任せた
紅玉の声が聞こえた。
何年ぶりでも、聞き間違えるはずがない。
「三娘ォ、いたねェ」
「いた!」
「飛ぶ?」
「飛ぶ!」
「玉楼ォ、止めなァ!」
「何で!?」
孫二娘が呆れた顔をする。
「まだ船、離れてるよォ」
「届くって!」
「三娘の『届く』は信用できないねェ」
玉楼と同じこと言わないで!
でも、やっと会えた。
聞きたいことだって山ほどある。
無事だったのかとか、今までどうしてたのかとか――
「三娘ォ」
「何?」
「最初に何聞くつもり?」
「結婚したの!?」
孫二娘が黙った。
「……そこから?」
だって今日初めて聞いたのよ!
「三娘様! 玉楼様!」
聞き間違えるはずがなかった。
「紅玉!」
声が勝手に出た。
向こうの船では、女の人影が大きくこちらへ身を乗り出している。
何年も会っていなかったのに、顔がはっきり見える前から分かった。
声を聞いた瞬間、身体の方が先にあの子を思い出していた。
「三娘様、まだでございます!」
船縁へ足をかけたところで、玉楼に袖を掴まれた。
「もう届くでしょ!」
「届きません!」
「いけるって!」
「三娘様の『いける』は信用なりません!」
ひどい……
後ろから孫二娘の声まで飛んでくる。
「玉楼ォ、そのまま持っときなァ!」
「孫二娘!」
何年ぶりかの再会だと思ってるのよ。
その間にも、紅玉のいる船へ金兵が上がっていた。
紅玉が振り返り、槍を横へ払って一人を押し戻す。
その動きを見た瞬間、誰に教わったのかまで分かった。
アタシじゃない。
玉楼だ。
相手の勢いを正面から受けず、先をずらして空いた場所へ入る。
昔、玉楼が何度も紅玉へ教えていた動きが、もう完全に身体へ入っていた。
「玉楼」
「はい」
「ちゃんと育ってる」
袖を掴んでいた玉楼の指が、ほんの少し緩んだ。
「ええ」
それだけだったけど、嬉しそうなのは分かった。
敵船との距離が縮まり、鉤がかかって縄が張る。
今度は玉楼も止めなかった。
「行くわよ!」
「参ります!」
二人で船縁を越えた。
紅玉のいる船までは、まだ直接届かない。
その手前にいた金軍の船へ着地し、アタシが前を塞いでいた兵の間へ入ると、後ろから玉楼の方天画戟が伸びた。
一人を退かせれば二人目の前が空き、アタシがそこへ入る間に玉楼は別の槍を外へ弾く。
そのまま二人で甲板を横切り、反対側の船縁まで走った。
「三娘様、今度こそ届きます!」
「最初からそう言って!」
「最初は届いておりません!」
細かい!
次の船へ飛ぶ。
足が甲板についた瞬間、すぐ横から槍が振られた。
避けようと身体を沈めかけたところで、その槍先が途中から跳ね上がる。
紅玉だった。
「三娘様!」
「紅玉!」
ようやく、ちゃんと顔が見えた。
梁山泊で玉楼の後ろについて歩いていた頃とは、もう顔つきから違う。
昔よりずっと大人びているし、金兵に囲まれているのに目にも怯えがなかった。
それを見た途端、聞きたいことが一気に出てきた。
「結婚したの!?」
最初に出たの、それだった。
紅玉が目を丸くする。
「今でございますか!?」
「だって今日初めて聞いたのよ!」
「三娘様!」
玉楼に怒られた。
その横から、男が一人、金兵を押し返しながらこちらへ来る。
「紅玉、この二人は?」
紅玉が槍を構え直した。
「三娘様と玉楼様です!」
男が一瞬、目を見張った。
「あなた方が」
「え、何?」
「話は聞いている」
それだけ言うと、男はまた敵へ向いた。
たぶん韓世忠。
いや、絶対そうでしょ。
今、自己紹介する空気じゃないのは分かるけど、夫婦そろって情報の渡し方が雑じゃない?
「韓世忠で合ってる!?」
「そうだ!」
合っててよかった……
知らない男を勝手に紅玉の夫認定するところだった。
「三娘様、右でございます!」
玉楼の声で頭を切り替える。
船尾側から金兵が三人入ってきていた。
アタシが一人目の懐へ入り、紅玉がその横を抜けようとした二人目の槍を止める。
三人目は玉楼の方天画戟に進路を塞がれ、踏み込む場所を失った。
「紅玉、そのまま!」
「はい!」
紅玉は出すぎず、アタシが開けたところへ入り、玉楼が塞いだところには近づかない。
二人の動きを見ながら、自分が必要な場所を選んでいる。
昔から、言われたことをただ真似するんじゃなく、一度見てから考える子だった。それを今は戦場でやっている。
「三娘様!」
紅玉の声と同時に身体を沈めた。
頭の上を槍が通り、その柄を紅玉が横から叩いた。
相手の腕が流れたところへアタシが入り、船縁側へ押し返した。
「やるじゃない!」
「玉楼様に教わりました!」
「そこはアタシじゃないの!?」
「三娘様からは、前へ出る時に迷わないことを!」
それ褒められてる?
玉楼が後ろから口を挟む。
「紅玉殿、それは少々危険なところまで学ばれております」
「玉楼!」
三人でそんなことを言いながら、まだ戦っている。
何、この再会?
もうちょっと感動的なものを想像していたんだけど、たぶんアタシたちには、こっちの方が合っている。
紅玉も何か言いたそうに口を開いたが、すぐ横から金兵の槍が伸びてきた。
玉楼が方天画戟で槍先を払い、空いたところへ紅玉が踏み込む。
「玉楼様、相変わらずでございますね!」
「紅玉殿こそ、ずいぶんお変わりになりました」
「褒めてる場合!?」
「三娘様が一番お変わりになっておりません」
「何でよ!」
紅玉が笑った。
その笑い方だけは、梁山泊にいた頃と変わっていない。
それを見たら、胸の奥にずっと引っかかっていたものが、ようやく少しだけほどけた。
妻になったことも、梁紅玉と呼ばれるようになったことも、聞きたい話はいくらでもある。
でも、生きて会えた。
今は、それで十分だった。
少し離れた海上から鐘が鳴り、韓世忠が振り返った。
「敵が船を回してくる!」
包囲の外側で乱れた金軍が、こちらの開けた道を閉じ直そうとしている。
李俊の船から旗が上がり、それを見た童威と童猛も位置を変えて、こちらが入ってきた隙間へ船首を向けた。
「戻る道を守る気だねェ!」
少し後ろの船から、孫二娘の声が飛んでくる。
宋側の船でも人が動き始めていた。助かったと思って一斉にこちらへ寄れば、今度は自分たちで道を塞いでしまう。
孫二娘は、もうそこを見ていた。
「一度に動くんじゃないよォ! 怪我人のいる船から順に出しなァ! 前が詰まったら全員止まるよォ!」
宋兵の一人が戸惑った顔をする。
「誰だ、あの女は!」
「鎮西将軍だよォ!」
孫二娘が自分で答えた。
「今、そこ気にするところかい!」
そりゃそうだ。
笑いそうになったところへ、また金軍の船が近づいてきた。
「紅玉!」
「はい!」
アタシが右へ走っても、紅玉はついてこなかった。
代わりに、アタシが離れたことで薄くなった場所へ入る。
玉楼はさらに後ろで方天画戟を横へ向け、別の船から乗り移ろうとする兵を止めていた。
アタシが前を破り、玉楼が敵を広がらせず、その間を紅玉が埋めていく。
三人とも同じ場所に固まっていないのに、不思議なくらい動きが噛み合った。
「三娘様、左から参ります!」
紅玉が知らせる。
「任せた!」
「はい!」
昔なら、あの子にそんなことは言えなかった。アタシが守らなきゃいけない子だと思っていたから。
でも今は、任せても大丈夫だと分かる。
それがちょっと嬉しくて、同じくらい寂しかった。
「三娘様!」
「何!?」
「またお顔に出ております!」
紅玉まで!?
何年会ってなくても、そこは分かるの!?
「戦って!」
「戦っております!」
玉楼が笑っている。
絶対あとで覚えてなさいよ。
金軍の船が一艘、こちらへ横腹を寄せてきた。
そこへ童猛の船が斜めから入り、進路を押しやる。
さらに外側では童威が別の船を牽制し、せっかく開いた道を閉じさせない。
金軍は数では圧倒的に多いけど、全部が同じ場所へ入れるわけじゃない。
船同士が互いの進路を邪魔し、そこへこっちが割って入るほど、最初は綺麗だった包囲が少しずつ形を失っていった。
「旗が動く!」
韓世忠が叫んだ。
見ると、沖合の船にあった大きな旗が移動している。
「阿黒麻か?」
「奴の本船だ!」
金軍の船が、その旗を守るように向きを変え始めた。
逃げる?
そう思った瞬間、別の場所からも鐘が鳴り、一艘が沖へ向いた。
続く船も同じ方向へ船首を変えていく。
包囲を閉じ直す動きじゃない。
退いてる。
「追う?」
口にした途端、李俊の船から旗が振られた。
追撃するな――
見なくても意味が分かった。
「……分かってるわよ」
自分で言って、ちょっとだけ笑う。
前なら絶対追ってた。
横で紅玉が不思議そうにこっちを見る。
「三娘様?」
「何でもない。今、アタシちょっと偉かったから」
「ご自分でおっしゃるのでございますか?」
「紅玉まで玉楼みたいになってる!」
「わたくしはそのような言い方はいたしません」
「似たようなものよ!」
その間にも、阿黒麻の旗は沖へ下がっていく。
金軍の船列は完全に崩れ、こちらへ取りついていた兵まで引き始めた。
勝った。
いや、違う。
今回の目的は金軍を追い払うことじゃない。
高宗を外へ出すまで、まだ終われない。
「紅玉、陛下は?」
聞いた瞬間、紅玉の顔から笑みが消えた。
その視線を追って岸を見ると、そこではまだ宋兵たちが慌ただしく動いている。
「三娘様」
「何?」
紅玉が槍を握り直した。
「陛下は、まだ岸におられます!」
紅玉殿とは、無事に再会できました。
これで一安心――とは、参りません。
「玉楼ォ、陛下はまだ岸だってさァ」
「聞こえておりました」
「三娘ォの顔、見た?」
見なくても想像できます。
「お迎えに行くお顔でしょう」
「もうちょっと一大事っぽく言えない?」
「では、陛下をお救い申し上げるお顔でございます」
「同じだねェ」
何が違うのでしょう?
孫二娘殿が岸の方を見ながら、少し笑いました。
「紅玉を見つけたと思ったら、次は皇帝かァ」
「順番が逆のような気もいたしますが」
「三娘ォだからねェ」
それで納得してはいけない気がいたします。
そして案の定、三娘様がこちらを振り返りました。
「玉楼! 岸へ行くわよ!」
……やはり。
今度は、皇帝陛下を拾いに参ります。




