兵から笑い声が起こる。
こんな大将でいいのかと思わなくもない。
でも、兵たちの肩から余計な力が抜けたのなら、それでいい気もした。
朝靄の残る街道をしばらく進んだところで、前方から一騎の斥候が駆け戻ってきた。
速度を見ただけで、報告の内容が分かる気がする。
斥候は第四軍の前で馬を止めた。
「官軍前衛を確認しました! 街道前方ですでに展開を始めております!」
来た。
玉楼が目を細める。
「予想より少し早うございますね」
「向こうも待つ気はないってことでしょ」
「そうでしょう」
孫二娘が前方へ目を凝らす。
「関勝本人は見えるのかい?」
「まだ確認できません!」
顧大嫂が笑った。
「じゃあ、まずは前にいる奴からだねぇ」
発想が単純で助かる。
いや、戦場ではこれくらいの方がいいのかもしれない。
霧が風に流され、少しずつ街道の先が見えてくる。
最初に見えたのは旗だった。
その下に槍が並び、さらに霧が薄れると兵たちの姿まで見えてきた。
昨日聞いた通り、官軍は無理に前へ出ようとせず、街道を押さえる形で静かに陣を整えている。
孫二娘が笑みを消した。
「嫌な並びだねェ。こっちを見ても動かない」
「挑発しても来ないって話だったものね」
「だったら、動かしたくなるねェ」
「もう何か考えてる?」
「少しだけ」
怖い。
それでも頼もしい。
その時、官軍の前列が左右へ割れた。
一騎がゆっくり進み出る。
黒い馬に乗った男は長槍を携え、騎乗した姿勢にも乱れがなかった。
華美な動きはないのに、周囲の兵が自然と道を空けている。
男は街道の中央まで来ると、こちらへ声を張った。
「官軍先鋒、井木犴・郝思文!」
声が朝の街道を通る。
「梁山泊に勇将ありと聞く。誰か、俺と槍を合わせる者はおらぬか!」
一騎討ち。
そう来るの?
思わず左右を見ると、孫二娘と顧大嫂が揃ってこちらを見ていた。
「何よ」
孫二娘がにやりとする。
「先鋒だねェ」
顧大嫂も頷く。
「大将だねぇ」
「こういう時だけアタシを大将扱いするな!」
「昨日、大将は自分だって怒ってたじゃないか」
言った。
確かに言った。
こんな形で回収されるとは思ってなかっただけで。
玉楼を見る。
止めるなら、たぶん玉楼だけだ。
けれど玉楼は何も言わず、アタシの目を見返した。
行けとも言わない。
行くなとも言わない。
自分で決めろ、という顔だった。
それなら決まっている。
「行ってくる」
馬腹を蹴って、第四軍の前へ出た。
「第四軍大将、一丈青・扈三娘!」
名乗ると、郝思文はこちらを一度見ただけで、笑いもしなければ眉も動かさなかった。
女だからと侮る様子がない。
むしろ、それが嫌だった。
まともにこちらを敵将として見ている。
たぶん、強い。
「参るぞ」
郝思文が槍を構える。
アタシも日月双刀を抜いた。
二騎の間を朝風が抜け、両軍の旗が鳴る。
先に動いたのは郝思文だった。
黒馬が一気に加速し、長槍の穂先が真っ直ぐこちらを狙う。
余計な揺さぶりもないからこそ、どこへ来るのか分かっていても避けにくい。
アタシも馬を出した。
間合いが詰まる。
槍が伸びた瞬間に身体を沈めると、穂先が肩の上を抜けていった。
そのまま右の刀を振るったが、郝思文は槍を引き戻し、柄で刀を受ける。
金属音と一緒に腕へ衝撃が走った。
重い。
ここだけは考える暇がなかった。
二騎はそのまますれ違い、アタシは手綱を引いて馬首を返す。
郝思文もすでにこちらを向いており、姿勢どころか呼吸までほとんど乱れていない。
「なるほど」
郝思文の口元が、ほんの少しだけ動いた。
「確かに勇将だ」
褒められたらしいが、全然嬉しくない。
一合交えただけで、郝思文が強いことは十分に分かった。
けれど、アタシの後ろには玉楼がいて、孫二娘と顧大嫂がいて、そのさらに後ろには第四軍がいる。
ここで引く理由もなかった。
郝思文が槍を構え直す。
アタシも双刀を握り直した。
朝の街道で、両軍の視線がもう一度二騎へ集まる。
二度目の激突が始まろうとしていた。
玉楼でございます。
三娘様は郝思文様の前へ出る直前まで、「こういう時だけ大将扱いするな」と仰っておりました。
孫二娘様が笑います。
「昨日は大将はアタシって怒ってたのにねェ?」
顧大嫂様も頷きました。
「あたしも聞いたよ。ずいぶん大きな声だったねぇ」
「二人とも覚えてなくていい!」
三娘様だけが不満そうでございますが、わたくしは少し嬉しゅうございました。
以前なら、三娘様が前へ出れば止めようとしたかもしれません。
今は違います。
三娘様が決めて前へ出るなら、わたくしはその先を見ます。
「それにしても郝思文、強そうだねェ」
「三娘なら平気さ」
ええ、そう思っております。
ですが――
二合目は、まだこれからでございます。




