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第四軍始動

「始まったねェ」

孫二娘が、鍋を混ぜながら笑う。

「今度は“第四軍が出来た回”だったんだって?」

顧大嫂が酒を煽った。

「出世したじゃないかい」

幕舎の外から即座に声が飛ぶ。

「出世って言い方やめなさいよ!!」

孫二娘が吹き出す。

「出たよォ!!」

「本人が否定した!!」

「だって急だったのよ!!」

また外から返って来る。

「いきなり大将よ!?」

「しかも第四軍よ!?」

顧大嫂が肩を揺らした。

「まあ、妥当じゃないかい」

「どこがよ!!」

即答だった。

「アタシだって聞いた時びっくりしたのよ!!」

孫二娘が机を叩く。

「でも断らなかったねェ」

少しだけ間が空く。

「……断れる空気じゃなかったのよ」

「出たよォ!!」

「正直だ!!」

笑い声が広がった。

鍋の湯気が静かに揺れる。

その時――

顧大嫂が酒を置いた。

「しかし面白い組み合わせだねぇ」

「何がよ」

「第四軍さ」

指を折りながら数える。

「大将が三娘」

「副将が玉楼」

「左が孫二娘」

「右があたし」

孫二娘が鍋杓子を振り回した。

「強そうだねェ!!」

「不安しかないわよ!!」

即答だった。

「何で左翼がアンタなのよ!!」

「何でって強いからだろォ?」

「そこじゃないのよ!!」

顧大嫂が吹き出す。

「まあ、突っ込むのは確実だねぇ」

「失礼だねェ!!」

「違うの?」

「違わないねェ!!」

また笑い声が広がる。

アタシは額を押さえた。

先が思いやられる。

その時――

孫二娘が急に真顔になった。

「でもさァ」

嫌な予感しかしない。

「何よ」

「林冲と離れたねェ」

沈黙。

鍋の音だけが続く。

顧大嫂の肩が震えている。

「別に」

「出たよォ!!」

孫二娘が机を叩いた。

「絶対気にしてる!!」

「気にしてないわよ!!」

「さっきまで林冲隊だったじゃないか!!」

「だから何よ!!」

顧大嫂も笑う。

「まあ慣れてた場所が変わると落ち着かないからねぇ」

アタシは少しだけ言葉に詰まった。

それは否定しにくい。

見れば居た。

前に居た。

それが当たり前だった。

今は違う。

ただ、それだけだ。

孫二娘がニヤニヤしている。

「寂しいんだねェ」

「違うわよ!!」

「はいはい」

「信じなさいよ!!」

笑い声が爆発した。

しばらく続いた後――

顧大嫂が小さく息を吐く。

「でも戦だねぇ」

鍋の音だけが続く。

「そうね」

アタシも頷く。

盧俊義に石秀に楊雄に時遷……

それと北京大名府。

終わったと思っていた話は終わっていなかった。

そして第四軍も動き始めた。

孫二娘が鍋を混ぜながら笑う。

「大将さん、頑張りなよォ」

「アンタも働くのよ」

「もちろんさァ」

全然信用出来ない返事だった。

夜は、何も答えない。

北京大名府で何が待っているのかも。

盧俊義を助けられるのかも。

第四軍が上手く動くのかも。

まだ何一つ分からない。

だけど――

少なくとも一つだけは分かる。

左翼の孫二娘と右翼の顧大嫂で、絶対に静かな軍にはならない。

湿った風は、そんな不安しかない事実を――

鍋の湯気と一緒に、静かに夜へ溶かしていくみたいだった。

終わった話ではなかった。

盧俊義は断った。

北京大名府へ帰った。

それでも、忠義堂の空気は終わっていなかった。

石秀、楊雄、時遷。

その三人の名が呼ばれてから、数日――

梁山泊の中で、妙な静けさが続いていた。

大きな軍が動く訳ではない。

兵が集められる訳でもない。

銅鑼も鳴らない。

でも――

何かが動いている。

そういう空気だけがあった。

アタシは、廊下の先で時遷を見かけた。

荷を軽く背負い、何でもない顔で歩いている。

あまりにも普段通りで、逆に怪しい。

「出るの?」

そう声をかけると、時遷は足を止めた。

振り返って、にやりと笑う。

「ちょっと散歩にね」

「北京大名府まで?」

「さてね」

その顔が、もう答えだった。

アタシは小さく息を吐く。

「ろくな散歩じゃないわね」

時遷は肩を竦める。

「散歩なんて、大体ろくなもんじゃないさ」

「そういう問題じゃないでしょ」

時遷は笑っただけで、何も答えない。

そのまま歩いていく。

少し離れた所に、石秀と楊雄もいた。

二人とも旅姿だ。

本当に行くらしい。

玉楼が隣に来る。

「止めますか」

「止めちゃダメでしょ?」

「そうですね」

「でしょ」

三人の背中を見送る。

風が吹く。

忠義堂の旗が揺れる。

アタシはその旗を見る。

また胸の奥が重くなった。

「忠義って、便利な言葉ね」

玉楼が小さく言う。

「聞こえます」

「聞こえないように言ってるわよ」

「多分、聞こえております」

「……面倒ね」

玉楼は何も言わなかった。

三人の姿は、門の向こうへ消えていく。

それで終わりなら良かった。

でも、終わる訳がない。

数日後――

忠義堂へ急報が入った。

石秀が戻ったのだ。

一人で……

泥と埃まみれだった。

服も乱れている。

顔色も悪い。

それでも、目だけは鋭かった。

「北京大名府で事が起きました」

場が一気に静まる。

嫌な予感が、形になって戻ってきた。

石秀は息を整える間も惜しむように続ける。

「盧俊義殿、危うし」

「楊雄、時遷とも分かれました」

「急ぎ、救援を」

誰も笑わない。

誰も茶化さない。

宋江が立つ。

呉用が目を伏せる。

林冲は黙ったまま前を見る。

アタシは、ただ石秀を見ていた。

やっぱり……

ろくな事にならなかった。

でも――

もう、そう言っている場合ではない。

盧俊義は巻き込まれた。

時遷も楊雄も危ない。

北京大名府が動く。

梁山泊も動く。

全部、動き始めてしまった。

アタシは小さく呟く。

「……だから嫌な予感って嫌いなのよ」

玉楼が隣で静かに答える。

「扈三娘様のは、当たりますから……」

「そうなのよ」

声が小さくなる。

忠義堂の中で、次々に名前が呼ばれていく。

出陣。

救援。

北京大名府。

その言葉が並ぶ。

終わったはずの話は、戦になった。

もう引き返せない。

アタシは立ち上がる。

玉楼も動く。

また、戦になる。

そう思った時。

忠義堂の外で、風が強く鳴った。


忠義堂の空気は重かった。

石秀の報告が終わっても、誰もすぐには口を開かない。

北京大名府、盧俊義、楊雄、時遷。

どれも軽い話ではなかった。

やがて宋江が立ち上がる。

「救援へ向かいます」

誰も反対しない。

反対する理由も無い。

既に話は決まっていた。

呉用が地図を広げる。

道筋と合流地点。

兵の割り振り。

次々と決まっていく。

アタシは腕を組んだまま聞いていた。

そして――

聞き慣れない言葉が出る。

「第四軍」

顔を上げる。

呉用はそのまま続けた。

「大将は扈三娘殿」

一瞬だけ静かになる。

アタシは何も言わない。

周りも驚かない。

まるで最初から決まっていたみたいだった。

「副将は玉楼殿」

玉楼も動かない。

ただ静かに聞いている。

続いて名前が呼ばれる。

「左翼――孫二娘隊」

孫二娘が顔を上げる。

「アタイかい?」

「そうです」

「へぇ」

少し嬉しそうだった。

そして、

「右翼――顧大嫂隊」

顧大嫂が鼻を鳴らす。

「面白い」

短く答える。

それだけだった。

軍議は続く。

だが、アタシの耳にはあまり入らない。

第四軍。

林冲の部隊じゃない。

独立した部隊だ。

玉楼が小さく声を落とす。

「大将ですね」

「そうみたいね」

「不安ですか?」

アタシは少し考える。

それから肩を竦めた。

「今さらでしょ」

玉楼は小さく頷く。

「その通りです」

やがて軍議が終わる。

人が動き始める。

廊下へ出ると風が吹いた。

孫二娘が真っ先に寄ってくる。

「左翼だってさァ」

「聞いてたわよ」

「暴れろって事かい?」

「多分違う」

即答だった。

顧大嫂も後ろから来る。

「止め役は大変だねぇ」

「本当にね」

アタシは思わず頷いた。

孫二娘が不満そうな顔をする。

「何でアタイ前提なんだい」

「自覚無いの?」

「無いねェ」

顧大嫂が吹き出す。

アタシも額を押さえた。

先が思いやられる。

だけど――

不思議と嫌ではなかった。

左には孫二娘が居る。

右には顧大嫂が居る。

後ろには玉楼が居る。

林冲の隊とは違う。

でも、一人じゃない。

アタシは空を見上げる。

北京大名府と盧俊義。

そして、まだ見ぬ戦。

風が強く吹いた。

「行くわよ」

そう言うと、

玉楼が静かに頷いた。

孫二娘が笑う。

顧大嫂も肩を揺らす。

第四軍は、こうして動き始めた。


出陣の号令が出たのは、日が傾き始めた頃だった。

梁山泊の空気が、一気に変わる。

人が走る。

馬が引き出される。

荷車が並ぶ。

静かだった寨が、まるで眠りから覚めたみたいに動き始めていた。

アタシは第四軍の列を見る。

兵達も準備を終えている。

武器を確かめる者。

馬具を締め直す者。

黙ったまま空を見上げる者。

表情は様々だ。

でも、皆分かっている。

急行軍になる。

北京大名府は遠い。

ゆっくり進んでいる暇は無い。

「緊張してる?」

後ろから孫二娘の声が飛んできた。

振り返る。

案の定、笑っている。

「誰がよ」

「大将さんがさァ」

「今さらでしょ」

即答すると、孫二娘は肩を揺らした。

「頼もしいねェ」

全然そう思っていない顔だった。

顧大嫂も近付いてくる。

「まあ実際、今さらだねぇ」

「でしょ」

「でも兵は見てるよ」

その言葉で少しだけ周囲を見る。

確かに視線がある。

第四軍の大将……

そういう立場らしい。

慣れない。

正直、林冲の後ろに居た方が楽だ。

考えなくて済む。

前だけ見れば良い。

でも今は違う。

決める側だ。

玉楼が横へ来る。

「隊列、整いました」

「早いわね」

「顧大嫂殿と孫二娘殿が兵を急かしておりましたので」

顧大嫂が笑う。

「待つの嫌いでねぇ」

孫二娘も頷く。

「腹も減るしねェ」

理由になっていない。

思わず額を押さえた。

その時、前方で銅鑼が鳴る。

一度――

二度――

三度――

出陣だ。

門が開き、人の流れが前へ動き始める。

第一軍。

第二軍。

第三軍。

そして第四軍。

順番に外へ出ていく。

アタシは馬腹を軽く蹴った。

馬が歩き出す。

玉楼も続く。

孫二娘と顧大嫂も並ぶ。

梁山泊の門を抜ける。

振り返らない。

戻る時は、全部終わった後だ。

風が吹く。

冷たい風だった。

行軍は思った以上に静かだった。

皆、口数が少ない。

急いでいるからだ。

途中で休める場所も限られる。

夜になっても進む。

松明の列が長く続く。

山道を蛇みたいにうねりながら進んでいく。

アタシは前を見る。

闇しかない。

時々、遠くで狼の声が聞こえる。

蹄の音だけが続く。

その中で――

「眠いねェ」

孫二娘が言った。

「寝なさい」

「馬の上で?」

「落ちなさい」

顧大嫂が吹き出す。

「大将が酷いねぇ」

「アンタ達が緊張感無いのよ」

玉楼も珍しく口元を緩めた。

その空気に少しだけ救われる。

北京大名府……

盧俊義……

石秀……

楊雄……

時遷……

何が起きているのか分からない。

間に合う保証も無い。

でも――

進むしかなかった。

夜が深くなる。

隊列は止まらない。

遠くの空に、小さな灯が見えた。

前方の伝令が戻ってくる。

馬を飛ばしながら叫んだ。

「先行隊より報告!」

周囲の空気が変わる。

アタシは手綱を握り直した。

伝令は馬を止める。

息を切らしながら頭を下げた。

「北京大名府周辺に到達した斥候より!」

一瞬、静まり返る。

「城下の警戒、強化されております!」

北京大名府が近い。

その事実だけが、夜の冷たい空気の中で重く響いた。

夜は、相変わらず静かでした。

銅鑼もありません。

馬の嘶きも、怒号もありません。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、今日も鍋を囲んでおられました。

第四軍でも鍋。

出陣でも鍋。

急行軍の前夜でも鍋。

もはや、このお二人は軍議より先に鍋を開くのかもしれません。

――閑話休題

「で?」

孫二娘殿が鍋を混ぜながら笑います。

「結局アタイは左翼で良かったのかい?」

顧大嫂殿が酒を煽りました。

「まだ言うのかい」

「気になるだろォ?」

幕舎の外から声が飛びます。

「気になるのそこなの!?」

孫二娘殿が吹き出しました。

「出たよォ!!」

「本人が来た!!」

「だって第四軍の話だったじゃない!!」

また外から返って来ます。

「盧俊義じゃないの!?」

「北京大名府じゃないの!?」

顧大嫂殿が肩を揺らしました。

「まあ確かにねぇ」

笑い声が広がります。

鍋の湯気が静かに揺れました。

その時――

顧大嫂殿が酒を置きます。

「でもさ」

「何でしょう」

「三娘、意外と落ち着いてたじゃないか」

鍋の音だけが続きます。

外から小さく返事がありました。

「そう?」

孫二娘殿が鍋杓子を振ります。

「そうだよォ」

「大将って聞いても暴れなかったじゃないか」

「暴れないわよ!!」

即答でした。

「アタシを何だと思ってるのよ!!」

「暴れる人」

「暴れる人だねぇ」

顧大嫂殿まで頷きます。

「二人とも酷いわね!?」

笑い声が爆発しました。

私は思わず小さく息を吐きます。

ですが――

確かに驚いてはおられました。

林冲殿の隊から外れる事も。

第四軍の大将になる事も。

突然の出陣も。

ですが、取り乱してはおられませんでした。

むしろ――

受け入れるのが早かったと思います。

孫二娘殿が首を傾げました。

「そうかい?」

「はい」

私は頷きます。

「不満は仰っていました」

幕舎の外から声が飛びます。

「言ったわよ」

「納得してないもの」

孫二娘殿が吹き出しました。

「本人が認めた!!」

「でも動いてたねェ」

顧大嫂殿も頷きます。

「文句を言いながら馬には乗る」

「三娘らしいねぇ」

外から小さく返事がありました。

「止まっても仕方ないでしょ」

私は少しだけ微笑みます。

「はい」

それが扈三娘様です。

納得していなくても。

気に入らなくても。

必要なら前へ出る。

だから兵も見ていたのでしょう。

第四軍の兵達も。

出陣前、ずっとその背中を――

……夜風が幕舎を揺らしました。

鍋の音だけが続きます。

北京大名府はまだ遠く。

盧俊義殿の安否も分かりません。

石秀殿達の行方も分かりません。

これから先、何が待っているのかも分かりません。

それでも――

第四軍は動き始めました。

左には孫二娘殿。

右には顧大嫂殿。

そして扈三娘様の隣には、私がおります。

外から呆れた声が返ってきました。

「何でそこでアンタが締めるのよ」

孫二娘殿が机を叩きます。

「出たよォ!!」

顧大嫂殿も笑いました。

「そこは譲らないんだねぇ」

夜は、何も答えません。

北京大名府で待つ戦も。

盧俊義殿の運命も。

第四軍の行く末も。

まだ何一つ分かりません。

ただ静かなまま――

左翼で少し調子に乗っている孫二娘殿と、

それを眺めて笑う顧大嫂殿と、

「気にしていない」

と言いながら林冲殿の事を少しだけ気にしている扈三娘様だけを――

湿った風の中へ、静かに残している様でした。

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