鎮西将軍
孫二娘が、字の書かれた赤い布を広げていた。
「……何してるの?」
「旗を作ってるんだよォ……」
「何の旗?」
「女将軍の旗だねェ……」
まだ正式な官職名も決まっていない。
それなのに、布の真ん中には大きく『女将軍』と書かれていた。
しかも、妙に達筆だ……
「誰に書いてもらったのよ?」
「王宮の書記だよォ……」
「書記を勝手に使わないで!」
「李俊王の家来なら、アタイの家来でもあるんじゃないのかい?」
「ならないわよ!」
孫二娘は首をかしげた。
「王妃の家来でもないのかい?」
「アタシにも、まだ分からないの!」
王妃になって、まだ半日も経っていない。
なのに、家来の範囲を説明させられるとは思わなかった。
「旗の次は、椅子だねェ……」
「椅子?」
「将軍が命じる時に座る、大きいやつだよォ……」
「アンタ、座りたいだけでしょ?」
「産後だからねェ……」
こういう時だけ、自分の身体を都合よく使う……
でも、実際に無理はさせられない。
「ちゃんと休みながらやるのよ」
「分かってるよォ……。アタイが走らなくても、兵を走らせればいいんだろォ……?」
「急に将軍らしいこと言わないで」
「偉くなったからねェ……」
「まだ決まってない!」
孫二娘は旗を肩へかけた。
娘のいる部屋を出てからも、何度も振り返っている。
「乳母に任せるの、不安?」
「泣いたら、すぐ分かるかねェ……」
「王宮中に聞こえるんじゃない?」
「腹が減る前に分からないと駄目なんだよォ……」
「乳母は子育ての経験があるのよ」
「アタイより?」
「たぶんね」
孫二娘が立ち止まった。
ものすごく不満そうな顔をしている。
「母親として負けた気がするねェ……」
「勝ち負けじゃないでしょうが!」
「女将軍では勝ちたいよォ……」
「誰に?」
「扈三娘に」
「どうしてアタシなのよ!」
孫二娘は当然のように答えた。
「王妃で、将軍なんだろォ……?」
「まだ何も聞いてない!」
「じゃあ、先に名乗った方が勝ちだねェ……」
「そんな制度はない!」
孫二娘は笑いながら、旗を高く掲げた。
赤い布が、王宮の廊下で大きく広がる。
その端が柱へ引っかかり、孫二娘の身体が後ろへ引かれた。
「何してるの!」
「旗が大きすぎたねェ……」
「先に働きなさい!」
このあと「鎮西将軍」という肩書までつくなんて、この時のアタシはまだ知らなかった……
孫二娘が言葉を失ってから、十を数えるほどの間、広場は妙に静かだった。
いつもなら、誰より先に声を上げる女が、口を開けたまま李俊を見ている。
李俊も、少し困ったようだった。
王冠をかぶったばかりなのに、最初に困らされる相手が孫二娘なのは、たぶん今後も変わらない。
「孫二娘」
もう一度呼ばれ、孫二娘の肩が跳ねた。
「……本当に、アタイがやっていいのかい?」
「任せた」
「都の西も?」
「そうだ」
「軍船も?」
「残っているものは使え」
孫二娘は自分の胸を指さした。
「アタイが、兵に命じるのかい?」
「そのための将だ」
今度は、目が潤んだ。
泣くのかと思った。
けれど孫二娘は、ぐっと胸を張り、赤い帯を握りしめた。
「それで、女将軍の旗はどこだい?」
戻るのが早い……
「先に働け」
「旗がないと、兵がアタイを見つけられないよォ……」
「その帯だけで十分目立つ」
「王から認められたねェ……!」
「帯を認めたわけじゃない」
臣下たちの中から、笑いが漏れた。
李俊は面倒そうに顔を背けたが、孫二娘はもう止まらない。
「女将軍の陣幕も要るねェ……。椅子は少し大きい方がいいよォ……」
「椅子なら用意させる」
「本当かい?」
「座って命じろ」
孫二娘の顔から笑みが消えた。
「座って?」
「お前は産後だ。自分で荷を担ぐな。走るな。長く立つな」
「女将軍なのに?」
「産後の女を走らせる王がいるか」
さっきまで王になることを嫌がっていた男が、もう王みたいなことを言っている……
アタシは隣から李俊を見上げた。
李俊は気づいたが、何も言わなかった。
「座って命じるだけでいいのかい?」
「人を動かせ」
「偉くなったねェ……」
孫二娘は、少しうれしそうだった。
国母が進み出る。
「都の西を鎮め、民を守る将でございます。官職としては、鎮西将軍がよろしいかと存じます」
「ちんぜいしょうぐん……」
孫二娘が、確かめるように繰り返した。
「女将軍じゃないのかい?」
「女将軍は、孫二娘殿がお望みになった呼び名でございましょう」
「鎮西女将軍なら、どっちも入るねェ……」
「混ぜなくてよろしいかと存じます」
玉楼が静かに止めた。
孫二娘は納得していない顔をしたが、官職そのものは気に入ったらしい。
「鎮西将軍、孫二娘だよォ……」
自分で言って、照れている。
その横で、国母がこちらを向いた。
「王妃殿下には、近衛軍をお預けいたします」
「アタシに?」
「王宮と王の御身を守り、緊急の際には王命を受けて出陣する軍でございます」
王妃になったその日に、軍までついてきた。
アタシ、どこへ向かっているんだろう。
「ただし、日々の訓練、配置、警備、兵の統率は、呂玉楼殿にお任せするのがよろしいでしょう」
国母の視線が玉楼へ移る。
玉楼は迷わず頭を下げた。
「承知いたしました」
「つまり、アタシが責任者で、実際に全部やるのは玉楼?」
「扈三娘様には、最後のご判断をお願いいたします」
「一番面倒なところだけ残ったんだけど?」
李俊が口を挟む。
「それでいい」
「アンタまで即答しないでよ!」
「玉楼が動かし、お前が決める。今までと同じだ」
そう言われると、反論しづらい。
梁山泊にいた頃から、玉楼はアタシが言葉にする前に兵の動きを読み、必要な場所へ立っていた。
アタシが前へ出れば背後を守り、迷えば足を止めずに選択肢を示す。
王妃になったからといって、急に関係を変える必要はない。
「玉楼、お願いね!」
「お任せくださいませ」
近衛軍の実質的な長が決まった瞬間だった。
孫二娘が、アタシと玉楼を見比べる。
「王妃も将軍なのかい?」
「近衛軍を預かることになったみたい」
「女将軍が二人になったねェ……」
「玉楼もいるでしょ」
「三人かァ……」
「女性の将を数えてどうするのよ?」
「アタイだけの呼び名だと思ってたよォ……」
「鎮西将軍があるでしょうが!」
言うと、孫二娘はすぐに機嫌を直した。
単純で助かる……
都西部へ向かう前に、孫二娘は娘のいる部屋へ戻った。
乳母はすでに決まっていた。
王宮に仕えていた女で、自分も子を育てた経験があり、避難してきた乳児の世話も手伝っていたという。
孫二娘は娘を抱き、なかなか手放そうとしなかった。
「泣いたら、すぐ呼んでおくれ」
「承知いたしました」
「腹が減る前に呼ぶんだよォ……」
「はい」
「眠っていても、ちゃんと息を見て――」
「孫二娘殿」
玉楼が声をかけた。
「先ほどから、同じことを三度仰っております」
「大事なことだからねェ……」
「乳母殿は、すべて承知しておられます」
乳母が笑いながら両腕を差し出す。
孫二娘は迷った末、ようやく娘を預けた。
けれど、部屋を出る前に二度振り返った。
女将軍になっても、そこは変わらない。
都の西へは、輿で向かうことになった。
孫二娘は乗る直前まで文句を言った。
「女将軍が運ばれて登場するのかい……」
「倒れたあとで運ばれるより、よろしいかと存じます」
「玉楼は厳しいねェ……」
「お身体を案じております」
「なら、もう少し優しく言っておくれよォ……」
「乗ってくださいませ」
孫二娘は諦めて座った。
アタシと玉楼は、その左右を歩く。
都西部へ近づくにつれ、人の数が増えた。
焼けた家から持ち出した荷を抱える者。
家族を捜して行き来する者。
食糧を求めて、倉の前へ集まる者。
道の端には負傷者が座り込み、泣き疲れた子どもが母親の膝で眠っていた。
孫二娘の顔から、ふざけた色が消える。
輿が止まった。
倉の前では、兵が米を配っていた。
だが、列は一つしかない。
元気な男も、老人も、赤ん坊を抱いた母親も、同じ場所へ並ばされている。
後ろでは、立っていられなくなった女が壁へ寄りかかっていた。
「列を分けな」
孫二娘が言った。
兵が振り向く。
まだ新しい将軍の顔を知らないらしい。
「何者だ?」
「鎮西将軍だよォ……」
一瞬、兵の目が赤い帯へ向いた。
たぶん、信じていない。
玉楼が一歩前へ出る。
「王命でございます」
それだけで、兵の姿勢が変わった。
孫二娘は輿から降りず、倉の前を指さした。
「乳飲み子を抱いてる者と、怪我人を先へ。次に年寄りだよォ……。元気に立っていられる奴は、少しくらい待ちな」
兵の一人が戸惑う。
「同じ量を、順に配るよう命じられております」
「同じだけ配れば、公平だと思ってるのかい?」
孫二娘が列を見る。
「乳の出ない母親と、大人の男が同じで足りるわけないだろォ……。腹の具合も、食べられる物も違うんだよォ……」
十字坡で、何年も人の腹を見てきた女だ。
誰が空腹で、誰が弱り、誰が隠しているのか。
孫二娘は、顔色と立ち方だけで見抜く。
「粥を作れる場所を二つ増やしな。米をそのまま渡すより早いよォ……。塩は少しだけ。腹を空かせた奴に、いきなり固い飯を食わせるんじゃないよォ……」
兵が走り出した。
孫二娘は次々に人を動かす。
本人は座ったままだ。
けれど、倉の前の混乱が、少しずつほどけていった。
その時、孫二娘が一台の荷車へ目を止めた。
空の俵を積んだ車だった。
「そこの車、止めな」
御者が肩を震わせる。
「空荷でございます」
「片方の車輪だけ、沈みすぎだよォ……」
玉楼が荷台へ近づき、空俵を持ち上げた。
下から、米袋が三つ出てきた。
周囲の空気が変わる。
御者は逃げようとしたが、近衛兵に腕を取られた。
「余った分を、別の倉へ運ぶよう言われただけです!」
「誰に?」
答えない。
孫二娘は怒鳴らなかった。
笑いもしない。
「食を抜く奴は、味方じゃないよォ……」
御者が顔を上げる。
「王が替わったからって、俺たちの腹が満ちるわけじゃない!」
「だからって、赤ん坊の分を盗っていい理由にはならないねェ……」
孫二娘は玉楼を見る。
「名と、命じた奴を調べておくれ」
「承知いたしました」
「米は粥へ回しな」
兵が袋を運び出す。
御者は近衛兵に連れていかれた。
孫二娘はその背を見送り、息を吐いた。
顔色が少し悪い。
アタシが輿へ近づく。
「休んだ方がいいんじゃない?」
「座ってるよォ……」
「そういう意味じゃない」
「まだ終わってないねェ……」
強がっている。
でも、自分で動こうとはしなかった。
李俊との約束を守る気はあるらしい。
やがて、水路の方から声が上がった。
童威が兵を連れ、軍船から食糧を運んできた。
「水路に焼けた材木が詰まっていた。遅れた」
「遅いよォ……」
「悪かった」
童威は孫二娘の前へ立ち、積荷の書付を差し出した。
「米、豆、干した魚だ。三日分はある」
孫二娘が受け取る。
「先に粥場へ回しておくれ。魚は怪我人と乳の出ない母親へ。兵は最後だよォ……」
「分かった」
童威が一度だけ孫二娘を見た。
「鎮西将軍」
孫二娘の指が止まった。
また言葉を失うのかと思ったが、今度はすぐに顔を上げた。
「任せたよォ……!」
童威が兵を率いて動き出す。
玉楼も近衛兵へ指示を出し、荷車の道を空けた。
水と陸が、噛み合い始めている。
孫二娘は座ったまま、そのすべてを見ていた。
夕方には、倉の前の列が半分まで減った。
粥を受け取った子どもが、器を両手で抱えている。
昼に壁へ寄りかかっていた女も、乳母たちのいる王宮へ運ばれた。
孫二娘はようやく輿を戻させた。
「女将軍は疲れるねェ……」
「鎮西将軍でしょ」
「どっちもアタイだよォ……」
王宮へ戻ると、真っ先に娘の部屋へ向かった。
乳母の腕で眠っている娘を見て、孫二娘はその場へ座り込む。
「ちゃんと息をしてるねェ……」
「ずっとなさっております」
乳母が笑った。
孫二娘は娘を抱き、頬を寄せた。
その姿を見届け、アタシは玉楼と近衛の詰所へ向かう。
今日から、王宮の守りを整えなければならない。
そう思って中庭へ入ったところで、足が止まった。
女たちが並んでいた。
二十人ほどいる。
市場で見た者も、離宮から救い出した者もいた。
先頭の女が、アタシの前へ進み、膝をつく。
「王妃殿下に、お願いがございます」
「何?」
「私どもを、近衛軍へお加えください」
冗談を言っている顔ではなかった。
「武器を使ったことは?」
「ございません」
「じゃあ、どうして近衛に?」
女は顔を上げた。
「何もできぬまま、家を焼かれました」
声は震えている。
それでも、目は逸らさなかった。
「次は、守られるだけで終わりたくございません」
後ろの女たちも、そろって頭を下げた。
玉楼が前へ出る。
「ここにおられる方々だけでございますか?」
先頭の女が答えた。
「いいえ」
王宮の門へ視線を向ける。
「外に、三百人ほど待っております」
「三百?」
思わず聞き返した。
王妃になって、まだ一日も経っていない……
アタシは、三百人の女を預けられそうになっていた。
孫二娘殿は、王宮へ戻られてからも、何度もご自分の官職を口になさいました。
「鎮西将軍、孫二娘だよォ……」
娘を抱きながら仰るので、乳母殿まで笑っておられます。
「もう覚えております」
「誰がだい?」
「私ども全員でございます」
「民はまだ知らないかもしれないねェ……」
「本日、都の西で十分に名乗られたかと存じます」
倉の兵にも、荷を運ぶ者にも、粥を受け取る者にも名乗っておられました。
旗がなくても、すでに広まっていることでしょう。
「でも、旗は要るよォ……」
「まだ諦めておられなかったのですか?」
「あれがあれば、遠くからでもアタイだと分かるだろォ……」
「赤い帯だけで、十分に分かります」
「玉楼まで李俊と同じことを言うねェ……」
同じ物を見れば、同じ答えになることもございます。
孫二娘殿は娘を乳母殿へお預けになると、用意された椅子へゆっくり腰を下ろされました。
都の西では平気な顔をなさっていましたが、やはりお疲れなのでしょう。
「初仕事はいかがでしたか?」
「将軍ってのは、座ってても疲れるんだねェ……」
「多くのご判断をなさいましたので」
「兵に運ばせて、粥を作らせて、米を盗んだ奴を捕まえただけだよォ……」
「それを命じるのが将でございます」
孫二娘殿は、少し考え込まれました。
「アタイが自分で全部やった方が、早い気もするねェ……」
「途中で倒れられます」
「そこまで弱くないよォ……」
「本日は、お顔の色が二度変わっておりました」
「見てたのかい?」
「見ております」
扈三娘様から近衛軍を預かった以上、周囲を見ることも私の役目でございます。
孫二娘殿は誤魔化すように娘の小さな手をつつきました。
「玉楼は、もう近衛の大将なのかい?」
「近衛軍の実務を任されました」
「大将じゃないのかい?」
「呼び名は、まだ決まっておりません」
「先に名乗った方が勝ちだよォ……」
「その制度はございません」
扈三娘様にも、同じことを言われたはずでございます。
「近衛女将軍、玉楼でいいんじゃないかァ……」
「結構でございます」
「鎮西女将軍より、強そうだねェ……」
「張り合わないでくださいませ」
「アタイの方が先に将軍になったよォ……」
「わずかな違いでございます」
孫二娘殿にとっては、そのわずかな違いがたいへん重要なのでしょう。
しばらく満足そうに笑っておられましたが、やがて中庭の方から多くの女たちの声が聞こえてきました。
孫二娘殿が耳を澄ませます。
「何だい、あれは?」
「近衛軍への加入を願う方々でございます」
「何人いるんだい?」
「門の外まで合わせて、三百人ほどと伺っております」
孫二娘殿の笑みが止まりました。
「女の兵が、三百人……?」
「はい」
「女将軍も増えるのかい?」
「全員が将軍になるわけではございません」
「でも、女の兵は増えるんだろォ……?」
「さようでございます」
孫二娘殿は、自分の赤い帯を見下ろしました。
たいへん不安そうなお顔でございます。
「アタイ、埋もれないかねェ……」
「埋もれません」
「本当かい?」
「三百人の中に、孫二娘殿と同じ赤い帯を巻く方はおられませんので」
孫二娘殿は、すぐに元気を取り戻されました。
「やっぱり、これは将軍の印だねェ……」
「違います」
本日、何度目の訂正でしょうか。
それでも、三百人の女たちを見に行くと仰って、孫二娘殿は椅子から立ち上がろうとなさいました。
私は、肩へ手を置いて止めます。
「今日はお休みくださいませ」
「鎮西将軍だよォ……」
「産後でございます」
「女将軍だよォ……」
「乳母殿、娘御をお願いいたします」
「聞いてるのかい?」
聞いております。
聞いたうえで、休んでいただくのでございます。
近衛軍に加わりたい三百人の女たちは、扈三娘様と私が見定めます。
孫二娘殿には、明日から都の西を守っていただかなければなりません。
将軍になったからこそ、倒れるまで働かせるわけにはいかないのでございます。
ただ、椅子へ座り直した孫二娘殿は、最後まで中庭の方を気にしておられました。
「三百人かァ……」
「はい」
「アタイの旗、もう少し大きくした方がいいねェ……」
やはり、休ませるだけでは足りないようでございます。




