王を失った国
孫二娘が、寝台の上で赤い旗を抱いていた。
顔が暗い……
「どうしたの?」
「アタイ、今回出番がないんだろォ……?」
いきなり核心を突かれた。
「誰から聞いたのよ?」
「玉楼が沈蘭と戦って、そのあと皇太后の話になるんだろォ……?」
「よく知ってるわね?」
「アタイの出番がない話ほど、みんな詳しく教えてくれるんだよォ……」
何、その悲しい情報網。
孫二娘は旗へ頬を押しつけた。
「鎮西将軍になったばかりなのにねェ……。もう忘れられたんだよォ……」
「忘れてないわよ」
「扈三娘は王妃として呼ばれる。玉楼は三百人を鍛える。沈蘭は槍を持つ。国母殿下は皇太后になる……」
そこで言葉を切り、自分を指さした。
「アタイは寝てる」
「産後だからね!」
「役目が、寝ることしかないよォ……」
「都の西を立て直したでしょ!」
「前の話だよォ……」
連載を理解しすぎている。
「じゃあ、何をしたいの?」
「沈蘭と玉楼の間に入る」
「死ぬわよ」
「旗を持って」
「もっと邪魔!」
「皇太后の尊号を決める席へ出る」
「何を話すの?」
「鎮西将軍も立派な尊号だと……」
「称号の種類が違うから!」
孫二娘は深くため息をついた。
「せめて、部屋の外を李俊が通らないかねェ……」
「通ったら?」
「呼び止めて、一言もらう」
「何て?」
孫二娘は少し考えた。
「鎮西将軍、よく休め」
「もう言われたでしょ」
「同じ台詞でも、今話で言えば出番になるよォ……」
卑屈すぎる……
乳母が娘を抱いてくると、孫二娘はすぐに旗を放り出した。
「お腹が空いたのかい? 母ちゃんはここだよォ……」
さっきまで出番を嘆いていた女とは思えない速さで、娘を受け取る。
「ちゃんと仕事あるじゃない」
「これは本編に入らない仕事だよォ……」
「一番大事な仕事でしょ?」
孫二娘は娘の顔を覗き込み、少しだけ笑った。
「まあ、この子が見てるなら、一話くらい出なくてもいいかねェ……」
「分かってくれた?」
「でも、あとがきには出るよォ……?」
「予約しないで!」
孫二娘は返事をせず、娘の小さな手へ赤い布の端を握らせた。
出番がないはずの女は、今回もまえがきをほとんど一人で使い切った。
「その槍で死ぬつもりなら、今すぐお捨てくださいませ」
玉楼の言葉に、沈蘭の穂先が揺れた。
向かい合ってから、まだ一合も交えていない。
三百人の志願者が息を詰め、石床の上に立つ二人を見ている。
沈蘭の槍は、まっすぐ玉楼へ向いていた。
構えに迷いはない。
それなのに、玉楼は動こうとしなかった。
「私は、死ぬために参ったのではございません」
「では、なぜ肩へ力を入れておられるのですか?」
沈蘭の目が細くなる。
次の瞬間、槍が走った。
速い。
穂先が玉楼の胸元へ伸びる。
玉楼は方天画戟の柄で受け、横へ流した。
金属が擦れ、甲高い音が中庭へ散る。
沈蘭は引かなかった。
弾かれた勢いを使い、石突きで玉楼の脇腹を狙う。
玉楼が半歩下がる。
方天画戟の刃が返り、槍の柄を下から跳ね上げた。
沈蘭の両手が浮く。
それでも槍を放さない。
踏み込み、玉楼の間合いへ入ろうとする。
「近い!」
思わず声が出た。
方天画戟は、距離があってこそ怖い武器だ。
懐へ入れば沈蘭にも勝ち目がある。
そう思った瞬間、玉楼の足が沈蘭の前脚を払った。
沈蘭の身体が傾く。
だが、倒れる前に槍を地面へ突き、腕の力だけで体勢を戻した。
三百人の間から、どよめきが起こる。
強い――
若くはなく、古傷もある。
それでも、共濤の兵とは比べものにならなかった。
沈蘭が再び槍を構える。
玉楼は方天画戟をわずかに下げた。
「続けますか?」
「無論でございます」
「では、私だけをご覧にならぬよう」
「何を――」
玉楼が踏み込んだ。
今度は玉楼からだった。
重い方天画戟が、風を裂いて沈蘭へ迫る。
沈蘭は槍を斜めに立てて受けた。
音が腹へ響く。
押し潰されるかと思った。
けれど沈蘭は片膝を沈め、刃を外へ滑らせた。
そのまま槍を回し、玉楼の喉へ突き返す。
玉楼は首を傾けて避けた。
髪が数本、穂先へ持っていかれる。
「玉楼!」
アタシが叫んでも、二人は止まらない。
玉楼は横へ回った。
沈蘭も追う。
一歩、二歩。
その先に、周蓮たちがいた。
志願者の列がざわつく。
周蓮が隣の女を庇うように腕を広げた。
玉楼は急に沈蘭の脇を抜けた。
背中が空く。
沈蘭が追えば、槍は届いた。
玉楼を倒せる、最初で最後の隙だった。
けれど沈蘭は突かなかった。
身を返し、周蓮たちの前へ立つ。
玉楼も振り返りざまに方天画戟を払った。
沈蘭は槍で受けようとしたが、体勢が間に合わない。
柄を打たれ、槍が石床へ落ちる。
沈蘭は拾おうとしなかった。
周蓮たちを背にしたまま、玉楼を見据えている。
方天画戟の刃が、沈蘭の首筋で止まった。
風だけが、焼け残った旗を揺らしていた。
「なぜ、私を追わなかったのですか?」
玉楼が尋ねる。
「後ろに、人がおりました」
「私を逃がしますよ?」
「それでもでございます」
「勝てません」
沈蘭は唇を結んだ。
「勝つために、近衛へ戻るのではございません」
玉楼の方天画戟が下がった。
「ようやく、今ここにいる方々をご覧になりましたね」
沈蘭の眉が動く。
「あなたは先ほどまで、馬賽真陛下をお守りできなかった夜しか見ておられませんでした」
沈蘭の顔から血の気が引いた。
「玉楼、それは……」
きつすぎる。
そう言いかけたけれど、玉楼は続けた。
「過去を忘れろとは申しません。ですが、過去だけを見て槍を振るう方へ、現在を預けることはできません」
沈蘭は動かなかった。
「死んで償うおつもりでしたか?」
「そのようなことは……」
「ございました」
玉楼は言い切った。
沈蘭の拳が震える。
「私に斬られれば、少しは許されるとお考えになった。ですから、退くことも、周囲を見ることもなさらなかったのでございます」
「私は……」
「近衛は、王とともに死ぬ者ではございません」
中庭の全員へ届く声だった。
「王を逃がし、民を導き、仲間を連れて戻る者でございます。死ぬ場所を求める方は、必要ございません」
沈蘭がゆっくり膝をついた。
「では、私は……」
「本日より、教導の補佐をなさいませ」
沈蘭が顔を上げる。
「近衛兵として、でございますか?」
「まだでございます」
玉楼、容赦ない。
「三百人へ、槍の持ち方と足の運び方を教えてくださいませ。ただし、私の命令に従っていただきます。ご自身の過去を理由に、勝手に無理をすることも認めません」
沈蘭の目に、初めて迷いとは違うものが浮かんだ。
「承知……いたしました」
声が掠れている。
玉楼はアタシを見た。
最終判断の時間らしい。
「近衛のことは玉楼に任せてるわ」
沈蘭がこちらへ向き直る。
「王妃殿下のお許しは――」
「今のがアタシの許しよ。玉楼が駄目って言ったら、アタシが口を挟んでも駄目。逆に、玉楼が預かるって決めたなら、アタシはひっくり返さない」
玉楼がわずかに頭を下げた。
三百人の前で、沈蘭も深く礼をする。
その時、王宮の役人が中庭へ駆け込んできた。
「王妃殿下、李俊王がお呼びでございます」
「また?」
今日は王妃として呼ばれてばかりだ。
会社員だった頃も会議は嫌いだったけれど、王宮の会議は欠席理由に腹痛が使えそうにない。
「皇――いえ、国母殿下もお待ちでございます」
役人が言い直した。
玉楼が、その一言へ視線を向ける。
「行ってくるわ」
「こちらはお任せくださいませ」
「分かってる。でも沈蘭を壊さないでよ」
「壊れぬよう、鍛え直します」
沈蘭の顔が少し強張った。
やっぱり玉楼の方が怖い……
王の間へ入ると、李俊は冠を外していた。
机の上に置き、邪魔そうに睨んでいる。
まだ国母と呼ばれている方が、正面に座っていた。
その左右には、先王の御代から仕える老臣たちが並んでいる。
「遅い」
李俊が言う。
「三百人を玉楼へ預けてきたの。アンタの冠より重い話よ」
「冠は軽い」
「じゃあ被ってなさい」
李俊は答えなかった。
机の上には、先王の御代から受け継がれ、李俊が受け取った印が置かれていた。
老臣の一人が進み出る。
「李俊王が即位なされた今、国母殿下の御称号を定めねばなりません」
国母が静かに尋ねた。
「私は先王の母です。新王の母ではございません」
「承知しております」
老臣は頭を下げた。
「されど、この国は滅びておりません。国号も、祭祀も、先王の御代より変わらず受け継がれます」
李俊が机へ手を置く。
「変えない」
短い声だった。
「俺は新しい国を作るために王になったんじゃない。共濤が奪ったものを戻す」
「ならば、なおのことにございます」
老臣は国母へ向き直った。
「先王の母君が宮中より退かれれば、人々は王統が断たれたと受け取りましょう。李俊王が先王の位を奪ったと申す者も現れます」
空気が重くなる。
簒奪でもなければ、馬賽真から位を譲られたわけでもない。
李俊は共濤を倒し、行き場を失った王座へ押し上げられた。
でも、事情を知らない人間は好き勝手に話を作る。
歴史なんて、たぶんそうやって面倒になる。
「王太后の尊号を、お受けいただきたく存じます」
ついに、その呼び名が出た。
国母は目を閉じた。
「李俊王の母を名乗れと?」
「違う」
李俊が即座に返す。
「俺の母になる必要はない」
言い方が直球すぎる。
老臣たちが一瞬だけ困った顔をした。
「あなたは馬賽真王の母だ。それは俺が王になっても変わらない」
李俊は先王の印へ目を落とした。
「国の名を変えない。祭祀も変えない。先王の母の席だけ消したら、俺が全部奪ったことになる」
国母が李俊を見る。
「私を残せば、あなたを正統な王と認めたことになります」
「認められないなら、そう言えばいい」
「李俊!」
思わず止めた。
どうしてこの男は、大事な場面で逃げ道を全部燃やすのか……
けれど国母は怒らなかった。
「私が認めなければ、王位を退かれますか?」
「退かない」
今度は逃げなかった。
「民を放り出すことになる」
李俊は冠を取り上げた。
嫌そうな顔のまま、自分で頭へ載せる。
少し曲がっていた。
「だが、あんたに嘘をつかせる気もない」
国母は長いあいだ李俊を見つめた。
やがて立ち上がり、先王の印へ両手を添える。
「共濤は、我が子を殺し、王位を奪いました」
誰も動かなかった。
「李俊王は、その共濤を討ち、民を救い、奪われた国を我らへ返しました」
声は震えていない。
「この即位は、簒奪ではございません。先王からの禅譲でもございません」
国母は李俊の前へ進んだ。
「王を失った国が、生き残るために選んだ王でございます」
李俊が頭を下げる。
国母の手が、曲がっていた冠を直した。
「先王の母として、李俊王の即位を改めて認めます」
老臣たちが一斉に膝をつく。
「王太后殿下に、謹んでお祝い申し上げます」
その声が王の間へ響いた。
王太后は目を閉じ、ゆっくり息を吐く。
「お受けいたします」
これで、国母ではなく王太后になった。
李俊の母になったわけじゃない。
馬賽真王の母のまま、この国に残る。
過去を消さず、今の王を認める。
沈蘭と同じだ。
失ったものだけを見て死ぬのではなく、残った者を守るために立つ。
何だか綺麗にまとまった気がして、アタシは安心しかけた。
その時、王太后がこちらを向いた。
「王妃殿下」
嫌な予感がした。
「はい」
「明朝、先王の御霊へ新王の即位をご報告いたします」
祭祀を変えないなら、当然だ。
「李俊王とともに、王妃殿下にも祭壇へお上がりいただきます」
当然じゃなかった。
「アタシもですか?」
「王妃でございますから」
逃げ道を塞ぐ言い方が、玉楼に少し似ている。
王太后は穏やかに続けた。
「なお、祭文は王妃殿下にお読みいただきます」
机の端から、老臣が巻物を持ち上げた。
太い……
そして長い……
嫌な予感どころじゃない……
「今から、全文をお覚えくださいませ」
王妃になって二日目――
三百人の女を預けられた次は、先王の霊前で暗唱試験を受けることになった……
孫二娘殿は、私の顔を見るなり、深いため息をつかれました。
「玉楼は、よかったねェ……」
「何がでございますか?」
「沈蘭と手合わせをして、三百人の前で立派なことを言ったんだろォ……?」
「必要なことを申し上げただけでございます」
「それが出番ってものなんだよォ……」
また、そのお話でございますか……
孫二娘殿は寝台の上で膝を抱えました。
「扈三娘は王妃、李俊は王、国母殿下まで皇太后になった……。沈蘭は教導の補佐になって、玉楼は近衛を仕切ってる……」
「はい」
「アタイは、寝巻きのままだよォ……」
「お休みになるよう、王から命じられております」
「命令まで、寝ろなんだねェ……」
なぜ、そこまで卑屈になられるのでしょう?
「孫二娘殿は鎮西将軍でございます」
「名ばかりだよォ……」
「都の西側を預けられております」
「今日は行ってないよォ……」
「昨日、働きすぎたからでございます」
「昨日は昨日だよォ……」
扈三娘様にも、同じことを仰ったのでしょう。
「玉楼には、アタイがいなくても困らないんだねェ……」
「困ります」
孫二娘殿が顔を上げました。
「本当かい?」
「はい」
「どの辺りが?」
尋ねられるとは思いませんでした……
「負傷者や避難民の様子を、私より早く見抜かれます。兵が隠し事をしている時も、顔を見ればお気づきになります」
「ほかには?」
「都の西側に残った者たちは、孫二娘殿の赤い帯を見れば安心いたします」
「旗じゃなくて、帯なのかい……?」
そこを気になさるのですか……
「旗は大きすぎます」
「まだ育ててる途中だよォ……」
育てるものではございません。
孫二娘殿は少し機嫌を直されましたが、すぐにまた肩を落としました。
「でも、今日の話にはいなかったよォ……」
「まえがきにはおられたと聞いております」
「本編じゃないよォ……」
「あとがきにも、今おられます」
「また本編じゃないねェ……」
確かに、そうでございます。
「では、明日の祭祀へ出られますか?」
孫二娘殿の顔が明るくなりました。
「出ていいのかい?」
「祭殿まで歩き、長いあいだ立ち続けていただきます」
「……椅子は?」
「ございません」
「輿は?」
「祭壇へは上げられません」
「途中で横になっても?」
「なりません」
孫二娘殿は、そっと布団を肩まで引き上げました。
「アタイは、国を守るために休むよォ……」
「賢明でございます」
「せめて旗だけ出しておこうかねェ……」
「祭殿に、でございますか?」
「アタイの代わりだよォ……」
「『女将軍』と書かれた旗を、先王陛下の祭壇へ置くおつもりですか?」
孫二娘殿は考え込みました。
「裏返せば分からないんじゃないかねェ……」
「大きさで分かります」
「じゃあ、祭文を持たせようかねェ……」
「旗は読めません」
「扈三娘より、黙って立っていられるよォ……」
それは否定できませんでした。
孫二娘殿は満足そうに目を閉じます。
出番がないと嘆いておられたはずですが、最後には王妃殿下より祭祀へ向いていることになっておりました。




