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舟から降りるな

孫二娘が、縄を持っていた。

しかも、かなり丈夫そうなやつを……

「……何に使うの?」

「李俊を捕まえるんだよォ……」

「やめなさい!」

「王冠を見た途端、逃げたんだろォ……?」

「そうだけど、縄で縛る必要はないでしょ!」

「逃げる王を捕まえるなら、これが一番早いよォ……」

間違ってはいない……

でも、戴冠式で使う道具じゃない……

「アタシが追うから、アンタは広場に残ってて」

「どうしてだい?」

「王と王妃の話だからよ」

「アタイは女将軍だよォ……」

「まだ自称でしょ!」

孫二娘は縄を肩へかけ、胸を張った。

「王が逃げた時に捕まえるのも、女将軍の仕事だねェ……」

「そんな役目はない!」

「今、作ればいいよォ……」

国の役職を勝手に増やさないでほしい……

しかも、最初の職務が王の捕縛……

建国したばかりなのに、ものすごく不穏だ……

「とにかく、李俊にはアタシが話す」

「素直に戻るかねェ……」

「戻らせるわよ」

「冠をかぶるかい?」

「かぶらせる」

「頭を下げるかい?」

「下げさせる!」

孫二娘が、少し考えた。

「扈三娘じゃ、届かないんじゃないかァ……?」

「届くわよ!」

「李俊の方が背が高いだろォ……」

「背伸びすれば届く!」

「逃げながら頭を下げるとは思えないねェ……」

そこが一番の問題だった……

あの男は、敵に囲まれても動じないくせに、王冠からは本気で逃げる。

「その時はどうするんだい?」

「押さえる」

「一人で?」

「……一人で」

孫二娘が縄を持ち上げた。

「アタイがいた方がいいねェ……」

「縄は置いていきなさい」

「じゃあ腕を押さえるよォ……」

「勝手についてこないで!」

「玉楼にも声をかけようかねェ……」

「三人で王を押さえつける気?」

「確実だよォ……」

確実すぎる……

李俊でも逃げられない……

王の戴冠というより、罪人の捕縛になってしまう……

「今は、二人で話させて」

孫二娘は不満そうに口を尖らせた。

「アタイの出番は?」

「今回はないかもしれないわね」

「何だって……?」

しまった……

言ってはいけないことを言った……

孫二娘は縄を握り直し、目を細めた。

「李俊を捕まえたら、出番になるねェ……」

「だから来るなって言ってるでしょ!」

孫二娘は笑いながら、縄を背中へ隠した。

まったく隠れていない。

嫌な予感しかしなかった。

王冠を抱えて逃げる李俊を追うだけでも大変なのに、後ろから自称女将軍までついてくる。

今日こそ、国に王が生まれる。

たぶん、ものすごく締まらない方法で……

赤い衣は、走るために作られていなかった。

裾が足へ絡む。

袖は風をはらみ、金糸の刺繍が朝日にきらきら光って、逃げる男の背中より目立っている。

王妃の最初の全力疾走としては、たぶん最悪だ。

「李俊! 止まりなさい!」

止まる気配はない。

王宮の石段を下り、回廊へ入った李俊は、振り返りもしなかった。

逃げ足だけは、王になっても変わらないらしい。

「逃げるな!」

「逃げていない」

「背中を向けて走ってるでしょうが!」

「王印を返しに行く」

「返す相手がいないって、さっき言われたでしょ!」

李俊は答えず、回廊の角を曲がった。

アタシも裾を持ち上げ、後を追う。

冠が腕の中で揺れる。

落としたら、国母に何を言われるか分からない。

というか、これを抱えて走っている時点で、王妃らしさは完全に消えていた。

角を曲がった先で、李俊が渡り廊下へ出る。

その手前に、大きな衝立が置かれていた。

「李俊!」

振り向いた。

今だ――

踏み込んだ瞬間、長い裾を自分で踏んだ……

身体が前へ傾く。

李俊が手を伸ばした。

アタシはその腕をつかみ、勢いのまま引いた。

二人そろって衝立へ突っ込み、重い木枠が床へ倒れ、王宮の奥まで響きそうな音がした。

しばらく、二人とも動かなかった。

アタシは李俊の上に乗り、冠だけは、両腕で守っている。

「重い」

「衣がね!」

「お前がだ」

「今それ言う?」

李俊が起き上がろうとしたので、肩を押さえた。

「逃がさないわよ?」

「退け」

「冠をかぶるまで嫌」

「なら、一生そこにいろ」

「本気で言ってる?」

廊下の向こうから、足音が近づいてくる。

孫二娘なら、絶対に覗きに来る。

玉楼が止めてくれている間に、話を終わらせないといけない。

アタシは李俊の上から降りた。

でも、腕は離さない。

「どうして、そこまで嫌なの?」

「王になる理由がない」

「民衆が呼んでたでしょ」

「声が大きい者が決めることじゃない」

「国母も臣下も頼んでる」

「頼まれたから座ったと言えば、失敗した時に、頼んだ者へ責任を返せる」

李俊は倒れた衝立を見た。

「そんな逃げ方をするくらいなら、最初から座らない」

この男は、王位から逃げているくせに、責任から逃げることだけは嫌らしい。

本当に面倒くさい……

「俺は舟の上で、人を生かすために動いてきた。王宮の奥で印を押すためじゃない」

「今日、押してたじゃない」

「だから返す」

「返したら、誰が押すの?」

李俊は黙った……

都はまだ焼けている。

倉を開くにも、兵を動かすにも、命じる者が要る。

共濤を倒しただけじゃ終わらない。

壊すより、直す方が時間がかかる。

アタシたちは昨日、それを見たばかりだった。

「アンタ、さっき共濤に言ったわよね」

李俊の目が動く。

「舟を任された男は、沈みかけた時ほど最後に降りるって」

「それとこれは違う」

「どこが?」

「ここは舟じゃない」

「国は陸に浮かぶ大きな舟なんでしょ?国母が言ってたじゃない」

「俺の言葉じゃない」

「でも、否定しなかったわ」

李俊が顔をしかめる。

言い返せない時の顔だ。

アタシは冠を抱え直した。

「この国は、まだ岸に着いてない」

焼け落ちた市場が目に浮かぶ。

泣くこともできず、壁際に座っていた少年。

肩を傷めた母親。

夫と店を失った女。

息子を殺された老兵。

共濤が死んでも、あの人たちの家は戻らない。

「食べ物も足りない。住む場所もない。兵だって、昨日まで敵同士だった」

「分かっている」

「分かってるなら、どうして最初に降りるのよ」

李俊がアタシを見る。

「アンタが舟から降りるな」

声が、思ったより大きく響いた。

回廊の外で、風が旗を鳴らしている。

「アタシは、アンタに王になりたいかなんて聞いてない」

「なりたくない」

「知ってる。なりたい奴なら、あんな勢いで逃げないでしょ」

「なら――」

「なりたいかどうかと、降りていいかどうかは別よ」

李俊の言葉を遮った。

「アタシだって、王妃になりたかったわけじゃない」

赤い袖を見せる。

「こんな衣を着て、何千人もの前で頭を下げられて、死罪の文を読むなんて、昨日まで考えたこともなかった」

「断ればよかった」

「アンタと同じこと言わないで」

「俺が言った」

「だから腹が立つのよ!」

李俊の口元が、ほんの少し動いた。

笑った?

今、笑ったわよね?

「でも、アタシは決めた」

林冲の顔が浮かんだ。

王英との婚姻を拒んだアタシを拾い、立つ場所をくれた人。

最後には何も命じず、六和寺で見送ってくれた恩人。

林冲に救ってもらった人生を、ここからどう使うかは自分で決める。

そう思ったから、王妃になると答えた。

「アンタの隣に立つって、自分で決めたの!」

李俊は黙って聞いている。

「だからアンタも決めなさい!」

「何を?」

「この国が岸へ着くまで、舟頭をやるかどうかよ」

遠くで、民の声が続いていた。

李俊王――

李俊王――

ここまで聞こえる。

李俊は回廊の向こうへ目をやった。

「あの声は、今日だけかもしれない」

「明日、嫌われるかもね」

「命じれば、恨まれる」

「当たり前でしょ」

「誰かを救えば、別の誰かを後に回すことになる」

「そうね」

「正しい答えがない時もある」

「今までだって、そうだったじゃない」

舟を出すか、岸へ残るか?

誰を先に乗せ、どこで戦うか?

李俊は何度も、全員を救えない場面で決めてきた。

王になったから、急に別の男になるわけじゃない。

「アンタは王になっても、たぶん今までと同じよ」

「褒めているのか?」

「半分くらいは」

「残りは?」

「諦めてる」

李俊が息を吐いた。

「国が岸へ着くまでだ」

ようやく出た言葉だった。

「その後は降りる」

「はいはい」

「聞いているのか?」

「聞いてるわよ」

でも、国に最後の岸なんてあるのだろうか。

一つの火を消せば、別の場所で争いが起きる。

米が満ちれば、次は水路や畑を直さなければならない。

子どもが育てば、その子たちが生きる先を作る必要がある。

たぶん、この舟は簡単には岸へ着かない。

それを今、教える必要はなかった。

「じゃあ、戻るわよ」

「冠は要らない」

「まだ言う?」

「重い」

「アタシが持ってるんだけど!」

「頭に乗せれば、俺が重い」

理屈としては正しい。

でも、もう逃がさない。

アタシは冠を両手で持ち、李俊へ近づいた。

李俊が一歩下がる。

「動かないで」

「まだ受けるとは――」

「国が岸へ着くまで王をやるって言ったでしょ」

「舟頭だ」

「この国では、それを王って呼ぶの!」

さらに下がろうとした李俊の背中が、柱へ当たった。

逃げ道はない。

冠を持ち上げる。

思ったより高い。

「少しかがんで」

「嫌だ」

「かがみなさい!」

「命じるな」

「王妃の最初の命令よ!」

「お前は俺を止めると言っただけだろ」

「今、止めてるの!」

李俊が顔を背ける。

アタシが背伸びをしても届かない。

悔しい……

「ちょっと、頭下げて!」

「断る」

「子どもみたいなこと言わないで!」

「先に嫌ですと言ったのはお前だ」

覚えてたの?

こういう時だけ妙に細かい。

廊下の奥で、誰かが笑いを押し殺した。

振り返ると、柱の陰から赤い帯が見えている。

孫二娘だ。

玉楼に止められながら、しっかり覗いている。

「見てないで手伝いなさい!」

「入っていいのかい?」

「今だけ!」

孫二娘が飛び出した。

その後ろから、玉楼も現れる。

「何をすればいいんだい?」

「李俊を逃がさないで!」

「女将軍の初仕事だねェ……!」

「違う!」

孫二娘が李俊の右腕へしがみつく。

玉楼は左側へ立った。

「失礼いたします」

「玉楼、お前まで何をする」

「扈三娘様がお困りでございますので」

「離せ」

「王冠をお受けになるまででございます」

李俊が、本気で嫌そうな顔をした。

敵軍に囲まれた時より追い詰められている。

アタシはもう一度、冠を持ち上げた。

「アンタ一人で乗ってる舟じゃないのよ」

李俊の動きが止まった。

「アタシもいる。娘もいる。孫二娘も玉楼も、童威も童猛もいる」

費保たちも、卜青も、国母もいる。

広場には、この国で生きる人たちが待っている。

「沈みそうなら、みんなで漕ぐ」

李俊が、ようやく少しだけ頭を下げた。

冠を載せる。

黒い冠は、驚くほど静かに収まった。

孫二娘が目を丸くする。

「王になったねェ……」

「国が岸へ着くまでだ」

「それ、いつだい?」

「黙れ」

玉楼が李俊から手を離した。

「よくお似合いでございます」

「似合わなくていい」

「似合ってるわよ」

李俊はアタシを見る。

「お前も戻れ」

「一緒にね」

「先に行け」

「また逃げる気でしょ」

「逃げない」

信用できない……

アタシは李俊の腕をつかんだまま、広場へ戻ることにした。

孫二娘が反対側の袖をつかむ。

「どうしてアンタまでつかむのよ」

「女将軍だからねェ……」

「まだ違う!」

玉楼は後ろを歩いている。

たぶん、また逃げたら方天画戟の柄で止めるつもりだ。

王宮の正門が見えてくる。

民の声は、まだ止んでいなかった。

アタシたちが石段へ戻ると、広場が静まる。

何千もの目が、李俊の冠へ集まった。

国母が前へ出て、深く頭を下げる。

臣下たちが続いた。

李俊はしばらく、誰も見なかった。

王冠が嫌なのか?

頭を下げられることが嫌なのか?

それとも、もう逃げられないと分かったのか?

やがて、李俊が広場を見渡した。

「この国は、まだ岸へ着いていない」

民が息を止める。

「焼けた家を建て直す。倉を開き、食を配る。兵を戻し、港を守る」

声は大きくない。

それでも広場の端まで届いた。

「岸へ着くまで、俺が預かる」

国母が顔を上げた。

「王として、でございましょうか」

李俊は冠へ手をやった。

外すのかと思い、アタシは身構えた。

でも、手は止まった。

「そう呼びたければ、好きにしろ」

広場が揺れた。

歓声が城壁へぶつかり、空へ上がっていく。

孫二娘が、アタシの横で叫ぶ。

「李俊王!」

一番声が大きい。

玉楼まで、静かに頭を下げている。

アタシは李俊の隣に立った。

自分で選んだ場所だ。

王妃という呼び名には、まだ慣れない。

赤い衣も重い。

この先、何を求められるのかも分からない。

それでも、逃げる気はなかった。

国母が臣下へ合図し、王印を載せた箱が運ばれてくる。

李俊がそれを受け取った。

今度は、孫二娘が手を伸ばす前に、自分から……

国母が、王の前へ進み出る。

「新王に、最初のご命令をお願いいたします」

李俊は、焼けた城壁と広場の民を見渡した。

「倉を開けたままにしろ。家を失った者へ、先に食を配れ」

「承知いたしました」

「兵の半分は都へ残す。残りは港と水路を守れ。略奪した者は、どちらの兵でも同じように裁く」

臣下たちが走り出す。

もう誰も、李俊が王かどうかを尋ねなかった。

李俊も、今度は否定しなかった。

これで終わった。

そう思った。

ところが、李俊が隣にいる孫二娘を見た。

「孫二娘」

「何だい?」

「お前は都の西を預かれ」

孫二娘の目が大きくなる。

「避難した女と子どもを王宮へ移し、港から食を運べ。残っている軍船の指揮も任せる」

「それは……」

孫二娘の声が震えた。

「それは、女将軍ってことかい?」

李俊は王冠をかぶったまま、面倒そうに答えた。

「そう名乗りたければ、好きにしろ」

孫二娘が、初めて言葉を失った。

孫二娘殿は、しばらく本当に何も仰いませんでした。

李俊殿から都の西と軍船を任され、

「そう名乗りたければ、好きにしろ」

と言われたあとも、口を開いたまま動かれません。

「孫二娘殿?」

呼びかけても、返事がございません。

たいへん珍しいことでございます。

「女将軍になられましたね」

その一言で、ようやく目が動きました。

「……なったのかい?」

「李俊殿から兵と軍船を任されましたので」

「本当に?」

「はい」

「アタイが?」

「ほかに孫二娘殿はおられません」

孫二娘殿は、胸へ巻いた赤い帯を見下ろしました。

朝には勝手に女将軍を名乗るための飾りだったものが、今は正式な役目を受けた証に見えているようです。

「玉楼……」

「はい」

「もう自称じゃないねェ……」

「さようでございます」

「王妃の後ろに立つだけじゃないんだねェ……」

「都の西を預かり、避難された方々を守り、港から食を運び、軍船も率いられます」

孫二娘殿は、両手で顔を覆いました。

泣いておられるのかと思いましたが、指の隙間から笑っておられます。

「どうなさいました?」

「四話も留守番した甲斐があったよォ……」

そこへ戻るのでございますか……

「留守番をなさったから任されたのではございません」

「でも、赤ん坊も、民も、軍船も守ったよォ……」

「それを李俊殿が見ておられたのでしょう」

孫二娘殿の笑みが、少しだけ静かになりました。

留守番と呼び続けておられましたが、あの入り江を守る者がいなければ、私どもは都へ進めませんでした。

戦場へ出なかったのではございません。

戻る場所を守っておられたのです。

「女将軍になったら、真ん中を歩いていいかねェ……」

やはり、長くは続きませんでした。

「扈三娘様と李俊殿の間には入れません」

「王妃の隣なら?」

「護衛として、お控えください」

「半歩前は?」

「いけません」

「女将軍なのに?」

「女将軍であることと、中央へ立つことは別でございます」

孫二娘殿が、たいへん不満そうに唇を尖らせます。

「それなら、何のための女将軍だい?」

「都と民と軍船を守るためでございます」

「真ん中を歩くためじゃないのかい?」

「違います」

どうやら、役目の理解から始めなければならないようです。

孫二娘殿は少し考えたあと、今度は私を見ました。

「玉楼は何になったんだい?」

「私は、これまでどおり扈三娘様にお仕えいたします」

「役目は?」

「必要な場所で戦います」

「童威と一緒にかい?」

「水上であれば、童威殿が指揮を執られるでしょう」

「陸なら玉楼だねェ……」

「状況によります」

「水と陸で、ちょうどいいじゃないかァ……」

何がちょうどよいのでしょう。

「扈三娘は王妃、アタイは女将軍、李俊は王になったよォ……」

「はい」

「次は玉楼だねェ……」

「何がでございますか?」

「知らないよォ……」

また、その答えでございます。

孫二娘殿は嬉しそうに廊下を歩き始めました。

今度は中央ではなく、都の西へ向かわれるようです。

初めて与えられた持ち場を、ご自分の目で確かめるおつもりなのでしょう。

その背中は、いつもより少しだけ大きく見えました。

ただし、赤い帯だけは、やはり少々目立ちすぎでございます。

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