休息無き帰路
「終わったと思ったんだよォ」
孫二娘が鍋を混ぜながら、しみじみと言った。
「北京大名府も終わった」
「盧俊義も助けた」
「やっと帰れると思った」
顧大嫂が酒を煽る。
「皆そう思ってただろうねぇ」
幕舎の外から即座に声が飛んだ。
「アタシも思ったわよ!!」
孫二娘が吹き出す。
「出たよォ!!」
「本人だ!!」
「だって普通そう思うでしょ!?」
また外から返ってくる。
「戦が終わった帰り道よ!?」
「休みたいじゃない!!」
顧大嫂が肩を揺らした。
「それはそうだねぇ」
「でしょ!?」
鍋の湯気が静かに揺れる。
その時――
孫二娘が鍋杓子を振った。
「でもさァ」
嫌な予感しかしない。
「何よ」
「関勝知らなかったんだねェ」
沈黙。
鍋の音だけが続く。
外から即座に返事が飛んだ。
「知らないわよ!!」
「有名人みたいに言わないで!!」
顧大嫂が吹き出した。
「皆知ってたからねぇ」
「何でアタシだけ知らないのよ!!」
「興味無いからだろォ?」
「否定出来ないのが悔しいのよ!!」
笑い声が広がる。
孫二娘は楽しそうだった。
「まさか本人が来ると思ったとはねェ」
「思ってないわよ!!」
「関羽だと思ったんだろォ?」
「ちょっとだけよ!!」
顧大嫂が酒を吹きそうになった。
「ちょっとなんだねぇ」
「急に名前だけ言われたらそうなるでしょ!!」
また笑い声が広がる。
しばらく続いた後――
顧大嫂が酒を置いた。
「でも空気は変わったねぇ」
鍋の音だけが続く。
「そうね」
外から返事があった。
北京大名府から戻る途中だった。
勝った後だった。
兵も少し安心していた。
それなのに――
関勝。
その名前一つで全部変わった。
孫二娘が頷く。
「皆、嫌そうな顔してたねェ」
「してたわね」
「強いのかい?」
「皆の顔をみれば分かるでしょ」
顧大嫂が笑う。
「聞く相手を間違えてるよ」
「確かにねェ」
外から声が飛んだ。
「アンタ達も知らないじゃない!!」
「知らないねェ」
「知らないねぇ」
「威張る所じゃないのよ!!」
笑い声が爆発した。
その後――
孫二娘が急に真顔になる。
「でもさァ」
また嫌な予感しかしない。
「何よ」
「先鋒」
沈黙。
鍋の音だけが続く。
「出たよォ!!」
「絶対そうなると思ってた!!」
「アンタ笑ってたじゃない!!」
「だって第四軍だろォ?」
顧大嫂も頷く。
「突破役だからねぇ」
外からため息が聞こえた。
「嫌な評価だわ……」
「でも合ってるだろォ?」
「否定出来ないのが悔しいのよ!!」
また笑い声が広がる。
第四軍、先鋒、関勝軍。
帰れると思った帰り道で決まった次の戦。
夜は、何も答えない。
関勝がどんな相手なのかも。
梁山泊の近くで、どんな戦になるのかも。
まだ何一つ分からない。
だけど――
少なくとも一つだけは分かる。
北京大名府から帰ったばかりなのに、梁山泊は誰一人休ませる気が無い。
湿った風は、そんな当たり前過ぎる事実を――
鍋の湯気と一緒に、静かに夜へ溶かしていくみたいだった。
終わったと思っていた。
北京大名府は落ちた。
盧俊義も救い出した。
兵達の顔にも、ようやく余裕が戻り始めている。
怪我人は居る。
失った者も居る。
それでも、生きて帰っている。
それだけで違った。
街道を進む隊列は長い。
前も後ろも味方ばかりだ。
荷車が軋む。
馬が鼻を鳴らす。
兵達も、久しぶりに少しだけ肩の力を抜いていた。
アタシも馬上で息を吐く。
終わった……
少なくとも今度こそ終わったと思っていた。
その時だった。
前方から、一騎が土煙を上げて、飛び込んで来る。
伝令だった。
嫌な予感しかしない。
良い知らせを運ぶ顔じゃなかった。
馬を飛ばしながら、そのまま叫ぶ。
「急報!」
隊列がざわつく。
兵達が顔を上げる。
前方で馬が止まった。
伝令は息も整えず、頭を下げる。
「梁山泊周辺に官軍出現!」
空気が変わる。
さっきまであった帰還の空気が消える。
誰も喋らない。
風だけが吹いていた。
アタシは前を見る。
闇しか見えない。
でも、その向こうに梁山泊がある。
そして、その周辺に官軍がいる。
伝令が続けた。
「総大将――関勝!」
隊列がざわめいた。
何人もの兵が顔を見合わせる。
頭領達も反応している。
だが――
アタシは首を傾げた。
「誰?」
孫二娘が振り返る。
「知らないのかい?」
「知らないわよ」
顧大嫂まで驚いた顔をした。
「三娘らしいねぇ」
失礼ね……
知らないものは知らない。
その時――
隣の玉楼が小さく口を開いた。
「関羽将軍の末裔を名乗る方です」
「あ〜……」
それなら分かる。
関羽なら知っている。
三国志の人だ。
横浜の関帝廟にも行った事がある。
赤い顔で髭が長かった気がする。
でも――
「その人じゃないのよね?」
「違います」
即答だった。
「本人ではありません」
当たり前よね……
時代が違うっぽいし……
思わずため息が出た。
孫二娘が吹き出す。
「何だと思ったんだい」
「いや、だって急に名前だけ言われても」
顧大嫂も笑う。
「そこは確かにねぇ」
周囲は笑っている。
でも――
空気は重かった。
玉楼も、それ以上は何も言わない。
ただ、ほんの一瞬だけ――
関勝の名を聞いた時だけ、いつもより視線が動いた気がした。
気のせいかもしれない。
アタシは深く考えなかった。
「強いの?」
玉楼が頷く。
「はい」
短い返事だった。
「かなり」
それだけで十分だった。
兵達の顔を見れば分かる。
知らないアタシでも分かる。
面倒な相手だ。
北京大名府が終わったと思ったら、今度は関勝。
梁山泊は、本当に休ませてくれないらしい。
伝令はまだ馬上にいた。
汗で髪が張り付き、肩で息をしている。
相当飛ばして来たのだろう。
前方では、既に宋江や呉用達が集まり始めていた。
隊列も少しずつ止まっていく。
ざわめきだけが広がった。
「関勝か……」
「聞いたことがある」
「大刀使いだろ」
そんな声が聞こえる。
知らないのはアタシだけらしい。
少しだけ釈然としない。
孫二娘が肩を揺らした。
「有名人だねェ」
「そうみたいね」
「今更知ったのかい」
「悪かったわね」
顧大嫂が笑う。
「三娘は興味無い事、本当に覚えないからねぇ」
否定出来なかった。
その時――
前方から新しい号令が飛ぶ。
「止まれ!」
隊列が止まる。
馬も、荷車も、人の流れも。
さっきまで続いていた帰還の空気が消えていく。
代わりに戻って来る。
戦の空気だ。
玉楼が前を見たまま呟いた。
「軍議ですね」
アタシも頷く。
そうだろう。
関勝が相手なら、ここで方針を決めるはずだ。
少し離れた場所で林冲の姿が見えた。
呼延灼もいる。
二人とも表情は変わらない。
だが、関勝の名を聞いてから周囲を見る目が変わっていた。
知っているのだ。
その強さを、その厄介さを。
風が吹き、草が揺れる。
北京大名府の勝利は、まだ昨日の話だった。
なのに今はもう別の戦の話をしている。
本当に忙しい。
アタシは馬上で小さく息を吐いた。
「帰りたいわね」
孫二娘が笑う。
「まだ帰る気だったのかい」
「ちょっとくらい期待するでしょ」
「無駄だねェ」
即答だった。
顧大嫂まで頷く。
「無駄だねぇ」
ひどい……
だが――
その通りな気もした。
梁山泊へ来てからというもの、
終わったと思ったら次。
勝ったと思ったら次。
休めると思ったら次。
その繰り返しだ。
前方では軍議が始まっている。
「扈三娘殿」
声が飛んだ。
振り返ると、宋江配下の伝令がいた。
馬を降りるなり頭を下げる。
「軍議へ」
やっぱりね……
アタシは小さく息を吐いた。
呼ばれない訳がない。
第四軍の総大将だ。
「分かった」
伝令は再び一礼し、別の頭領の元へ走っていく。
玉楼が隣へ来た。
「呼ばれましたか」
「見れば分かるでしょ」
「はい」
少しだけ口元が緩んでいる。
何が面白いのか分からない。
その時――
後ろから声が飛んだ。
「軍議かい?」
孫二娘だった。
顧大嫂も一緒だ。
「そうみたいね」
「面倒だねェ」
「始まる前から言うんじゃないよ」
顧大嫂が呆れたように笑う。
アタシは馬から降りた。
「第四軍の話も出るでしょうし」
玉楼が静かに言う。
「出るでしょうね」
出ない方がおかしい。
関勝、官軍、梁山泊防衛。
そして第四軍。
全部が関わっている。
遠くを見る。
少し離れた場所では、既に松明が集められていた。
松明の灯が風に揺れていた。
夜は深い。
だが、この場に集まった頭領達に眠気は無さそうだった。
卓の上には地図が広げられている。
梁山泊、その周辺の街道。
近くの村、梁山湖。
そして、いくつかの印。
アタシ達が近付くと、何人かが視線を向けた。
宋江、呉用、林冲、呼延灼、秦明、花栄。
北京大名府を戦った顔ぶれも多い。
なのに、誰一人として戦後の顔をしていなかった。
もう次の戦を見ている。
アタシは卓の端へ立った。
玉楼は半歩後ろへ下がる。
いつもの位置だった。
宋江が頷く。
「扈三娘殿」
「何?」
「お疲れのところ、申し訳ありませぬ」
そう言う割には休ませる気は無いらしい。
アタシは肩を竦めた。
宋江も苦笑しただけだった。
呉用が地図へ手を置く。
「報告を」
伝令が前へ出る。
まだ息は完全には整っていない。
それでも声ははっきりしていた。
「関勝軍は現在、この辺りです」
指が地図の一点を示した。
梁山泊へ続く街道。
思った以上に近い。
「進軍速度は速くありません」
伝令が続ける。
「ですが、確実にこちらへ向かっております」
呉用が頷く。
「兵数は」
「約一万五千」
場が静まる。
決して少なくない。
ましてこちらは帰還途中だ。
負傷者もいる。
兵も疲れている。
補給も消耗している。
万全とは言い難かった。
呼延灼が腕を組む。
「正面から押して来るな」
誰に向けた言葉か分からない。
独り言のようでもあった。
「関勝は慎重だ」
秦明が鼻を鳴らす。
「慎重な奴が一番面倒だ」
「違いない」
短い会話だった。
だが、互いによく分かっているらしい。
アタシは地図を見る。
街道、丘陵、林、川。
戦うなら、どこだろう。
そんな事を考えていると、林冲が口を開いた。
「梁山泊まで近付けるな」
場が静まる。
林冲は地図の一点を指した。
梁山泊から少し離れた街道沿いだった。
「ここで止める」
簡潔だった。
だが分かりやすい。
呉用も頷く。
「同意です」
宋江が周囲を見る。
「異論は?」
誰も何も言わない。
風だけが吹いていた。
やがて宋江は小さく頷く。
「ならば迎撃ですな」
決まった。
あっさりと……
北京大名府から戻る途中だというのに。
また戦だ……
本当に休ませてくれない。
その時だった。
呉用の視線がこちらへ向く。
「第四軍は――」
嫌な予感がした。
「何?」
「先鋒をお願いしたい」
やっぱりだった。
思わず額を押さえる。
隣で玉楼が視線を落とす。
孫二娘が吹き出した。
顧大嫂も肩を揺らしている。
絶対面白がっている。
「何で笑うのよ」
「だってねェ」
孫二娘が楽しそうに言う。
「そうなると思ってたからさァ」
本当に嫌な連中だった。
でも――
断れる空気ではない。
アタシはため息を吐く。
そして地図を見る。
関勝、官軍、梁山泊。
北京大名府が終わったと思ったら、もう次の相手が待っている。
本当に忙しい。
「分かったわよ」
そう答えると、
呉用は静かに頷いた。
軍議はさらに続く。
夜明けは、まだ遠かった。
地図を広げる卓も見える。
人影も増えている。
宋江、呉用、林冲。呼延灼。
他の頭領達も次々と集まり始めていた。
風が吹く。
さっきまで帰還の空気だった。
だが、もう違う。
戦の空気だ。
「行くわよ」
アタシは歩き出す。
玉楼が半歩後ろにつく。
孫二娘と顧大嫂も続いた。
北京大名府から戻る途中だというのに。
まだ休ませてくれる気は無いらしい。
夜は深い。
だが――
次の戦は、もう始まっていた。
夜は、相変わらず静かでした。
銅鑼もありません。
馬の嘶きも、怒号もありません。
あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿は、今日も鍋を囲んでおられました。
北京大名府の帰りでも鍋。
軍議の後でも鍋。
関勝軍接近でも鍋。
もはや、このお二人にとって鍋は非常食ではなく生活様式なのかもしれません。
――閑話休題
「で?」
孫二娘殿が鍋を混ぜながら笑います。
「結局また先鋒なんだろォ?」
顧大嫂殿が酒を煽りました。
「聞くまでもないねぇ」
幕舎の外から即座に声が飛びます。
「聞くまでもないって何よ!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「出たよォ!!」
「本人だ!!」
「だって第四軍だろォ?」
また外から返ってきます。
「嫌な納得の仕方しないで!!」
顧大嫂殿が肩を揺らしました。
「でも外れてないからねぇ」
「否定しづらいのが悔しいのよ!!」
笑い声が広がります。
鍋の湯気が静かに揺れました。
その時――
孫二娘殿が首を傾げます。
「しかしさァ」
嫌な予感しかしません。
「何でしょう」
「関勝って誰なんだい?」
沈黙。
鍋の音だけが続きました。
顧大嫂殿が酒を置きます。
「今さらかい」
「だって知らないからねェ」
外から声が飛びました。
「アンタも知らないじゃない!!」
「知らないねェ」
「知らないねぇ」
「堂々と言わないでよ!!」
また笑い声が広がります。
私は小さく息を吐きました。
ですが――
それは実際、珍しい事ではありません。
名が知られていても、会った事はない。
強いと聞いていても、戦った事はない。
戦場では、それが普通です。
孫二娘殿が鍋を混ぜながら言います。
「でも皆、嫌そうな顔してたねェ」
顧大嫂殿も頷きました。
「してたねぇ」
外から小さく返事があります。
「してたわね」
その一言で十分でした。
呼延灼殿も……
秦明殿も……
林冲殿も……
皆、関勝の名を聞いた瞬間に空気が変わりました。
私は、その顔を見ていました。
強敵なのでしょう。
少なくとも――
軽く見て良い相手ではありません。
鍋の音だけが続きます。
その時――
孫二娘殿が、にやりと笑いました。
「でもさァ」
また嫌な予感です。
「何でしょう」
「軍議で一番嫌そうだったの三娘じゃないか!」
外から即座に返事が飛びました。
「先鋒だったからでしょ!!」
「出たよォ!!」
「本音だねぇ」
顧大嫂殿も笑います。
「帰れると思ってたんだろうねぇ」
少し間が空きました。
外から小さく声が返ります。
「……思ってたわよ」
孫二娘殿が机を叩きました。
「認めた!!」
「認めたねぇ」
笑い声が爆発します。
私は少しだけ微笑みました。
確かにそうだったのでしょう。
北京大名府は落ちました。
盧俊義殿も救出しました。
普通なら、一息ついても良い頃です。
ですが――
梁山泊は止まりません。
勝てば次。
終われば次。
それが、この場所です。
夜は、何も答えません。
関勝軍がどこまで来ているのかも……
次の戦場がどうなるのかも……
第四軍が、また先鋒で走る事になるのかも……
まだ何一つ分かりません。
ただ静かなまま――
関勝を知らないのに偉そうな孫二娘殿と、同じく知らないのに頷いている顧大嫂殿と、
「帰りたい」
と言った事を未だに弄られている扈三娘様だけを――
湿った風の中へ、静かに残している様でした。




