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王妃の最初の仕事

孫二娘が、赤い布を持って追いかけてきた。

「待ちなァ……」

「何よ?」

「まだ足りないよォ……」

「何が?」

「女将軍らしさがさァ……」

アタシは足を止め、孫二娘が抱えている布を見る。

王宮の侍女の部屋から勝手に持ち出したらしい。

「それ、どこから取ってきたの?」

「置いてあったよォ……」

「それを持ち出したって言うの!」

「王妃の隣に立つんだから、少しくらい目立たないとねェ……」

「今日は共濤の裁きよ。目立つ日じゃないでしょ」

「アンタは真っ赤な衣を着るんだろォ……?」

「アタシは着せられるの!」

王妃になった翌朝から、逃げる共濤を追うわけでも、敵陣へ斬り込むわけでもない。

何千人もの民の前に立ち、あの男の罪を読み上げる。

考えるだけで、昨日の戦より緊張する。

孫二娘は、そんなアタシの顔をしばらく見ていた。

「嫌なのかい?」

「怖いのよ」

言ってから、少し驚いた。

戦場へ出る時にも、こんなにはっきり口にしたことはなかった。

「読み間違えたらどうしようとか、声が出なかったらどうしようとか……」

「間違えたら、もう一回読めばいいよォ……」

「何千人も見てるのよ?」

「何千人いても、一人ずつ聞いてるだけだろォ……」

簡単に言うわね、この女……

でも、不思議と少しだけ息が楽になった。

孫二娘は赤い布を自分の胸へ巻き始める。

「それに、アンタが止まったら、アタイが後ろから押してやるよォ……」

「物理的に押すのはやめて」

「声が出なきゃ、代わりに読むよォ……」

「絶対に余計なことを足すでしょ!」

「共濤は悪い男でしたァ……とかねェ……」

「罪状が雑すぎる!」

こんな女に任せたら、裁判が三行で終わるわ……

孫二娘は帯を結び終え、満足そうに胸を張った。

「どうだい?」

「女将軍というより、宴会の幹事ね」

「何だって……?」

「目立ちたがりが前に出てる感じ」

孫二娘は帯を見下ろした。

少しだけ傷ついたらしい。

「外した方がいい?」

「そのままでいいんじゃない?」

「女将軍らしいかい?」

「宴会の幹事としては完璧よ」

「外すよォ……」

素直に布をほどき始めた。

珍しい……

「今日は、ちゃんと後ろにいてよ」

「隣じゃないのかい?」

「後ろ」

「半歩くらいなら――」

「後ろ!」

孫二娘は不満そうに頬を膨らませた。

それでも、赤い布を抱え直して頷く。

「分かったよォ……今日はアンタが真ん中だ」

やっと主人公が中央に戻ってきた。

長かった……

本当に長かった……

「ただし、裁きが終わったら交代だよォ……」

「何と交代するのよ!」

孫二娘は答えず、先に廊下を歩いていった。

女将軍の帯は外したけど、中央を諦めたわけではないらしい。

アタシは赤い衣の袖を握り、深く息を吸った。

王妃としての最初の仕事が始まる。

その後ろには、頼りになるのか邪魔なのか分からない女がいる。

たぶん、両方だった。

赤い衣が、重い。

布そのものが重いわけじゃない。

袖には細かな金糸が走り、裾には見たことのない鳥が刺繍されている。

軽くはないけど、鎧よりはずっとましだ。

それなのに、肩へ乗せられた瞬間から、息が詰まりそうだった。

「腰の双刀は外していただきます」

侍女が当然みたいに言った。

「嫌よ」

「王妃陛下のお召し物に、武器は――」

「昨日、飾りにはならないって言ったばかりなんだけど?」

侍女たちが一斉に国母を見る。

国母は少し考えたあと、頷いた。

「お持ちください」

「国母様?」

「扈三娘殿が武器を捨てて王妃になられるのではございません。武器を持つ扈三娘殿が、王妃になられるのです」

話が早い――

双刀を腰へ差すと、ようやく身体が自分のものに戻った気がした。

隣では玉楼が、いつもの鎧姿で方天画戟を確かめている。

孫二娘は、誰にも頼まれていないのに赤い帯を胸へ巻いていた。

「何、その帯?」

「女将軍らしいだろォ……」

「まだ女将軍じゃないから」

「今日、王妃の隣に立つんだよォ……」

「護衛としてね」

「だいたい同じだよォ……」

全然違う……

娘たちは王宮の女官へ預けた。

孫二娘は最後まで抱いていくと言い張ったけど、共濤の裁きへ赤ん坊を連れていくわけにはいかない。

そのせいで、さっきから三歩進むたびに振り返っている。

「心配なら残っててもいいのよ」

「嫌だよォ……」

「即答ね」

「長いこと留守番したんだ。裁きまで留守番してたまるかァ……」

もう誰も孫二娘を止められなかった。

王宮の正門が開く。

朝の光が、広場を白く照らしていた。

焼けた木と濡れた灰の匂いが、まだ風に残っている。

城壁には新しい旗が掲げられていたけれど、その下には火の跡が黒く走っていた。

国が一晩で元通りになるわけじゃない。

屋根も、道も、人の心も、これから直していかなければならない。

石段の左右には、李俊の兵と国母の兵が同じ数だけ並んでいる。

この裁きを、どちらか一方だけのものにしないためだろう。

こういうところは、李俊と国母の考えが妙に合っている。

広場は、人で埋め尽くされていた。

焼け残った家から来た者もいれば、家族を失った者もいる。

怪我をしたまま杖をつく者のそばでは、幼い子どもの手を握る女や、兵に支えられなければ立てない老人が、石段を見上げていた。

広場を埋める全員が、こちらを見ている。

昨日まで戦場で何千人の敵を見ても平気だったのに、今日は足が止まりそうになった。

「王妃陛下」

国母に呼ばれる。

やめて……

まだ慣れてない……

でも、逃げるわけにはいかなかった。

石段の上には李俊が立っていた。

冠はない。

豪華な衣も着ていない。

いつもの服より少し整っているだけで、どう見ても王には見えなかった。

その横へ、赤い衣のアタシが立つ。

「アンタが王に見えないんだけど?」

「王だと言っていない」

「じゃあ、アタシは何なのよ?」

「お前が決めたんだろ」

そうだった……

自分で選んだ……

だから、文句を言える相手も自分しかいない……

玉楼と孫二娘が後ろへ立つ。

孫二娘が、こっそりアタシの真後ろではなく横へ出ようとしたので、玉楼が帯をつかんで戻した。

「王妃の隣だよォ……」

「後ろでございます」

「半歩くらいならいいだろォ……」

「いけません」

こんな時まで中央を狙わないでほしい。

国母が石段の先へ進み、広場へ向かって告げた。

「李俊殿は、都の再建と民の安堵が成るまで王印を預かられます。そして、その隣には、自らの意思で扈三娘殿がお立ちになります」

一瞬、広場がざわめいた。

「王妃陛下に、礼を」

何千人もの頭が下がる。

逃げたい……

でも、昨日、自分でここへ立つと決めた。

アタシは息を吸い、頭を下げ返した。

王妃らしい作法なんて知らない。

だから、助けてもらった人間として礼を返した。

顔を上げると、避難所にいた女がこちらを見ていた。

隣には、昨日まで黙っていた少年がいる。

少年は小さく手を振り、すぐ母親の後ろへ隠れた。

それだけで、足の震えが止まった。

広場の中央へ、縄をかけられた共濤が連れてこられた。

髪は乱れ、衣は煤で汚れている。

けれど、顔にはまだ笑いが残っていた。

負けた男の顔じゃない。

自分だけは最後まで王だったと思いたい顔だ。

国母が前へ出た。

「これより、国王馬賽真を弑し、王位を奪い、都を焼いた共濤の罪を裁きます」

ざわめきが広がる。

兵が共濤を跪かせた。

国母から渡された紙を開く。

昨日の夜、何度も読んだ。

文字は覚えている。

でも、目の前にいる人たちの顔までは、紙に書かれていなかった。

「共濤」

自分の声が、広場へ響いた。

「あなたは馬賽真王を殺し、その王位を奪った」

群衆のどこかで、女が泣いた。

「王宮の兵を金で誘い、従わない者を捕らえ、その家族を脅した」

腕へ布を巻いた男が、歯を食いしばっている。

「都を守るために集められた民を、逃げ道を塞ぐ人質として使った」

人垣の中から、「弟を返せ」と叫ぶ声がした。

兵が振り向いたけれど、李俊は止めなかった。

叫ぶくらいは許すつもりらしい。

昨日、避難所で会った少年がいた。

肩を負傷した母親の隣に立ち、こちらを見上げている。

「王宮、離宮、市場、民家へ火を放ち、鎮火に向かった者へ矢を射かけた」

紙を持つ指に力が入った。

文字を読んでいるだけのはずだった。

違う。

ここに書かれているのは罪の名前だ。

この人たちが失ったものは、名前じゃない。

家だった。

親だった。

子どもだった。

明日だった。

「あなたは国を奪ったのではない」

紙から目を上げ、共濤を見る。

「自分が逃げるために、国を燃やした」

共濤の笑みが消えた。

「違う」

初めて口を開いた。

「私が国をまとめたのだ。馬賽真は弱かった。国母と老臣どもに囲まれ、決断もできなかった。この国には、強い王が必要だった」

広場から怒号が上がる。

石を握った男が前へ出ようとした。

「止めろ」

李俊の一言で、兵がその男を押さえた。

「石を投げるな」

「だが、こいつは俺の家を!」

「罪は今から裁く」

李俊は共濤へ視線を戻した。

「国をまとめたと言ったな」

「そうだ」

「なら、なぜ焼いた」

共濤は黙らなかった。

「奪い返されるくらいなら、残さぬ方がよい」

李俊の顔から、わずかに残っていた迷いが消えた。

「それは王じゃない」

広場が静まる。

「舟を任された男は、沈みかけた時ほど最後に降りる。お前は舟底へ穴を開け、他人を沈めて、自分だけ岸へ上がろうとした」

共濤が顔を歪めた。

「海賊上がりが、王を語るか」

「王は語らない」

李俊は共濤を見下ろした。

「国を沈めないだけだ」

国母が証人を呼んだ。

最初に進み出たのは、王宮の老兵だった。

馬賽真王が襲われた夜、共濤の兵に門を開けるよう迫られ、拒んだため息子を殺されたという。

次は離宮の侍女。

火を放たれる前、共濤が国母の居場所を吐かせるため、仲間を一人ずつ引き立てたと話した。

市場の女は、家へ戻った時には夫も店も焼けていた。

誰も長くは話さなかった。

声が続かないのだ。

それでも共濤は、すべてを聞かされた。

目を閉じることも許されなかった。

証言が終わる頃には、朝日は王宮の屋根を越えていた。

李俊が王印の置かれた卓へ進む。

「共濤」

共濤が顔を上げる。

「王殺し、簒奪、放火、人質、殺傷。そのすべての罪により、死罪とする」

「お前に、私を裁く資格があるのか!」

「あるとは言わない」

「ならば国母に裁かせろ。女の後ろへ隠れるのがお前のやり方か」

国母が動くより先に、李俊が一歩前へ出た。

「国母は、お前に奪われた国を守った。俺は、お前が沈めかけた国を岸へ戻した」

「海から来たよそ者だ!」

「だから、ここに縁者はいない。恨みで刑を変える理由もない」

広場の怒号が、少しずつ収まっていく。

李俊は王印を手に取った。

「俺は、これを預かっているだけだ」

「ならば――」

「だが、この国を沈ませない責任は預かった」

文書へ王印を押す。

赤い印が、処刑の決定を残した。

共濤は何かを叫ぼうとした。

けれど、兵に立たされ、広場の中央へ連れていかれる。

民へ石を投げさせることも、刃を持たせることもなかった。

罪を読み、証人の言葉を聞かせ、刑を決める。

そこで終わらせる。

刃が一度だけ光った。

共濤の声は、もう続かなかった。

広場に歓声はなかった。

泣く者もいた。

目を閉じる者もいた。

ただ、長く止まっていた時間が、ようやく動き出したみたいだった。

アタシは罪状の紙を閉じた。

王妃として最初にしたことは、綺麗な衣で笑うことでも、王宮を歩くことでもなかった。

死んだ人の代わりに、罪を読み上げることだった。

悪くないと思った。

これなら、林冲にも笑われない。

李俊が王印を箱へ戻そうとした時、群衆の奥から声が上がった。

「李俊王!」

一人だった。

すぐに別の声が続く。

「李俊王!」

広場全体へ広がっていく。

「李俊王! 李俊王!」

李俊の手が止まった。

「裁きは終わった」

誰にともなく言う。

「王印を返す」

国母が前へ出た。

「どなたへ、お返しになるのでございましょう?」

李俊は答えない。

馬賽真王は死んだ。

王統を継ぐ者もいない。

共濤も、今ここで裁かれた。

返す相手なんて、最初から残っていなかった。

国母が侍女へ合図する。

運ばれてきたのは、黒い冠だった。

嫌な予感がした。

国母はその冠を受け取り、なぜかアタシの前へ差し出した。

「王妃陛下」

「何?」

「王へ、冠を」

広場の民が、一斉にこちらを見た。

アタシは冠を見た。

次に李俊を見る。

李俊も冠を見ていた。

そして、王宮の石段から静かに後ろへ下がった。

「ちょっと待って」

さらに一歩。

「李俊?」

あの男、本気で逃げるつもりだ。

国母が冠をアタシの手へ押しつけた。

重い。

赤い衣より、王妃という呼び名より、ずっと重い。

広場から、また声が上がった。

「李俊王!」

李俊が背を向けた。

アタシは冠を抱えたまま、その背中を追って走り出した。

孫二娘殿は、裁きが終わるまで、きちんと扈三娘様の後ろに立っておられました。

正確には、何度か横へ出ようとなさいましたが、そのたびに私が赤い帯をつかんで戻しております。

「玉楼……」

「はい」

「少しくらい、隣でもよかったんじゃないかい?」

「本日は、王妃殿下の最初のお役目でございましたので」

「アタイも女将軍として初仕事だったよォ……」

「まだ女将軍ではございません」

「王妃の後ろを守ったんだろォ……?」

「護衛でございます」

「ほとんど同じじゃないかァ……」

孫二娘殿の中では、何度訂正しても女将軍へ戻ってしまうようです。

けれど、共濤の罪状が読み上げられている間は、珍しく何も仰いませんでした。

石を持った民が前へ出た時も、腰の得物へ手をかけただけで、飛び出そうとはなさいませんでした。

「止められたのでございますか?」

「李俊が石を投げるなって言ったからねェ……」

「よくお聞きになっておりましたね」

「アタイだって、裁きの最中くらい静かにできるよォ……」

少し意外でございましたので、返事が遅れました。

「何だい、その顔は?」

「何でもございません」

「今、失礼なことを考えただろォ……」

考えてはおりません。

ただ、いつまで静かでいられるのかと思っただけでございます。

共濤の刑が終わり、民が李俊殿を王と呼び始めた時も、孫二娘殿はたいへん嬉しそうでした。

「やっぱりアタイが王を作ったねェ……」

「そのお話へ戻るのでございますか?」

「王印を持とうとしたのはアタイだよォ……」

「共濤を裁かれたのは李俊殿でございます」

「でも、最初につかませたのはアタイだよォ……」

どこまで行っても、始まりはご自分ということになるようです。

「それで、扈三娘が冠を持っただろォ……」

「はい」

「李俊が逃げたねェ……」

「逃げられました」

「王が逃げて、王妃が追いかけたよォ……」

「さようでございます」

孫二娘殿は、思い出しただけで楽しそうに笑いました。

「アタイも追えばよかったねェ……」

「なぜでございますか?」

「女将軍だからだよォ……」

「即位から逃げる王を捕らえるお役目ではございません」

「でも、足なら扈三娘より速いかもしれないよォ……」

「それはございません」

「試してないだろォ……」

試す必要もございません。

何より、あの時の扈三娘様は、誰にも追いつかせるおつもりがないように見えました。

赤い衣の裾を持ち上げ、王冠を抱えたまま、李俊殿の背中だけを見て走っておられました。

王妃殿下というより、逃げる相手を捕らえに向かう武将の姿でございました。

「玉楼……」

「何でございましょう?」

「扈三娘、あの冠をどうすると思う?」

「李俊殿へお渡しになるのではございませんか?」

「素直に受け取るかねェ……」

「難しいかと存じます」

「じゃあ、押さえつけるのかい?」

「扈三娘様であれば、可能でございます」

孫二娘殿が目を輝かせました。

「見に行こうよォ……」

「いけません」

「どうしてだい?」

「お二人のお話でございます」

「王と王妃の話だろォ……?」

「なおさら入ってはいけません」

孫二娘殿は、たいへん不満そうでした。

「本編なのにねェ……」

「孫二娘殿の本編ではございません」

「さっきまで一緒にいたよォ……」

「今は扈三娘様が主役へ戻られております」

孫二娘殿が黙りました。

どうやら、これが一番効いたようです。

「……いつまでだい?」

「何がでございますか?」

「扈三娘が主役なのはさァ……」

最初から最後まででございます。

そうお答えしようとした時、王宮の奥から扈三娘様の声が聞こえました。

「李俊! 止まりなさい!」

続いて、何か重いものが倒れる音がいたしました。

孫二娘殿が、すぐに立ち上がります。

「見に行くよォ……!」

「いけません」

「今のは事件だよォ……!」

おそらく、戴冠でございます。

けれど、あの音を聞く限り、穏やかには終わらないかもしれません。

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