王命ではない
今日はもう訓練も終わったし、あとは湯を使って寝るだけ。
そう思っていたら、孫二娘が妙な顔でこっちを見ていた。
「三娘ォ、今日は早めに部屋へ戻った方がいいよォ?」
「毎日戻ってるわよ。李俊と同じ部屋なんだから」
「そういう意味じゃないんだけどねェ?」
何よ、その笑い方。
「まさか仕事が増えた?」
「仕事ねェ……まあ、体力は使うんじゃないかい?」
「嫌な言い方しないで!」
昼間は三百人の近衛候補に追われて、沈蘭教頭と戦って、最後には玉楼と本気で打ち合った。
今日はもう十分働いたと思う。
「三娘ォ、夫婦にもたまには時間が必要だよォ」
「……え?」
孫二娘が笑った。
「ほら、やっと気づいた」
ちょっと待って……
アタシ、今日かなり疲れてるんだけど!?
玉楼と本気で打ち合った日の夜、部屋へ戻ると李俊がいた。
いや、いるのは当たり前だ。
ここはアタシと李俊が普段から使っている部屋なんだから、夫がいること自体は何もおかしくない。
おかしいのは、その夫が机に向かっていないことだった。
「……何で暇そうなの?」
「暇ではない」
李俊は寝台の近くで上着を脱ぎながら、いつもの調子で答えた。
「じゃあ書類は?」
「終わらせた」
「全部?」
「ああ」
思わず机を見る。
本当にない。
いつもなら数枚くらい残っている奏文も、地方から届いた報告も、明日の朝までに目を通すとか言って積んである紙も見当たらない。
筆まで片づけられている。
何これ……
嫌な予感がする。
部屋へ戻る前、今日一日の疲れを落とそうと湯を使っていた時、孫二娘が妙なことを言っていたのを思い出した。
「三娘ォ、今日は早く部屋へ戻った方がいいよォ」
「毎日戻ってるわよ。アタシの部屋でもあるんだから」
「そういう意味じゃないんだけどねェ?」
何が面白いのか、輿の上でにやにやしていた。
その横では玉楼が、いつもの何も知らない顔をして髪を整えてくれていたけれど、途中で一度だけ孫二娘を見た。
絶対に何か知ってた。
「玉楼も知ってたの?」
「何をだ?」
「今夜、アンタが仕事を全部片づけてること」
「ああ、夜は予定を入れるなと言った」
「やっぱり!」
李俊は何も悪いことをしていない顔でこっちを見る。
「何が問題だ?」
「問題っていうか……先に言ってよ!」
「言えば何か変わるのか?」
変わる。
心の準備とか。
でも、それを正直に言うのは負けた気がする……
「今日は朝からずっと近衛の訓練だったのよ。三百人に追われて、沈蘭教頭と戦って、最後は玉楼とまでやり合ったんだから」
「聞いた」
「もう知ってるの!?」
「三百人が見ていたそうだな」
そうだった。
秘密になる要素が一つもない。
しかも近衛候補だけじゃない。
沈蘭教頭もいるし、玉楼も孫二娘もいる。
今ごろ宮殿の中では、王妃が方天画戟を持った副将と本気に近い打ち合いをした話くらい、普通に広まっているかもしれない。
「玉楼とは引き分けた」
「そうか」
「アタシの方がちょっと早かったけど」
李俊がこちらを見る。
「玉楼もそう言っているのか?」
「……たぶん言ってない」
「なら引き分けだ」
「何で玉楼の自己申告が基準なのよ!」
「お前だけが勝ったと言っているなら、そうなる」
酷い……
夫なのに味方してくれない。
「沈蘭教頭にはちゃんと勝ったのよ?」
「それも聞いた」
「玉楼が強すぎるの。改めて正面からやってみたら、アタシの動き全部知ってるし、懐へ入ろうとしても止めてくるし、長い方天画戟を途中から短く持つし……」
そこまで話して、また思い出した。
「そうよ! あの女、やっぱりおかしいのよ!」
「今さらか」
「だって姓が呂で方天画戟よ!? しかもアタシとほとんど互角なのに、石碣に名前すらないのよ! アタシが五十九位なのも納得してないけど、玉楼なんて順位以前の問題じゃない!」
「石碣に言え」
「返事来ないでしょ!」
「なら諦めろ」
あっさり切り捨てられた。
納得いかない。
とはいえ、石碣への苦情受付がどこにあるのかなんてアタシにも分からないので、これ以上どうしようもない。
李俊が近づいてきた。
「怪我は?」
「ないわよ」
「本当に?」
「玉楼の石突きが少し掠ったくらい。訓練用だし、痛くもない」
李俊の手が脇腹へ回り、衣の上からそこを確かめる。
昼間なら敵の槍が飛んできても平気なのに、こういう触られ方をすると妙に意識してしまう。
「平気だって」
「ならいい」
「……それだけ?」
「何がだ?」
「近衛よ。今日でだいぶ変わったの」
李俊の手を押しのけるでもなく、そのまま昼間の話を続けた。
最初はアタシを囲むことばかり考えていた三百人が、今日は自分たちで分かれて動いた。
負傷者役を運ぶ者がいて、退路を確保する者がいて、敵を止める者もいた。
前に怖くなって動けなくなった女も、今回は無理に前へ出ず、周りを見て仲間を下がらせた。
周蓮も、自分一人で助けに飛び込むんじゃなく、他の候補を動かしていた。
「それでさ、変な感じだったのよ」
「何がだ」
「アタシが行かなくても何とかなった」
言葉にすると、やっぱり妙だった。
誰かが危なければ、自分が走る。
その方が早いなら行けばいいし、敵がいるなら倒せばいい。
今までずっとそうだった。
玉楼はその横へ来てくれた。
アタシが前へ出れば、少し遅れているように見えて、必要なところには必ずいる。
アタシが穴を開ければ玉楼が広げ、玉楼が止めればアタシがその内側へ入る。
孫二娘はさらに外から、アタシたち二人には見えにくい人を拾っていた。
今日の三百人も、少しずつそうなり始めている。
「嬉しいんだけど、なんか仕事を取られた感じもする」
李俊はしばらく黙ったあと、窓の外を見た。
「舟なら、一人で全部の櫂を持つ方がおかしい」
出た――
この人の舟。
「また舟にするの?」
「舟の話だ」
「アタシの話でしょ?」
「同じだ」
絶対違う。
李俊は構わず続けた。
「一人が全部やれば、その一人が倒れた時に沈む。漕ぐ者も、帆を見る者も、岸を見る者も必要だ」
「じゃあアタシは何?」
「真っ先に岸から飛び出す奴だ」
「役職じゃない!」
「だが合っている」
否定できないのが腹立つ。
「近衛は、お前を後ろへ縛るために作るんじゃない」
李俊がこっちを見る。
その言葉は、玉楼や沈蘭教頭が言っていたことと似ているようで、少し違って聞こえた。
「お前が前へ出るのは、もう諦めている」
「諦めるって何よ!」
「止めても行くだろう」
「武将なんだから行くわよ」
「今は王妃でもある」
「それ孫二娘にも言われた!」
夫婦揃って同じこと言わないで。
李俊は少しだけ笑った。
「出るなら出ろ。ただし、戻ってこい」
あまりにも簡単に言うから、こっちの方が黙ってしまった。
王妃だから危険なことをするな、とは言わない。
妻だから戦うなとも言わない。
アタシが前へ出る人間だと知った上で、帰ってくることだけを要求する。
「それ、王命?」
「いや」
「じゃあ何?」
「夫からだ」
ずるい……
王命なら、逆らうとか逆らわないとか、まだ理屈をつけられるのに。
夫から言われたら、返事に困る。
「……努力します」
「そこは約束しろ」
「戦場で絶対なんて言えないでしょ?」
「なら、生きて戻るために使えるものは全部使え。玉楼も、近衛もな」
「アンタも?」
「必要なら使え」
「王陛下を近衛扱いしないでよ」
「お前が言ったんだろう」
思わず笑った。
この人と話していると、たまに王と王妃なのか、昔のままなのか分からなくなる。
たぶん両方なんだと思う。
李俊の手がもう一度腰へ回った。
そこでようやく、今夜は珍しく机の上に書類がない理由を思い出す。
「……ねえ」
「何だ」
「本当に全部終わらせたの?」
「ああ」
「明日の朝も?」
「急ぎはない」
「わざと?」
「何がだ」
「今夜のために仕事を前倒しした?」
李俊は答えなかった。
答えないということは、たぶん当たりだ。
「ちょっと待って……アタシ今日、玉楼と本気でやり合った後なんだけど?」
「怪我はないと言った」
「そういう問題じゃない!」
「疲れているなら寝るか?」
そう言われると、それはそれで腹が立つ。
「……寝るとは言ってない」
「そうか」
「何、その勝ったみたいな顔」
「していない」
してる。
絶対してる。
胸を軽く叩こうとしたら手首を掴まれ、そのまま距離を詰められた。
毎晩同じ部屋で寝ている。
夫婦になってから長いし、今さら初めてでもない。
それでも最近は、二人とも仕事ばかりだった。
同じ寝台へ入っても片方が先に眠っていたり、朝になればどちらかが先に出ていたりして、夫婦なのに二人だけの時間がどこかへ消えていた。
だから久しぶりだった。
李俊の腕が背中へ回る感触も、こうして何の報告も予定も挟まず、ただ相手だけを見る時間も。
「明日、本当に遅くていいのよね?」
「ああ」
「玉楼にも言ってある?」
「朝は起こすなと」
準備が良すぎる。
「……いつから計画してたの?」
「数日前だ」
「アタシだけ知らなかったの!?」
抗議したけれど、その先は口を塞がれた。
その夜は、王も王妃も少し休んだ。
夫と妻の方は、あまり休まなかった。
翌朝、目を覚ました時には外がすっかり明るくなっていた。
隣には珍しく、まだ李俊がいる。
「……朝よ」
「ああ」
「起きなくていいの?」
「お前が起きればな」
「何でアタシ基準なのよ?」
「昨日、近衛に任せることを覚えたんだろう」
「それと朝寝坊は関係ない!」
起き上がろうとして、やめた。
昼間あれだけ走った上に、夜まで久しぶりに動いたせいで、全身が絶妙にだるい。
李俊が何でもない顔でこちらを見る。
「玉楼には、朝は起こすなと言ってある」
「なら、もう少し寝る」
安心して布団へ戻りかけて、ふと思った。
「孫二娘には?」
李俊が黙った。
……嫌な予感しかしない。
王陛下より、今朝は三娘様を起こさぬよう申しつけられております。
「玉楼ォ、それって何時までなんだい?」
「特に時刻は伺っておりません」
孫二娘殿が、たいそう楽しそうに笑いました。
「じゃあ昼まで寝てても起こせないねェ?」
「王命でございますので」
「昨夜は王命じゃなかったみたいだけどねェ」
……何のお話でしょう。
「玉楼、本当に分かってないのかい?」
「夫婦のお時間であったことは承知しております」
「分かってるじゃないか!」
ただし、近衛の任務に夫婦のお時間は含まれておりません。
「三娘ォ、今日は安心して寝坊できるねェ」
孫二娘殿……
それを本人へ申し上げるために、寝室へ近づかないでくださいませ。




