静の中の詔編
静かだ。
吐息と、布の擦れる音がある。
アタシは座っている。
玉楼が隣にいる。
孫二娘は戸口に立っている。
その中で、ひとつだけ違う。
女が眠っている。
まだ何も持っていない。
アタシも動かない。
玉楼も黙っている。
孫二娘も変わらない。
でも――
このままでは、いられない。
数刻が経った。
まだ女は目を覚まさない。
灯りは暗く、空気は動かない。
玉楼が傍にいる。
孫二娘は扉口にいる。
アタシは座る。
時間だけが過ぎる。
指が、わずかに動く。
玉楼の視線が落ちる。
「……起きそうですね」
女の喉が鳴り、浅い呼吸が揺れる。
目が、わずかに開く。
光を嫌い、閉じかける。
「水」
玉楼が差し出す。
唇が触れ、少しだけ飲む。
むせる。
息を整える。
視線が揺れる。
天井。
壁。
人。
止まる。
「……ここは」
アタシはやさしく答える。
「梁山泊よ」
間が空く。
女の目が揺れる。
恐れ。
理解はまだない。
玉楼が一歩だけ寄る。
「安心してください」
「危害は加えません」
それで空気が少し緩む。
孫二娘が鼻で笑う。
「運がいいねぇ」
女が目を閉じる。
息が落ち着き、起きている。
「……助けて、くれたの」
アタシは頷かず、否定もしない。
「話を聞くわ」
女の指が震える。
言葉を探す。
言葉が出ない。
喉が動き、また止まる。
玉楼が水を差し出す。
少しだけ飲む。
むせずに、息が整う。
「……どこまで」
声がかすれている。
アタシは座ったまま、女の顔色を見る。
「覚えてるところまででいいわ」
急かさない。
女の目が揺れ、思い出そうとする。
痛いのか、顔が歪む。
「……馬で」
途切れる。
「目を、隠されて」
孫二娘が鼻で笑う。
「雑だねぇ」
女は続ける。
「何日か……分からない」
指が震える。
「……売られるって」
息が浅くなる。
玉楼が一歩寄り、手を握る。
「大丈夫です」
それで落ち着く。
「……何人も」
「連れていかれて」
言葉が続かない。
アタシは無理強いはしない。
「もういいわ」
それ以上はいらない。
女の目が上がる。
「……助かるの」
答えは出さない。
「ここにいれば、大丈夫よ」
体の力が抜ける。
まだ、震えている。
「名前は?」
女が止まる。
小さく。
「……紅玉」
扉を静かに閉め、廊下に出る。
足を止めず、林冲の部屋へ向かう。
扉の前で止まり、一度だけ叩く。
「入れ」
中に入ると、林冲がいる。
「起きたわ」
林冲の視線が上がる。
「話せるか」
目を見る。
「少し」
林冲が頷く。
「分かった」
アタシは背を向ける。
扉を開け、中に入る。
空気は穏やかだ。
玉楼がいる。
孫二娘は扉口。
女――紅玉が横になり、目を開けている。
林冲が女の前で止まる。
視線を落とす。
「……話せるか」
紅玉の目が揺れ、アタシを見る。
おびえながら、か細い声を出す。
「少し」
林冲は目を見る。
「分かった」
間が空く。
「どこへ運ばれそうになった」
紅玉が息を整える。
「……分からない」
林冲の視線は変わらない。
「道は」
紅玉が目を閉じる。
「……分からない」
「水の音が、近くて」
玉楼がわずかに反応する。
拾っている。
孫二娘が鼻で笑う。
「雑な運びだねぇ」
林冲は黙って考えている。
アタシは邪魔をしない。
「もういい」
紅玉の肩が落ちる。
息が抜ける。
林冲が顔を上げる。
「休ませろ」
玉楼が頷く。
孫二娘は動かない。
アタシが一歩下がると、林冲が言う。
「……お前の部屋でいい」
「お前に預ける」
アタシは頷く。
玉楼が視線を上げる。
孫二娘が笑う。
「面倒見がいいねぇ」
林冲は何も言わず、そのまま背を向ける。
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
アタシは紅玉の呼吸を拾う。
玉楼が傍にいる。
紅玉が横になっている。
「決まったわね」
玉楼が頷く。
孫二娘が笑う。
「で?」
アタシは声を張る。
「ここに置くわ」
「アタシの下で育てる」
玉楼が一歩寄る。
紅玉の様子を見る。
「聞こえていますね」
紅玉の指がわずかにふるえている。
孫二娘が鼻で笑う。
「運がいいねぇ」
アタシは紅玉から目を離さない。
「無理はさせないわ」
紅玉の呼吸が少し整う。
玉楼が水を置く。
手の届く位置。
布をかける。
孫二娘が扉口に戻る。
アタシは座って、吐息を吐く。
時間が少しだけ進む。
紅玉は起きて、座っている。
それだけで息が上がる。
玉楼が前に立つ。
距離は近すぎない。
「立てますか」
紅玉が頷く。
足を下ろしても、力が入らず、崩れ落ちる。
玉楼が支える。
「もう一度」
紅玉が息を整え、もう一度、立ち上がる。
今度は立ち、揺れも止まる。
玉楼が一歩下がる。
手を出さない。
「歩いてください」
紅玉が一歩出す。
速くはない、でも止まらない。
もう一歩。
呼吸の乱れを気にせず進む。
三歩で止まる。
玉楼が頷く。
「十分です」
孫二娘が鼻で笑う。
「甘いねぇ」
玉楼は見ない。
「今はこれでいいのですよ」
アタシは口を挟まない。
ただ、紅玉から視線は外さない。
紅玉が壁に手をつく。
息を整える。
目は死んでいない。
数日が過ぎる。
紅玉は立っている。
もう、呼吸も乱れない。
玉楼が前に立ち、木刀を一本、差し出す。
紅玉は迷わず受け取る。
玉楼が近寄り、隣に入る。
「構えなくていいですよ」
「持っているだけで」
紅玉が頷く。
「やる」
力み過ぎて、肩が上がる。
玉楼が言う。
「肩の力を抜いてください」
紅玉が息を吐く。
肩が落ち、腕が下がる。
玉楼が頷く。
「次です」
紅玉が動く。
一歩で止まる。
軸はずれない。
木刀も落ちない。
視線は前。
玉楼が見る。
孫二娘が壁にもたれる。
「形になってきたねぇ」
アタシは座ったまま、口は出さない。
紅玉の手は、もう震えていない。
間が少しだけ空く。
紅玉は木刀を持ったまま、立っている。
玉楼が見る。
「振ってください」
紅玉が息を入れる。
構える。
振る。
速い。
だが――
止まるが、軸がずれ、体が流れる。
足が遅れ、木刀がぶれる。
玉楼が指導し、すぐに離れる。
「もう一度」
紅玉が息を整える。
構える。振る。
今度は、遅い。
だが――
止まっても、軸がずれない。
玉楼が頷く。
「速さはいりません」
「姿勢が崩れないことが一番です」
紅玉が頷く。
額に汗が浮かぶ。
手は震えない。
孫二娘が鼻で笑う。
「やっとそれっぽくなってきたねぇ」
アタシは座ったまま、紅玉から目を離さない。
紅玉がもう一度、構える。
振る。遅い。
だが、止まる。
軸はぶれなくなっている。
玉楼が言う。
「続けてください」
紅玉が頷く。
振る。止まる。
そのまま戻す。
遅い。
だが崩れない。
もう一度。
振る。止まる。
戻す。
肩が上がる。
腕が固まる。
玉楼が言う。
「肩の力を抜いてください」
紅玉が息を吐き、肩が落ちる。
もう一度。
振る。
止まる。
戻す。
足が少しだけ遅れる。
玉楼が一歩寄る。
「足は同時に」
紅玉が頷く。
もう一度。
足。振る。止まる。
戻す。
軸はずれない。
玉楼が頷く。
「続けて」
紅玉が動く。
振る。戻す。
振る。戻す。
息が上がっても、止めない。
孫二娘が壁にもたれる。
「地味だねぇ」
アタシは口を出さず、紅玉を見る。
紅玉の動きが揃ってくる。
振る。戻す。
かなり良くなってきた。
振る。戻す。
それが続く。
音だけが残る。
外の音が変わり、足が止まる。
孫二娘が顔を上げる。
「……騒がしくなってきたねぇ」
玉楼も止まる。
視線が外へ向く。
紅玉も動きを止める。
いつもの空気じゃない事はわかる。
アタシは座ったまま、小さく呟く。
「……使者ね」
部屋の外の音が増える。
人が動きが、激しくなる。
朝廷からの使者が来た。
忠義堂へ頭領達が集まる。
動きが早く、声は少ない。
席が埋まり、宋江が前にいる。
だが、いつもと空気が違う。
扉が開き、使者が入る。
衣が違う。
歩き方も違う。
止まって、頭を下げる。
場が静まり返る。
「朝廷よりの使いにございます」
誰も動かない。
宋江が出迎える。
「ようこそおいで下さいました」
視線が集まる。
使者が顔を上げる。
「詔をお持ちいたしました」
場の空気が張る。
息が止まる。
それでも誰も動かない。
宋江は動かない。
「……開けよ」
静けさは、残っている。
紅玉は立つ。
足は止まらない。
手も、震えない。
玉楼が見守り、孫二娘は笑っている。
アタシは、そばにいる。
紅玉は、前へ一歩、踏み出す。




