二人目かもしれない
「紅玉、アタシそんなに顔色悪い?」
「はい、少々……」
「ほら、少々だって!」
孫二娘が呆れた顔をした。
「三娘ォ、そこで勝ち誇るところじゃないよォ?」
「だって戦った後だし!」
「だから座ってなって言ってるんだよォ」
紅玉まで頷く。
「わたくしも、その方がよろしいかと」
「紅玉まで!? 今日ずっとアタシの味方じゃなくない?」
「三娘様のお味方だから申し上げております」
「正論で逃げ道塞ぐのやめて!」
孫二娘が笑った。
「三娘ォ、今日は皇帝まで敵に回るかもねェ」
「何で!?」
――まさか本当に「座っておれ」と言われるとは、この時は思ってなかった。
「三娘ォ……あんた、顔色悪くないかい?」
「え?」
孫二娘に言われて、反射的に自分の頬へ手を当てた。
顔色なんて、自分じゃ見えない。
「戦った直後なんだから、多少は悪くなるでしょ?」
「多少って顔じゃないよォ。さっきまであれだけ喋ってたのに、急に白くなった」
「白いって言っても、アタシもともと――」
「三娘様」
横から玉楼が入ってきた。
こういう時だけ孫二娘との連携が早い。
「お座りくださいませ」
「いや、まだ高宗陛下を送り届けてないし」
「李俊陛下がおられます」
「でもアタシも――」
「お座りくださいませ」
「二回言った!」
玉楼が笑っている。
笑っているけど、これは逆らうと面倒なやつだ。
孫二娘まで腕を組んだ。
「三娘ォ、戦場で前へ出るのは得意でも、自分が下がる判断は昔から下手だねェ」
「誰が下手よ!」
「今まさに実演してるだろォ」
言い返そうとして立ち上がった瞬間、足元がふわっと揺れた。
船が揺れた――と思ったけど、違う。
甲板はさっきと同じだ。
「三娘様!」
玉楼の手がすぐに腕を取った。
反対側から孫二娘が肩を支える。
何この完璧な挟み撃ち。
敵にやられた時より逃げ道がない。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけ」
「そういう時に『大丈夫』を連呼するなって、たった今アタイが言ったばかりだよォ!」
「あれ負傷兵向けでしょ!?」
「対象が増えたんだよォ!」
高宗までこちらを見ていた。
さっきまで梁山泊のその後を聞いていた皇帝に、今度はアタシの体調まで見られている。
何なの、この救出?
「王妃」
「はい?」
「座っておれ」
「陛下まで!?」
「朕を拾った者が、朕を送り届ける前に倒れては話にならぬ」
「拾ったって言いましたね!?」
「そなたが先に言ったのであろう?」
「そこ学習しなくていいです!」
高宗の口元が少し緩んだ。
玉楼がすかさず頷く。
「陛下のお言葉でございます」
「玉楼、皇帝権限を便利に使わないで!」
「三娘様が従ってくださらないので」
「アタイは賛成だねェ」
「二対一ずるくない?」
「陛下も入れれば三対一でございます」
「増やさないで!」
結局、アタシは甲板の端へ座らされた。
孫二娘が目の前にしゃがみ込み、顔を覗き込んでくる。
「朝から何食べた?」
「何って……」
「三娘様は朝餉の粥を半分ほどでお残しになりました」
「玉楼!」
「昼は?」
「戦ってた」
「つまり?」
「食べてない」
「三娘ォ」
呆れた声を出されても困る。
敵が来てるのに、腹いっぱい食べてから出撃する方がおかしいでしょ。
「それに、血も見たし、動き回ったし、単に疲れただけじゃない?」
「その可能性はあるよォ。だから決めつけてない」
「じゃあ立っていい?」
「話を聞けェ」
額を指で小突かれた。
玉楼が水を渡してくる。
「少しずつお飲みくださいませ」
「はいはい」
「一気になさらぬよう」
「子供じゃないって」
「三娘様は、こういう時だけ子供より手がかかります」
「酷くない?」
少し離れたところで李俊がこちらを見た。
目が合う。
嫌な予感がした。
「三娘」
「何?」
「座っていろ」
「そっちも!?」
短い。
短いけど、一番逆らいにくい。
孫二娘が勝ち誇った顔をした。
「王陛下からも許可出たよォ」
「許可じゃなくて命令でしょ!」
そんなことをやっているうちに、前方から合図の旗が上がった。
南宋側の船だ。
こちらへ近づいてくる船上に兵が並び、岸にも人影が見える。
ようやく、高宗を返せる。
李俊が立ち上がった。
「追ってくる船はないな?」
童威が前方を確かめる。
「見えません。金の船は引いてます」
「追うな。このまま渡す」
李俊らしい。
勝ったからと追う気はなく、目的は高宗を生かして返すことだ。
敵船を何隻沈めたかなんて、今はどうでもいい。
南宋の船が横につき、板が渡された。
紅玉が先に立つ。
「陛下、足元にお気をつけくださいませ」
「うむ」
高宗は板の前で一度止まり、李俊へ向き直った。
「李俊」
「何だ?」
「助かった」
李俊は少しだけ目を細めた。
「岸へ着くまでが救出だ」
「最後まで舟の話か?」
「舟で来たからな」
高宗が笑った。
それからアタシを見る。
立とうとしたら、玉楼の手が肩に乗った。
「……見送りくらい立たせてよ」
「今はそのままでよろしゅうございます」
「王妃」
「はい」
「座っておれ」
「二回目!」
皇帝に座れと言われる王妃って何?
紅玉まで笑いを堪えている。
「三娘様、どうか今は陛下のお言葉に」
「紅玉までそっち!?」
「わたくしも心配しておりますので」
それを言われると弱い。
高宗は板へ足をかける前に、もう一度こちらを見た。
「扈成の妹よ」
「その呼び方やめてもらえます!?」
「元気になってから抗議せよ」
「元気です!」
「説得力がないねェ」
「孫二娘!」
高宗はとうとう声を上げて笑った。
さっきまで毒酒で死んだ人たちの話をしていたのに、最後はこれか。
でも、悪くない。
紅玉も板を渡る直前、こちらを振り返った。
「三娘様」
「何?」
「次にお会いする時は、もう少し穏やかな形でお会いしとうございます」
「アタシも! 次は皇帝拾わないから!」
「そこを基準になさらないでくださいませ」
「紅玉まで玉楼みたいになってない?」
「玉楼様から学びました」
「変なところだけ成長しないで!」
玉楼が隣で静かに笑った。
紅玉は最後に孫二娘へも頭を下げる。
「孫二娘様も、お身体を大切になさってくださいませ」
「紅玉に言われたくないねェ。あんたもだよォ」
「はい」
板が外され、二隻の間がゆっくり開いていく。
南宋の兵たちに囲まれた高宗が遠ざかる。
紅玉もその隣にいる。
これで終わった。
高宗を無事に返し、紅玉も南宋側へ戻った。
金の船も、もう追ってこない。
李俊が船員たちに命じる。
「戻るぞ」
船首がゆっくり向きを変えた。
ようやく肩の力を抜いた途端、腹の奥が妙にむかついた。
「……う」
思わず口元を押さえる。
孫二娘の顔が変わった。
「三娘ォ?」
「何でもない。ちょっと気持ち悪いだけ」
「それを何でもないとは言わないんだよォ」
玉楼もすぐに腰を落とし、アタシの顔を覗き込む。
「船酔いでございますか?」
「今さら!? 何回船に乗ってると思ってるの?」
「では、血の匂いでしょうか?」
「それも今さらでしょ」
言った瞬間、風向きが変わった。
甲板の端に置かれた、血のついた布の匂いが流れてくる。
胃がひっくり返りそうになった。
「ちょ、待って……それ向こうにやって」
「三娘様?」
玉楼の眉が寄った。
孫二娘はもう笑っていない。
「血の匂い、前から駄目だったっけ?」
「そんなわけないでしょ。今まで何回戦場にいたと思ってるのよ」
「だよねェ」
孫二娘が何か考えている。
嫌だ。
その顔、知ってる。
人の頭の中を勝手に整理し始める時の顔だ。
「何?」
「三娘ォ、最近、食欲落ちてた?」
「今日は戦だったから」
「今日じゃなくて、この何日か」
「……どうだったっけ?」
「三娘様」
玉楼が答えた。
「以前より少し、お召し上がりになる量が減っておりました」
「何で把握してるの!?」
「毎日お側におりますので」
「怖い!」
孫二娘が指を折りかけて、途中でやめた。
「疲れやすい?」
「戦えば疲れる」
「眠い?」
「夜は眠い」
「そういう屁理屈いらないよォ!」
李俊まで近づいてきた。
「何だ?」
「今、確認してるところだよォ」
「何を?」
「まだ分かんない」
孫二娘が珍しく慎重に答える。
それからアタシを見る。
「三娘ォ」
「何よ?」
「最後に月のものが来たの、いつ?」
一瞬、意味が分からなかった。
玉楼が固まる。
李俊も黙った。
「……何で今それ聞くの?」
「いいから思い出しなァ」
最後に来たのは、いつだったっけ?
王宮へ戻ってから……いや、その前?
戦の準備があって、船に乗って、紅玉の知らせが来て、それから高宗を拾って――
「……あれ?」
孫二娘が額を押さえた。
「三娘ォ」
「ちょっと待って。今、数えてる」
「もっと早く数えなよォ!」
「忙しかったの!」
「身体は予定表見て止まってくれないんだよォ!」
玉楼が口元へ手を当てている。
その目が、さっきまでとは違う意味で大きくなっていた。
「三娘様……」
「いや、まだ分からないでしょ! 疲れとか、そういうのもあるし!」
「もちろんあるよォ」
孫二娘が頷く。
「だから今ここで断定はしない。戻ったらきちんと診てもらう」
「ほら!」
「でもねェ」
孫二娘が、アタシの顔と腹を交互に見た。
その横で玉楼が息を呑む。
李俊は黙ったまま、完全にアタシへ視線を向けている。
嫌な汗が出た。
いや、嫌なわけじゃない。
ただ、心の準備が全然できていない。
「孫二娘」
声が少し裏返った。
「何?」
孫二娘は、今度は笑わなかった。
「三娘ォ、あんた――二人目かもしれないよォ?」
三娘様が二人目を身籠っておられるかもしれない。
その可能性を聞いた瞬間、わたくしは今日一日の行動を思い返してしまいました。
「玉楼ォ、顔が怖いよォ?」
「三娘様は本日、その状態で敵船へ飛び移っておられます」
「だからまだ確定じゃないって」
「しかも双刀で斬り込み、皇帝陛下まで拾っております」
「妊娠疑惑と皇帝拾うのを同列に並べるなよォ!」
「どちらも止めるべき案件でございます!」
「玉楼ォ、完全に保護者だねェ?」
「誰のせいでございますか!」
「三娘ォ本人だろォ?」
「そこだけは否定できません!」
孫二娘様が腹を抱えて笑っております。
「で、もし本当に二人目だったら?」
「まず三娘様から双刀を取り上げます」
「無理だねェ」
「即答なさらないでくださいませ!」
……診察の前から、前途多難でございます。




