都合のいい歴史にするな
孫二娘が、寝台の上で妙に真剣な顔をしていた。
「三娘、決めたよォ……」
「何を?」
「アタイ、本編に戻る」
「勝手に復帰宣言しないで!」
「王太后殿下まで調べるんだろォ? こんな大事な回まで布団にいたら、鎮西将軍じゃなくて読者になっちまうよォ……」
「産後でしょうが!」
孫二娘は胸を張った。
「だから輿で行く」
「行く気なの!?」
「歩かない。走らない。座ったまま出番だけ取るよォ……」
そこだけ妙に合理的だった。
「行って何するのよ?」
「人を見る」
孫二娘は少し笑った。
「帳面は玉楼たちが見るだろォ? だったらアタイは、帳面に書いてない方を見るよォ……」
一瞬だけ感心した。
「でも、その赤い布は置いてきなさい」
「復帰祝いの旗だよォ」
「持ってくるな!」
鎮西将軍、本編復帰の準備だけは万全だった。
「王太后だけを、その外へ置いてはなりません」
いや、置いていいでしょ。
思わずそう言いかけて、飲み込んだ。
ここまで散々、一人ずつ何をしたのか調べると言ってきたのはアタシたちだ。
共濤の兵だからという理由だけで罪人にはしないし、王宮にいた、剣を抜いていた、門を開けた――そんな一部分だけを拾って決めることもしない。
それなのに、王太后だけは偉い人だから調べませんでは、全部ひっくり返る。
でも……
「王太后殿下、自分から仕事を増やさなくてもよくないですか?」
王太后が少しだけ目を丸くした。
李俊が横から言う。
「お前が言うな」
「アタシは増やしたくて増やしてるんじゃない!」
ここ数日、王妃になってから勝手に仕事が増殖している。
祭文を読めと言われ、三百人を預けられ、捕虜の家族が押しかけ、今度は王太后本人から「私も調べろ」と言われた。
王妃って、もっと椅子に座って優雅に微笑む仕事じゃなかったの?
少なくとも前世の知識では、毎日のように誰かの責任を調べる職業じゃなかったはずだ。
「王太后殿下」
アタシはため息をついてから、椅子へ座り直した。
「確認しますけど、調べるって、罪があるって決めることじゃないですよ?」
「承知しております」
「じゃあ、何をしたのか全部話してください。自分に不利なことだけ選んで話すのも駄目です」
王太后の眉がわずかに動いた。
「不利なことだけ、でございますか?」
「そうです。最近、みんな自分が悪かったところだけ申告してくるんですよ」
鄭安が少し俯き、沈蘭まで目を逸らした。
ほら、心当たりあるじゃない。
「止めたことも、助けたことも、失敗したことも全部です。悪かったところだけ抜き出して『私は罪人です』ってやられたら、調べる意味ないでしょ」
李俊が頷いた。
「そういうことだ」
「アンタ、今アタシに全部説明させたわね?」
「分かりやすかった」
褒められてる気がしない。
王太后はしばらく黙っていたが、やがて静かに話し始めた。
鄭安が三つの灯りを出したことを知ったのは、共濤が王宮を押さえた直後だったという。
鄭安本人が告げに来た。
王太后は、その場で近衛へ引き渡すことも、共濤側へ差し出すこともしなかった。
「なぜです?」
玉楼が尋ねる。
「すでに王宮の多くは共濤の手へ落ちておりました。近衛も散り、誰がこちら側か分からぬ状況でございました。鄭安を公に裁けば、灯りの意味も、内廷の合図も、すべて共濤側へ知られる恐れがございました」
童威が地図を見る。
「水門の仕組みを残すためか?」
「それもございます」
その後、鄭安は表向きには共濤へ従った。
帳面を運び、印札を整理し、王太后の居所にも出入りした。
だからこそ、共濤側から疑われにくかった。
その立場を使って女官へ薬を届け、囚われた者の人数を調べ、卜青たちへ王宮内の情報を渡した。
「つまり、王太后殿下は鄭安を隠したんじゃなくて、使った?」
「はい」
「共濤を倒すために?」
「結果としては、そうなります」
王太后はそこで言葉を止めた。
「ですが、それは結果でございます。灯りを出した者を裁かず、私の判断で手元へ残しました。もし鄭安が再び裏切っていれば、さらに多くの者を危険へ晒しておりました」
「でも裏切らなかった」
「それは結果でございます」
出た。
また面倒なやつ。
このままだと「結果です」「でも結果はこうです」を日が暮れるまで繰り返しそうだった。
その時、廊下から何かを引きずるような音が聞こえてきた。
ずる、ずる、と妙に重い。
全員が扉を見る。
近衛兵が困った顔で現れ、その後ろから輿が入ってきた。
乗っていたのは孫二娘だった。
「来たよォ……」
「何で来たの!?」
思わず立ち上がった。
孫二娘は輿の上で毛布を膝へ掛け、例の赤い布まで抱えている。
「出番だよォ……」
「理由になってない!」
「ここ数話、アタイだけ本編から追い出されてたんだよォ……そろそろ顔を出さないと、本当に鎮床将軍で定着するよォ……」
「鎮西将軍だから!」
李俊が孫二娘を見る。
「歩いたか?」
「歩いてないよォ」
「走ったか?」
「走ってないよォ」
「なら座ってろ」
「王からの命令が、相変わらず休めしかないねェ……」
孫二娘は輿ごと部屋の端へ置かれた。
何しに来たのよ。
そう思っていたら、孫二娘が王太后をじっと見る。
さっきまでの卑屈な顔ではなかった。
「王太后殿下、自分も罰してほしいのかい?」
空気が変わった。
王太后が孫二娘を見る。
「何を仰るのです」
「違うならいいんだけどねェ……。自分だけ生き残ったのが、嫌なんじゃないかと思ってさァ」
王太后の指が止まった。
「息子が死んだ。近衛も死んだ。鄭安は灯りを出したけど生き残った。王太后殿下も生き残った。だから鄭安を調べるなら、自分も一緒に並んだ方が楽なんじゃないかい?」
「孫二娘殿」
玉楼が呼んだ。
でも止めなかった。
孫二娘は王太后から目を逸らさない。
「アタイもさァ、死んだ奴より生き残った方が申し訳なくなることくらいは知ってるよォ。でも、それで罰してもらって楽になるのは、裁きとは違うんじゃないかねェ」
王太后は長く黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ肩を落とす。
「……否定は、できません」
孫二娘が息を吐いた。
「ほらねェ」
「何で分かったの?」
アタシが聞くと、孫二娘はこっちを見る。
「人を見る仕事なら、アタイだってしてきたよォ」
そうだった。
宿でも、戦場でも、避難民の中でも、孫二娘は人の顔を見てきた。
黙っている子どもを見つけ、何かを隠している兵を見抜き、誰が限界なのかにも気づく。
鎮西将軍、寝てばかりじゃなかった。
いや、今は寝ててほしいんだけど……
李俊が王太后へ向き直る。
「罰を受けたい奴に、望みどおり罰をやるのは裁きじゃない」
王太后が顔を上げた。
「では、私は何も問われぬのでございますか?」
「問う」
李俊は即答した。
「鄭安を残したことも、使ったことも記録へ残す。卜青にも聞く。女官にも、助けられた奴にも聞く。それで何をしたかを見る」
「そして?」
「全部聞いてから決める」
王太后はしばらく李俊を見つめ、やがて小さく頷いた。
最初に呼ばれたのは卜青だった。
話を聞くと、鄭安がいなければ王太后との連絡は少なくとも二度途絶えていたという。
一度は共濤側が女官を入れ替えた時。もう一度は王宮内の通路が封鎖された時だった。
鄭安は薬箱の底へ紙を隠し、別の道を使って知らせを渡した。
その情報のおかげで、卜青たちは共濤の兵がどこへ集められているかを知り、王太后の居所が移される前にも動けたらしい。
「王太后殿下の命で?」
アタシが聞く。
卜青は頷いた。
「さようでございます」
それだけでは終わらなかった。
鄭安から薬を受け取った女官、共濤の兵が来る前に部屋を移された者、閉じ込められていた仲間の居場所を鄭安から知らされた者まで、一人ずつ呼ばれた。
聞くたびに話の細部は増えたけれど、共通していたことが一つある。
王太后が鄭安を使って共濤を助けた、という証言は一つも出なかった。
むしろ逆だった。
ある女官は、鄭安が持ってきた薬で熱を出した娘が助かったと言った。
別の者は、王太后の命で夜のうちに居所を移されたため、翌朝に共濤の兵へ連れていかれずに済んだと証言した。
日が傾く頃には、机の上へ新しい記録が何枚も増えていた。
アタシはそれを見て、王太后へ向き直る。
「王太后殿下、普通に抵抗してるじゃないですか」
「普通かどうかは分かりませんが……」
「少なくとも共濤を助けるために鄭安を隠したわけじゃないですよね?」
王太后はしばらく黙り、それからようやく、
「はい」
と答えた。
李俊が腕を組む。
「なら刑は科さない」
王太后が口を開こうとした。
「ただし」
止まる。
「鄭安を残したことは記録へ残す。危険があったことも残せ。その上で、抵抗に使ったことも、救われた者がいたことも消すな」
「承知いたしました」
「都合のいい歴史にするな」
王太后は深く頭を下げた。
「はい」
李俊は少し考えたあと、もう一つ付け加えた。
「仕事に戻れ」
孫二娘が吹き出した。
「やっぱりそれなんだねェ……!」
アタシも頭を抱えた。
この国、死罪を免れた人間に与えられるものが、だいたい仕事なんだけど……
王太后まで例外じゃなかった。
「では、王太后殿下の件はこれで?」
アタシが聞く。
李俊が頷く。
「今のところはな」
「今のところって付けないで!」
もう何も出てこないでほしい。
王宮の床とか壁とか天井とか、これ以上秘密を抱えてないでしょうね?
孫二娘が輿の上で伸びをしかけ、途中で玉楼に睨まれてやめた。
「アタイの出番も終わったかねェ……」
「帰って寝なさい」
「出た途端に帰されるんだねェ……」
「産後!」
そこへ沈蘭が玉楼の耳元で何かを告げた。
玉楼の表情が変わる。
嫌な予感がした。
「何?」
「近衛候補の件でございます」
あ……
三百人。
司法祭りですっかり頭の隅へ追いやられていた。
「何かあった?」
「一人、確認していただきたい方がおります」
「また昔何かした人?」
「いいえ」
玉楼は首を横へ振った。
珍しい。
じゃあ何?
「その方は、本日の訓練中、王妃陛下を守る際の命令について尋ねました」
「アタシを守る命令?」
「はい。王陛下より退けとの命があった場合、どうするかと」
李俊までこちらを見る。
「それで?」
玉楼は静かに答えた。
「その者は、王妃陛下を守る必要があると判断したなら――」
一度、言葉を切った。
「王命にも逆らうと申しております」
孫二娘殿は、輿で戻る途中から満足そうでございました。
「玉楼、アタイ今日ちゃんと本編にいたよォ……」
「はい」
「しかも役に立ったよォ……」
「はい」
「もっと褒めてもいいんだよォ?」
「では、明日はお休みくださいませ」
「褒め方がおかしいねェ……」
私は毛布を掛け直しました。
「しかし、王太后殿下のお気持ちにはよくお気づきになりましたね」
「帳面じゃ分からないこともあるからねェ」
少し得意そうでございます。
「ところで、近衛候補が王命に逆らうって?」
「はい」
孫二娘殿の目が輝きました。
「いいねェ……」
「まだ何も判断しておりません」
「三娘を守るために李俊へ逆らう女だろォ?」
「そう申しております」
孫二娘殿は笑いました。
「その子、アタイ好きだよォ……」
嫌な予感しかしませんでした。




