敵はもう浜にいる
三百人全員、今日からアタシの兵になった。
「三娘ォ、急に大所帯だねェ?」
「昨日までアタシを追い回してた三百人よ。まだ実感ないんだけど」
「今日は三娘の後ろからついてくるんだろォ?」
「その予定!」
孫二娘が妙に考え込んだ。
「……三娘が先に行きすぎなければねェ」
「そこは昨日から成長したって!」
沖には共濤の旧旗を掲げた船がいる。
李俊は追うなと言った。
罠かもしれないらしい。
「じゃあ今日は突っ込まないのかい?」
「もちろんよ!」
「へえェ」
「何よ、その顔!」
孫二娘が海を見た。
「いやァ……敵も三娘が追ってくると思ってるんじゃないかと思ってねェ」
……それ、ものすごく嫌な予感がするんだけど。
「共濤は死んだ」
誰も口を挟まなかった。
「だが、奴の戦はまだ終わっていない」
その日の昼前には、アタシたちは港にいた。
昨日まで三百人の近衛候補だった女たちも、十人ずつの組を崩さないまま岸壁に並んでいる。
見慣れた顔ばかりなのに、今日は妙に違って見えた。
理由は分かっている。
もう候補じゃない。
今から全員、アタシの兵だ。
「……やっぱり三百人って多いわね」
横で玉楼が名簿を確認しながら答える。
「昨日も三百名おりました」
「追いかけられる側と率いる側じゃ見え方が違うのよ!」
「昨日も率いる予定の方々でございましたが」
「まだ心の準備が!」
「戦は待ってくださいません」
朝から正論しか返ってこない。
昨日は敵役としてアタシと本気で打ち合っていたくせに、今日はもう当たり前みたいに隣で三百人を動かしている。
やっぱり玉楼は敵より味方の方がいい。
絶対に……
少し離れたところでは沈蘭教頭が組ごとの人数を確かめていた。
周蓮も自分の組へ戻り、周囲と話している。
李俊は童威、童猛と並んで海を見ていた。
沖に三隻。
遠くて人の顔までは見えないけれど、旗なら分かる。
一つは青霓島。
そしてもう一つが、共濤の旧旗だ。
死んだ人間の旗が海風の中で揺れているのは、気分のいいものじゃない。
「三娘ォ」
声に振り向くと、孫二娘が輿から降ろしてもらっているところだった。
「本当に来るの?」
「まだ言うのかい?」
「だって昨日よりは元気そうだけど、無理したら駄目でしょ」
「分かってるよォ。船の上で三娘と競走する気はないから安心しなァ」
「船の上で競走したことないわよ!」
「今後もしないでおくれよォ?」
何で先に釘を刺されるの。
孫二娘は船まで輿を持ち込まず、玉楼が用意させた腰掛けを使うことになった。
揺れる船上で無理に立ち続ける必要はないし、後方を見るならその方が都合もいいらしい。
李俊が振り返った。
「船を出す」
「やっと?」
「まだ戦うとは言っていない」
「分かってるって」
言いながら日月双刀を確かめると、孫二娘がこっちを見た。
「三娘ォ?」
「何?」
「今、何を確認したんだい?」
「刀」
「戦う気満々じゃないかい」
「戦わないことと、準備しないことは別でしょ!」
これは正論だと思う。
玉楼も方天画戟を持っているんだから。
「玉楼も持ってるじゃない!」
「私は三娘様について参りますので」
「ほら!」
「それ、三娘が危ない前提じゃないかねェ?」
……何でそっちに行くのよ。
三百人は玉楼の指示で分かれ、複数の船へ乗り込んでいった。
全員が船上戦に慣れているわけじゃない。
足元を気にしている者もいれば、船縁から海を見て慌てて目を戻す者もいる。
それでも昨日までの訓練が無駄だったわけじゃなかった。
怖くても自分の立つ場所を確かめ、前が詰まれば無理に押さずに待つ。
誰かが遅れれば、隣にいる者が自然に声を掛けていた。
「三娘様」
玉楼に呼ばれて、アタシも船へ乗った。
板が足の下で揺れる。
懐かしい、と言うほど前じゃない。
共濤と戦った時にも、アタシと玉楼はこうして船の上に立っていた。
あの時は王になるとか王妃になるとか、そんな先のことまで考えている暇なんてなかった。
敵の船へ乗り移って、斬って、押して、上陸したらそのまま戦う。
やっていることだけなら、今回もそう変わらない。
変わったのは、後ろに三百人いることだ。
「玉楼」
「はい」
「昨日は敵だったのに、今日はもう隣なのね」
「その方がよろしいのではございませんか?」
「ものすごく」
即答した。
玉楼が少しだけ笑う。
方天画戟は船上で扱いやすいよう、最初から握る位置を変えている。
長いまま振り回せない場所なら短く使えばいい。
昨日アタシの脇腹を狙ったやり方だ。
思い出すとまだちょっと腹立つ。
「三娘様?」
「何でもない!」
船が岸を離れた。
童威と童猛の声が飛び、船団の形が整っていく。
ここから先は李俊たちの領分だ。
アタシと玉楼は船でも戦えるし、敵船へ乗り移るのも、島へ上がってそのまま地上戦へ入るのも経験がある。
でも、潮を読んで船団そのものを動かすのは別だ。
李俊が前方の三隻を見たまま言った。
「近づかないな」
童威が頷く。
「攻めるつもりなら、もう少し風上を取ろうとします」
「潮にも乗っていません。あそこで止まる意味がない」
童猛も同じらしい。
アタシには、敵が三隻浮かんでいるようにしか見えない。
「じゃあ何してるの?」
李俊が答えた。
「見せに来た」
「何を?」
「旗をだ」
また共濤の旧旗を見る。
なるほど、攻めるためじゃない。
こっちに見せるために、わざわざ持ってきた。
「俺たちはまだいる、ってこと?」
「そうだ」
「趣味悪いわね」
「効いているだろう」
それも否定できない。
港にいる兵だって、あの旗を知っている。
共濤に苦しめられた人間なら、もっと嫌なものを思い出すはずだ。
アタシは日月双刀の柄から手を離した。
「じゃあ追う?」
「追わない」
今度は即答された。
「何で?」
「追わせたいから出ている」
李俊が三隻の向こうへ目を向ける。
「青霓島へまっすぐ戻るなら、もっと沖へ出る。あの位置なら、俺たちが近づけば逃げるだろう」
「追ったら?」
「向こうの海へ入る」
分かった。
どこに浅瀬があるか、どこに暗礁があるか、こっちは知らない。
向こうは知っている。
「罠?」
「その可能性がある」
「じゃあ行かない」
言うと、今度は李俊がこっちを見た。
「何よ?」
「珍しい」
「昨日から成長してるの!」
後ろで孫二娘が笑った。
「三娘ォ、罠って聞いて止まれるようになったじゃないかい」
「前から止まれるわよ!」
「何回止まった?」
「数えないで!」
玉楼だけは真面目に海を見ていた。
「ですが、このまま戻るとも思えません」
「そうね」
わざわざ旗を見せに来たんだから、相手にも次がある。
しばらく船団は距離を保った。
向こうも動かない。
妙な睨み合いになった。
刀を抜くわけでもないのに、戦っている時より落ち着かない。
その間にも、玉楼は三百人の様子を見ていた。
船ごとに組を分けてあるので全部を直接見ることはできないけれど、合図を使えば異常の有無は分かる。
孫二娘はもっと近いところを見ていた。
「玉楼ォ」
「はい」
「あっちの娘、顔色悪いよォ」
指された先を見る。
船縁の近くで、一人の女が口を押さえていた。
「船酔い?」
「たぶんねェ。立たせたままだと、戦う前に海へ全部返しちまうよォ」
「言い方!」
玉楼はすぐ別の兵へ指示を出し、具合の悪い女を中央へ移させた。
「昨日まで分からなかったことも出るねェ」
孫二娘はそう言いながら、他の船へも目を向ける。
「訓練場は揺れないからねェ」
確かに。
三百人全員合格になったからって、三百人全員が同じことをできるわけじゃない。
海に強い人もいれば弱い人もいる。
昨日まで見えなかった適性が、今日になればまた出てくる。
「玉楼、大変ね」
「三娘様の兵でございますので」
「アタシも手伝うわよ!」
「では、先に走らないでくださいませ」
「まだ走ってない!」
こんな狭いところでどこへ走れっていうのよ。
そう言い返しかけた時だった。
「三娘ォ」
孫二娘の声が変わった。
さっきまでの軽さがない。
「何?」
「あれ、漁の舟じゃないかい?」
指差す先を見る。
敵船とは違う方向。
岸に近い海を、小さな舟が何艘も走っている。
最初は漁を終えて戻っているだけに見えた。
でも違う。
全部、同じ方向へ逃げている。
北へ。
「……何で?」
李俊も気づいた。
童威がすぐ岸を見る。
「南の浜から離れております」
「敵は沖じゃない?」
アタシが言うと、李俊が三隻から目を離した。
その瞬間、遠くの海岸に煙が上がった。
一本。
続けて、もう一本。
童猛の顔が変わる。
「狼煙です!」
「どこから?」
「南の見張り所!」
向こうの三隻が、ようやく動き始めた。
こちらへ来るんじゃない。
沖へ逃げる。
「囮!」
口にした時には、李俊が命令を飛ばしていた。
「追うな! 全船、南へ向けろ!」
童威と童猛が同時に応じる。
船団が動き出した。
今度はアタシにも分かる。
海の上で旗を見せて、こっちの船を引きつける。
その間に別の場所へ兵を上げる。
「三娘」
李俊が呼んだ。
「何?」
「船は俺たちが浜へつける」
その先は聞かなくても分かった。
日月双刀へ手を掛ける。
横では玉楼が方天画戟を持ち直していた。
さっきまで三百人を見ていた顔じゃない。
戦う玉楼だ。
「降りた後は?」
聞くと、李俊が南の浜を見たまま答えた。
「お前と玉楼の仕事だ」
「それなら分かりやすい!」
「三娘様」
「何?」
「今度は三百名がおります」
分かってる。
もうアタシだけで突っ込むわけじゃない。
アタシが前へ出れば、玉楼が形にする。
その後ろでは孫二娘が人を見る。
「孫二娘!」
「いるよォ!」
「後ろお願い!」
「最初からそのつもりだよォ!」
船が大きく向きを変えた。
南の浜が少しずつ近づいてくる。
その時、岸から一艘の小舟が必死にこちらへ向かってきた。
乗っている兵が立ち上がり、腕を振っている。
「王陛下!」
声が海風に乗った。
「南の浜より急報!」
アタシたちは一斉にそちらを見た。
兵は息を切らしながら叫んだ。
「敵は、もう浜へ上がっています!」
三百名を率いる初日から、敵は待ってくださらないようでございます。
「玉楼ォ、候補から兵になった途端に上陸戦だよォ?」
「実戦とは、そのようなものでございましょう」
「三娘は嬉しそうだけどねェ」
否定できません。
日月双刀へ手を掛けた三娘様は、先ほどまで三百名に戸惑っていた方と同じには見えませんでした。
「玉楼も似たような顔してるよォ?」
「私は冷静でございます」
「方天画戟、もう持ち直してるじゃないかい」
……必要な準備でございます。
もっとも、今回は私たちだけではありません。
三百名と、後ろを見る孫二娘殿もおります。
「で、敵は?」
「すでに浜へ上がったそうでございます」
孫二娘殿がため息をつきました。
「卒業祝いどころか、いきなり実地試験だねェ」
……どうやら、そのようでございます。




