今からお前の兵だ
朝です。
アタシはまだ布団の中で、しかも服を着てません。
「三娘ォ、起きてるかい?」
「起きてるけど入ってこないで!」
「何でだい?」
「服着てないの!」
戸の向こうで、孫二娘が妙な間を置いた。
「……昨夜はお楽しみだったみたいだねェ?」
「その言い方やめて!」
昨日は玉楼と本気で戦って、夜は李俊と久しぶりに夫婦の時間を過ごした。
だから今朝くらい静かに寝かせてほしい。
「三娘ォ、今日はゆっくりできるといいねェ」
「そうね。さすがに今日は何も――」
廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。
……ねえ。
今、完全に余計なこと言ったよね?
「孫二娘には?」
李俊が黙った。
……嫌な予感しかしない。
その嫌な予感は、戸の向こうからすぐに声になって飛んできた。
「三娘ォ、起きてるかい?」
アタシは反射的に掛け布を胸元まで引き上げた。
隣では李俊が、昨夜のことなんて何もなかったみたいな顔で起き上がり、さっさと衣を手にしている。
「ちょっと! 来てるじゃない!」
「来たな」
「何でそんな他人事なのよ!」
戸の向こうでは、孫二娘とは別の声が立ちはだかっていた。
「孫二娘殿。三娘様はまだお休みでございます」
玉楼だ。
よし、そのまま通さないで。
「起こしてないよォ。起きてるか聞いただけさァ」
「お返事を求めれば、起こしているのと同じでございます」
「でも返事があったら起きてるって分かるだろォ?」
「その理屈で戸へ手を掛けないでくださいませ」
昨日まで三百人に王妃を守れと教えていたけれど、今だけは玉楼一人で十分だった。
「三娘ォ?」
「起きてるけど入ってこないで!」
「ほら、起きてるじゃないかい」
「アンタが起こしたの!」
戸の向こうから、いかにも楽しそうな笑い声が聞こえる。
「何で入っちゃ駄目なんだい?」
「服着てないの!」
一瞬だけ静かになった。
「……なるほどねェ」
「その納得の仕方やめて!」
横を見ると、李俊はもう帯まで締めている。
「アンタも何か言ってよ!」
「玉楼が止めている」
「そういう問題じゃない!」
「なら着ろ」
正論が腹立つ。
掛け布を身体へ巻きつけたまま衣へ手を伸ばしたところで、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
さっきまで孫二娘と押し問答をしていた玉楼の声が、すぐに変わる。
「何事でございます」
「急報にございます! 海より戻った使者が、王陛下へ至急お伝えしたいことがあると!」
李俊の手が止まった。
「ここで聞く」
戸の外で息を整える音がした。
「青霓島が王命への服従を拒みました。使者の舟は追い返され、二名が負傷しております!」
眠気が消えた。
「負傷者は?」
「命に別状はございません。ただ、青霓島だけではなく、周辺の島にも呼びかけている様子にございます」
「……服!」
「そこにある」
「分かってる!」
こういう時くらい国難の方が着替えを待ってくれてもいいと思う。
もちろん待ってくれない。
急いで衣を着ようとして帯がねじれ、李俊に無言で直された。
「昨日の夜との落差が酷くない?」
「急げ」
「分かってるわよ!」
ようやく戸を開けると、孫二娘はもう笑っていなかった。
輿の上から使者を見ている目は、さっきまでアタシをからかっていた女と同じとは思えない。
玉楼は受け取った書状へ目を通し、そのままアタシへ差し出した。
「三娘様」
「見る」
青霓島。
鉄羅漢。
その名前には覚えがあった。
共濤を倒したあと、王太后殿下や旧臣たちから各地の有力者について聞いた時にも出ている。
先王の頃から中央の命令に素直に従うような男ではなく、共濤が力を持ってからは、そちらとの結びつきを強めていたらしい。
書状には、もっと面倒なことまで書いてあった。
「李俊は外から来た者で、共濤を討ったことと王になることは別……か」
声に出すと、腹が立つ。
でも、単なる屁理屈とも言い切れない。
アタシたちは確かに外から来た。
共濤を倒し、王太后殿下に迎えられ、旧臣たちの支持を受け、この国に昔からある制度も祭祀もそのまま継いだ。
だからといって、離れた島まで一夜で全部納得するわけじゃない。
孫二娘が輿の上で頬杖をついた。
「厄介だねェ。共濤が嫌いだった奴まで、李俊が王になるのは別だって言い出せる」
「鉄羅漢は共濤と通じてたんでしょ?」
「本人がそうでも、島の人間全員がそうとは限らないよォ」
言われて口を閉じた。
そこなんだ……
鉄羅漢を倒せば終わり、なら簡単だ。
でも島には、兵じゃない人間もいる。
共濤に従っていた者もいれば、従わされていた者もいるはずだ。
李俊はもう地図を広げていた。
「童威を呼べ。海路を知りたい。童猛には使える船の数を確認させろ」
「アタシも行く」
「まだ行くとは言っていない」
「でも行くでしょ?」
「状況を見てからだ」
「鉄羅漢って名前からして話し合いだけで終わる気がしないんだけど?」
「名前で決めるな」
孫二娘が吹き出した。
「三娘ォ、昨日まで近衛に任せる訓練してた人が、急報一つで先頭へ戻ってるよォ」
「まだ行ってない!」
「今、行くって言ったじゃないかい?」
「行く時は玉楼も一緒だし!」
「私を理由になさらないでくださいませ」
横から逃げ道まで塞がれた。
この二人、こういう時だけ息が合いすぎる。
そこで李俊が地図から目を上げた。
「三百人は?」
「本日、昨日までの訓練結果をもとに今後の扱いを決める予定でございました」
玉楼が答える。
「決める必要はない」
「え?」
アタシだけじゃなく、玉楼も李俊を見る。
「戦時に入る。三百人、全員使う」
一瞬、意味が分からなかった。
「全員?」
「ああ」
「昨日まで候補だったのよ?」
「今日からお前の兵だ」
さらっと言った。
ちょっと待って。
「三百人、全員合格!?」
「戦になれば、選んでいる暇はない。三百人すべて、お前の麾下へ入れる」
いきなり話の規模がおかしくなった。
昨日まで、アタシ一人を三百人が追いかけ回していた。
今日から、その三百人全員がアタシの麾下。
「……急に大将感が増したんだけど」
「もともと大将でございます」
玉楼が平然と言う。
「そういう問題じゃない!」
「三娘ォ、三百人なら昨日より追いかけてもらいやすいねェ」
「何で追われる前提なのよ!」
「三娘様が先に行かれますので」
玉楼まで真顔で言う。
昨日の訓練、完全に実地の前準備になってるじゃない。
李俊が続けた。
「ただし、全員をお前の周りへ置くな」
「それは分かってる」
昨日までに嫌というほど分かった。
三百人全員がアタシを囲んだら、守るどころかアタシが動けなくなる。
玉楼もすぐ名簿を開いた。
「十名ずつの組は維持いたします。三娘様の直衛に回す者、進路を確保する者、負傷者を運ぶ者、伝令を担う者は状況に応じて変えましょう。沈蘭教頭にも同行いただき、行軍中も教練を続けます」
「戦いながら訓練するの?」
「訓練を終えてから戦が始まるとは限りません」
正しい。
正しいけど怖い。
「昨日、怖くて前へ出られなかった娘もいるよォ」
孫二娘が口を挟んだ。
「でも、後ろを見て人を下がらせることはできた。全員を同じように使ったら、せっかく見つけたものを潰しちまうよォ」
玉楼が頷く。
「心得ております」
二人が話しているのを見ながら、妙な気分になった。
アタシは前へ行く。
玉楼は、その周りを形にする。
孫二娘は、そこからこぼれそうになる人を見ている。
昨日まで訓練場でやっていたことが、そのまま本物になろうとしていた。
「孫二娘は残るの?」
聞くと、孫二娘が眉を上げた。
「何でだい?」
「だって、まだ身体が完全には戻ってないでしょ」
「走れないだけだよォ。アタイまで戦えなくなったわけじゃない」
「でも前線は――」
「行かないよォ」
孫二娘はあっさり言った。
「三娘と玉楼が前にいるのに、アタイまで前へ出てどうするんだい。後ろを見る奴がいなくなるだろォ?」
言われて黙る。
最初からそのつもりだったらしい。
「負傷者が出れば見る。三百人が慌てたら落ち着かせる。逃げてくる人がいれば話を聞くし、横から抜けてくる敵がいたら、その時はアタイも働くよォ」
「戦う気もあるじゃない」
「必要ならねェ。アタイだって貴重な戦力なんだよォ?」
それは否定できない。
孫二娘は今すぐ全力で走り回れないだけで、弱くなったわけじゃない。
何より、アタシと玉楼が見落とすところを見る。
玉楼も異論はないらしい。
「孫二娘殿には後方からの支援をお願いいたします。ただし、ご無理はなさらぬよう」
「分かってるよォ。玉楼も三娘を追いかけるのに夢中になりすぎないようにねェ」
「私はそのために同行いたします」
「それがもう夢中なんだよォ」
「ちょっと! 何でアタシが毎回問題の中心なの!」
李俊が地図を見たまま言った。
「慣れろ」
「夫まで!」
戦になるかもしれないのに、何でこんな話してるんだろう。
でも不思議と、少しだけ身体の力が抜けた。
三百人の兵がいて、その形を整える玉楼がいる。
後ろには孫二娘がつき、沈蘭教頭も同行するのだから、もうアタシ一人で全部やる必要はない。
昨日までは、それを訓練で覚えようとしていた。
今日からは、たぶん本当に使わなきゃいけない。
その時、廊下から新しい足音が響いた。
「王陛下! 港より急報にございます!」
入ってきた使者は、息を整えるより先に膝をついた。
「青霓島の旗を掲げた船が三隻、沖に現れました。ただし港へは近づかず、沖合で別の船と合流しております」
李俊が立ち上がる。
「旗は?」
使者が一度、息を呑んだ。
「青霓島の旗に加え、もう一本……共濤が用いていた旧旗が上がっております」
部屋から笑いが消えた。
共濤はもういない。
あの男を倒し、この国を取り戻したはずだった。
それでも、残したものまで一緒に消えるわけじゃない。
李俊の指が、地図の青霓島で止まる。
「共濤は死んだ」
誰も口を挟まなかった。
「だが、奴の戦はまだ終わっていない」
玉楼でございます。
三百名全員が、三娘様の麾下へ入ることになりました。
「玉楼ォ、昨日まで候補だったのに急だねェ?」
「戦は待ってくださいませんので」
「それで三娘が三百人連れて突っ込む、と」
「そのような運用はいたしません」
孫二娘殿は、なぜか残念そうなお顔をなさいました。
「じゃあアタイは後ろから見てるよォ。三娘と玉楼が二人揃って前しか見なくなったら呼ぶからさァ?」
「お願いいたします」
「否定しないんだねェ?」
できません。
ただ、今は三娘様より先に気にするものがございます。
海に上がった、共濤の旧旗。
「玉楼ォ、訓練終わった途端に本番だよォ」
「はい」
どうやら三百名には、卒業祝いをしている暇もなさそうでございます。




