逸らさぬ朝
「始まったねェ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら笑う。
「今度は“刑場で優男と出会った回”だったんだって?」
顧大嫂が酒を煽った。
「やっと色恋かい?」
「違うわよ!!」
即座に声が飛ぶ。
孫二娘が吹き出した。
「出たよォ!!」
「本人が全力否定だ!!」
「だって違うのよ!!」
また外から返って来る。
「刑場よ!?」
「首切ってる最中よ!?」
「何で恋愛になるのよ!!」
顧大嫂が肩を揺らした。
「確かに場所は最悪だねぇ」
「最悪でしょ!!」
笑い声が広がる。
鍋の煮える音だけが静かに続いていた。
アタシは思わず額を押さえる。
「そもそもね」
「誰なのかも知らないのよ」
孫二娘が首を傾げる。
「でも喋ったんだろォ?」
「喋ったわよ」
「ほらァ!!」
孫二娘が腹を抱える。
「知らない男と会話してる!!」
「普通の会話よ!!」
即座に返す。
「ただ横に居ただけ!!」
顧大嫂が酒を置いた。
「で?」
嫌な予感しかしない。
「何よ」
「最初、ナンパだと思ったかい?」
一瞬だけ黙る。
鍋の音だけが続く。
孫二娘の口元がにやけていた。
顧大嫂も完全に面白がっている。
「……少しだけ」
小さく答える。
沈黙。
そして次の瞬間――
「出たァ!!」
孫二娘が机を叩いて笑った。
「思ったんじゃないか!!」
「だって王英の後だったのよ!!」
アタシは思わず身を乗り出す。
「変な男が来たと思うでしょ普通!!」
「確かにねェ」
孫二娘が笑いながら頷く。
「王英の直後は疑う」
「疑うよねぇ」
顧大嫂まで頷いた。
アタシは腕を組む。
「でも違ったのよ」
少しだけ静かになる。
「口説きもしないし」
「近付いても来ないし」
「勝手に帰るし」
孫二娘が首を傾げた。
「変な男だねェ」
「そうなのよ」
思わず頷く。
「何なのあれ」
顧大嫂が酒を飲みながら笑った。
「三娘より先に帰る男も珍しいねぇ」
「そうよ!!」
即答だった。
「普通なら何か言うでしょ!?」
「名前とか!!」
「所属とか!!」
「何も言わないのよ!!」
孫二娘が肩を揺らす。
「それは確かに気になるねェ」
鍋の湯気が揺れる。
湿った風が静かに吹き抜けた。
その時――
顧大嫂が、ふと思い出したように口を開く。
「でもさ」
「何よ」
「三娘」
少し間が空く。
「名前聞かなかったのかい?」
アタシは固まった。
鍋の音だけが続く。
孫二娘も固まる。
数秒後――
「聞いてないわね」
ぽつりと呟く。
一拍。
そして。
「出たよォ!!」
孫二娘が大爆笑した。
「気になってるのに名前知らない!!」
「うるさい!!」
「完全に気になってるじゃないか!!」
「違うわよ!!」
笑い声が広がる。
アタシは顔をしかめた。
でも――
少しだけ。
本当に少しだけ。
あの優男の言葉が残っていた。
『面倒で済むうちは、まだいい』
意味は分からない。
分からないけれど。
妙に耳に残る。
夜は、何も答えない。
ただ静かなまま――
刑場の朝に交わした短い言葉と、
名前も知らない優男の背中だけを――
湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。
目を開けた時には、もう朝だった。
光がまっすぐ差し込んでいる。
やわらかさのない明るさが、部屋の隅まで満ちていた。
しばらく、そのまま横になっていた。
身体はもう起きている。
でも、頭の方がまだ昨夜に引っかかっている。
言葉が残っていた。
消えていない。
まとまってもいない。
ただ、胸の奥に沈んでいる。
ゆっくり起き上がる。
床へ足を下ろすと、現実の方が先に来る。
そういう朝だった。
背後では、玉楼がすでに起きている。
「……早いのね」
軽く言う。
「いつも通りでございます」
変わらない声だった。
昨夜のことには触れない。
それでいい。
アタシは小さく息を吐いた。
「今日は、あれね」
独り言みたいに落とす。
玉楼が静かに頷く。
「はい。捕らえた者の処置が行われております」
言葉が静かに沈む。
アタシはすぐには返さなかった。
少しだけ間が空く。
それから、ゆっくり立ち上がる。
「……行くわ」
玉楼は何も言わず、一歩後ろについた。
外へ出る。
朝の光が強い。
もう日常の音が動いていた。
人が歩き、荷が運ばれ、武具が鳴る。
高唐州は落ちた。
でも、全部が終わった訳じゃない。
廊下を歩き、刑場へ向かう。
足音が二つ揃う。
やがて囲いが見えてきた。
低いざわめき。
人が集まっている。
中には、縛られた者達がいた。
立たされている者。
座り込んでいる者。
アタシは少し手前で止まる。
近づきすぎない位置。
視線だけを向ける。
何人かがこちらを見る。
怯え、諦め、怒り……
全部、人の顔だった。
逸らせば楽になる。
でも、逸らさない。
一人が引き出される。
腕を掴まれ、前へ出される。
声が上がる。
次の瞬間――
乾いた音が一つだけ響いた。
アタシは目を閉じない。
逸らさない。
胸の奥がざらつく。
でも、消えない。
消さない。
ゆっくり息を吐く。
囲いの中を、もう一度見る。
まだ終わりそうにない。
その時、すぐ隣で声がした。
「……見物か?」
軽くもなく、重くもない声だった。
でも、不思議と耳に残る。
アタシは前を見たまま答える。
「そう見える?」
少し間が空く。
「そう見えた」
否定しない返しだった。
アタシはそこで初めて横を見る。
長身。
細身。
場に似合わないくらい整った顔立ち。
"優男"という言葉が頭をよぎる。
でも、目は違った。
揺れていない。
ただ、静かに前を見ている。
また音が響く。
周囲は変わらない。
当たり前みたいに処置が進んでいく。
アタシは視線を逸らさない。
隣の男も、逸らさない。
ほんの少しだけ、時間が重なった。
「慣れているのね」
ぽつりと呟く。
男は少しだけ間を置いた。
「いいえ」
短く否定する。
「慣れるものではありません」
静かな声だった。
感情を強く乗せない。
でも、軽くもない。
アタシは少しだけ目を細める。
「でも、見てる」
また一つ、乾いた音が響く。
周囲は変わらない。
当たり前みたいに続いていく。
男は前を見たまま、小さく息を吐いた。
「目を逸らす理由がないので」
淡々とした返事。
アタシは小さく笑う。
「アタシと同じね」
少しだけ皮肉を混ぜる。
男は否定しない。
肯定もしない。
ただ、黙ったままだった。
また音が響く。
一つ。
二つ。
周囲は変わらない。
誰も止めない。
アタシは視線を逸らさない。
男も逸らさない。
同じものを見ている。
でも、同じではない。
「……面倒ね」
小さく呟く。
ほんの少しだけ、男の視線がこちらへ動く。
「面倒で済むうちは、まだいい」
低く、短い言葉だった。
それだけ言うと、また前を見る。
その言葉が、少しだけ引っかかった。
胸の奥で、何かが止まる。
息が、半拍だけ遅れる。
アタシは何も言わなかった。
返す言葉がないわけじゃない。
選ばないだけだ。
また音が響く。
乾いた音。
周囲は変わらない。
それでも、アタシは視線を逸らさない。
男も同じだった。
やがて男が一歩下がる。
「……失礼」
それだけ言って離れていく。
アタシは追わない。
振り返りもしない。
ただ、前を見ていた。
囲いの中。
朝の光。
全部がはっきり見えている。
曖昧なものは何もない。
その中で、アタシは立っていた。
逸らさずに……
昼の光は、朝とは違っていた。
高くなって、逃げ場が少なくなる。
影が短い。
どこに立っても、よく見える。
アタシは廊下を歩いていた。
足音だけが、一定に返ってくる。
考えようとすれば、いくらでも浮かぶ。
でも、今は考えない。
頭の奥に残っているものを、無理に形にしたくなかった。
玉楼の気配が、一歩後ろにある。
間合いは変わらない。
何も言わない。
アタシも話さない。
言葉にしたところで、軽くなるものじゃない。
角を一つ曲がる。
強い光が差し込んでくる。
明るすぎるくらいだった。
ふと、足が止まる。
理由はない。
ただ、止まった。
息を一つ吐く。
胸の奥に、朝のざらつきが残っている。
消えていない。
薄くもなっていない。
そのままだ。
「……まだ、なのね」
小さく漏れる。
玉楼が短く応じた。
「はい」
それ以上は言わない。
アタシは少しだけ目を細める。
「面倒で済むうちは、まだいい……か」
口に出すと、少しだけ輪郭が出る。
それでも、まだ掴み切れない。
ふと、思い出したみたいに口を開く。
「……さっきの」
振り返らないまま。
「背が高いの、いたでしょ」
玉楼が少しだけ間を置く。
「はい」
短い返事。
「誰か知ってる?」
深く聞く気はない。
ただ、確認みたいなものだった。
玉楼は少し考える。
「名前までは存じ上げません」
事実だけを置く。
「ですが、あの場では少し浮いておりました」
アタシは小さく笑う。
「そうね」
それだけ返す。
それ以上は聞かない。
興味がない訳じゃない。
でも、今じゃない。
歩き出す。
足音が戻る。
廊下の先に、人の気配がある。
呼びに来る側か、呼ばれる側か。
どちらでもいい。
もう、分かっている。
「……行きましょう」
玉楼が静かに頷く。
アタシは前を見る。
昼の光の中で、全部がはっきりしていた。
朝よりも、隠れ場所がない。
それでも――歩いていく。
抱えたまま……
刀が当たる。
乾いた音が短く弾けた。
玉楼の刃が外へ流れる。
そこへ、アタシは踏み込む。
半歩だけ間合いを詰め、さらに刀を振る。
玉楼が引く。
わずかに外す。
浅い。
決め切れない。
止めずに押す。
もう一度、懐へ入る。
速さで詰める。
玉楼の刃が上がる。
受け止められる。
手元に重さが残る。
押し切る形になる。
そこで止めた。
構えを残したまま、間が一拍だけ空く。
玉楼が静かに言う。
「速うございます」
息は乱れていない。
「力んでおられます」
アタシは握りを見る。
指に力が残っていた。
抜けない。
「……そう」
小さく返す。
構えを崩す。
その時、入口の方で足音が近づいてきた。
速い――
一直線だ。
脇へ逸れない。
玉楼も、そちらを見る。
ただの呼び出しじゃない。
アタシは短く声を飛ばす。
「止めろ」
周囲の動きが止まる。
何本かの刀が下りる音が続く。
全員の視線が入口へ集まる。
伝令が一人、走り込んできた。
息が上がっている。
それでも止まらず、アタシの前で膝をつく。
「扈三娘殿」
アタシは返す。
「何事?」
間を置かず返してくる。
「出陣の準備を」
「討伐軍が、こちらに向かって来ている模様です」
場の空気が変わった。
何人かがすぐに動く。
馬の方へ走る者。
装具を取りに向かう者。
玉楼が一歩近づき、刀を納める。
「支度を整えます」
「頼むわ」
短く返す。
玉楼はすぐに手を伸ばす。
帯の位置を直す。
留め具を締める。
無駄がない。
アタシはそのまま立っていた。
刀を握る。
さっきまで残っていたざらつきが、別の形へ変わっていく。
息を一つ吐く。
「……分かったわ」
伝令はすぐ立ち上がり、また走っていく。
アタシも動く。
周囲と同じ方向へ。
訓練は終わりだ。
戦の準備に入る。
刀を納める。
足を速める。
討伐軍が来る。
――また、戦になる。
夜は、相変わらず静かでした。
銅鑼もありません。
馬の嘶きも、怒号もありません。
あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿は、今日も鍋を囲んでおられました。
刑場でも鍋。
人生相談でも鍋。
優男が出てきても鍋。
もはや、このお二人にとって鍋とは世界の基準なのかもしれません。
――閑話休題
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「今度は“三娘が優男と戦の話をした回”だったんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽りました。
「名前も知らないのにねぇ」
幕舎の外から即座に声が飛びます。
「だから違うって言ってるでしょ!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「出たよォ!!」
「本人はまだ否定する!!」
「否定するわよ!!」
また外から返って来ます。
「偶然会っただけ!!」
「向こうも何も言わないし!!」
「アタシも何も聞いてないし!!」
顧大嫂殿が肩を揺らしました。
「そこが問題なんだろうねぇ」
「何がよ!!」
笑い声が広がります。
鍋の湯気が静かに揺れていました。
私は小さく息を吐きます。
確かに不思議な方でした。
孫二娘殿が首を傾げました。
「玉楼は知ってるのかい?」
「いいえ」
私は静かに答えます。
「名前も存じ上げません」
「出たァ!!」
孫二娘殿が机を叩きました。
「本人達が知らない!!」
「何なんだいそれは!!」
顧大嫂殿まで笑っています。
私は続けました。
「ですが」
少しだけ間を置きます。
「悪い方には見えませんでした」
幕舎の外が静かになります。
そして。
「玉楼が言うと信用出来るのよねぇ……」
小さな声が返って来ました。
孫二娘殿が吹き出します。
「出たよォ!!」
「謎の信頼!!」
「だって玉楼だもの!!」
「基準がおかしいねェ!!」
笑い声が広がりました。
鍋の音だけが続きます。
その時――
顧大嫂殿が酒を置きました。
「でもさ」
「何でしょう」
「三娘」
少し間が空きます。
「気付いてないだけじゃないかい?」
外が静かになります。
嫌な予感がしました。
案の定――
「何によ!!」
声が飛びました。
孫二娘殿が肩を揺らします。
「自分が気になってる事にさァ」
「違うわよ!!」
即答でした。
「名前も知らないし!!」
「所属も知らないし!!」
「何者かも分からないのよ!!」
顧大嫂殿が頷きます。
「だから気になるんじゃないかい」
沈黙。
それから。
「うるさい!!」
笑い声が爆発しました。
私は、その様子を静かに見ております。
ですが――
本編で印象に残ったのは、別の部分でした。
孫二娘殿も、顧大嫂殿も、自然と笑いを止めます。
私は静かに続けました。
「扈三娘様は」
「刑場から目を逸らされませんでした」
鍋の音だけが続きます。
「本当は見たくないと仰りながら」
「本当は嫌だと仰りながら」
「それでも見ておられた」
湿った風が幕舎を揺らしました。
「戦も」
「処刑も」
「ご自身の迷いも」
少し間を置きます。
「全てから目を逸らさない」
私は小さく目を伏せました。
「それは、簡単な事ではございません」
外から、小さく声が返って来ます。
「……別に」
照れ隠しみたいな声でした。
私は何も言いません。
孫二娘殿が小さく笑います。
「まあねェ」
顧大嫂殿も頷きました。
「だから三娘なんだろうさ」
鍋の湯気が夜へ溶けていきます。
答えはまだ出ていないのでしょう。
優男の正体も。
ご自身が何者なのかも。
これから先の事も。
ですが――
迷いながらでも歩みは止まっておりません。
それだけで十分なのだと思います。
夜は、何も答えません。
ただ静かなまま――
迷いも、過去も、答えの出ない問いも抱えたまま、前へ進もうとしている一人の女性だけを――
湿った風の中へ、静かに残している様でした。




