王妃?
「三娘ォ、皇帝を前にして何て名乗るつもりだい?」
「普通に扈三娘?」
「王妃でございます」
「紅玉、そこ強調しないで!」
「事実でございますので」
孫二娘が肩を震わせた。
「三娘ォ、自分が王妃なの忘れてない?」
「忘れてない! ちょっと実感が薄いだけ!」
「それを忘れてるって言うんだよォ」
紅玉まで頷く。
「三娘様は、昔からあまりお変わりになりませんね」
「それ褒めてる?」
「さて」
「さて!?」
孫二娘が笑った。
「皇帝相手でも通常運転かァ」
「大丈夫よ。玉楼がいるから」
「最初から丸投げ!」
「三娘様」
「ほら、もう来た!」
……というわけで。
皇帝への挨拶、たぶん玉楼が何とかしてくれるかも……
「あの方が、陛下です」
紅玉が示した先で、宋兵に囲まれた男がこちらを見ていた。
これが、高宗……
さっき遠目に見た時も思ったけど、やっぱり後光は出ていない。
衣は潮と埃で汚れ、顔にも疲れが残っているし、皇帝と言われなければ、戦場から逃げ続けてきた武将だと言われても信じたかもしれない。
でも、周りの兵は違った。
立っているだけでも辛そうなのに、誰もあの人から離れない。
傷を負った者まで、男を中心にして何とか陣を保とうとしている。
……なるほど。
光ってはいないけど、中心ではあるらしい。
「三娘様」
玉楼に呼ばれて、我に返った。
「何?」
「今度は声に出しておられませんでしょうね?」
「出してない!」
「でしたら結構でございます」
何で確認するのよ?
韓世忠が先に進み、皇帝の前で膝をついた。
「陛下、お迎えに上がりました」
「韓世忠か……」
高宗の声には疲れがにじんでいたけど、韓世忠を見た瞬間、張りつめていた表情が少しだけ緩んだ。
その視線が紅玉へ移り、さらにアタシと玉楼のところで止まる。
「そちらの者たちは?」
来た――
皇帝への自己紹介。
どうすればいいの、これ?
梁山泊にいた頃なら宋の天子なんて雲の上どころか、その雲を突き抜けた先にいる相手だった。
でも今のアタシは、一応、別の国の王妃である。
臣下みたいに跪くの?
王妃として挨拶するの?
そもそも戦場でそんなことしてる場合?
助けて玉楼……
横を見ると、玉楼が一歩前へ出た。
さすが。
「扈三娘様にございます。南方の王、李俊陛下の王妃であらせられます」
高宗が目を見開いた。
「王妃?」
そこ!?
「はい、アタシが王妃です」
言ってから、ものすごく雑な名乗りだった気がした。
玉楼がほんの少し目を閉じる。
やっぱり駄目だった?
「三娘様……せめて、もう少し……」
「今、作法講座やる!?」
「それもそうでございますね」
……諦められてしまった。
高宗は一瞬呆気に取られたものの、怒るどころか、小さく息を吐いた。
「王妃自ら、ここまで来たのか?」
「ええ、うちの王が船で待ってます」
「三娘様」
「何!?」
「『うちの王』は、いかがなものかと」
「李俊陛下が待ってます!」
言い直したから許して……
紅玉が俯いて肩を震わせている。
「紅玉、笑ってない?」
「笑っておりません」
「絶対笑ってる!」
韓世忠が咳払いした。
本日二回目。
「陛下、敵が退いている間に海へ移ります。話は船に乗ってから」
その言葉で高宗の表情が戻った。
「分かった。だが、負傷者を先に出せ。ここまで私を守った者たちだ」
少し意外だった。
アタシは高宗を、もう一度見る。
皇帝だから最初に逃げると言われても、それが仕事だと思う。
でもこの人は、周りの兵を見ていた。
「陛下、それは――」
韓世忠が何か言いかけたところで、浜の方から金属のぶつかる音が響いた。
玉楼が振り返る。
「三娘様」
声が変わった。
アタシもすぐに日月双刀へ手をかける。
崩れた柵の向こうから、退いたはずの金兵が姿を現した。
多くはない。
でも、海へ向かうこちらの動きに気づいて戻ってきたらしい。
「陛下、負傷者を先にって話、ちょっとだけ保留で!」
「三娘様!」
「だって敵が来たじゃない!」
玉楼の方天画戟がこちらより早く前へ出た。
「紅玉殿、陛下をお願いいたします。韓世忠殿は左を」
「承知いたしました!」
「分かった!」
紅玉が高宗の横へ入り、韓世忠が残っていた宋兵をまとめ直す。
アタシが正面に立ち、その少し後ろへ玉楼が入る。
いつもの位置だ。
金兵が槍を揃えて突っ込んでくるけど、玉楼は真正面から受けなかった。
方天画戟を横へ滑らせ、先頭の槍をまとめて外へ押し、開いたところへアタシが飛び込む。
一人目の腕を双刀で弾き、二人目の足を止める。
三人目が横から回ろうとした瞬間には、もう玉楼の戟がそこにあった。
「そちらへは参らせません」
逃げ道じゃない。
敵が抜けたい場所を、玉楼が先に塞いでいる。
だったら、アタシは前だけ見ればいい。
「行くわよ!」
「どうぞ」
許可が軽い!
でも、その一言で十分だった。
地面を蹴って敵の懐へ入り、振り下ろされた刀を左で受け流す。
右の双刀を返したところで相手が下がり、そこへ韓世忠の兵が押し込んだ。
後ろでは紅玉が高宗の側を離れず、近づいた敵だけを槍で弾いている。
もう、アタシの後ろを追ってくる必要はないらしい。
「三娘様、右!」
紅玉の声が飛んだ。
振り向かずに身体を沈めると、頭の上を槍が抜けた。
次の瞬間、その槍を玉楼の方天画戟が巻き取り、持ち主ごと横へ崩す。
「助かった!」
「紅玉殿にお礼を」
「そっち!?」
「わたくしは当然のことをしたまででございます」
「はいはい!」
この二人、いつの間にこんなに息が合うようになったのよ?
敵の勢いが止まり始めたところで、浜から声が上がった。
「三娘ー!」
費保だ。
振り返ると、童威の舟が再び浅瀬へ入ってくるところだった。
費保と倪雲が浜で手を振り、少し離れた場所では狄成と上青も宋兵をまとめている。
沖では童猛の舟がもう一往復を終え、孫二娘のいる船へ負傷兵を運び込んでいた。
「道は空いてます!」
「今行く!」
玉楼が敵の残りを見て、すぐに判断する。
「三娘様、追う必要はございません」
「分かってる!」
今日は言われる前に分かってた。
……ちょっとだけ誇らしい。
「本当でございますね?」
「何で疑うの!?」
玉楼が答える前に、高宗が笑った。
ほんの少しだけ。
皇帝に笑われた。
「今の、笑うところでした!?」
「三娘様、陛下に問い詰めないでくださいませ!」
また怒られた。
韓世忠が残った兵へ退却を命じ、紅玉が高宗を促す。
「陛下、参りましょう」
「ああ」
今度こそ海へ向かう。
途中で負傷兵が倒れかけると、高宗が足を止めた。
それに気づいた韓世忠がその兵に肩を貸し、近くの兵と一緒に浜へ向かわせる。
アタシが前を開き、玉楼が横から崩れを防ぐ。
その後ろでは紅玉と韓世忠が高宗を守り、ついてくる宋兵を費保たちが拾って浜へ通していた。
そこから先は童威と童猛が舟で運び、孫二娘が船上で受け止め、その全体を沖の李俊が見ている。
これなら、帰れる。
浅瀬へ着くと、童威が舟を押さえていた。
「陛下を先に!」
高宗が一度、後ろを振り返った。
「負傷者は?」
「もう運んでおります!」
費保が答える。
沖からは孫二娘の声まで飛んできた。
「まだ乗れるよォ! 次も寄越しなァ!」
聞こえてる。
あの人、本当に声が通るわね。
高宗もそちらを見た。
「今のは?」
「鎮西将軍です」
「……女か?」
「はい」
高宗が孫二娘のいる船を見て、それからアタシと玉楼、紅玉を順に見た。
「……そなたたちの国では、これが普通なのか?」
「何がです?」
玉楼が小さく息をつく。
「三娘様、おそらく全部でございます」
……確かに、今日だけで価値観をだいぶ揺さぶってる気はする。
高宗が舟へ乗り、韓世忠と紅玉も続く。
アタシと玉楼が最後に乗り込むと、童威がすぐに舟を岸から離した。
舟が浅瀬を離れていく間も、浜にはまだ費保たちが残っていた。
次の舟で戻るつもりだ。
「三娘様」
玉楼が沖を見た。
李俊の船が近づいてくる。
その甲板に、李俊が立っていた。
高宗も気づいたらしい。
「……あれが、李俊か?」
韓世忠が頷く。
「南方の王にございます」
国のトップ同士が、海の上で向かい合う。
ここまで来れば、もう大丈夫――そう思いかけた時だった。
見張りの声が、李俊の船から海上へ響いた。
「敵船、反転!」
童威が振り返る。
沖へ退いていたはずの金軍の船が、こちらへ船首を向け始めていた。
「三娘様」
玉楼が方天画戟を握り直す。
アタシも双刀へ手をかけた。
高宗を拾った。
でも――まだ帰れてない。
陛下を舟へお乗せできました。
これで一安心――とは、まいりません。
「玉楼ォ、三娘ォがもう双刀持ってるよォ」
「見えております」
「三娘様、先ほど追わないと仰っておられましたが……」
「紅玉殿、三娘様の『分かってる』を全面的に信用してはなりません」
「玉楼、聞こえてるんだけど!?」
「聞こえるように申しております」
孫二娘殿が吹き出し、紅玉殿まで口元を押さえております。
「玉楼様、ご苦労なさっているのですね」
「紅玉殿まで……」
ですが、笑ってばかりもいられません。
退いたはずの敵船が、再びこちらを向きました。
「三娘様」
「分かってる!」
……今度こそ、本当に分かっておられますよね?




